|
仮題 ”ノン” NO.9 台所に立つ神田を望美は眺めていた。高校時代、神田への思いを断ち切るのに、結構長くて辛い時間を要した。昨日から、その神田と一緒に過ごして、今、目の前で、しかも裸で料理しているなんて、信じられない。どんな展開になるかさえ望美にも神田にだって分かっていない。でもそれは永遠につづくようにも思えるし、ふわっと柔らかな布のようなものに包まれているかのような空間で自由に漂い、幸せだった。神田と再会してまだ間もないのに、これが恋愛の不思議な魔力かもしれない。こうして二人が濃密な時間を過ごしているなんて誰が予想出来ただろう。 神田が振り向いて言った。 「ねえ、冷蔵庫あけていい?」 「いいよ」 「何かある?」 「卵が3個くらい残っているけど、それと野菜がなんかあったんじゃないかなあ?」とベッドから出ようとすると 「いいよ。ノンはベッドで待っていて。オレに任せなさい」 と胸に手をやった。 「あ、卵あった。何かあるぞ。ベーコン?チーズも。いいね、よし、見えて来たぞ。三つ葉なんてのもあるよ」 楽し気に神田が振り返って親指を立てて言った。 「ちょっとお楽しみにね」 こんな仕草も、言い方も神田だ。田舎の高校で周りの男子生徒の中でも、どこかあか抜けて言動がスマートだった。神田は目立っていた。 流しの下からフライパンを出したり菜箸を出したりの作業がリズム良く手早い。 「ねええ、ヒデ〜 ヒデ、素敵だよ。慣れてる感じが…よく作るの?」 「うん、たまにね。俺んちさあ、商売やってたから、親は二人とも忙しいでしょ。それ待ってたら夕飯が食べれないのよ。兄貴は受験や部活とかで、それ程やらなくってさ。彼はそんなに好きじゃなかったんだろうな。だから料理は結構、俺がやる事が多かったんだ。まあ、嫌いじゃなかったけどね」 「そうなんだ。神田だって部活2つも入っていて、その上、生徒会もしていたし、忙しいのに」 家族の料理までしていたなんて考えもしないことだった。 「合格ね」 「え?」 神田には聞こえてないようだ。望美はそのままに言葉を続けた。 「裸で大丈夫?油がはねちゃわない?エプロンする?」 「そっか〜そうだね、エプロンした方がいいなあ」 冷蔵庫の横の籠の中から取り出して身につけながら 「ちょっとおかしいな。裸にエプロン姿って、卑猥。どう?」 「アハハハ〜卑猥って言うより可笑しいよ〜〜」と笑い転げる望美を見て嬉しそうに満足げな顔をして料理を始めた。 カチャカチャ音がして、バターのいい匂いがして来た。自分でしてる時の音と全く違う音、母親の料理の音とも違う音だ。なんて幸せな音なんだろう。 「出来た〜〜よし、バッチリ!お盆とかある?」 「あるけど、トレイしかない」 「その方がらしいんじゃないの。丁度いいよ」 「滑るから気をつけて」 「OK」 そおっと運び、ベッドにいる望美の前に出したトレイには、三つ葉入りのオムレツとベーコンとチーズとほうれん草を炒めたものが彩り良く載っていた。 「トースト、一緒に載せられないから後で焼くよ。これからやっつけよう」 「おいしそう〜〜」 「美味しいと思うよ」と言いベッドに滑り込んだ神田の身体が冷えきっていた。 「ヒデ、冷たい〜〜風邪ひいちゃわない?何か着て食べよ」 「そりゃないよ〜あとちょっとだよ。あのシーンをやるんでしょ」 「そうね。頑張ったんだもんね。今更ね。じゃあ食べよ」 美味しい。三つ葉の香が口の中に卵の甘さと共に広がった。 「ヒデ、おいしいよ。これ、オムレツおいしい。中がトロッとして」 「うん、良かった。ウマい?俺結構いけるだろう?」 「うん、三つ葉の香りがいいね。ヒデ、プロ級ね。お店やれるんじゃない?」 「これ、チーズがとけてるのがいい。カリッとして、ベーコンも」 望美が感心して、そう言うと嬉しそうに自慢げな顔をして望美に顔を向けて口を突き出して言った。 「ご褒美」 神田が目をつむる。望美が軽くキスをすると満足げな顔をして 「ノン、好きだよ」 そう言ってベッドを出て台所に戻り、トーストを焼き始めた。 「いよいよで〜す」 香ばいパンの焼ける匂いが部屋に広がった。 「ちょっとドキドキ」 「うん、あの世界だ」 香ばしいいい匂いだ。トーストをサクッとかじるとパン屑が裸の肌にこぼれた。これが憧れの三島の作品の大人のシーンだ。細かいパン屑がポロポロとお腹のおへその辺りに集中している。あまり気持ちが良いものではないが、これこそがあの作品の印象に残る最もドキドキした卑猥さを感じるシーンなのだ。カーテンの隙間から差し込む太陽の光で肌の産毛が輝いている。 「ねええ〜ほら、光ってる…」と神田の腹部を指した。 一見望美は痩せて見えたが、イタリアの裸婦みたいと友人にからかわれていた。くびれたウエストの下の腰回りの程よい肉付きで、長い足のせいもあり日本人離れした体型だった。 神田がパン屑を祓おうとして望美の肌に触れると望美の白い肌がピクッと震えた。 「ノンの身体美しいよ。絵に書きたいよ」 神田の素直な言葉は打ち寄せる波のように望美の身体を少しずつ濡らして行く。 「ノン、好き」 「うん」 神田の白く長い骨張った指がやさしく愛おしそうに望美の髪を撫でた。二人の唇が重なった。それは長く、段々激し差を増しながら長く続いた。二人の足が絡み合う。望美の白い柔らかな肌に神田の唇が触れて、二人はベッドの上に倒れて重なった。憧れの同級生の神田に対して少し恥ずかしさや遠慮があった。だが既にためらいは消えて弛緩して行った。心身共に解放する喜びを自覚しながら望美は神田に全てを預けて信頼していった。互いに全てを知りたいという欲求を受け入れることが愛することのように、神田は望美の、望美は神田の身体を愛した。自然な流れにすべてを委ねて時が経つのも忘れて深く交わり、望美のハスキーな喘ぎ声が神田を更に高揚させて二人はほぼ同時に満足感に達した。 しばらくそのまま抱き合っていた。 「俺、幸せだなあ。ノン、好き、愛してる」 「うん?私も」 「今日、こうしていたい。1日中こうしていよう」 「うん」 望美は神田の身体にすっぽり包まれて寝息を立てた。その寝息を聞きながら信頼されている充実感を味わいながら、いとおしい思いで望美を抱いて神田も眠りについた。 ――――――――――――――――――continued―――――――――――――――――――――― この作品の著作権は作者にあり、無断転用、使用を禁じます。 |
