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前回( http://blogs.yahoo.co.jp/cba_int/26289490.html )の続きです。


§ 日本テレビ不知火観測

日本テレビディレクター(当時)の矢追純一氏を中心とした、総勢11名による不知火観測が1981年8月29日に実施されています。SIT暗視カメラを導入し、不知火への接近を意図する海上部隊を配置させるなど、かつてのCBA観測以来の大々的なものでした。 
当日は日中から雨で、夜になると「大雨洪水雷雨注意報」が発令されるほどの荒天だったとのことで、しかも、昼夜の温度差はわずか2度。従来の不知火〓漁火蜃気楼説からすれば、不知火の出現は絶望的な状況です。
ところが、不知火は出現しました。
この模様は、当時「11PM」という日本テレビの番組で紹介されましたので、ご存じの方もあると思います。このとき、わずかな温度差で不知火が出現したということは、他の海域でも日常茶飯事的に類似現象が発生してもおかしくないはずです。ところが、そうではないのはなぜでしょうか?
また、干潟を持つ不知火海や有明海の特殊性が、不知火=漁火蜃気楼説の拠り所ですが、これも昼夜の温度差が大きければの話です。
この日本テレビ観測だけをもってしても、不知火=蜃気楼説は崩壊しつつあります。
不知火とは儀式的な要素を持った計画的な現象なのではないかと、さらに疑わせます。
そしてだからこそ、不知火の出現が、不知火海や有明海でなければならないという地域性も、あわせてクローズアップされて来るようです。
ここの部分は、いずれ触れていくことにします。
さて、ここで、日本テレビ観測班記録を列挙してみましょう。

a. 移動する火
カメラ手前の海上から、長く尾を引いた巨大な火の玉が、前方の海上の上空にラセン状に回転しながら飛んでゆき、そこで停止したあと次第に小さくなり消えてしまう・・・。これはまさしく、飛行する不知火です。
b. サーチライトの照射 
海面上10数メートルと思われる空間に光の球が現れ、そこから下の海面に向かってサーチライトのような光を一直線に照射し、海面がその光で一瞬明るく浮かびあがる。そのあとサーチライトは徐々に短くなって光球におさまり、やがて光球も消えてしまう。CBAの観測にも同様のサーチライトを上方に向かって照射した例があったことは特筆に値します。
c. 前述2例のバリエーション 
初めにサーチライト状の光が海面上を末広がりに照らし、その光がだんだん短くなっていって消えたあとに光の球が現れる。その光球は、その後右から左へゆっくりと空中を移動してゆき、パッと消えてしまう。
d. 構造のある光
海上の空間に巨大な火の球が現れ、右回りにぐるぐると回転しながら1点に滞空を続ける。火の玉自体は周囲が赤っぽいオレンジ色で中心はやや白っぽく、ギラギラともえるような強烈な光を放っている。球の中には黒い線が斜めに太く入っていて、それが左から右へ絶えず移動している。つまり、火球が右回りに回転しているのがはっきりとわかる。この黒い線の目撃もCBAの1963年の観測に見いだせます。炎の中心にあった薄黒い炭素棒のような線というものがそれで、どうやら同じ現象を目撃したようです。蜃気楼にこのような構造物があるとはとても思えないのですが・・・。
e. 船の周囲を取り囲む不知火
海上に配置した船で観測を行なっていたチームは、不知火に周囲を取り囲まれたと証言しています。これなどは、CBAの目撃した不知火の円陣を、その中心から目撃したのだと考えることができます。                             

