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順序が逆になりましたが、第一話です。
オリエント急行は贅沢の代名詞ともいわれ、乗客は王侯貴族や政治家、俳優などのセレブたち。
今も昔も人々の憧れです。

ベルギーの銀行家ジョルジュ・ナヘルマッカーズが1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立ったって作ったのが始まりです。

そしてこの会社が1883年に、パリ−イスタンブール間に走らせた列車が「オリエント急行」。
当初のルートはストラスブールからウィーンを経由してイスタンブールへ。ドナウ川と、ヴァルナ−イスタンブール間は船でした。週1便。
1885年には途中ウィーンまでは毎日運行となり、1889年には念願のイスタンブールまでの列車の直通運転が実現しました。
他にも1919年には、ローザンヌ・ベネチア・ベオグラードを経由する「シンプロン・オリエント急行」が登場。
全盛期は1930年代で、「オリエント急行」が週3便運行、「シンプロン・オリエント急行」が毎日運行、他にも数本ありましたが、戦争により運行休止を余儀なくされてしまい、その上、飛行機の発達により、時間のかかる列車は必要とされなくなっていまいました。

その後、海運会社であるシーコンテナ社の社長のジェームズ・シャーウッドが1977年にモンテカルロのオークションで購入、世界中に散らばっていた35両を買い上げて5年間30億円もかけて1920年ころの姿の再現に成功しました。彼が設立したのがオリエント・エクスプレスホテルズ社という子会社。1982年から運行をはじめた「ベニス・シンプロン・オリエント急行(VSOE)」です。

VSOEはイギリスのロンドンとイタリアのベネチアの間を結んで運行されていますが、イギリス国内は、ブリティッシュ・プルマンと呼ばれる座席車、大陸側では1920年代に製造された国際寝台車会社の寝台車が使われています。

1路線しかないかと思っていたら色々あり、歴史も複雑だったのですね。
またフランスでも「プルマン・オリエント急行(POE)」の名で、主にチャーターにより運行する列車もあるそうです。


番組で列車はパリに到着。
オリエント急行の乗客たちの定番のお宿はホテル・リッツです。
ここでこのホテルの歴史の中で一番の夜会を開いた人物が紹介されたのですが、それはなんと日本人。
薩摩治郎八。通称バロン薩摩と呼ばれた人でした。(”硫黄島からの手紙”を思い出しますね)
彼はパリで「東洋のロックフェラー」とか「東洋の貴公子」と呼ばれ、祖父治兵衛を蓄えた財産600億円を30年間で使い果たした!人物です。薩摩治兵衛は横浜で木綿織物などを扱い、外国商船とも幅広く取り引きをして、一代で巨富を築き木綿王といわれ、治郎八が生まれたころには、明治富豪26人のひとりに数えられていました。

治郎八は18歳でオックスフォード大学に学ぶという理由でロンドンに行き、毎月日本から3000万円ほどの仕送りを受けていました。

やがて2年ほどで治郎八はパリに移り、またまたお金を使って社交界の名士になりました。画家の藤田嗣治らと親しくなり、その紹介でジャン・コクトー、レイモン・ラディゲらと交際し、海老原喜之助、岡鹿之助、藤原義江らのパトロンとなり、プレーボーイでありながらケタ外れの散財によってスターのように注目されていました。当時の彼の服装がなんとパリのモードの最先端であった・・というほど。

でも遊んでいただけではなくちゃんと善行もしています。
経済難だった日本政府に替わって私財を注ぎ込みパリ国際都市大学の日本館を建てました。
そこに飾られている藤田の絵『欧人日本へ渡来の図』がフジタと共にバロンの面影も今もそこにとどめています。日本ではほとんど紹介されていない名作ですが、ほんと綺麗でした。

私はこのバロン薩摩のことはまったく知らなかったのですが、日本にも豪快な人がいたのですね。
そしてまだまだ興味深いことや人がたくさんいるものだと嬉しく?なりました。

                          BS民放『オリエント急行 幻想の旅』より
                          写真はイタリア、メラーノ

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