小説 仮題「ノン」
[ リスト | 詳細 ]
|
仮題 ”ノン " NO.8 まだ夜が明けたばかりだと言うのに目が覚めてしまった。ベッドの横の目覚まし時計が5時半を指している。いつも出勤2時間前に起きるのが習慣だが、それにしても早すぎる。薄暗い部屋の中でしばらくまどろんでいた。 まだ昨夜の事が信じられない。隣で寝ている神田の顔をしばらく望美は見つめていた。こんなに近くでまじまじ見るのも初めての事だ。なんて、不思議なんだろう。こんな日が来るなんて誰が想像出来ただろう。 高校時代、演劇の舞台もバレーボールの試合も遠くからだったし、廊下の向こうから歩いて来る神田をすれ違い様にちらっと見る程度で、どちらかと言えば、近づくと目をそらすのが常だった。 薄明かりの部屋で神田の日本人離れした顔が一層白く透き通っていて美しく、少し半開きの口元が親を信頼して眠っている赤ん坊のように望美の横で安心しきっているように思える。可愛い。これが母性本能と言うものなのだろうか。確かに神田が愛おしいと感じている。 神田がう〜〜んと薄目を開けた。 「あ、起こしちゃった?ごめんね。まだ寝てていいよ」 「あ〜おはよう」 「おはよ…あ、」神田の手が望美の身体を引き寄せた。一糸まとわぬ二人の肌が触れ合う。 神田の腕の中にすっぽり包まれて熱気がたまっていて、神田の肌も温かい。 「ノン」 「うん?」 「幸せ?」 「うん」 「俺も」 赤みがかったピンクの半開きの柔らかな唇に望美が人差し指でちょんと軽く触れた。 「うん?チューしちゃうぞ」 「ウッ!」柔らかく優しいキス。 「あ、トイレ、トイレに行く〜」 「え〜そんなのダメだよ〜〜」 「我慢してたんだもん」 「あ、俺も。どっちが先?」 「あたしよ!」とベッドから出ながら、掛け布団の下の毛布を引っ張り出し 「これ頂戴」 毛布を巻き付けてトイレに向かう望美を神田が追うようにベッドから飛び出した。意外に上半身が筋肉質の身体をしている。急いで目を逸らす望美に 「俺も寒いよ〜〜一緒に行こう」神田が背中にしがみついた。 「やだ〜〜出ちゃう〜〜」 「俺も〜〜」 「寂しくない?いた方がいい?どうする?」 「やだ〜〜恥ずかしいよ。見られたら出来ないじゃん」 「ドアの所にいます」とドアをうやうやしく開けてどうぞと手を紳士のようにして促した。均整のとれた美しい神田の裸体に目のやり場に困ると 「アハハ、裸でこれは無いよね」 「向こうに行って」と毛布を神田に手渡した。 「オウ〜〜!美しい!」 「やだ〜早く〜〜閉めて」 「はい、はい、了解」 朝が少しずつ始まっていた。誰かが階段を降りる音がした。 「コーヒー、入れる?」 「うん、いいね。このシチュエーションでコーヒー、いいね」 「風邪引きそう…」 「早くコーヒー入れてまた入ろ、ベッドに。ノン、何時に出るの?」 「うん?いつもは7時に出るけど。でも今日はまだ、お休み取ってるから行かなくていいの」 「え?大丈夫なの?オウ〜〜それは凄い!ラッキー!それじゃあゆっくりできるんだあ。じゃあ1日中一緒にいれる?」 大げさに手振りを入れて喜ぶ神田が可愛いと思う。演劇部のせいなのか、元々こうなのか、高校時代にもそんな神田を良く見かけた。 喫茶店でバイトをした経験のある望美が丁寧にコーヒーを入れながら言った。 「この時間が好きなのよ。こうしてゆっくりコーヒーにお湯を入れる時が」 一度膨らませるようにたっぷりお湯をさして空気が抜けるようにお湯がポットに滴り落ちた後、またお湯を切らさないように少しずつお湯をさし続ける。お湯の量に集中する時が無我の境地になるようで落ち着く。至福の時間だ。 「ノン上手だね」 「どうか分からないけど、一応バイトで教わったから。お店は布ドリップだったけど」 「へ〜〜喫茶店でバイトしたの?信じられないなあ。高校ん時を考えると、そんなイメージじゃなかったよね」 「そう?そんな感じ?」 「うん、真面目でお嬢様って感じだったよ」 「がっかりした?」 「逆だよ。それは変わらないんだけど、それ以上にもっと素敵だよ」 風邪引きそうだねと言って望美に毛布をかけるようにすると神田が自分の身体をスッと望美の横に入れて巻き付けた。作業の邪魔なのに寒さには勝てない。そのままで続けた。 「そう言えば『美徳のよろめき』っていう本があるんだけど、その世界みたいだな」 「三島の?」 「ノン、知っているの?読んだ?」 「うん、読んだよ。そう、ホントだ。あのシーンみたい」 「そっかあ〜あれ、読んだんだ〜ノンも。俺たちの高校であれを読んだ奴が居るとは予想してなかったなあ。それもノンが。驚きだよ」 「私も。びっくり。まさかヒデが読んでたなんて」 「君、ませてる?」 「どうなの?わかんない。姉たちの本棚にあったものなんだけど。文学だけはそうかもね。片っ端から読んでたし。お父さんの本棚もね。