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「えっと、これは、『こぶ〜さらだ』?」
久々に、旧々のこんなものでも引っ張り出して、
「むむむぅ〜、世界を青くっ!」
さあ、良質のタンパク質を補給したら、
「うをぉぉお〜っ、頑張るですっ!」
何が何だか…
でも、妙にハイテンションな夜なのでした(^^ゞ
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おいしい時間
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ある日の横浜。
ちょっと異国の雰囲気を漂わせる、横浜税関の塔や、
これぞ港町といった風情の赤レンガ倉庫を眺めていました。
横浜で一番古い波止場、イギリス波止場と鉄桟橋。 現在の象の鼻防波堤と大さん橋を見ていたら、だんだんと日が傾いてきます。
「お食事どこでする?」なんて曲を、ふと思い出しながら足を向けるのは、
(ブレッド&バター 「Pacific」収録曲 1981年)
大さん橋の入口に近い、1929(昭和4)年竣工の横浜海洋会館(左)と、横浜貿易会館(右)。
往時の港町の雰囲気が今に伝わります。
余計なことですが、このビルを建てたのは大倉土木(大成建設の前身)。 横浜海洋会館はかつて、大倉商事横浜出張所でした。 戦前の大倉財閥は、戦後のホテルオークラへとつながります。
横浜貿易会館の、時代を経た佇まいにとても良く似合う、
1963年創業の老舗レストラン、「スカンディヤ」です。
こちらのお店、1階の「スカンディヤ ガーデン」と2階「スカンディヤ」に分かれていますが、
ちょっと分かりにくい入口の扉を開き、
木彫レリーフが出迎えてくれる階段を上り、
2階フロアへと向かいます。
ステンドグラスの光が反射する、とても落ち着いた雰囲気。
初めてこのお店を訪れると決まった時、事前に電話を入れ「あのードレスコードは…」と聞いてしまったのは内緒です。
その時の回答は、「そんな格式ではございませんので、どうぞお気軽にお越しください」でした。
食事までまだ時間があるので、まずはキールのグラスを眺めることにします。
このカクテルを初めて飲んだ時、自分も大人になったものだ、なんて思ったものです。
食事前ならマティーニも、なんて考えていると、また古いメロディが思い出されます。
「マティーニを飲みながら」(ブレッド&バター 「MONDAY MORNING」収録曲 1980年)
え、もう35年も前の曲なの? とか改めてびっくりしたりするのです。
その曲の一節に「急に夜が始まる 賑やかに♪」。 すっかり暗くなり、お食事のスタートです。
季節のひとくちアミューズ。 「なすとトマト、カニのグラタン」
「そうそう、この濃いって感じ、最近はあんまり無いんだよね。」
「うん。 はっきりしたトマト風味とか、昔は洋食屋さんにあったけど。」
お店も古いけれど、私たちも古いのでした。
「当店名物、スモーガスプレート」がやってきました。
上から時計回りに、
デンマークキャビア、フォアグラムース・シュー詰め、マグロのターター、鴨のスモーク、ニシンの酢漬け、スモークサーモンの6種盛り合わせ。
ここの名物、北欧スタイルのスモーガスボードは、14種の料理が段重ねになって出てきます。
「昔は何といっても、『スモー』がずらっと並ぶのが嬉しかったよね。」
「最近はすぐお腹一杯一杯になっちゃうから、このくらいの方が良いのかも。」
「ははは、『スモー』って変な略し方、久々に聞きました。」
「『これで1スモー』とか換算しましたねぇ。」
美味しいものを前にして、どうにもしまらない会話です。
本日のスープは、「サツマイモのポタージュ」
「見た目はサツマイモっぽく無いけど、確かにサツマイモですねぇ。」
「え、色もそれらしいじゃん。 もしかして皮の色を連想してる?」
「そうか。 最近はつい紅芋とかを思い出してしまって…」
パンをつつきながら、時間が過ぎてゆきます。
