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ちょっとした懐かしさにかられて、近隣をふらふら〜してみました。


かつて一時代を築いた、巨大流通・小売グループ「ダイエー」。
その一角を担い、現在も営業中の神奈川県相模原市「ダイエー上溝店」です
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こちらのお店、戦前に東京都八王子の行商から始まった「『忠実屋』上溝店」として、1970年代に開業しました。
しかし「忠実屋」は、いわゆるバブル崩壊後業績が低迷、1994年にダイエーの傘下となり、ダイエー上溝店として現在に至ります。


忠実屋を吸収したダイエーは、1957年に神戸で創業。
総合スーパーマーケットやショッピングモールといった業態を日本に定着させ、流通・小売業以外にも多くの分野に進出していました。

しかし、ダイエーもバブル崩壊後から業績が急速に悪化、現在は「イオン」の傘下にあり、「ダイエーブランド」の消滅が幾度も囁かれています。


ダイエーを傘下に収めたイオンのルーツは、三重県四日市の呉服店「岡田屋」。
事業の拡大につれ、名称を「オカダヤ」、「ジャスコ」、「イオン」へと変えました。
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余談ですが「岡田屋」というと、神奈川に縁があると、現「岡田屋モアーズ」のほうを連想してしまいますが、旧称が同じなだけで、「イオン(四日市『岡田屋』)」とは直接の繋がりはありませんでした。
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しかし、かつて「神奈川『岡田屋』(モアーズ)」が展開したスーパー「サンコー」が、業績不振からダイエーの傘下に入り、そしてダイエーは業績不振から「イオン(四日市『岡田屋』)」の傘下となり……  繋がりって不思議です




いかん、いかん。
流通業界の変遷に気を取られ、本来の目的を忘れてしまいそうです。


「どむぞうくん」に会いに、ダイエー上溝店に来たのでした。
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「ドムドムハンバーガー」は、米軍統治下の沖縄で1963年に開店した「A&W」に次ぎ、
1970年に開店した、実質上日本本土初のファストフードチェーンです。
「ドムドム」を仕掛けたのがダイエーなので、系列店舗内に多く出店していました。
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ファストフード事業を始めるにあたり、ダイエーは当初、米国「McDonald's(マクドナルド)」と提携交渉をしますが不調に終わり、独自路線へと方針を転換。
1970年にドムドムハンバーガー1号店を、東京都町田市の「ダイエー原町田店(当時)」内に開店します。


一方の「マクドナルド」は、1971年に1号店を開店。
現在3,000店近くを展開する、日本最大のファストフードチェーンに成長します。
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その後のドムドムは、最盛期には400店近くを展開したものの、「ダイエーグループ」の業績悪化に伴い、多くの店舗が閉店に追い込まれてしまいます。

そんな経緯から、ドムドムはいずれ消滅するのではと噂されていましたが、2017年にホテル運営や不動産業を手掛ける「レンブラントHD」に事業権を譲渡、再生に向けて舵を切りました。

現在の店舗数は31店ですが、これからどんな展開をするのでしょうか。
「ドムドム店舗案内」 https://domdomhamburger.com/shop



ドムドム上溝店の店内。どこか懐かしい雰囲気が残ります。
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ドムドムといえば、やはり「バターコーン」でしょう。
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単純なのに、ちょっとした郷愁もあったりして、美味しいのです。



そしてもうひとつが、「お好み焼きバーガー」。
キャベツに玉子、そしてパティが… お肉の代わりにソース味の「お好み焼き」!
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バターコーンとお好み焼きバーガーは20世紀の人気メニューでしたが、21世紀に入るとメニューから外れ、久々の復活です。

若かりし頃はもっといけましたが、肉抜き炭水化物×3の組み合わせは流石に…


サラダの方が良かったかなあ。ちなみにサラダのトッピングはベビースター(^^ゞ
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公式サイトから画像を借りました。 https://domdomhamburger.com/menu_side


そういえばドムドムって、変わり種が得意でした。
その昔には、「餃子バーガー」とかもあったような。



壁のポスター、期間限定の「鯖野菜バーガー」だって。
トルコ料理の「鯖サンドイッチ」風でしょうか。今も結構攻めているようです。
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そういえば「鯖サンドイッチ」がメニューにあるトルコ料理店って、今もあるかなあ。