全部じゃないけど。意味が分かんなくて字を追っていただけっていうのもあるし、中途半端もいっぱいあるし。美徳は三島にしては読み易かったよね。薄かったし」 「そう言えばそうだね。『金閣寺』は俺、諦めたもんな」 「あたしもおんなじ〜〜難しくって」 コーヒーの香りが部屋中に広がり穏やかな朝が来た。 「美味いよ。ノン上手だよ」 演劇をしている神田の読書量は望美以上かもしれない。 「そうか、あの中で一日中裸で過ごそうって言ってさあ。べッドで朝食とる場面があっただろう?」 「それ、憧れていた。大人になったら、そんな風にしてみたいって」 「ノンも?俺もだよ。俺たち、似てる?あれをしよう。トーストだよ。食パン無いよね?帰って来たばっかだもんね。俺、買って来ようか?」 「そう、トーストね!それがあるのよ、食パン。お姉さん家から持って来たの。朝食べれるようにって」 若い青年が年上の人妻と確か軽井沢のホテルで過ごす場面だ。興奮してドキドキしながら読んだ。神田も同じだったのかしら。 「ノンさあ。よく図書室行ってたでしょ。昼休みに」 「え?うん。行ってた、昼休み。どうして?知ってるの?」 「俺も結構行ったんだよ。昼休みより放課後かなあ、俺は。たまに本を読んでいるノンを見かけたよ」 「え〜そうなの?知らなかった」 「それで、ノンが何を読んでいるのか知りたくってさあ。それがノンが返却した後のを借りたんだよ。偶然だよ」 「え〜〜そうなの?何を借りたの?」 「『デミアン』。ノンの後に3人くらい名前があって。それで、それからノンが借りた後すぐ借りたくてさ」 「やだ〜」 「やだ?」 「う、うう〜ん。嬉しい…」 「それで『郷愁』そして『知と愛』」 「ゴルトムント」 「ナルシスとゴルトムント」 「そう、そう、凄い!ヒデ凄い!友だちも読まなかったんだよ。一人は源氏にハマってたし、もう一人は嵐が丘のヒースに夢中だったし。いくら勧めても読んでくれなくて、ヘッセを話せる人がいなくて。ヒデ凄いよ」 「うん、凄いでしょ。俺は『デミアン』という題名が目に留まって。それが初めてのヘッセだったけど」 「ペーター・カーメンチートをペーター・カーチメントってずっと勘違いしていたのよ、私」 「あ〜そんな名前だったね。『郷愁』だっけ?」 「うん、そう。忙しいのに読書する暇があったの?」 「まあ、そんなにしょっちゅうではないけどね。俺は家まで5分で帰れるし、ノンたちみたいに電車通じゃないから、その分、時間が取れたんじゃないかなあ」 「でも私たち電車通は電車に乗ってる間が読書の時間になったのよ」 「なるほどね。そう言えば、卒業前の生徒会誌に全員の一言を書いたじゃん。あの時ノンの言葉がデミアンだったかなあ。ヘッセの作品の中の言葉だったでしょ」 「わ〜〜分かってくれてたの?」 「何か聞いた事あるなあと思って、見返して探し当てたんだ。<自分が愛されたいように愛せよ。そうすれば必ずやあなたの愛は通じるだろう>だった?」 「凄い!まさか!あれは自分に言い聞かせる意味だったんだけど、でもあなた宛てでもあるのよ。まあ、気づく筈ないって思って期待なんてしてなかったし、吐露しただけなんだけど」 何と言う事だろう。知らないとは言え、全く気づかずに、片思いの果ての失恋の痛手から立ち直ろうと必死だった。しかも他の人に目を向けようとしてみたり、それは簡単ではなく、神田への思いを引きずりながら、辛い時間を過ごしたというのに。互いに同じ思いを抱えていたのにも拘らずだ。何故すれ違うのだろう。何故思いを伝えられないのだろう。恋愛に関して、まだまだ閉鎖的な環境のせいなのか。普通に男女が話せる機会など無かったし、大体日本人は自分の思いを伝えるのが苦手だ。奥ゆかしいという言葉が物語るように。それに若い頃は結果を恐れて、伝えずに恋心を秘めてしまうのだ。望美も例外ではなかった。 「シャワーしなくて大丈夫?シャワーする?歯磨きも」 「このままでいい」 「歯磨きだけでもしたら?」 「そうだね。俺歯ブラシ持ってないけど、ある?」 「大丈夫。買い置きしてるから」 何気ない日常の会話がすでに自然で、それは神田との恋愛の証のようで、それが望美の心を満たしていた。 TVをつけると朝の天気予報が流れている。どうやら今日は晴れて気温が少し上がるらしい。 外を歩く人の気配がする。そろそろ1日が始まり出したというのに、ベッドルームはまだ夜の続きのように薄暗い。 歯磨きを終えた神田の腕が背後から望美を包んだ。 「お天気良さそうだね。朝日の中であれをしない?」 「え、あれって?」 「さっき言ったあれだよ。裸でトーストだよ」 「え?やっちゃう?」 「うん。そうだ、ノン。パンを出してくれる?」 暖まった室内で身体は冷えきっていた。神田が望美をひょいと抱きかかえてベッドに運ぶと、僕に任せてとうやうやしく執事のように礼をして台所に戻った。 ――――――――――――――――――――continued―――――――――――――――――――― アップ後も加筆修正があります。ご了解下さい。 尚、この作品の権利は作者にあり無断転用、使用を禁じます。 |
|
