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今から72年前、1945年の記憶を留める、三度に渡り米軍機の攻撃を受けた東大和市の旧;日立航空機立川工場変電所や、
米軍戦闘機P-51の12.7mm重機関銃による弾痕が残る、高尾駅(旧;浅川駅)のホーム屋根支柱を見て来ました。
1945年当時、軍関連の施設や工場が集結していた立川を中心とするエリアが10数回に渡る組織的な攻撃(空襲)を受けたのに対し、南西に10kmほど離れた八王子市街は組織的な攻撃(空襲)を免れていました。
古くからの八王子市街の中心、甲州街道(R20)。
しかし、1945年8月2日に日付が変わったばかりの 00:45、
169機(180機とも)のB-29が突如八王子市街を襲い、2時間に渡り計1,600トンもの爆弾を投下。犠牲者は400名以上、市街の8割が焼失という甚大な被害を被ります。
八王子市街の東側、浅川を渡る甲州街道の「大和田橋」。
1927(昭和2)年に架けられた鉄筋コンクリート橋です。
1941(昭和16)年、1960(昭和35)年と二度の改修を受け、現在の姿になりました。
1927年架橋なので、この橋は1945年8月2日の八王子空襲を経験しています。
橋の歩道には17か所、その時の着弾痕が残ります。
15か所は色タイルで位置を示すだけですが、2か所は着弾痕を見る事が出来ます。
補修により着弾痕の消えた車道部分を含めると、橋全体では50発以上の爆弾が投下されたと推測されています。
え、50発も落とされたのに橋は落ちなかったの?
その理由は…
米軍による本土空襲では、建造物などの破壊を目的とする通常爆弾(炸薬が爆発する)の使用は少なく、火災を誘発させる焼夷弾の投下が殆どだったから。
当時の代表的な焼夷弾は、可燃剤(焼夷剤)を詰めた直径80mm、長さ500mmの筒に発火装置を取り付けたもので、1発あたりの重量は2〜3kgでした。
大体、ヨッ○モッ○のクッキー缶を縦にふたつ並べた位の大きさです。
この物騒なクッキー缶を20〜50本束ねたものを上空から投下すると、空中で分解して広範囲に落下。着地の衝撃で発火し、火災を誘発する仕掛けでした。
1945年8月2日未明、物騒なクッキー缶を50発も落とされた大和田橋ですが、耐火性のある鉄筋コンクリート造の橋は炎上せずに持ちこたえたのでした。
大和田橋の下に避難し、市街の火災を逃れた方々の証言も多く残されています。
大和田橋を眺め、うーんと唸ってしまいます。
1945年8月1日の深夜から2日未明にかけ空襲を受けたのは、富山、長岡、水戸、そして八王子の4か所でした。
何とも整った四角形…
軍事上の必要性より、図解した時の格好良さを狙ったと疑いたくなる程です。
しかもこの4か所で使われたのは焼夷弾。被害は火災によるものが殆どです。
重要な施設やインフラは、上記の大和田橋のように耐火性の高い鉄筋コンクリートなどで堅固に造られ、火災の誘発だけでは容易に破壊出来ません。
これは本気の都市破壊ではなく、何時でも何処でも攻撃が可能という恐怖を一般市民に与えるデモンストレーション、要は嫌がらせではないかと思ってしまったのです。
しかもこの後、ある理由によりB-29の空襲が4日間お休みに入ります。
その訳については後述したいと思います。
実際、この空襲により八王子駅が焼失。中央本線は運休を余儀無くされます。
しかし、火災による被害が殆どだったため、レールや橋など主要部分への影響は少なく、3日後の8月5日には運行が再開されます。
