前回から、 この部分に関し、ぐだぐだと書き連ねています。
ヒットメーカー、ホン・ジョンウン、ホン・ミラン姉妹(以下 ホン姉妹)が脚本を担当したホラーコメディ、「主君の太陽 주군의 태양 [ちゅぐね てやん] 2013 SBS」では、「キャンディ・キャンディ」 *1 に頻繁に言及すると書きましたが、文章にまとめるのが難しく、以下のような短い脚注でお茶を濁しました。
*1 「キャンディ・キャンディ」
水木杏子原作、いがらしゆみこ作画の1975〜79年のコミック、並びに1976〜79年の TV アニメ。
韓国ドラマのストーリー構造に大きな影響を与えた。
「主君の太陽」ではその構造について、「キャンディは… 」等のセリフを通じ頻繁に言及する。
とりわけ16話では、「キャンディ構造」の可能性と限界について詳細に論じている。
また、正式な題名は「キャンディ♥キャンディ」だが、ここでは便宜上「キャンディ・キャンディ」と表記する。
今回も、何処まで具体化出来るか分かりませんが、取りあえず始めてみます。
尚、説明の性質上、ネタバレでの進行となる事を、予めご了承ください。
それでは、「主君の太陽」の前提をなるべく短く。
テ・ゴンシル = テヤン(コン・ヒョジン 俳優名 以下同)は、ある時から突然、理由も分からぬまま、「귀신 鬼神(くぃしん)≒幽霊」(以降 幽霊)が見えるようになってしまいました。
以来、昼夜を問わず訪れる(邪魔をする)幽霊たちのせいで仕事も失い、外出もままならず、普通の生活を送る事すら難しくなっています。
そんな日々の中、テヤンは、大型ショッピングモール「キングダム」社長でお金持ちの、チュ・ジュンウォン = チュグン(ソ・ジソプ)に偶然遭遇します。
チュグンは、テヤンには切実かつ必要不可欠な能力を持っていました。
テヤンがチュグンに触れると、一時的ですが周囲の幽霊が全て消えるのです。
かくしてテヤンは幽霊を消したい一心で、事ある毎にチュグンに付きまといます。
ところがチュグンには幽霊が全く見えず、おまけに不可思議なものなど一切信じない性質なので、自分にそんな能力がある事など何の関係もありません。
そこで何故自分に付きまとい、やたら触りたがるのかとテヤンに文句を言います。
このやり取りの中で、唐突にあの「キャンディ・キャンディ」 *1 が登場します。
「金や外見ではない、幽霊が消えるからとは手法が目新しい。しかし、かの有名な『キャンディ』だって、男に言い寄る時には髪を結んで身だしなみを整える。」 *2
チュグン、「キャンディ・キャンディ」のヒロイン、キャンディス・ホワイトの髪型を真似て言い放ちます。
*2 記載するセリフは逐語訳では無く、全て意訳したものです。以下全て同じ。
それを受けたテヤンが、「私はお金持ちを狙う、簡易宿で暮らす貧乏人くらいに思われてるのね。じゃあいっその事『キャンディ』になって、あなたを捉まえてみせる。」
と、キャンディのツインテールを真似て応じます。
このやり取りに、ちょっとした違和感を覚えるのです。
チュグンが’70年代少女漫画や TV アニメ、すなわち「キャンディ・キャンディ」の熱心なファンとは到底思えないので、「キャンディ」がチュグンが独自に規定した、「男にすり寄る悪賢い女」の代名詞でも、まあ構いません。
しかし、それを受けたテヤンも、「(本当は)『キャンディ』女ではないけれど、必要なのでそうする事も厭わない」と、やはり否定的な意味を含んだ使い方をしています。
それでは「キャンディ」は、全体的に否定的な意味付けかというと、
3′16″テヤンの電話の着信音が、アニメ「キャンディ・キャンディ」のテーマ曲。
あの、「♪そばかすなんて〜気にしないわ」の韓国語バージョン *3 なのです。
(埋め込み再生不可のため、「 YouTube でご覧ください」をクリックし、別タブで再生してください。)
(09-09)
日本版ではこの着信音、確認出来る4回全てが差し替えられてしまいました。
*3 韓国でのタイトルは、「들장미소녀 캔디 [野ばらの少女 キャンディ]」。
着信音にする位、「キャンディ」はテヤンにとり肯定的な存在と思えます。