§ 天宮清氏による不知火観測

きよりんさん( http://blogs.yahoo.co.jp/ttdkh395 )こと当天空人協会・西日本統合部の天宮清氏は、かつてCBAの不知火観測に参加してきた経験をもっています。同氏はその後も断続的に不知火観測を行っており、多くの興味深い現象を報告しています。
とりわけ注目すべきは、”不知火現象発生装置”の可能性がある謎の海中物体の目撃体験です。
1991年9月8(八朔)の前日、天宮氏は蔵々島に観測ポイントを置いて不知火の出現に備えていました。同行者は、同じUFO研究者でもある妻の天宮ユキ氏です。 
海面のまだ明るい午後6時頃、ユキ氏が海面を進む白いポリ袋に似た小さな物体を発見しました。その物体に何か異常なものを感じたユキ氏の知らせで、天宮氏は、16倍ズームのホームビデオでそれを録画しています。
一方、ユキ氏は24倍双眼鏡で観察を行ない、物体が遠ざかった後、さらに第2の海中物体が同一コースを移動しているのを発見しました。
怪物体は、海水の流れによるものとは思えないほど急速に形状を変化させたということです。
ユキ氏は、この怪物体が移動していく際に、その背後の海面から小さな発光体がピョンピョンと飛び上がっているのを目撃しています。
ビデオの白黒モニターを通して物体を見ていたこと、ユキ氏が使用している双眼鏡の倍率よりもビデオの倍率の方が低いことなどが原因で、天宮氏には、この小さな発光体は目撃できなかったとのことです。
実際に録画された映像を見てみると、海面上を移動する奇妙な物体が確かに記録されていました。
しかも、第2の物体の変化は、あたかも、それ自体が「意思」を持っているかのように見えます。
また、ユキ氏の目撃した発光粒子の放出も確かに写っています。
肉眼では、10個から20個の発光体が噴水のように沸き上がって見えたらしいのですが、ビデオでは同一画面で最大3個までしかとらえられてはいません。
おそらく、発光の強いものだけが撮影されたのだと思います。移動物体が目測で数10センチとする天宮氏の報告から考えると、放出された発光粒子は数センチ程度でしょう。
この海上の移動物体と、そこから放出された発光粒子の正体は何でしょう?
これらの発光粒子こそ”不知火の種”だったのではないでしょうか?
そして、海中を進む怪物体は、”不知火発生装置”だったのではないでしょうか?
もしかしたら、2人が目撃したのは、小規模な不知火の予行演習だったのかもしれないと思われるのです。
前回ご紹介した新井白石の“水中にある灯口”の記述を彷彿とさせますね。( http://blogs.yahoo.co.jp/cba_int/25816513.html )
謎に包まれた不知火発生メカニズムの一端を垣間見たかのような、天宮夫妻の目撃の意味するところは極めて重要だと思います。

さて、次回はいよいよ不知火と装飾古墳の関連について考察してみたいと思います。


※UFOを目撃、撮影したら御連絡を。
※CBA(宇宙友好協会)の資料を探しています。お心当たりのある方はぜひご連絡ください。
   天空人協会 ; sky-people@jcom.home.ne.jp

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前回( http://blogs.yahoo.co.jp/cba_int/25666762.html )からの続きです。

◆調査活動の始まり
自分のUFO体験を掘り起こしながら、小学生ながらUFOに対する学習を深めていた6年生の夏頃、ソロバン型のUFOが3機縦に並んでゆっくりと、点滅するかのように金属的な光を時折反射しながら飛行するのを目撃しました。
高台から海の方角を見たその水平線上に、それらの物体は存在していました。
その時、母と姉が一緒にいたのですが、彼女達には全く興味がないらしく、私の方にばかり注意がいっているようでした。
というのも、車が頻繁に行きかう大通りの真中で私が急に物体の写真を撮り始めたからです。
何度かクラクションを鳴らされながらも、なんとか3枚の写真を撮影することができました。
私は、今回の物体は大きく見えたので、前回のカプセル型の物体とは異なり、ハーフサイズのカメラでも写っているだろうと思っていました。
家に帰ると、私は目撃の興奮からか、体中が寒く、震えていました。
父親に言わせると、顔面蒼白だったということです。
そのため、母と姉がUFOなどくだらないという雰囲気で話すのに比べ、私の様子を見て父はただ事ではないと思ったようです。
しかし、やはりカメラの性能が悪すぎました。残念ながら写真には何も写っていませんでした。
父が、知人の引伸ばし機でフィルムを拡大して調べてくれましたが、やはりそれらしい像は浮かんでこなかったとのこと。残念でした。
また、そのころだったと思いますが、非常に印象的な友人の目撃談を聞きました。
これは、真似事ながらも初めて私が(前述のO君と共に)取材らしいものを実施した話でもあります。
それは同級のM君が近隣の十文字原という高原で、彼の友人とその父親と3人でドライブしていたとき、赤い円形の小型円盤が、フラフラと草原に着陸しているかのように見える別の物体の方へ下降して行ったという目撃談でした。ただし、目撃は彼と友人の父親の2人だけです。
O君の友人は目撃できずに非常に残念そうでしたが、その父親の語る赤い円形の物体というのが、真っ赤ではなくて少しクリームがかった赤であるという発言を今でも印象深く覚えています。
そういった細部へのこだわりが、非常にリアルに感じられたのです。