出発を待つ211系… ではなく、当時は電気機関車で客車を牽引しました。
中央本線は、1931(昭和6)年に甲府までの電化が完了していました。
1945年8月5日 10:10
新宿駅を、8両編成の長野行き列車が出発。(この日の2本目だったようです)
3日間の運休後の運転再開とあり、車内はとても混雑していました。
列車は立川、八王子と停車。乗客が乗り込み、車内は更に混雑してきます。
1945年8月5日 11:30
遅れを出しながらも、列車は浅川駅(現;高尾駅)に到着。その時、空襲警報が発令。
列車は運行を一旦停止し、乗客に退避が呼びかけられます。
硫黄島(いおうとう)を出撃した米軍戦闘機P-51の大編隊が、相模湾西部から神奈川県上空に侵入しようとしていました。
真鶴上空から酒匂川河口の小田原市。右端に二宮周辺を見ています。
1945年8月5日 12:00
散開したP-51が、東海道本線の二宮駅から小田原駅にかけ機銃掃射を行います。 この攻撃により、戦時下を綴った「ガラスのうさぎ(1977年)」の作者の父が、二宮駅で亡くなっています。(この時の映像が、ガンカメラ記録として残されているようです)
同時刻、神奈川県上空を通過したP-51が、空襲を受けたばかりの八王子駅を機銃掃射。ひとりが亡くなっています。
二宮−八王子間は40km。P-51の巡航速度、400km/hなら5〜6分の距離です。
その頃浅川駅では、長野行列車の運行について検討をしていたようです。
浅川駅は5月25日、7月8日と二度の機銃掃射攻撃を受けていて、駅構内に列車を留め置く事が必ずしも安全とは言えなかったのです。
浅川駅(現;高尾駅)構内に今も残る、1945年7月8日の弾痕。冒頭画像も同じ。
1945年8月5日 12:15
空襲警報継続中でしたが、長野行列車は満員の乗客を乗せ、浅川駅を出発します。
次の与瀬駅(現;相模湖駅)までの9.5kmは、大小6本のトンネルを通過して小仏峠を越える山岳区間。浅川駅から最長の小仏トンネル(2,574m)の入口まで僅か4km。
もし攻撃を受けた場合、駅構内よりも山間、トンネル内の方が安全という判断があったものと思われます。
1945年8月5日 12:20
列車は浅川駅から2kmほど進み、山岳区間に差し掛かります。
ところがその時、2機(または3機)の米軍戦闘機P-51に発見されてしまい、いきなり機銃掃射が始まります。
(同型機 R.O.K.AFのF-51D ソウル 戦争記念館所蔵)
山岳区間の1本目、「湯の花(いのはな 猪の鼻)トンネル」が目の前です。
湯の花トンネルの全長は162m。
電気機関車+8両編成の列車(175m位?)にはやや短くとも、シェルターには充分なってくれる筈です。
ところが、先頭の電気機関車と1両目がトンネル内に、2両目の客車の前半部がトンネル内に入ったところで、列車が停止してしまいます。
2両目の後ろ半分から8両目の客車はトンネル前に取り残された形となり、恰好の標的となってしまいました…
(停止理由には諸説ありますが、個人的には架線切れか、被弾による機関車の故障だと思います)
繰り返される機銃掃射…
攻撃は5分位の出来事だったようですが、列車の乗客にとり、とてつもなく長い5分間だったに違いありません…
米軍戦闘機P-51は、1秒間に60発の弾丸を発射する能力を持っています。
列車に向け、おそらく1,000発以上の弾丸を撃ち込んだものと思われます。
P-51の放つ弾丸の大きさは12.7×40mm、単三乾電池(14×50mm)と大体同じ。
その速度は887m/s(初速)。時速換算すると3,200km/h(何とマッハ2.6!)