仮題 ”ノン” NO.7 二人が外に出ると、すっかり日が暮れていた。会社帰りのサラリーマンや学生が商店街を家に向かって足早に歩いている。 「大丈夫かな。お店狭いからいっぱいかもね」 商店街には小さな洋食屋さんが1軒、あとは中華屋と小料理屋と喫茶店が一軒だけある。 「結構おいしいのよ。ハンバーグもいいけど、日替わり定食が結構な味なのよ」 「オウ、いいね」 「なんかやな予感…」 ガラス窓から温かい灯りが見えて、客が少し見えた。ドアを開けると6テーブルが全部埋まっている。 奥さんが小さく指で×をして声を出さずに口がごめんねと動いて申し訳なさそうな顔をした。望美はにこりと頷いて踵を返し、神田の背にそっと触れながら、外に出た。 「どうする?他はきっと今頃混んでいると思う」 「学校の方か駅のあっちにする?」 「うん、そうだなあ。なんか疲れてゆっくりしたいから、広い店に行く?ソファっぽい椅子の所。最近出来たんだ。そこにしてもいい〜い?車で5分くらいだから」 「いいよ。俺はどこでも。山岡がいい所がいいよ」 「あれ?山岡って言ってるよ。そう言えば、さっきから」 「そうだね。ついね。何か照れちゃうんだよ。一人だとノンって考えたりしてるんだけどなあ」 「あら、ホント?嬉しいな。私の事考えているの?」 「そりゃあ、そうさ。考えるさ。え?ノンは?」 「神田の事?あ、ヒデだ。私も照れちゃうんだよね。でもヒデって呼びたい」 「なんか変だよね。同級生だからなあ。でも、ノンにするよ」 「うん、そうして」 最近出来たレストランに向かう為に環状線の大通りまで歩いてタクシーを拾った。車に二人並んで身体が密着しそうになって座るのが信じられないと望美は思っていた。すると手が触れて、望美の手を神田が握った。 「冷たいな。冷えてるね」と言うと、望美の手を両手で暖めるようにこすり口元に運びハ〜っと息を吹きかけた。 「私の手、いつもこんななの。あったかい」 「うん、温まったならいいんだ」とニッと笑い、いたずらっ子のような学校の廊下で見かけた表情になった。望美の胸がキュンとする。これよ、これに弱いのよ。片思いの高校時代が蘇り、今の状況が不思議でしょうがないと繰り返し思った。 すっと望美の背中に神田が手を廻した。スマートでさりげなく、やさしく包まれるようで、このまま身体を預けていたいと望美は思った。 目的のレストランに着いた。最近あちこちの主要な町の幹線道路に増えている店だ。 豊富なメニューと、広い空間とゆったり座れる椅子で疲れている時にはちょうどいいと望美は気に入った。土日と違って平日なら、テーブルが多いのもあって、なんとか座れるのも良かった。窓辺の席に案内されて二人は向かい合って座った。 「何にする?」と望美が言う。 「何でもいいけど、肉にしようかな」と神田が応えながらメニューをくくる。 「いいね、疲れてるし、力付ける?」 「ノンは?」 「うん、何にしようかな?久々だし、あ、そうだ。これにしようかな?ポークソテーに」 「あ、いいね。それ。俺も好きだよ。じゃあ、俺は違うのにしよう」 「いいよ。おんなじで」 「でもさあ、他にもありそうだから。半分こしない?」 「いいね〜そういうの好き〜〜」 「俺も〜そういうの好き〜〜」 「え?本当に?種類多く食べれるし、いいね」 「そうなんだよなあ。で、どれにしようかな」 「あれ?優柔不断?迷う方?」 「そうでもないけどさあ、食べる事に関してはそうかもね」 迷ったあげく 「そう、これにしようかな?カツカレー」 「あ、それ大好き。それにサラダと何か付けよう」 「何だ、好み同じ?いいね。俺たち合うね」 「合う合う〜やっぱりね」 「うん?やっぱりって?俺の好みなんか知らなかっただろう?」 「うん、知らないけど…素直な感じがね。してた…」 「俺、結構ひねてるかも…というのは嘘で」 「ストレート!」 「え?そうだよ、なんで知ってんの?」 「わかる。そんな感じがしてた」 「高校の時?」 「そう、そんな感じに見えてたよ」 「ノンもストレートだね」 「うん、そう。嘘言えない」 「俺も、嘘言えない。ノン、好きだよ」 「嬉しい」 「ノン、抱きたい」 「…それ、早くない?」 「…ノンは?」 「うん、言えない。食べてから」 「あれ?ストレートは?」 ふと、望美は裕太を思い出した。望美にとって初めての経験をしたばかりだった。悪い女かしらと申し訳ないような気持ちがもたげる。でも、今、目の前の神田は裕太と違って、ストレートに気持ちを言葉にしてぶつかって来る。それは望美にとって初体験に等しく、望美の心を揺さぶった。女の子はそんな言葉のシャワーを待ち焦がれているものだ。成長していた筈の高校時代の方が、片思いであろうと、相手を見る力も、相手を求める嗅覚も育っているかもしれない。より本能的で現実的に。 二人は会えないで過ごした互いの状況を話しながら、互いの料理を半分ずつ分け合った。 「大変だったね」 「うん、突然だったから。気持ちの整理が出来ないまま始まるでしょ。考える暇なんかないし。ま、泣いてる暇なんてないって怒られたし、次々とこなすって感じよね」 「ノンはよくやったよ。お姉さんも感謝してるよ。ノンの事」 「どうだったのかなあ、不満だったみたいよ。でも甥の事考えたら、これから姉の方が大変だけどね」 「俺なんか、ただドロドロになって、あがいていたようなもんだよ。集中していたけどね。集中しないと出来ない仕事だから、当然なんだけどね」 「そう、そうでしょうね。誰かになるなんてそうじゃなきゃなれないわよね。その時の集中度が大切なんだわ。きっと、何事も。いい加減に、目をそらしたら、何も残らないわ。大切な事に気づかないで過ごしちゃうもの。その時目の前の事に集中することが極意かもね」 「そうか、それはそうだな。目の前の事に集中する、か。何でも結果が出せるかもしれない」 「そうね。もし結果が出なくても、それが引き出しに入るか入らないかはその人間の魅力に拘って来るのよ。それが次につながるだろうし。人間関係もね」 「凄いな。ノンって。社会人は違うな。俺も、今、集中しよう!目の前の人に」 「え?