お待ちかねの本日のメイン、「子羊のロースト・グレービーソース 旬の野菜と茸添え」
「下に敷いてるつぶつぶパスタ、ソースに合いますねえ。」
「栗っていうのは意外な取り合わせ。」
「実は、キャンドルの明かりで写真を撮るのは難しいのさ。」
「手、震えていませんか?」
どんどんと、取りとめが無くなってくるようです。
本日のデザートは、「チーズケーキとりんごのシャーベット」
とうとうピントを合わせきれなくなったようです。
「あー、いつもここのアーモンドケーキを食べようと思うのに、またしても辿り着けません。」
「まあ、何時かはと思っていれば、きっとまた来られるでしょう。」
みなとみらい21地区が発展し、姿を変えつつある横浜ですが、
50年間変わらぬ場所、味と雰囲気のスカンディヤは、とても貴重なお店だと思うひと時でした。
おまけの話。 まだ若いと云われていたころ、横浜で憧れの場所がふたつありました。
ひとつ目が今回のスカンディヤ。 もうひとつが山下公園前のホテルニューグランド。
スカンディヤとニューグランドに足を踏み入れた時、少しは大人になれた気がしたものです。
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コメント(12)
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今晩何を食べようかなんて考えていたら、こんなものをを見つけたので即お買い上げ。
ちょっと懐かしい雰囲気の、北海道は厚岸駅の駅弁「氏家のかきめし」です。
牡蠣の煮汁で炊いたご飯に牡蠣とアサリ、つぶ貝にフキの取り合わせ。
牡蠣が苦手という方には向きませんが、好きな方にはお勧めです。
厚岸駅は一日の乗降客数が数百人の小さな駅なので、この駅弁の生産量もとても少なく、かつては入手困難なんて言われましたが、今では駅弁大会の人気上位を常に占める有名駅弁です。
もうかなり昔に厚岸を訪れたことがあるのですが、その時以来催事場でしか出会っていません。
いつかもう一度、厚岸駅前の待合所を訪れてみたいものです。
そんなことを思いながら、美味しくいただきました。
かきめしの後には、デザートでも。
あ、いえ、何でもありません…
しょうもないネタで、大変失礼をいたしましたm(_ _)m
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羽田空港の「カールユーハイム」でバウムクーヘンを購入したところから、大正から昭和に元号が移った頃の神戸に空想が跳んでしまいました。
子どもの頃、頂きもののお菓子の最高峰がふたつありました。
ひとつは前回登場の「ユーハイム」のバウムクーヘン。
羽田空港限定、「りんごのバウムクーヘン (ホーニッヒアッフェルバウム)」
そしてもうひとつが「モロゾフ」の洋菓子。
中でも「カスタードプリン」は、とても特別な存在でした。
昔ながらのガラス容器に入った「モロゾフ」のプリンは、とても大人な雰囲気でした。
大人になったら好きなだけ食べるのだと、心に決めたものでした。
今回プリンについて見ていたら、ガラス容器になったのは1973年で、1962年の発売から1972年までは陶器製の容器を使用していました。 陶器に入ったプリン、覚えがあるような無いような…。
そしてもうひとつが「パンプディン」。 昔は普通に販売されていたのに、いつの頃からか「限定販売」となり、最近ではほとんど見かける事がありません。
この写真も、2013年夏のものです。 「モロゾフ」のHPにも記載が見当たりませんでした。
カスタードプリンよりもしっかりとした食感と、たっぷりのカラメルソースが好きだったのに。
見栄えの良い写真が無くて、申し訳ございません。
あと、「モロゾフ」といえば、勾玉模様の缶に入ったナッツ載せの焼き菓子「アルカディア」とか…
きりが無くなりそうです。
こんな素敵な洋菓子を作り続けている「モロゾフ」の元を辿ってゆくと、実は19世紀末のロシアに行き着きます。 モスクワの東、ボルガ川に面した都市、シンビルスク。