1秒間にマッハ2.6で60個飛んでくる単三乾電池、または800m向こうから1秒で飛んでくる単三乾電池を想像した時、改めてそのとんでもなさに気付かされます。
P-51が主翼内に装備する三連装12.7mm重機関銃の銃口(参考)。
(同型機 R.O.K.AFのF-51D ソウル 戦争記念館所蔵)
この銃撃により130名以上が負傷し、60名以上が命を落としました。
戦時中の列車に対する攻撃の中で最大、最悪の被害となってしまいました。
P-51が去り、地元の人たちが総出で乗客の救助に向かいます。
負傷者の担送に使った各家の雨戸は、後々まで血染みが落ちなかったとか… 現場からすぐ下の小仏峠に向かう旧甲州街道には、救護所となった蛇滝茶屋が今も建っています。
蛇滝茶屋は1903(明治36)年建築と云われ、近くにある蛇滝での滝行修行者や高尾山参詣者、小仏峠越えの旅人の休憩所でした。
軒下に掛けられた数多くの講中札(招き札)が、往時の賑わいを物語ります。
茶屋の隣には古くからの湧き水があり、負傷者の助けになったに違いありません。
1945年8月5日にも、今と同じように水を湛えていたのかもしれません。
現場近くの線路脇には、地元の方々の尽力による慰霊碑が建てられています。
終戦のわずか10日前に起きた出来事を今に伝えます。
72年前の悲しい出来事の真上を、今では中央高速と圏央道が交差します。
現場は八王子ジャンクション真下の南東側です。
奥に見えるのは1962年開通の新湯の花トンネル。複線化による下り線です。
現場となった湯の花トンネルは右側、高速道路の橋脚の真下にあり、現在では上り線が通ります。
このあたりから何となく見えてくる事、何となく感じた事があります。
あくまでも個人的な雑感であり、何らの論証を試みるものではありません。その点をお汲み置き予めご容赦下さい。
米軍のP-51編隊は、東京の南1,200kmの硫黄島(いおうとう)から出撃します。
P-51の航続距離は概ね3,000km。
往復の2,400kmを差し引くと、日本上空での行動可能時間はそれ程多くありません。
(地図中央右の赤丸が硫黄島。赤丸は当時の米軍拠点)
更に、P-51の搭載兵器はロケット弾数発と、12.7mm重機関銃6門に銃弾2,400発。
6門の重機関銃は秒当たり60発を消費するので、射撃可能時間はわずか40秒。
(実際には5秒斉射後離脱を繰り返し、8回程度の攻撃が可能)
遠路出かけて地上攻撃を行うには、これでは効率があまりにも悪過ぎます。
地上攻撃は大量の爆弾を搭載し、航続距離の長いB-29爆撃機の専門分野です。
戦闘機のP-51が本来得意とするのは空対空、航空機同士の空中戦なのです。
日本上空に飛来するP-51は、サイパン(上図右下)を出撃したB-29に硫黄島で合流、日本上空まで護衛し、(ついでに弾捨て!)地上攻撃をして帰投するパターンが多かったようです。
ところが上述の1945年8月5日、相模湾から神奈川県上空に侵入したP-51は戦闘機のみ80機以上の大編隊で、B-29とセットではなかったようです。
赤丸が攻撃を受けた地点。二宮駅から小田原、浅川=湯の花トンネルと八王子。
更には埼玉県上空まで侵入していたようです。
青丸は主な飛行場。厚木、調布、立川、横田。
埼玉県にも豊岡(現;入間基地)、所沢(現;所沢航空記念公園)ほか多くの飛行場がありました。しかしこれらの飛行場はこの日、殆ど攻撃を受けていません。
どうやらこの日の目的は、防衛ラインのすぐ傍で派手に行動して迎撃機を釣り出す、或いは、最早日本側に制空権が無い事を再確認するといった示威行動。
はっきり言ってピンポンダッシュのような嫌がらせと思えます。
この時地上攻撃の主力、B-29爆撃機が何をしていたのかというと、重大作戦の準備中。そのため8月2日未明の富山、長岡、水戸、八王子以降空襲が4日間お休みだったのです。