やだ、神田、あ、うふふふ」 二人は見つめ合い、恋人同士そのものだった。 「あれ?」 「うん?どうした?」 望美の目の方向を見ると離れた向こうの席でこっちを見て笑っている家族がいる。 「誰?知ってる人?」 「姉」 「え?お姉さん?え?碑文谷じゃなかった?」 「それは次女。あれは長女なの。近くに住んでいるのよ。厭だな。あの人、監察官だから」 「え?監察官?警察?」 「ふふふ、そうじゃないけど、そんな感じ。母に報告する見張ってる人」 「え?それはまずいんじゃないの?挨拶に行こうか?」 「いい。大丈夫」 「いいの?した方が…」 「いいの。余計な事を言いそうだから。姉がね。場を読めない人で、過干渉なの」 「じゃあ、なおさらじゃないの?」 「適当に言うから、後で」 「そう?ノンがそう言うなら」 「うん、出よう」 「うん、いいけど。いいの?」 軽くその方に会釈してさっさと歩く望美の後について店を出た。 「なんて間が悪いんだろう。よりに依って。あの人たちあまり外食しない筈なんだけど」 「良かったのかなあ。挨拶しないと変に誤解されたりして」 「挨拶したら根掘り葉掘り聞いて大騒ぎになっちゃうわ。結婚させられちゃうわよ」 「いいけど。それ、俺は。早いか」 なんて事なの?でも神田の誠実さが分かってホッとした。こんなアクシデントもいい事がある。 タクシーを拾おうと少しゆっくり歩いた。車が行き交い時々声が聞こえなくなる程だ。 「ねえ〜見て。きれいだよ、星が…」 「うん?なあに?」と神田が顔を近づけた。フッと息がかかり唇がすぐ目の前にあった。 「ノン」と望美の唇に触れて肩を抱いた。望美は軽く身をよじりながらも神田に身を任せた。カレーの味がして笑いそうになるのを抑えてこみ上げる感情のままにキスは続いた。 「星がきれいだね」 「うん、さっき、それを言ったの」 「あ、そっか〜〜」 望美の部屋は寒くて冷えきっていた。部屋が暖まるからとやかんをガス台にのせて、お風呂にお湯を入れ始めた。望美はやる事が手早い。姉の家の手伝いで鍛えられた事もあるが、飲食店のバイトも大きい。それは秘書の仕事にも役に立っている。 神田が椅子に座りながら自分の膝の上に望美を乗せてコートをかけて 「あったかい?」 「うん、あったかい」 お湯が沸いた。 「コーヒー?紅茶?」 「そうだね、コーヒーがいいかな。簡単な方がいいよ」 「インスタントでもいい?」 「いいよ。早くおいで、ここに」 インスタントコーヒーを大きいマグカップ2つに入れると神田の膝に戻った。 「何か、聴く?かけようかレコード」 「いいね。何があるの?」 「一緒に見よう。こっち」 隣の部屋は濃い紫のサテンのような布が天井と壁を覆い、お香の匂いがして神田が知っている望美と違う妖気が漂っていた。 拾った古いミシンの上に本が7,8冊重なって、フリマで手に入れた古びた革製のトランクにレコードが30枚程入れてあった。 「へ〜〜、ジャズが好きなの?」 「最近ね。ロックもクラシックも好きよ。でも、ついジャズのコーナーに行っちゃうの。ヒデは?」 「ジャズを聴く機会が多いなあ。最近周りがそんなやつが多くてさ。親がジャズファンだっていう奴の家に行くと凄いコレクションなんだよ」 「へ〜〜すごいね。さすが東京だね。田舎でそんな話を聞いた事なかったよね」 「ないね」 「ヒデ〜どれかいいのを選んどいて。お風呂見て来る」 お湯の量がまだ少なめだったが、忘れて溢れさせた事が何度もある。お湯を止めて戻り、ベッドに腰掛けた。 「じゃあ、これ」神田が言った。 「サキソフォンコロッサスね。私が初めて買ったアルバムよ」 「ホント?この前、友だちの家で聞いていいなって気に入ったんだよ。そうか、ノンが初めて買ったやつなんだ」 レコード針を落としてソニーロリンズのサックスの音が部屋いっぱいに広がった。しばらく沈黙の時が流れ耳を傾けた。望美の頬が濡れている。 「どうした?」 「なんか、疲れていて、お兄さんを思い出す暇がなく過ごしていたでしょ。悲しいと思って。でもそれだけじゃないの。感動しているの。ヒデがいてくれて寂しくないなって」 「ノン、泣いていいよ。俺が…」 言葉が終わらないうちに望美の少し茶色がかった長い髪をそっと優しく撫でながら見つめると、ふっくらして柔らかな唇に自分のを重ねた。ベッドの上に倒れながら、唇が腫れるのではないかと思うくらい、それは長く続いた。上気している望美が横になったままでうっとりしていた。灯りが消えた。 いつの間にか一定のリズムでレコード針の音だけがしていた。 ――――――――――――――――continued―――――――――――――――――――― 尚、アップした後でも加筆修正しますのでご了解を この作品の権利は作者にあり、無断転用、使用を禁じるものです |
|