ウラジミール・レーニンの生誕地であり、それにちなみ現在は「ウリヤノフスク」と改名。
(レーニンの本名は「ウラジーミル・イリイチ・ウリヤノフ」。 「レーニン」はペンネームのようです。)
1880年、ウラジミール少年が10歳の頃、シンビルスクの商家にひとりの男の子が生まれます。 その名は、フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ。
やがてフョードルは家業を継ぎ、貿易商としてロシア帝国内での地位を築いてゆきます。
1911年、フョードルの息子、ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ誕生。
1917年、ロシア革命が勃発し、ロシア帝国−ロマノフ朝は終焉を迎え、レーニンたちが主導する「ソヴィエト(労働者評議会)」が次第に権力を握ってゆきます。
ロシア帝国の「ブルジョアジー」であったモロゾフ家は、革命による混乱を逃れ、当時ロシアの影響力が強かった中国・ハルビンに脱出します。
モロゾフはハルビンで、「ソヴィエト−赤軍」に対抗する、共和制派「白軍」を支援する活動などをしていたようです。
1923年、中華民国の行政がハルビンに確立し、今後ロシアの支配力が弱まる事を見越したのか、一家はアメリカ・シアトルに移住します。
その後のハルビンは、1926年にロシアの支配が終り、1931年に勃発した満洲事変により、1933年には満洲国の版図に組み込まれてゆきます。
モロゾフ一家がシアトルに到着した翌年、「1924年移民法」が成立します。
この法律は、あからさまな人種的偏見に基づき、「優等人種」の移民を奨励する一方、「それ以外」の移民は大幅に制限ないしは禁止するという露骨なものでした。
この人種的偏見を正当化する考え方はやがてドイツに波及し、ナチス・ドイツにおける「支配人種」説へとつながってゆきます。 そんな情勢の中、モロゾフ一家はアメリカを離れる決意をします。
拡大してゆく偏見による、先行きへの不安が大きかったのではないかと思われます。
一家は再び太平洋を渡り、日本へと向かいます。
こうしてモロゾフ一家の神戸での物語が始まります。
1926年、息子ヴァレンティンとともに「コンフェクショナリー・F・モロゾフ」を開店。
1931年、日本人投資家からの出資を受入れ、「モロゾフ」は共同経営となります。
ところが、次第に経営陣との間に確執が生まれ、
1936年にモロゾフ親子は経営権を失い、「モロゾフ」を追われてしまいます。
この時、「モロゾフ」という商号は「モロゾフ製菓」のものとなり、モロゾフ親子はモロゾフという名前を事業に使用する事が出来なくなってしまいます。
モロゾフと同じ亡命(白系)ロシア人で、神戸で洋菓子店を営んでいたマカール・ゴンチャロフもやはり、1932年に日本人の出資を受けた事業を、1934年に全て譲渡、日本を去っています(その後ゴンチャロフの消息は不明)。
奇しくもモロゾフ一家は、時代の混乱のほとんどに巻き込まれてしまったのでした。 やがて戦争が終わり、戦時中日本に協力したドイツ人という理由により、主を失った「ユーハイム」の工場を、息子バレンティンが借り受け「コスモポリタン製菓」を起こします。
ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフは白系ロシア人として、戦後「ソヴィエト連邦」の国籍を取得する事はせず、無国籍のまま生涯を送ったといわれています。
祖国を失い、異国で生きたモロゾフさんちが、たどり着いた「コスモポリタン」。
夢と願いを込めた名前と思ってしまうのは、いささか考えすぎでしょうか。
1971年、父、フョードル・ドミトリエヴィチ・モロゾフ 死去(享年91歳)
1999年、息子、ヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ 死去(享年88歳)
2006年、「コスモポリタン製菓」廃業
あまりの波乱万丈に、つい話が長くなってしまいました。
さて、「モロゾフ」の箱の中には、何が入っているのかな?