そういえばM君と言えば別の話もありました。当時はUFOだけでなく、心霊写真なども大流行でしたが、彼の家に心霊写真があるというのです。
ずいぶん前に自分を撮ってもらったその背景に、人の腕が浮かんで写っているのだと言っていました。
私は専門とするのはUFOでしたが、当時の少年がみんなそうであったように心霊現象にも興味を持っていました。
そこで、彼の家に行ってその写真を見せてもらうことになったのですが、ところが、その写真の腕の部分はマジックで塗りつぶされており、よくよく聞いてみると気味が悪いからと彼の母親が塗りつぶしたとのことでした。

私の見よう見まねの取材活動は、そういったUFO以外の現象にも発揮されていって、同じ学校の男の子の母親が、入院中に茶色い幽霊が病室に入ってくるのを見たとか、その母親には超能力があって、手を触れずにテーブルの上においてある紙を動かすことができるとか、そんな話を聞きつけ、彼の家に取材に行ったこともありました。
残念ながらその時は、体調が悪いということで、紙を動かすところを見ることは出来なかったのですが、彼の母親のようにやさしそうな人のところにも、いわゆる奇現象が日常的に発生しているということに何か言い知れぬ驚きを感じたものです。
また、その頃クラスで壁新聞を作ってくるという宿題が出たのですが、このときはネッシーの話題を載せて、クラス投票で1位になったこともあります。

◆研究会の発足
中学になると、徐々に冷めていく世間のUFO熱とは反比例して私のUFO熱は、UFO以外の奇現象をも包括してさらに熱くなってしまいました。
中学1年の頃、近所のK君という同学年の友人に面白い話を聞きました。
彼の祖母の家は鹿児島にあるのですが、その家に河童の写真が飾ってあるというのです。
彼がものごころついたころからあるとのことで、いつから飾ってあるのかは分からないらしいのですが、家族の誰かが目撃して撮影したものらしいとのことです。
そこはやぶの中かなにかで、ぬめりとした後姿が写っている写真だと言っていました。
彼は、級友からも人望の厚いタイプで、後に中学の生徒会長も務めたほどですから、決して嘘は言ってはいなかったのだと思います。
伝説の中だけのものと思っていた河童の実見写真があるということに、私は非常に興味を引かれ、彼にぜひその写真を見せて欲しいと頼んだのですが、彼の祖母に鹿児島から送ってもらうわけにもいかず、結局果たせないままでした。

同じ頃、小学校の頃から取材を共にしていたO君と彼と同じクラスだったS君、私と同じクラスで霊感があると自称するOMさん、そしてもう一人同じクラスの名前は失念してしまった女の子の5人で、奇現象の研究会をつくろうということになりました。
最初は自分達のいた中学校の名前をつけて「××中学心霊&UFO研究会」という名称でしたが、後年に「九州UFO現象研究会」といった立派なる名称に変更し、メンバーの増減を繰り返しながらも、お互い別の高校へ進んでからも活動を継続していました。
今では当時のメンバーは誰一人残っていないのですが、実は、このときの活動のUFOに特化した部分が「天空人協会」1992年発足へとつながったのです。

以降、あまり身の上話を続けてUFOから脱線してもどうかとは思うのですが、またその気になったら書いてみたいと思います。


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※CBA(宇宙友好協会)の資料を探しています。お心当たりのある方はぜひご連絡ください。
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前回( http://blogs.yahoo.co.jp/cba_int/25816513.html )の続きです。

§ 永尾神社の縁起とSky People

不知火観測名所ともなっている永尾(えいのお)神社には興味深い縁起が伝わっています。
永尾神社では毎年八朔を、八朔祭としていますが、これは海上に竜灯を灯す竜神に対する感謝の祭りだということです。
海上の竜灯とは、不知火のことで、永尾神社の祭神というのは、海の彼方からエイに乗ってやって来た「玉依姫」だといいます。
そして、神社の裏手には小高い山があって、その地形が空から見るとエイの形に見え、神社はちょうどエイの尾の部分に位置するために、“エイの尾神社”と呼ばれるようになったのだということです。
・・・この話はどこか不自然ですよね?
つまり、縁起の由来が空中から見て初めてわかるその形状を意識しているということそれ自体がおかしいのです。
永尾神社周辺を空中から見下ろした存在は何者だったのでしょうか?
また、エイのシルエットは、見ようによっては、古代オリエントの有翼太陽円盤の形にも見えます。
この縁起の由来をみるにつけ、ここ不知火海周辺に、天空人が飛来した事実を連想させずにはおかないのです。