NO.6 神田?神田の爽やかな歯切れの良い低音の声がよぎった。 「・・・」 「望美?」 「あ。お姉ちゃん」 「望美、起きてる?」 「う?うん、起きてるけど、そろそろ寝ようかなとしてるとこだけど」 なんか変だ。こんな時間に、しかも用事がない限り、姉から電話をかけて来る事はない。それにトーンが低い。 「あのね、光博がね、・・・死んだの」 「エッ!嘘・・・なんで・・・いつ?」 「さっき、0時47分」 「エッ〜〜そんな悪かったの?」 「あんたには言わなかったけど、悪い事は悪かったの。でもこんなはずではなかったのよ。急変して。 それで、望美に来てほしいんだけど。来れる?」 「いつ?今?」 「今、タクシーで来て。お金は出すから。一樹があんたにしかなつかないでしょ」 「うん、一樹は?寝てるの?」 「寝てるけど、これから明日も、私には色んな事あるし、とにかく来てよ。出来れば1週間ぐらいいれない?」 「そうしてあげたいけど、仕事が・・・分かった。とりあえずこれから行きます」 「あ、そう?良かった。あ、それで、ほら、あれ、持ってる?何だっけ?黒の」 「喪服?喪服っぽいのはあるよ。普通の黒のワンピースだけど、それでいいなら」 「飾りがなければ大丈夫よ。じゃあ、それ忘れないで。あ、そうそう、途中で開いてるお店あるかな?何か飲み物とかお菓子とかカップラーメンとかなんか適当に買って来て。一樹が、ほら、あれだから」 「わかった。一樹が食べそうなのね」 「じゃあ、お願いね。1時間ぐらいかかるわね」 「そうね。準備もあるし、買い物もあるし、もう少しかかるかもね」 「じゃあ、気をつけて。あ、家にね」と言って切った。 なんてこと!望美は呟いた。お兄さんが逝っちゃうなんて。 とりあえず旅行用のボストンバックに3日分ぐらいの着替えとをパッパッパと頭が真っ白になりながら手早く詰め込んだ。黒のワンピースと靴だ、忘れる所じゃん。それにしてもなんで?繰り返しもたげる疑問が、望美の脳の中をグルグル回っている。そうだ、出勤用の洋服も持たなきゃ。それから一樹にと銀座のソニープラザで買っておいた輸入お菓子を思い出した。それも紙袋に入れて電話帳でタクシー会社を調べて頼んだ。さすが、秘書をしてるだけある。いざとなると望美の動きが手早い。20分でそれらを終えてストーブ、電気製品を指差し一つ一つOKと言い、消して外に出た。雪は小降りになっていた。深夜、冷え込む暗い夜道でタクシーを待っていると段々心細くなる。空車が走っていないのを見ると、こんな雪の日にそう簡単につかまる筈はないと判断したのは正解だった。ほどなく予約したタクシーが目の前にス〜っと停まり乗り込んだ。車内は暖まっていた。 「今日は混んでるんでしょ」 「そうですね。雪が降れば桶屋が儲かるって感じかなあ」 「ハッ?それ、面白いね、運転手さん」 「いやあ、ハハハ。大して儲かんないんですけど。道が滑るしね。ゆっくり走るでしょ。忙しいだけですよ。何てたってこの時間は台数が少ないですから」 「なるほどね。だから深夜のタクシー停めるのって大変なのかしら」 「それだけじゃないですけどね。都心に行っちゃうしね。お客さん、こんな時間にどうしたんですか?恋人の所にでも?いいな。こんな人が夜中にくるっていう男性は幸せですよ」 何だ、これは・・・踏み込み過ぎじゃないの?しかも、勝手に決めつけて。 「運転手さん、家族が亡くなったの。そんないい話じゃないわ。そうだ、途中にコンビニか深夜開いてるスーパーがあったら、そこへ寄りたいんですけど、どこかあります?」 「あ、それはすみません。そんな時にすみません」 後ろを振り返りそうになりながら、恐縮して何度も謝るのだ。感じが良い人で良かった。道も詳しそうで、安心して任せられそうと望美は少し緊張感を緩めた。これから尋常じゃない事が起こる筈だし、ここで少し弛緩しておこうと思った。なにしろ立ち居振る舞い、ヘアースタイル、服装から持ち物まで何かとうるさいし、急に訳も分からず怒り出す姉だし。気の良い運転手のお陰で無事に買い物も済ませて、同じ都内でも対角線に位置する姉の家に着いた。3時半になっていた。 翌日から家政婦、子守り、家庭教師、姉のマッサージ師、そして姉の代わりの裏方を望美はこなして、悲しんでいられない喪主のようであった。ちょっとでも涙ぐむと姉が、そんな暇はないわよ、子供の前で泣かないでと叱責する。会社は2日までならと言う所をごり押しでなんとか1週間休暇をとった。 有名私立大付属病院の勤務医である義兄の光博は少し年齢より老けて見えるのだが、温厚な性格と腕も良く、患者さんから信頼され評判が良かったらしい。参列者が千人を軽く越える盛大なお葬式だった。姉は望美にもっといて欲しい、出来ればここで暮らさないかと言う。どんなに懸命にやっても、姉の満足を得られずに何度も人前でも叱られた。5日間でこりごりした。 久しぶりに家に戻ると、ドアに紙切れが挟んである。誰?神田?裕太?そういえば。神田から電話がなかったし、何かあったのかと思ったまま、留守にした。神田が心配していたかもしれない。 部屋に入り、ドサッと荷物を置いて手を洗ってメモを見る。神田だった。来たんだ、あいつ。ふっと小さく笑った。疲れが飛んで行きそうなくらい嬉しかった。 でも、まさか望美の身にこんな事が起きてるとは思う筈もなく、多分勘違いをしているんじゃないのかと恐る恐る目を走らせる。 筆圧もしっかりして、整然と並んで適度な大きさのいい字を書く。へ〜〜誠実そう、目を見張りまじまじと見て、初めて神田の字を見ている事実にも感動していた。 残して行ったメモには、急にロケになり外出して電話をかける程の自由がなかった事、翌日遅い時間に帰り死んだように眠った事、毎日電話した事、怒った望美から嫌われてないかと心配してる事、そしてアパートに3度訪ねて、その都度メモを挟んでは交換している事が書いてあった。 二人とも思わぬ方向に流されていたのだ。 バックから取り出した物を洗濯機に入れて廻し、シャワーを浴びてから、バスタオルで身体を包み、ドライヤーを髪にあてていた。 ”ピンポ〜〜ン”誰かが来た。こんな時に、普段なら無視する状況だが、ハッと予感がした。音を立てないようにしてドアに近づいてみる。誰?神田?男の話し声がする。 「メモがないよ。いるのかな」 「戻って来てるね」 神田の声がする。でももう一人いる。またピンポ〜〜ンと鳴った。誰が一緒なの?この格好よ、出れる訳ないじゃない。 