おしまい。 |
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梅雨明け直後の那覇から帰って来ました。
往路の機内で、「シャイベン プラリーネン(ナッツキャラメルのバウムクーヘン・スライス)」が登場しましたが、
羽田空港第1ターミナルの「カールユーハイム」にて購入しました。
ここには、羽田限定「まるごとりんごのバウムクーヘン (ホーニッヒアッフェルバウム)」という、とても気になるものがあります。
そんなものを見つけてしまったら、やはり買わずにはいられません。
配送梱包風のパッケージを開けると、大きなりんごに見立てた赤い包装が出てきます。
甘く煮たりんごを中心に、丸く巻かれたバウムクーヘンです。
バウムクーヘンはユーハイムに限ると思っているので、(2年前にも記事にしたのですが)変わらぬ美味しさでした。
でもこれ、出発時に購入してしまい、持ち歩くのが大変でした。
復路は遅い時間帯が多いもので、つい「お店閉まっているかも」と思ってしまうのです。
今回は、帰りの便が早い時間帯だったのに…。
こうして、またしても荷物を無駄に重くしてしまいます。
おしまい。
おまけユーハイム創業者のカール・ユーハイムと妻エリーゼの一代記があまりに波乱万丈なので、概略を書いてみます。
カール・ユーハイムは1886年ドイツ生まれ。
長じて菓子職人となり、1909年、当時ドイツの租借地だった中国・青島に店を開きます。(23歳)
店は順調に繁盛し、1914年にエリーゼと結婚。(28歳)
ところが結婚直後に第一次世界大戦が勃発、日本軍の攻撃によって青島が陥落、
妊娠中の妻を青島に残し、カールは捕虜として単身日本に連行されてしまいます。
広島での捕虜生活中の1919年、「広島県物産陳列館(現原爆ドーム)」で開催された「ドイツ作品展示会」にバウムクーヘンを出品、好評を博します。(33歳)
1920年にヴェルサイユ条約が発効、カールは捕虜生活から解放され、妻子と再会。(34歳)
同時期に解放されたドイツ人の中に、神戸の「ジャーマンホームベーカリー・フロインドリーブ」創業者のハインリヒ・フロインドリーブや、ハム・ソーセージの「ローマイヤ」の基を築くアウグスト・ローマイヤーがいたというのも、興味深いところです。
1922年、横浜山下町に菓子、軽食店「E・ユーハイム」を開店(Eは妻エりーゼのE)。(36歳)
ところが翌1923年9月1日に関東大震災が発生、店が焼失してしまいます。
ユーハイム一家は神戸に移転、神戸三宮で喫茶店「JUCHHEIM'S」を開店します。
神戸ではマロングラッセを発売するなど、順調に業績を伸ばしていたのですが、
1937年、カールが病に倒れます。(51歳)
当時の欧州の不穏な情勢や盧溝橋事件など、ヴェルサイユ体制の破綻による戦争の予感によって、カールは変調をきたしたともいわれています。 第一次世界大戦の時に、非戦闘員であったにもかかわらず捕虜とされ、青島に妻を残し、長い抑留生活を強いられた記憶が蘇ってしまったのかもしれません。
その後、太平洋戦争の戦況悪化による物資不足などから、「JUCHHEIM'S」は開店休業に追い込まれてしまいます。
息子、カールフランツ・ユーハイムは1942年にドイツに徴兵され、1945年5月に戦死。
1945年8月14日、終戦前日にカール・ユーハイム死去。(享年58歳)
戦争は終わったものの、妻エリーゼ・ユーハイムと、息子故カールフランツの妻子は、戦時中の日本に協力したドイツ人として、GHQによりドイツに強制送還させられてしまいます。
この頃、休業に追い込まれた「JUCHHEIM'S」の工場を借り、パンや菓子の製造を始めたのが、亡命(白系)ロシア人のヴァレンティン・フョードロヴィチ・モロゾフ。
この工場がその後、あの「モロゾフ」になったという訳ではなく、実は、1926年に父フョードルと息子ヴァレンティンのモロゾフ親子が神戸で開業した「モロゾフ」を、1936年には父子で追われてしまい、再起を賭けたヴァレンティンが「JUCHHEIM'S」の工場を借りて「コスモポリタン製菓」を起こしたのでした。
こちらのお話も、相当にドラマチックなものがあります。
1950年、「JUCHHEIM'S」の日本人従業員が神戸に「ユーハイム」を設立、
1953年にはエリーゼ・ユーハイムが日本に戻り、今に至ります。
1971年、エリーゼ・ユーハイム、神戸にて死去。
以上、波乱万丈のユーハイムさんのお話でした。
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