ところで、“シラヌイ”というその言葉の語源も、さぐっていくと天空人との関わりが見えてきます。
実は、今日普通に使っている“不知火”は江戸時代の当て字なのです。
たとえば、万葉集では、筑紫の枕詞として“シラヌイ”が登場しますがが、それぞれ“斯良農比”、“之良奴日”、“白縫”などの字が当てられています。
意外なのですが、“シラヌイ”という言葉の由来も、そして驚くべきことに、その言葉の意味すらも、まったく不明なのです。
その1( http://blogs.yahoo.co.jp/cba_int/23500093.html )で、チブサンという装飾古墳名についてアイヌ語解釈を試みましたが、同様の手法を“シラヌイ”についても試みてみましょう。
日本語で不明ならば、当地の先住民族でアイヌ民族のルーツと思われる古代縄文人の言葉で解釈してみようということです。

“Sir=なぎ、大地”、“Ran=(上から下へ)降りる”、“Nuy=焔”といった、各部分の音に相当する言葉を、アイヌ語辞典を開けばすぐに見つけることができます。
それぞれ、つなげると“Sir−Ran−nuy”、“シラヌイ”の発声に非常に近くなります。
しかも、その意味たるや、なんと“天より凪いだ海に降りる焔”なのです!
“シラヌイ”の本質を見事に言い当てているように思えますが、いかがでしょう?

§ 不知火とUFOsとの関連

じょじょに不知火が単なる自然現象ではなさそうな気配を感じ取っていただけているとは思いますが、ここで現代の不知火観測記録をいくつか紹介しましょう。
もちろん、主に取り上げるのはUFO現象との関連を示唆する記録です。
まぁ、そうでなければ面白くもなんともないわけですが、現代の観測報告にも蜃気楼説を否定して、不知火に人為的要素を求める十分過ぎるほどの事例があります。

1.CBA不知火観測
1960年代、全国的に猛烈な活動を繰り広げたUFO研究団体「CBA(宇宙友好協会)」は、1962年と翌1963年の八朔に大規模な不知火観測を実施しています。
彼らの卓越した着眼点により、不知火とUFO現象の関連が指摘されたことは、非常に意義深いものがあります。
さて、CBAは、観測により得られた極めて有益なデータを、その機関誌『空飛ぶ円盤ニュース』誌上に発表しています。
ここでは、その観測記録が掲載された同誌(1962年10月号及び1963年10ー11月合併号)から再構成し、驚くべき不知火現象の実体を明らかにしていこうと思います。
まず、1962年の観測では、不知火上空に多くのUFOを目撃し、その出現と不知火の間には密接な関係のあることが以下のように報告されています。 

。妝藤呂不知火海を右より左に飛行すると不知火は右手より左へと発現しはじめる。また、その逆に左より右へUFOが飛ぶと、不知火の出現もこれに準ずる。
⇔γ呂ら見ると、1列に並んだ不知火の上をUFOが縦に横切ると、不知火は2つに分かれ、そのまた1つの線状上空をUFOが横切ると、不知火は3つのグループに分裂する。
UFOが上空よりゆらぐように不知火の上空辺りに降下すると、その部分の不知火の炎は高くなり、光度が強まる。
い修裡妝藤呂凌Ш未砲茲辰討蓮▲轡哀淵襪里茲Δ防埣硫个亙儔修鬚たす。
a 緑色のUFOが出現するとその方向へと不知火は出現する。
b 螢光色のUFOが飛翔すると、その部分の不知火は活動を止め、約5〜8秒間内に消滅する。
c オレンジ系色のUFOが飛ぶとその部分の不知火は直ちに消え去る。
d 緑色のUFOが断続的に尾を引いて飛ぶと、不知火は明らかに明滅を繰り返す。

更に、1963年の観測ではCBAチームは10班に分れ、永尾、御船、日奈久、天草蔵々島、大島、戸馳島などといった各ポイントからそれぞれ観測を行っています。
その際、不知火上空に出現したUFOの写真も多数撮影されており、また同時に、特殊な動きを示す不知火もいくつか報告されているのです。
たとえば、海上の火が上空に飛び上がり、再び降下しているところがカメラにキャッチされていて、これなどは、前回見た『不知火考』での記録を彷彿とさせるものです。       