メニューボードを眺めていると、袋に入れたフレンチフライに調味料を振りかけシャカシャカする、「シャカリポ」があります。
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このスタイルって、ドムドムにはかなり昔からあったような…


ちょっと気になったのでリサーチしてみると、どうやらシャカシャカ(フレーバー)ポテトの元祖は、「明治サンテオレ」の「スパイスポテト」だったようです。

明治サンテオレのポテトといえば、星型の成型ポテトが真っ先に思い出されますが、それをシューストリングに変更した際、スパイスポテトが登場したように思われます。
(’80年代初頭の気がしますが、確証は取れませんでした


明治サンテオレは、1973年に「明治乳業」が1号店をオープンした老舗ファストフードチェーンで、最盛期には約100店を展開していました。
「コロッケバーガー」や「レディーボーデン」が、今も懐かしく思い出されます。

しかし、いわゆるバブルが弾けた1990年代半ば以降に店舗数が激減。
2006年には「明治グループ」が経営から撤退し、現存店舗がおそらく5店* という希少種となってしまいました。
 
* 群馬「イトーヨーカドー伊勢崎店内」、千葉「勝田台駅店」、「東金サンピア店内」、神奈川「日本大通り駅店」、新潟「上越アコーレ店内」の5店舗のようです。早目に行ってみなくっちゃ…(^^ゞ


郷愁のあまり、つい違う方向に行ってしまいました。






ダイエー系のファストフードチェーンといえばもうひとつ、この子がトレードマークの「ウェンディーズ」がありました。

この画のモデルは創業者の愛娘。店名も娘のニックネーム「Wendy」から。
(もしかして、いわゆる親バカ?(^^ゞ
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1980年に、ダイエーが上級ファストフードチェーンとして米国「Wendy's(ウェンディーズ)」とフランチャイジー契約を結び、最盛期には約100店を展開していました。



しかし2002年、ダイエーグループの業績悪化に伴い、「すき家」などを運営する「ゼンショー」に事業権を譲渡。
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後を請けたゼンショーは、2009年に米国「Wendy's/Arby's(ウェンディーズ・アービーズ 当時)」とのフランチャイジー契約を更新せず、黒字とされていたにも関わらず、ウェンディーズは日本から撤退を余儀無くされます。

この時色々な噂が立ちましたが、個人的妄想としては、1981年に日本に進出するもあえなく撤退した、ローストビーフサンドイッチの「Arby's(アービーズ)」の思惑が絡んだのでは?なんて空想をしてしまいます。
(米国のWendy's/Arby'sは、2011年にグループを分離しています。)




2011年、ウェンディーズは、かつて「ドミノピザ(Domino's Pizza)」の日本進出を手掛けた「ヒガ・インダストリーズ」と提携し、日本に再進出をします。

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現行ロゴではなく、1985年に日本に進出した頃の旧ロゴを探しました。



こちらは、ウェンディーズの東京都多摩市「聖蹟桜ヶ丘ショッピングセンター店」。
ん? 店名が、「Wendy's/First Kichen」?
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1977年に「サントリー」が設立した「ファーストキッチン」が、2016年に「ヒガ・インダストリーズ」入りした事により、現在は「ウェンディーズ・ファーストキッチン(WFK)」として、東京、神奈川を中心に40店ほど展開中です。


「ファーストキッチン(FK)」単独では、全国に100店前後を展開しているようです。
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「ウェンディーズ・ファーストキッチン店舗案内」




はてさて、ウェンディーズといえば、やっぱり「ウェンディーズ・チリ(ビーンズ)」。
液状の「ホットチリ・シーズニング」をぐるぐるして食べましょう。
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昔のウェンディーズでは、オペレーションの都合上、火が通り過ぎてしまったパティをチリの素材として活用していましたが、今はそういう事はしていないようです。
なのでちょっとだけ、肉々しさが薄れたかも(^^ゞ



定番のウェンディーズバーガー。何を思ったのか、パティが気休めのSサイズ。
昔は「ジュニア」と言った気がしますが、今は「スマート」と呼ぶようです。
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また、往年のウェンディーズでは「パティはレアで玉ねぎ多め」といった細かなオーダーが可能でした。でも店内放送で「ワンバーガーレア、エクストラオニオン!」と、店中にオーダーが響き渡りました(^^ゞ