「はい、どなた?」 「あ、いた〜〜山岡?俺、神田」 「神田?ちょっと待って。今ちょっとひどい格好なの」 「いいよ、どんな格好でも俺はいいよ。構わないよ。いて良かった〜〜」 ホッとした声。だからって構わないってこっちが構うんだってば。 「あのう、実は・・・シャワーした所で、裸なの」 「エッ、裸?そ、そうなんだ。それはそうだな。着るまで待ってるよ」 「うん、待ってる?着たからってお化粧もするし、いい〜い?」 「勿論。着なくてもいいけど〜〜ハハハ」 「やだ、バカね!待ってて」 もう、やなんだから、神田はこんな時もあんな風に冗談言うし。そんなとこ好きなんだけど。 やだ、誰が一緒なの?エッ!いったい誰が私の裸を見るのさ〜〜やな奴!神田はなんで誰かを連れて来てるの?慌てるものだから、あちこちに足をぶつけ、ゴミ箱を転がし、まとめておいた郵便物やチラシがぶつかった瞬間に床に落ちてばらまかれ、小汚い部屋になる。何なんだ〜〜余計な仕事が増えちゃったじゃん。もう、ダメだなあと呟き、自己嫌悪に軽く陥りながら、さっさと急いで事を進めた。 高校の時に素顔を見られてる事だし、さっと素早く軽くお化粧をして時間のかかりそうな荷物を押し入れに押し込んで部屋を片付けてドアを開けた。 「遅くなってごめんなさい。お待たせしました。どうぞ」 「オウ、こっちも勝手に来てごめん」 うん?神田の隣に立っている若者も微笑んで会釈した。 「あ、こいつ、大沢」 「大沢です。すみません。初めまして。ヒデが大変だって言うもんだから」 「あ、初めまして。山岡です。あ、どうぞ」 「どうしていた?俺、謝らなきゃなんないし、ちょっと、コイツ絡みの事があったから、来てもらったんだ」 「そ、そうなんです。俺が、ヒデを」 「ま、なんだか分からないけど、私、今帰ったばかりで、何か飲みたいし、何がいい?コーヒーと紅茶、緑茶とオレンジジュースとトマトジュース」 「じゃあ、コーヒーを、大沢もいいだろ」 大沢がうん、うん、と従順に頷いた。学生は可愛いなあと思いながら、日頃本心が分からない会社の大人たちの嫌らしさとの違いを感じていた。喫茶店でバイトをした事のある望美は上手に手際良くコーヒーを入れてテーブルを挟んで向かい合わせに座った。 「うん、美味いね」 「ホントだ。美味しいです」大沢もウンウンと頷いて大きな声を張り上げた。 「お前張り切るなよ」 はい、分かってますと言って大沢が神田を無理に連れて行った経緯を話した。 引き続き神田が話し始めた。ビックリさせようとここに来るつもりだったと初めて知り、神田の気持ちが伝わって、それは高校時代には考えられない事、夢のようで、だが現実に胸がキュンとする。 「お前はどうしていたの?何かあった?怒っていると思って心配だったよ」 「怒る暇なんかなかったわ。泣く暇だってなかったんだもん」 怪訝な顔をする二人にこの5日間を話した。 「そうか、大変だったんだ〜。僕たちそんな考えには及ばなかったなあ」 「そうなんですよ。こいつ、あなたが死んでるんじゃないかとまで言って」 「おい、それは言うなよ。失礼じゃないか。お前案外がさつだなあ。ちょっと心配だっただけだよ。ごめん」 大沢は予定があるからと言い、神田と約束していた通りに先に帰った。 二人きりになった。沈黙が続いてコーヒーカップを口に何度も運んでいた。洗濯機が止まったようだ。 「洗濯したの?帰ってすぐ?やっぱ女の子だなあ」 「1週間だもん、着替えにも困っちゃうし、すぐやると簡単なのよ。洗濯機に入れるだけでいいんだもん」 「干す?俺、邪魔?手伝う?」 「やだ〜下着が殆どよ。いい。後でやる」 「早い方が皺が出来ないんじゃない?俺、それでいつも失敗するよ」 「そうね、じゃあ干しちゃう。見ないふりして。部屋の中に干すし」 「あ、そっか。見ない振りは任せて。役者だし」 一緒にやると早くゆっくり出来ると言って神田も洗濯物を入れた籠を運んだりして、少し手伝った。こんな男もいるのかと不思議だった。神田は中学時代からの仲の良い女子とも普通に話していて高校時代からユニセックスのような性別に拘らず、誰とでもフランクに接しているように感じていた。望美は幼い頃から進歩的な家の雰囲気のせいと、家の本棚の文学全集を手当り次第に読みあさり、特に望美は外国文学に傾倒した。時代の影響もあり、無意識にフェミニズムの考えを持っていた。神田に居心地の良さを感じた。この人なら結婚しても楽だなとも思う。 干し終わって、一息つくと。息が詰まりそうな空気が流れる。 「ありがとう。早く済んで助かったわ。それに」 「俺、会いたかった」 「うん」と言う望美の肩に神田の手が伸びて、顔を見合わせると 「ノンちゃん、好きだ」いとおしそうに望美を見つめてから、ゆっくりと肩を抱き、望美のふっくらして少し乾いた唇にそっと自分の唇を重ねた。柔らかな神田の唇が優しく何度も繰り返し触れている内に望美の身体がよろめいた。ギュッと望美の身体を引き寄せると堰を切ったように好きという感情が溢れ出る。愛が伝わるやさしいロマンティックなキスだった。 神田は自制した。幸せで充足していた。頬が紅潮して、まとわりつくように神田を見る瞳が濡れているのを見て神田の心が動いた。 「ご飯どうする?何か食べに行く?」 望美がそう言って差し出したコーヒーカップを受け取りながら神田が笑った。 「ハハハ・・・ノンって面白いな」 「え?何が?」 「うん、好きだな。そんなとこ」 「え?なあに?お店閉っちゃうよ。食べなきゃ、生き抜けないぞ」 「ハハハ・・・そうだね。生き抜くために食べに行こうか」 ――――――――――――――――――continued――――――――――――――― |