これ以外にも極めて興味深い目撃が報告されていますので、ここに列挙してみましょう。

‖臈腓らの観測班は、列を離れて静かに近づいて来る1個の不知火の観測に成功している。これは、眼視、双眼鏡での観察により、等身大の“炎”で、中央にあたかも薄黒い炭素棒のような線が垂直に立っているものであることが確認された。その不知火は接近しつつ2、3分後に消失した。さらに彼らは、1直線の不知火が両端を湾曲させ、またたく間に円陣を組んだシーンも目撃した。
戸馳島から観測していたグループは、不知火から上方に向けてサーチライトのような白色の輝きが発せられたのを目撃した。
B◆硬腓離哀襦璽廚蓮観測ポイントから東に延びた光を30分間目撃した。   

ここに挙げた報告だけとっても、不知火が単なる自然現象ではないことを示すには十分ではないでしょうか?
不知火現象の人為性と、上空を飛ぶUFOS。
その関連を考えれば、不知火は、「何らかの目的を持って、天空人側が執り行う定期的な儀式」であるように思えます。

なんだか装飾古墳からかけ離れて行っているような気もしますが、次回は日本テレビ取材版が観測した不知火現象を紹介します。


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UFOと全く関係のない話題だとは思いますが、豊中市で熱い金属片が工場の屋根を突き破って落下してきたとのこと。
過去こういった事例は比較的UFOと関連付けて紹介されてきたりもしましたので、一応ご紹介だけしておきます。
熱かったというのが、大気との摩擦熱によるものだとすれば、大気圏外から落下してきた可能性も無いわけではないのですが、どうでしょうか?
大気圏外から落下した割には落下物の表面がきれいですし、衝突時の衝撃はこんなものではなく大きいような気もします。
いずれにせよ、UFOとは全く関係のない話だと思われますが・・・。

しかしながら、ちょくちょく上空から氷や金属片などが落下してきて、屋根を突き破ったなんて話がありますが、たいていは原因不明でうやむやになっているようです。
これは、すこし無責任すぎるのではないでしょうか?
もう少し、本腰を入れて、なぜ調査しないのかが不思議でなりません。命に関わる話ですし・・・。
今回は、きっちりと調査されることを願います。

<写真説明>
●落下してきた金属。重さは約330グラム
●飛び込んできた金属片で開いた穴


【空から?熱い金属片、工場屋根突き破る…大阪・豊中】
 13日午後2時15分ごろ、大阪府豊中市原田南2、金属加工会社「エフエフ」の工場屋根(高さ6・3メートル、スレートぶき)を金属片が突き破り、床に落下した。
 従業員ら4人がいたが、けが人はなかった。
 北西約400メートルに大阪(伊丹)空港の滑走路があることから、豊中南署は「航空機の部品が落ちた可能性もある」として器物損壊容疑で捜査しているが、国土交通省や航空会社は「形状からみて部品ではあり得ない」と全面否定している。
 金属片は縦8センチ、横6センチ、厚さ2センチ、重さ約330グラム。所々にくぼみがあり、白い塗料が付着していた。屋根には縦20センチ、横30センチの穴が開き、コンクリートの床には落下の衝撃で傷ついた跡があった。落下直後、金属片は、手に持てないほど熱を帯びていたという。
 同署は、国土交通省大阪空港事務所に金属片の鑑定を依頼。同空港に就航している日本航空、全日空の整備士が調べたが、いずれも「粗雑な造りで航空機の部品ではない」と否定した。
 落下したとみられる午後2時〜2時15分の時間帯には、両社の各2機が着陸していたが、いずれも、落下場所から約150メートル東のルートを取っていた。周辺を飛行したヘリコプターや小型機もなかった。
 「エフエフ」の吉井映雄社長(53)は「従業員は、落下場所からわずか1メートルの所で作業していた。空から落ちてきたとしか思えない」と声を震わせた。
(2007年11月14日9時15分 読売新聞)