ところが、この後出てくる「キャンディ」を巡る発言は、「私は『キャンディ』じゃない」、「周りからは、私が『キャンディ』に見えるんだ」等々、殆どが否定的です。
これをどう受け取るべきかと考えていたら、意外なところに出口がありました。
あるトーク番組を見ていたところ、「キャンディ(役)の典型的パターン」という話が出て来たのです。それを紹介すると、
まず、空を見上げて、父や母を呼ぶ。
もう、ぴったり過ぎる程当てはまるシーン。
「하나뿐인 내편 [たった一人の私の味方] 2018-19 KBS2」のキム・ドラン(ユイ)。
「パパ、どうして私を置いて逝っちゃったの、どうして… 」と空を見上げ、
うずくまり、声を抑えて泣く。
そして自分が悪くなくても、何時も周りに謝ってばかり。
これが、「男が思わず守りたくなる『キャンディ』像」である。
ところが「キャンディ」は、それだけではないと話が続きます。
実は自力で生き抜こうとする、たくましい一面を「キャンディ」は併せ持っている。
何か(ここではドランの妹「ドド」と名付けたぬいぐるみ[ハープ])に向かい、
「あなたなら出来る、大丈夫、私なら、きっと出来る」と、自分で自分を励ます。
アニメのテーマ曲「キャンディ キャンディ」にも、ひとりきりで寂しい時には鏡を見つめ、「♪笑って 笑って 笑って キャンディ」というフレーズがありました。
そうして元気にアルバイトなどに励み、何があっても自分を曲げず、理不尽な出来事に対しては、「ちょっとあなた、何してるの?」などと強気で言い返す。
キム・ドラン、水産物市場の通路をあっという間に駆け抜けてしまいました。
貧しさなんかには負けない。ヤンプンビビンバを美味しくいただきます。
ヤンプンはボウルの事。ありあわせのおかずとご飯、コチュジャン、ごま油、海苔などを適当にヤンプン(ボウル)に入れ、よく混ぜたらそのまま食べます。
この流れで、ああ、そういう事だったのねと、個人的には納得してしまったのですが、もう少し説明を続けてみます。
「キャンディ・キャンディ」をご覧に、或いは読んだ事がある方ならお分かりかと思いますが、主人公キャンディはどちらかというと後者、辛い境遇に負けずに自分の道を切り拓いて行くキャラクタです。
ところが韓国で一般的に「キャンディ」というと、「耐えて尽くす」「泣き落とし」「健気」「だから(なのに)男が寄ってくる」など、前者のイメージがはるかに強いのです。
上記、チュグンのセリフは、まさしくそれに則っています。
*3の韓国語版テーマ曲の歌詞も、「苦しくても、辛くても、わたしは泣かない」みたいな、忍耐や苦難をより強調するものになっているようです。
それに対しテヤンは、(一般的な)そっちの「キャンディ」ではない、自分は本来的な(自立を目指す)「キャンディ」でありたいと、ささやかに主張をしているのです。
ストーリーもまた、そうした展開になっています。
(テヤンの衣装が心境に応じて次第に変化したり、芸が結構細かいです)
どうしてこのような落差が生じてしまったのでしょうか。
アニメ「キャンディ・キャンディ」が、韓国で初めて放送されたのは1977〜80年。
1981年には、実写版映画が製作されています。
二度目の放送が、カラー版として1983〜84年。
(*1 脚注に書きましたが、日本での初放送は’76〜79年 あまり時間差はありません)
ビデオレコーダーが家庭に普及する前だったというのが、ポイントに思えます。
そして、韓国で圧倒的に知名度の高いキャラクタが「テリウス(テリィ)」。
陰のある美少年は今でも「テリウス」と呼ばれ、「私の後ろにテリウス」というドラマが作られる程。(そういえば、これもソ・ジソプが主演だ…)
「キャンディ・キャンディ」は大まかに4部構成になっていて、テリウス(テリィ)が登場するのは、主に第2部のロンドン編。
第3部からはすれ違いばかりで、結局別れる事になってしまいます。
やはりこれだけでは何のこっちゃだなあ…
それではご存じの方には全くの蛇足、テリウス(テリィ)とキャンディのお話を少々。
キャンディは留学先のロンドンに向かう船上で、ちょっとやさぐれた貴族の庶子、テリィと出逢う。実は同じ学校の学生だった。