|
“ノン " NO.5 その頃、神田秀樹は多摩川河川敷にいた。静まり返る漆黒の闇の中、灯りが煌煌と照らしていた。その真ん中に、土手の草むらに横たわる神田がいる。しかも、若い女性と絡み合っていて、手の位置、足の位置、顔の向き、全ての自分の身体の動きのあちこちを指示されチェックされている。集中しなければ、途端に罵倒される。何故俺はここにいてこんな事をしているんだ、と神田が思う暇もない。 望美との電話の後で、車を持っている友人に電話をかけまくっていた。神田のような普通の家庭の出身も中にはいたが、何しろ神田の学友には裕福な家庭の子息が多く、学生の分際で車を持っているなんてざらの事だ。 時間が時間なだけに、すでに飲み過ぎて運転出来ない状態の奴や、眠っている所を起こされて怒る者もいたし、まだ帰ってないのもいる。 山岡の所には30分で行ける距離だ。深夜なら20分で行けるかもしれない。直接会って5分でもいい、山岡望美をこの手で抱きしめて戻る、そう考えていた。 やっと一人が掴まった。大沢の声が妙に明るくノリがいい。 「オーヒデ、起きてた?ちょうど良かったよ」 「オー大沢。お前さ〜車出せる?」 良かった。コイツなら頼み易い。 「出せるよ、というより今からお前んとこ行くよ」 「え?それはちょうどいいなあ。俺、頼みたい事あってさ」 「俺もだよ。神田に頼みたいっていうか。いい話だ。詳しい事は、じゃあその時に。今からお前んとこ行くから」 「エ?何?」 大沢は遊び仲間でもあるし、自主映画作りの仲間でもある。たまに親の仕事関係で台詞が少しだけの役とか、殆どはエキストラと助手の掛け持ちのバイトが回って来る。バイトと言っても大抵低予算、拘束時間が長く、わりが合わない。それでも現場は楽しいし、勉強になると喜んで引き受ける神田は重宝がられている。 あれ?もしかしてあいつの頼み事って又それか、と一瞬不安がよぎる。 予感的中だった。大沢は着くとすぐ、話は車の中でと、有無を言わせず神田を乗せてシトロエンを発進させた。 「あれ?いつものじゃないな。ムスタングは?」 「真夜中にうるさいだろ。遊びじゃないし、なるべく目立たない方がいいからな。かあちゃんのにしたさ」 「遊びじゃないって、お前、もしかして仕事?」 「うん、そうだよ。いい役なんだ。お前ついてるなあ。ホント、ついてるよ。役者が急病になったんだって。おいしい役だ」 「え?俺、今日はダメだよ。行かなきゃならないんだ。反対だよ、方角が。バックしろ、Uターンしろよ」 「何?こんな時間に何処へ行こうって?彼女でも出来たの?」 「そう、そうだ。この際、そうだよ。彼女のとこへ行くんだよ」 「え?それ本当なの?マズいなあ。俺、神田が行けるって言っちゃったよ」 「何だよ。勝手に決めるなよ。聞いてからにしろよ。じゃあとにかく反対に向かってよ」 「ここ、Uターン出来ないしさ。時間もないし」 「・・・何なんだ。俺ついてないわ」 「ごめん。事情知らなかったし。何かあったの?」 「うん。行くつもりだった。行けなくても、電話をする事になっていたんだ」 「彼女が出来たなんて聞いてなかったよ。いつ?最近?」 「うん、そう、最近。今日かな?」 「え?今日?それは、気づく筈ないな。どこで?」 「うん、まあ、それはその内ね」 「そうかあ。悪かった。でも今日のはいい話だよ。主役級だよ。それにいいんだ。男冥利だ。セクシー路線の映画だから」 「それ、もしや俺が?」 「と、思うよ。過激なものではないらしいけど、いい役らしいよ。女優を抱けるぞ」 昨日までなら喜んだ筈だ。なのに今日の俺は違う。今日は山岡を第一にしたいと思っている。女優って言ったって、どうせ、それに見合った女優だろう。いや、おいしい、確かに滅多にない。いや、ダメだ。それを知ったら、山岡が何て言うか、と言うより知られてはマズい。だとしたら電話が出来なかった理由が言えないじゃないか。神田は自分の運のなさに暗澹たる思いをしながら、望美が心配しているだろうと気がかりだった。 神奈川との県境の橋に近づくと、そこだけ昼間のような照明の光が見えた。これは朝まで終わる訳がない。俺は終わったと傍から見ると大げさなくらいに落胆した。偶然にも、やっと望美に会えて、やっと思いを伝えたばかりなんだ。これが運命なのかと監督の指示通りに身を任せるだけと諦めて開き直るしかなかった。 3シーンだけの出番でも、夜が明けた後も続き、およそ丸1日拘束された。ストーリーを知らないまま指示通りに動くだけだ。都内何カ所かロケ場所を移動して終わったのは夜11時を回っていた。 襲う睡魔と闘いながら公衆電話ボックスに入り望美の番号を押した。出ない。寝てるのか、それとも怒っているのかもしれない。どうか山岡よ、出てくれ。神田は祈る思いで鳴らし続けた。やはり、出ない。そりゃ、俺はひどい事をしたんだ。何処かへ出かけているのかも知れない。 家に戻るとグッタリ倒れ込んだ。望美が帰る時間に目を覚ましておこうと、汗と疲れでドロドロの身体をシャワーで洗い流した。バスタオルで拭き、洗って室内にかけてあるTシャツの中から1枚を取って腕を通しながら、冷蔵庫からジュースを取り出して、パックのまま残りを飲み干した。そしてふ〜っと大きくため息をつき、ベッドに寝転がると、そのまま眠ってしまった。 ――――――――――――continued―――――――――――――――― アップした後で繰り返し加筆修正をしています。ご了承下さい。 ここ作品の著作権は作者にあり、無断で転載、使用を禁じるものである。 |




