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仮題 ”ノン” NO.7 二人が外に出ると、すっかり日が暮れていた。会社帰りのサラリーマンや学生が商店街を家に向かって足早に歩いている。 「大丈夫かな。お店狭いからいっぱいかもね」 商店街には小さな洋食屋さんが1軒、あとは中華屋と小料理屋と喫茶店が一軒だけある。 「結構おいしいのよ。ハンバーグもいいけど、日替わり定食が結構な味なのよ」 「オウ、いいね」 「なんかやな予感…」 ガラス窓から温かい灯りが見えて、客が少し見えた。ドアを開けると6テーブルが全部埋まっている。 奥さんが小さく指で×をして声を出さずに口がごめんねと動いて申し訳なさそうな顔をした。望美はにこりと頷いて踵を返し、神田の背にそっと触れながら、外に出た。 「どうする?他はきっと今頃混んでいると思う」 「学校の方か駅のあっちにする?」 「うん、そうだなあ。なんか疲れてゆっくりしたいから、広い店に行く?ソファっぽい椅子の所。最近出来たんだ。そこにしてもいい〜い?車で5分くらいだから」 「いいよ。俺はどこでも。山岡がいい所がいいよ」 「あれ?山岡って言ってるよ。そう言えば、さっきから」 「そうだね。ついね。何か照れちゃうんだよ。一人だとノンって考えたりしてるんだけどなあ」 「あら、ホント?嬉しいな。私の事考えているの?」 「そりゃあ、そうさ。考えるさ。え?ノンは?」 「神田の事?あ、ヒデだ。私も照れちゃうんだよね。でもヒデって呼びたい」 「なんか変だよね。同級生だからなあ。でも、ノンにするよ」 「うん、そうして」 最近出来たレストランに向かう為に環状線の大通りまで歩いてタクシーを拾った。車に二人並んで身体が密着しそうになって座るのが信じられないと望美は思っていた。すると手が触れて、望美の手を神田が握った。 「冷たいな。冷えてるね」と言うと、望美の手を両手で暖めるようにこすり口元に運びハ〜っと息を吹きかけた。 「私の手、いつもこんななの。あったかい」 「うん、温まったならいいんだ」とニッと笑い、いたずらっ子のような学校の廊下で見かけた表情になった。望美の胸がキュンとする。これよ、これに弱いのよ。片思いの高校時代が蘇り、今の状況が不思議でしょうがないと繰り返し思った。 すっと望美の背中に神田が手を廻した。スマートでさりげなく、やさしく包まれるようで、このまま身体を預けていたいと望美は思った。 目的のレストランに着いた。最近あちこちの主要な町の幹線道路に増えている店だ。 豊富なメニューと、広い空間とゆったり座れる椅子で疲れている時にはちょうどいいと望美は気に入った。土日と違って平日なら、テーブルが多いのもあって、なんとか座れるのも良かった。窓辺の席に案内されて二人は向かい合って座った。 「何にする?」と望美が言う。 「何でもいいけど、肉にしようかな」と神田が応えながらメニューをくくる。 「いいね、疲れてるし、力付ける?」 「ノンは?」 「うん、何にしようかな?久々だし、あ、そうだ。これにしようかな?ポークソテーに」 「あ、いいね。それ。俺も好きだよ。じゃあ、俺は違うのにしよう」 「いいよ。おんなじで」 「でもさあ、他にもありそうだから。半分こしない?」 「いいね〜そういうの好き〜〜」 「俺も〜そういうの好き〜〜」 「え?本当に?種類多く食べれるし、いいね」 「そうなんだよなあ。で、どれにしようかな」 「あれ?優柔不断?迷う方?」 「そうでもないけどさあ、食べる事に関してはそうかもね」 迷ったあげく 「そう、これにしようかな?カツカレー」 「あ、それ大好き。それにサラダと何か付けよう」 「何だ、好み同じ?