【金属片が工場に落下、大阪・豊中 航空事務所出動も原因不明】
鉄工所の屋根を直撃した金属片 13日午後2時15分ごろ、大阪府豊中市原田南の金属加工会社「エフエフ」で、スレート葺(ぶ)きの工場の屋根を突き破って金属片が落下した。工場では4人が作業していたが、けが人はなかった。大阪空港に着陸する航空機のコース近くだったことから豊中南署は、航空機の部品が落下した可能性もあるとみて大阪空港事務所に連絡、担当職員も駆け付ける騒ぎになったが航空機の部品ではないことが判明。同署でさらに調べている。
 調べでは、金属片は片方の端がドーナツ状で縦8センチ、横6センチで重さ約330グラム。工場の屋根には大音響とともに縦20センチ、横30センチの穴があいた。金属片は手で触れないほど熱かったという。
 同署によると、近くの市道を通るトラックなどが路上に落ちていた金属片をはね、工場まで飛んできた可能性もあるという。しかし屋根を突き破るほどの勢いがあったことや熱かったことなど、不明な点も多い。現場付近は鉄工所の密集地で、近くの工場から加工品などが飛んできた可能性もあり、同署は金属片を鑑定して特定を急ぐ。
 工場では従業員の川口修さん(37)が落下地点から約50センチの場所で作業をしていたといい、川口さんは「少しずれていたら頭を直撃していたと思うと、ぞっとして体が震えた」と話していた。吉井映雄社長は「飛行機の部品でないとしたら、いったい何が落ちてきたのか」と不気味がっていた。
(2007.11.14 00:02 産経ニュース)


【鉄工所に金属が落下 道路から?飛行機から? 豊中】
 13日午後2時10分ごろ、大阪府豊中市原田南2丁目の鉄工所「エフエフ」の工場に、何かの部品とみられる金属(重さ約330グラム)が、スレートぶきの天井を突き破って落下した。当時、工場では3人が働いており、うち1人の約50センチ後ろに落ちたが、みな無事だった。 
 調べでは、金属はドーナツ状の形をしており幅6センチ、厚さ2センチ。コンクリート床に落下した後、はずんで4メートルほど離れた所に落ちたという。高さ約6メートルの工場の天井には約20センチの穴が開き、落下地点の床には削ったような傷ができた。
 豊中南署は、飛行機から落ちたか、近くの道路に落ちていたものが車にはじき飛ばされた可能性があるとみて、金属を鑑定して調べている。
 当時、鉄を砥石(といし)で削る作業をしていた従業員の川口修さん(37)は「しゃがんでいた場所から50センチほど後ろに落ちた。頭に当たっていたら死んでいたと思うと、怖い」。2階の事務所にいた吉井映雄(てるお)社長(53)は「パーンという大きな音が聞こえた。金属に触ると熱かった。どこから飛んできたのか、はっきりさせてほしい」と話した。
 工場は大阪(伊丹)空港の滑走路の端から南へ約300メートルで、飛行コースに近接している。しかし、豊中南署が大阪空港の全日空と日本航空の整備担当者に実物を見せたところ、「航空機の部品とは考えられない」と答えたという。
(2007年11月13日 朝日新聞)

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§ 宇宙の焔・不知火 − 現代に続く光のセレモニー

月のない漆黒の海上に、無数の火が浮かぶ。それは、ゆらぎ、明滅しながら神秘的な光景を現出する。これが旧暦の8月1日(八朔)のみに現れるという不知火です。
なんで、「装飾古墳のUFOLOGYで不知火が?」と不思議に思う方もいるかもしれませんが、それはおいおい理解いただけると思います。
また、不知火は自然現象であってUFOと関連付けて考えるなど、コジツケもはなはだしいと憤慨する方もいるかもしれません。
これも、もっともな感想なのですが、私は「そうは言っても謎は残っている」という立場で論を進めたいと思います。
謎をふやすことが目的ではないのですが、様々な周辺状況が妙に古代のSky-Peopleの存在を指し示しているように見えるからです。

さて、不知火は、熊本県の八代海や有明海に古代より現れる怪火です。特に八代海は、この神秘の火にちなんで「不知火海」とも呼ばれています。
そして忘れてはならないのが、不知火は装飾古墳の密集地から見下ろせる海に現れるということです。
文献からみる不知火の歴史は、西暦100年頃、九州を一周し、諸地域の賊を平定した景行天皇が、八代海で怪火に出会ったという『日本書紀』の記述にはじまると言われています。
「五月壬辰の朔、葦北より船を発して火の国に至る。ここにおいて日没す。夜くらくして著岸するを知らず。はるかに火光を観る。天皇挾抄者に曰うに、ただちに火のところを目ざせと。よりて火をさしてこれをゆく。すなわち岸に著くを得たり。天皇その火の処を問うて曰く、「何という邑か」と。国人こたえて曰く、「これ八代県の豊村なり」と。またその火を尋ぬ。「これ誰人の火ぞ」と。然るに主を得ず。ここに人火にあらざるを知り、ゆえにその国を名付けて火の国という」
この記述が、現在の不知火であるかどうか異論を唱える研究者もいます。
なぜなら、景行天皇の出会った怪火は海から陸地に向かって見られたものであり、陸地から海に向かって見ることのできる本来の不知火とは異なるからです。
この指摘はもっともです。
そのため、景行天皇の目撃物は不知火ではなく、後に装飾古墳の本場となる契約の国=火の国にコンタクトに訪れたUFOを目撃したものと考えた方が良さそうです。
その証拠に、“火の国”という国名は、後で見るように2代前の崇神天皇から名づけられたものなのです。
つまり、ここで、景行天皇が“火の国”と名づけているようにも見えるのですが、実際にはそうではなく、“火の国”と呼ぶ理由(つまりUFOsが飛来する国)を再認識したというのが真相だと思われるのです。