重大作戦とは、1945年8月6日「ヒロシマ」。赤丸数字は投下目標の優先順位。 こうして改めて図にすると、本当に嫌になってきます。
青丸の佐賀、今治、前橋に5日深夜から6日未明にかけ空襲を行い、その対応に追われている隙を狙い、約7時間後に本隊が目標に到達するという作戦。
本当の狙いに近い今治、佐賀に陽動をかけ、狙いを逸らす当て馬の前橋。
更に3日後には…
当て馬の豊川は7日10:00、陽動の八幡は8日10:00。
中間の福山には8日23:00(計画上は八幡と同じ8日の10:00だったとも)。
「ヒロシマ」後であり、日本側に制空権が無い事を見越した時間差とも見えます。
24時間前の八幡空襲の影響で本隊が小倉を捕捉出来ず、目標を長崎に変更したため、投下時刻が1時間遅れの11:00となりました。
目標上空で時間を費やした事により、本隊は出撃地の北マリアナ諸島テニアン島まで帰投出来ず、沖縄の読谷飛行場に着陸します。
長々と書き連ねてきましたが、72年前の8月に入ってからの地上攻撃が、6日・9日の「ヒロシマ・ナガサキ」への序章(或いは陽動、または当て馬)であり、そこでも多くのひとたちが犠牲になったのか思うと、余計にやりきれない気持ちになるのでした。
制空権を喪失しても戦争を継続した以上仕方が無い事とも言えますが、そこまで冷徹に割り切れるものでもありません…
本当は6月23日の慰霊の日に向け、沖縄まで話を繋げようと思ったのですが、その前に力尽きてしまいました。
こんな画像や、
沖縄戦に備え、1944年に首里城地下に構築された、
「旧日本陸軍第32軍司令部壕(陸軍司令部壕)」に付帯するトーチカ(掩体壕)。
こんな画像を用意していたのですが…
硫黄島や沖縄での米軍の主要兵器、M4シャーマン中戦車。
(画像は最終型M4A3E8 ソウル 戦争記念館所蔵)
どうやら、言いたいことが沢山あるのかもしれません。でもまあ… いずれ?
とりあえず、この項はここまでです。
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1944年は制空権どころか戦闘機や燃料の乏しいのにこの空襲ですか!
戦争は悲惨な物、その戦争を終わらせる事なく戦端を拡大していった日本指導者の責任も大きかったと思います。
2017/6/23(金) 午前 6:50
こんにちは
非戦闘員への攻撃はどんな理由があろうとも
許されるものではありませんね。
2017/6/23(金) 午前 6:59
戦争は本当に悲惨なものだと改めて思いますね。
恥ずかしながら湯の花トンネルの件初めて知りました。
一般人へのここまでの非人道的な攻撃を行なっていた 連中が戦後東京裁判などやっていた事に憤りを覚えます。
目くそ鼻くそでは無いですが 、戦争に人道も非人道も無いとは思っていますが、どのツラ下げて戦争犯罪なんて言っていたのかと。
負けた以上何も言えないのかとは思えど、割り切れることでは有りませんよね。
2017/6/23(金) 午前 7:11 [ kazukun ]
JGC修行僧さん、こんばんは
今見直すと日米双方が何とも嫌な勢いに侵されていて、あたり前の判断が出来なくなっていたように思えます。
もう、行く所迄行くしかないという思い込みが支配してしまう事の恐さを、
改めて感じます。
2017/6/24(土) 午後 11:04
NKM758さん、こんばんは
米軍の列車銃撃は湯の花の他にも多数起きていて、どれもが多くの犠牲者を出しています。
明らかに民間人への無差別攻撃を非難する声も上がったようですが、
戦後復興を最優先する方針の中に埋もれてしまったみたいです…
2017/6/24(土) 午後 11:13
kazukunさん、
湯の花の事件については、自分も今の住居に引っ越す迄知りませんでした。
戦争の狂気のなせる技なんてとても言えませんが、ここまで泥沼化してしまうと、もうどうにもならないのかもしれませんね…
2017/6/24(土) 午後 11:25