いいね。俺たち合うね」 「合う合う〜やっぱりね」 「うん?やっぱりって?俺の好みなんか知らなかっただろう?」 「うん、知らないけど…素直な感じがね。してた…」 「俺、結構ひねてるかも…というのは嘘で」 「ストレート!」 「え?そうだよ、なんで知ってんの?」 「わかる。そんな感じがしてた」 「高校の時?」 「そう、そんな感じに見えてたよ」 「ノンもストレートだね」 「うん、そう。嘘言えない」 「俺も、嘘言えない。ノン、好きだよ」 「嬉しい」 「ノン、抱きたい」 「…それ、早くない?」 「…ノンは?」 「うん、言えない。食べてから」 「あれ?ストレートは?」 ふと、望美は裕太を思い出した。望美にとって初めての経験をしたばかりだった。悪い女かしらと申し訳ないような気持ちがもたげる。でも、今、目の前の神田は裕太と違って、ストレートに気持ちを言葉にしてぶつかって来る。それは望美にとって初体験に等しく、望美の心を揺さぶった。女の子はそんな言葉のシャワーを待ち焦がれているものだ。成長していた筈の高校時代の方が、片思いであろうと、相手を見る力も、相手を求める嗅覚も育っているかもしれない。より本能的で現実的に。 二人は会えないで過ごした互いの状況を話しながら、互いの料理を半分ずつ分け合った。 「大変だったね」 「うん、突然だったから。気持ちの整理が出来ないまま始まるでしょ。考える暇なんかないし。ま、泣いてる暇なんてないって怒られたし、次々とこなすって感じよね」 「ノンはよくやったよ。お姉さんも感謝してるよ。ノンの事」 「どうだったのかなあ、不満だったみたいよ。でも甥の事考えたら、これから姉の方が大変だけどね」 「俺なんか、ただドロドロになって、あがいていたようなもんだよ。集中していたけどね。集中しないと出来ない仕事だから、当然なんだけどね」 「そう、そうでしょうね。誰かになるなんてそうじゃなきゃなれないわよね。その時の集中度が大切なんだわ。きっと、何事も。いい加減に、目をそらしたら、何も残らないわ。大切な事に気づかないで過ごしちゃうもの。その時目の前の事に集中することが極意かもね」 「そうか、それはそうだな。目の前の事に集中する、か。何でも結果が出せるかもしれない」 「そうね。もし結果が出なくても、それが引き出しに入るか入らないかはその人間の魅力に拘って来るのよ。それが次につながるだろうし。人間関係もね」 「凄いな。ノンって。社会人は違うな。俺も、今、集中しよう!目の前の人に」 「え?やだ、神田、あ、うふふふ」 二人は見つめ合い、恋人同士そのものだった。 「あれ?」 「うん?どうした?」 望美の目の方向を見ると離れた向こうの席でこっちを見て笑っている家族がいる。 「誰?知ってる人?」 「姉」 「え?お姉さん?え?碑文谷じゃなかった?」 「それは次女。あれは長女なの。近くに住んでいるのよ。厭だな。あの人、監察官だから」 「え?監察官?警察?」 「ふふふ、そうじゃないけど、そんな感じ。母に報告する見張ってる人」 「え?それはまずいんじゃないの?挨拶に行こうか?」 「いい。大丈夫」 「いいの?した方が…」 「いいの。余計な事を言いそうだから。姉がね。場を読めない人で、過干渉なの」 「じゃあ、なおさらじゃないの?」 「適当に言うから、後で」 「そう?ノンがそう言うなら」 「うん、出よう」 「うん、いいけど。いいの?」 軽くその方に会釈してさっさと歩く望美の後について店を出た。 「なんて間が悪いんだろう。よりに依って。あの人たちあまり外食しない筈なんだけど」 「良かったのかなあ。挨拶しないと変に誤解されたりして」 「挨拶したら根掘り葉掘り聞いて大騒ぎになっちゃうわ。結婚させられちゃうわよ」 「いいけど。