出自に関するいじめに遭うキャンディを、テリィはしばしば庇う。
学園祭をきっかけに二人は仲良くなるが、テリィに横恋慕するイライザの企みにより、懲戒処分を受ける。
これに抗議し、テリィは学校を辞め、役者を目指しアメリカへと向かう。
キャンディも後を追いアメリカに戻り、看護学校に入学。シカゴの病院に赴任。
キャンディはシカゴに来たテリィの公演に行くが、テリィに全く近付けない。
テリィはキャンディが来ていたのを知り、キャンディの病院に行くがすれ違う。
キャンディはテリィの滞在先に行っていた。しかし、テリィに好意を寄せるスザナに冷たくあしらわれる。
テリィがシカゴから去るのを知り、発車する列車に駆け寄るキャンディ。一瞬だが逢う事が出来た。
テリィを庇い大怪我をしたスザナ、後遺症により俳優を断念。
キャンディと再会するもスザナを見捨てられないテリィ、キャンディと別れる決心をする。
その後、かつての輝きを失ったテリィの舞台を、キャンディはこっそり見に行く。
キャンディの視線を感じたテリィ。再起を誓うが、キャンディの姿は幻影だと思っている。
ビデオレコーダーが普及する前の時代、一回限りの視聴で最も印象に残ったのが、テリウス(テリィ)とキャンディの悲しい恋の物語だったのでしょう。
一方で物語の序盤、第1部レイクウッド編の立役者「アンソニー」は影が薄く、
最終的には主役に躍り出る、「丘の上の王子様」に至っては誰それ状態…
アニメ版が序盤をかなり端折った事もありますが、このあたりはあまり受けなかったという事なのでしょう。
また、アンソニーとテリウス(テリィ)は出番が被らないため、韓国語版では一人の声優が演じ分けた版があるようです。それが、出番が先のアンソニーの影を更に薄くしてしまったのかも知れません。
韓国でのビデオ版の発売が1989年。
コミックの発売時期は不明ですが、ブートレグではない完全版は、かなり後だったと思われます。(’80年代の軍事政権では大衆文化規制があったため)
そして2001年には著作権裁判 *4 の結果により、表立った放送やビデオ版の販売、コミックの重版が不可能となってしまいます。(ブートレグは今もあるようですが)
完全なパッケージを入手可能だったのは、’89から’01年の12年間だけでした。
*4 「著作権裁判」
「キャンディ・キャンディ」の原作者と作画者の間で、著作権の帰属を巡り争われた。
2001年に最高裁で、著作権は原作者側にあり、コミック・アニメは二次著作物との判決が確定。
この判決を受け、コミック・アニメは全て廃版。再版の見込みは今も立っていない。
という訳で、唐突に結論。
一回限りの視聴の際、印象に残り有名となった「テリウスとキャンディの悲恋物語」と、全編を入手し、詳しく観たり読み返した層の「キャンディの成長物語」という捉え方の差が、錯綜の原因と考えられます。
従って上記の「キャンディ」に対する否定的な物言いは、「テリウスとキャンディ」になぞらえた、チュグンとテヤンの悲恋物語という一般的な見方に対する、ある種の反論なのだと思います。
とか何とか強引に結論付けてみましたが、では何故日本では「悲恋物語」ではなく、本来の「成長物語」として認識されたのかという疑問が湧きます。
国民性とかをここで持ち出してもいいのですが…
実はその違いは、放送回数の圧倒的な差によるものと思われます。
当時は確か一回限りの放送ではなく、今で言う追っかけ再放送や、学校の休業期間中の短期集中再放送など、かなり繰り返して放送していた印象です。
もし、一回限りの放送だったら、私たちにはどのような印象が残ったのでしょうか。
実はこのどうでもいい結論、「韓国でも繰り返し放送されていた」という証拠ひとつで崩れてしまいますが、’77年と’83年の間に実写版映画が製作された点、放送にまつわる思い出として「日曜日の朝が楽しみだった」(’83年放送を指す)との記述が多く見られる点から、放送頻度が低かったと推定しています。
ああ、「キャンディに否定的」で力尽きてしまいました。
続きは… そんなもの、あるのかなあ(多分、無さそうな気がする(笑)