現在はオーダー転送システムになり、かつての店内放送は無くなりましたが、細かなオーダーは今でも可能なのかなあ。





そんな風に昔を懐かしんでいると、隣のお店が何と「シェーキーズ(Shakey's)」。
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ピザ食べ放題の「シェーキーズ」は、1973年に「麒麟麦酒(キリンビール)」と提携して、米国から日本に進出しました。



その後のすったもんだにより、多くの店舗が閉店に追い込まれますが、2006年に機内食やファミリーレストランで知られる「ロイヤル」に営業権を譲渡。
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再び出店が進み、関東を中心に、現在20数店が営業しています。

「シェーキーズ店舗情報」 https://shakeys.jp/store/



90分間食べ放題は、今も健在なようです。
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昔は絶対に元を取れる自信がありましたが、今ではもう無理そうです(笑)






外食産業の栄枯盛衰について思いを巡らせつつ、ふらふらしていると、

お、「バーガーキング(BURGER KING)」がある。
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そういえば「バーガーキング」ほど、流離うファストフードチェーンは他に無いかも。

米国では業界2位の「McDonald's(マクドナルド)」に次ぐ3位でありながら、日本では苦戦が続くようです。



ちなみに米国のファストフード1位は、サンドイッチの「SUBWAY(サブウェイ)」。
世界最大のファストフードチェーンとも云われる「サブウェイ」も、日本では苦労が絶えないようです。
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1991年にサントリーと提携して日本に進出。約500店を展開するものの、2016年にはサントリーが経営から撤退。店舗数は現在、約300店に減少しているようです。

「サブウェイ店舗検索」 https://www.subway.co.jp/shops/



日本で3,000店近くを展開し、まさしく一人勝ち状態の米国2位のマクドナルドと、苦戦する1位と3位との差から、日本市場を読み解くのも面白そうです。
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おっと、話が逸れました。バーガーキングのお話でした。
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バーガーキングの始まりは1993年。「西武グループ」と提携し、日本に進出します。
しかし、店舗展開が伸び悩みます。西武グループの勢いが失われつつあった、バブル崩壊直後という時期も悪かったのかもしれません。

「西武」との提携から僅か3年後の1996年には、当時事業の多角化を目指していた「JT(日本たばこ産業)」に提携先を変更します。
「森永製菓」が展開していた「森永ラブ」を吸収し、バーガーキングへの転換を図る計画でした。

しかし、思うように拡大は進まず、進出から8年後の2001年には、日本からの撤退を余儀なくされます。

バーガーキングの店舗は、ファーストキッチンと「ロッテリア」に譲渡されました。
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そして2007年、今度はロッテリアを運営する「ロッテ」と提携し、日本再進出を果たします。ロッテリアをバーガーキングに転換して、店舗数の拡大を目指します。
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しかしその後、「ロッテグループ」のお家騒動の影響を受け、2010年に「韓国ロッテ」に事業権を譲渡。

更に2017年には、香港の投資ファンド「Affinity Equity Partners(アフィニティ・エクイティ・パートナーズ」が日本と韓国のバーガーキングの運営権を取得し、今に至ります。

バーガーキングは現在国内に約100店。今後はどう展開してゆくのでしょうか。

「バーガーキング」店舗紹介 https://www.burgerkingjapan.co.jp/stores/




ファストフード全盛の’80〜90年代にいわゆる外回りをしていたので、往年のお店たちには様々なシーンでお世話になったものです。
モバイル端末が普及する前だったので、恰好の隠れ家でもありました(^^ゞ


とまあ、どうでも良い変遷史が、懐かしく思い出されたりするのでした。




先日、所用で山梨県を訪れました。
その時、そういえば八ヶ岳山麓のソバ畑は開花が今頃だったと思い出し、ちょっと寄り道をしてきました。

韓国ドラマ「トッケビ」のソバ畑をネタにした事からの思い付きです。




確か、ソバ畑はこのあたりにあった筈と目標にしたのが、北杜市長坂町、
JR小海線、甲斐小泉駅近くの「三分一湧水(さんぶいちゆうすい)」。
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手前から流れ込む湧水を一旦中央の桝に溜め、そこから三方向に同量が流出するよう工夫した仕掛けです。
三方に伸びる水路は、流量が等しくなるよう幅と深さが同じに調整されています。