それ、俺は。早いか」 なんて事なの?でも神田の誠実さが分かってホッとした。こんなアクシデントもいい事がある。 タクシーを拾おうと少しゆっくり歩いた。車が行き交い時々声が聞こえなくなる程だ。 「ねえ〜見て。きれいだよ、星が…」 「うん?なあに?」と神田が顔を近づけた。フッと息がかかり唇がすぐ目の前にあった。 「ノン」と望美の唇に触れて肩を抱いた。望美は軽く身をよじりながらも神田に身を任せた。カレーの味がして笑いそうになるのを抑えてこみ上げる感情のままにキスは続いた。 「星がきれいだね」 「うん、さっき、それを言ったの」 「あ、そっか〜〜」 望美の部屋は寒くて冷えきっていた。部屋が暖まるからとやかんをガス台にのせて、お風呂にお湯を入れ始めた。望美はやる事が手早い。姉の家の手伝いで鍛えられた事もあるが、飲食店のバイトも大きい。それは秘書の仕事にも役に立っている。 神田が椅子に座りながら自分の膝の上に望美を乗せてコートをかけて 「あったかい?」 「うん、あったかい」 お湯が沸いた。 「コーヒー?紅茶?」 「そうだね、コーヒーがいいかな。簡単な方がいいよ」 「インスタントでもいい?」 「いいよ。早くおいで、ここに」 インスタントコーヒーを大きいマグカップ2つに入れると神田の膝に戻った。 「何か、聴く?かけようかレコード」 「いいね。何があるの?」 「一緒に見よう。こっち」 隣の部屋は濃い紫のサテンのような布が天井と壁を覆い、お香の匂いがして神田が知っている望美と違う妖気が漂っていた。 拾った古いミシンの上に本が7,8冊重なって、フリマで手に入れた古びた革製のトランクにレコードが30枚程入れてあった。 「へ〜〜、ジャズが好きなの?」 「最近ね。ロックもクラシックも好きよ。でも、ついジャズのコーナーに行っちゃうの。ヒデは?」 「ジャズを聴く機会が多いなあ。最近周りがそんなやつが多くてさ。親がジャズファンだっていう奴の家に行くと凄いコレクションなんだよ」 「へ〜〜すごいね。さすが東京だね。田舎でそんな話を聞いた事なかったよね」 「ないね」 「ヒデ〜どれかいいのを選んどいて。お風呂見て来る」 お湯の量がまだ少なめだったが、忘れて溢れさせた事が何度もある。お湯を止めて戻り、ベッドに腰掛けた。 「じゃあ、これ」神田が言った。 「サキソフォンコロッサスね。私が初めて買ったアルバムよ」 「ホント?この前、友だちの家で聞いていいなって気に入ったんだよ。そうか、ノンが初めて買ったやつなんだ」 レコード針を落としてソニーロリンズのサックスの音が部屋いっぱいに広がった。しばらく沈黙の時が流れ耳を傾けた。望美の頬が濡れている。 「どうした?」 「なんか、疲れていて、お兄さんを思い出す暇がなく過ごしていたでしょ。悲しいと思って。でもそれだけじゃないの。感動しているの。ヒデがいてくれて寂しくないなって」 「ノン、泣いていいよ。俺が…」 言葉が終わらないうちに望美の少し茶色がかった長い髪をそっと優しく撫でながら見つめると、ふっくらして柔らかな唇に自分のを重ねた。ベッドの上に倒れながら、唇が腫れるのではないかと思うくらい、それは長く続いた。上気している望美が横になったままでうっとりしていた。灯りが消えた。 いつの間にか一定のリズムでレコード針の音だけがしていた。 ――――――――――――――――continued―――――――――――――――――――― 尚、アップした後でも加筆修正しますのでご了解を この作品の権利は作者にあり、無断転用、使用を禁じるものです |
小説 仮題「ノン」
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