さて、不知火の発生原因については、干潮で出現した夏の干潟部分の暖気と、干潟に流れ込む河の水で冷やされた冷気とが生む空気の層によって起こされる漁火の蜃気楼現象だ、というのが最も広く知られた説です。
そして、この漁火蜃気楼説は、『不知火の研究』を著した宮西通可博士により昭和11年の観測調査から結論された後、少しずつ修正されながら、現在では定説となっているようです。
これによると、不知火は八朔でなくても条件が整えば出現することになり、事実、八朔以外でも見えることがあるとする地元の目撃証言や観測証言などはこれを裏づけています。こうした空気の層を形成するには、昼夜の温度差が大きいことが条件で、6度ないし7度位の温度差が最適とされています。
しかし、はたして漁火蜃気楼が本当に不知火の正体なのでしょうか?

§ 不知火は海中から発する?

記録をひもとくと、実際の不知火は必ずしも、温度差という気象条件下でのみ出現するとは限らないことがわかります。
実際、温度差も関係なしに、さらには漁火といった直接の光源すらない場合にも、不知火が現れたらことが、江戸時代の文献に記されています。
「此夜は此あたりの者、海中に竜神の灯明を出し給うなりとて、おそれみて渡海の船を禁んず。猟船といえども此一夜は乗る事なし」
これは、橘南谿によって著された『西遊記』での、克明な不知火観測記述内の一節です。漁船が禁止されていることが、ここにはっきりと記されています。
しかも、蜃気楼の原因となるべき漁火が存在しないのに、「海上わたり四五里ばかりの間に百千の数をしらず。明らかなるあり、幽かなるあり、滅るあり、燃るあり、高きあり、低きあり、誠に甚見事にして目を驚かせたり」と表現されるくらい、盛大な不知火が見られたのです。
これなども、漁火蜃気楼説を根底から覆す証拠だと思うのですが・・・。               

また、漁火蜃気楼説以前には、海中にその原因が求められた場合もありました。
高名な新井白石の『高子観遊記』は、現地の『土人あい言いて曰く、毎歳この夕、特にこの事有り。岸を去ること一里半、大石有り。水中にありて潮涸れれば則ち露る。その頂これを灯口という。火光これより起こる」との証言を拾い、海中の石にその原因を求めています。
同様に、神澤貞幹の『夢之代』では、「肥後の不知火は海中へ沈みたる山の火気の海面へあらわるならん」と記されており、やはり海中にその原因を求めていたことがわかります。 
現在では、いずれの記述も、当時の著者が不知火を直接観測していなかったために生じた誤解であると説明されています。
しかし白石は、現地における証言を取り入れているのですから、誤解だとする解釈こそ誤解だと言えそうですが、いかがでしょう?
まぁ、少なくとも、地元住民の中には、海中の不知火発生源を目撃した者がいたと考えるべきだと思います。

§ 古記録に見る不知火の人為性とUFOsとの関連

ではここで、不知火の出現時期を調べてみましょう。確かに、その伝承に反して、不知火は八朔でなくても出現していたことが過去の記録からもわかります。
先に不知火ではないとした、景行天皇の遭遇した怪火も5月朔日でした。
しかし、本居宣長が、その著作『古事記伝』で、「毎年七月の末より、八月ごろまで見ゆるうちに八月朔日の夜は殊に多し』と地元民の証言を記述しているように、やはり八朔を中心としたごく”限られた期間”にのみ発生するという事実もまた否定できないようです。
それは、まるでわれわれが年に1度の正月を祝うような、あるいはまた盆の季節には先祖を弔うような、そういった時節の催しを思わせる現象です。
まさしく、古来より定期的に繰り返し行われてきた”光のセレモニー”という表現がふさわしいのではないでしょうか?
そして不知火の正体が、漁り火でも気象現象でもなく、かつ現象そのものに人為性があるとしたら、当然、そこには高度な知性の関与を考えざるを得なくなります。
神秘的な不知火現象の背後に、知性が関わっているとしたら、その正体こそ、ここまで追及してきた“天空人”としか考えられないではないですか!
そして、それを裏づけるかのように、不知火とUFOとの関連を示す古記録が多数存在するのです。

古くは『肥後風土記』に、白髪山に現れた“天より下る火”の記述があります。
「肥後の国はもと肥前の国と合わせて一国たり。昔、崇神天皇の世、益城郡朝来名(ましきぐんあさくな)の峯に土蜘蛛あり。名付けて打猿(うちざる)、頸猿(うなざる)という。二人、徒衆百八十を率いて峯頂に蔭す。常に皇帝を迷わし、降伏を肯ぜず。天皇、肥君らの祖、健緒組に勅し、彼の賊衆を誅すべく遣わす。健緒組、勅を奉じ来り、皆ことごとく夷を誅す。すなわち国の裏を巡り、兼ねて消息を察す。すなわち八代郡白髪山に至る。日くれ、宿に止まる。その夜虚空に火有り。自然にして燎(も)ゆ。やや降下して著きてこの山を焼く。健緒組これを見て大いに驚き怪しむ。行事すでにおわり、朝廷に上り、行状を陳べ、奏して云々と言う。天皇みことのりを下していう。賊徒を剪り払いて頗る西眷をなからしむ。海上の勲、誰かこれに比せん。また、空より下りて山を焼く。またかしこし。火の下る国なれば、名づけて火の国というべしと」
ちなみに、白髪山とは不知火海の東岸から見えた山ということですが、現在ではどの山をさしていたのか不明です。
しかし、天から降りて山を焼く“火”の臨場感溢れる描写は素晴らしいものです。
当然のことですが、蜃気楼に山火事を発生させる熱源などはないのですから、この”天から降りる火”の正体とは、隕石か、UFO以外には考えられないわけです。 
とは言え、国名となったほどの現象です。実は、この1回だけの発生ではなかった可能性は高いと思われます。
それは、他の古記録からも裏づけられます。
隕石には頻発性はないので、白髪山の怪火は、やはりUFOの出現に不随した怪火現象の描写だったとしか考えられないと思うのです。
ちなみに火の国の“火”は天明天皇の和胴年間に“肥”の字に改められました。これは、また後に触れますが、非常に重要な事実なのです。

更に、中島廣足による『不知火考』(天保6年<1835年>)には、飛び上がる不知火の記述もあります。
「また、天草の綱村より見たる人の物語りを聞くに、火三十許り出てて、その中より二つ三つは、山に飛び上がると言えり……」
山に飛び上がる火とは、どんなメカニズムで発生するのでしょう?
追い討ちをかけるように同書には、飛行する“火”の記述まであります。
「この郡のうちをたずぬるに、八代郡に氷川といえる川あり。これ火川にて火邑もその川のあたりにありやしらむ。……又里人の伝えにかの七月晦の夜、海上より、火一つとび来りて、八代郡宮地の里のあたりなる山の、松枝にかかるといえり。かの風土記なる空より下りけむ火の事をおもいあわすべし……」
八朔の夜に海上から飛びたった“光り物”が、多分現在の氷川周辺にあったらしい火邑という村に飛来したことが述べられています。
氷川は不知火海につながる川で、海上というのは当然、不知火海のことです。
しかもこの目撃談では、不知火の一部が、なんと飛翔能力を備えていたことが記述されています。これが蜃気楼であろうはずがありません。まさしくUFOに他ならないではないですか。
ちなみに、氷川とは、『不知火考』の記述からもわかるように、そもそもは火川と呼ばれ、『肥後国史』によるとその後、肥伊川となり、肥川と記されるようになったということです。結果的に、現在では“火”とはまったく反対の意味を持つ“氷”の字が当てられているのです。
また、火邑の“火”の字も同様に“肥”に改められた後、火邑という村名自体が消滅してしまったことが、前記『肥後国史』には述べられています。
“火の国”が“肥の国”とされたことはすでに述べましたが、こうした徹底的とも思える地名変更や抹消に、何か、意図的な隠蔽工作の匂いを感じるのは勘繰りすぎでしょうか?

かなり、長くなりそうなので次回に続きます。


※UFOを目撃、撮影したら御連絡を。
※CBA(宇宙友好協会)の資料を探しています。お心当たりのある方はぜひご連絡ください。
   天空人協会 ; sky-people@jcom.home.ne.jp


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