湧水が流れ込む上流側。
滝の下の三角形の石で水勢を弱め、流量がより均等になるようにしています。
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ここを訪れたのはかなり久しぶりで、大昔にはもっと鬱蒼としていて、こんなに綺麗に整備されていなかったような気がします。
まあ記憶だけなので、確かではありませんが。




それはともかく、本来の目的、ソバ畑を見に行きましょう。


今月の表紙にも書きましたが、花の時期には少し遅かったようです。
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韓国ドラマ「トッケビ」のワンシーン。実は、こんな景色を期待したのですが。
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ソバ畑が背景のシーンは、開花する9月中に全てを撮り終える必要があるため、スケジュール調整がかなり大変だったとか。
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ちなみに、ドラマの撮影が行われたのは韓国の「鶴原農場(はぐぉんのんじゃん)」。
全羅北道 高敞郡 孔音面(ちょるらぶくと こちゃんぐん こんうむみょん)にある観光農場です。
この農場は景色の良さから、「トッケビ」の他にも数多くのドラマやCMの撮影が行われているようです。

KONESTの紹介ページ(日本語)

鶴原農場のHP(韓国語) http://www.borinara.co.kr/




「あああ〜、トッケビさんをしようと、準備してたのに…」
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急な思い付きだったから、仕込みがちょっと甘かったねえ。




ソバ畑だと知らないと、休耕地かと勘違いしてしまいそうです。
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でも、近くに寄ると結構可憐な花です。
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広いところに小さな花が咲く風景が、上手く写真に収められません。
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やはりその場に立ち、風を感じる事が大切なんだよなあなんて、負け惜しみを言ってみます。
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こうした茫洋とした景色を堪能するのには、やはり時間が必要なようです。
また、こういう風景には青空のほうが似合うよなあなんて、思うのでした。

そんな事を考えつつ、道草は終了。
是非また撮り直しに来ようと思う、高原の秋の始まりの風景でした。

そうだ、近隣には地元の蕎麦粉を使う美味しいお蕎麦屋さんもある事だし、また来る理由になりそうです。






東京都品川区東八潮、お台場エリアの最西端に、鮮やかなアラートオレンジに塗られた船が停泊しています。
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その船の名は「PL107『宗谷』」。建造から既に80年が過ぎました。


1938(昭和13)年にソ連向け耐氷型貨物船として建造されたものの、契約のもつれからソ連側に引き渡されず、旧日本海軍の特務艦(運送艦)として就役。

戦後は特別輸送艦(復員船)として、外地からの引揚者帰還業務に従事。
1950(昭和25)年に改装され、海上保安庁の灯台補給船「LL01『そうや』」として日本中の灯台を巡ります。

その後、1957〜58年の国際地球観測年(International Geophysical Year)に日本も参加しようとの機運が盛り上がり、「日本南極地域観測隊」が計画されます。

「LL01『そうや』」は南極地域観測隊の母船に抜擢され、大規模な改造工事の後、
「PL107『宗谷』」として、初代南極観測船の大役を任されます。



白地に青とコンパス模様のファンネル(煙突)マークが、海上保安庁所属の巡視船である事を示しています。
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いきなり余談ですが、二代目「ふじ」以降の南極観測船は海上自衛隊所属の砕氷艦のため、ファンネルマークがありません。(名古屋港の「AGB-5001『ふじ』」)
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「ふじ」を見学した時の様子は、こちらの記事で。




宗谷に戻り、大改造された船首。
左側のリベット貼りが元の船体。右の溶接構造が、砕氷能力向上のため形状を変更した部分。水線上に重ね貼りした鋼板は補強用でしょうか。
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船首部分の水面下は砕氷能力向上のため、こんな形になっています。
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灯台補給船時代の「LL01『そうや』」。船首の形状が大きく異なります。
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「日本財団図書館 図で見る“宗谷”の移り変わり-2」から図版を借りました。




復元力を高めるため、船体側面に設けられたバルジ(張り出し構造)。
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バルジと上部デッキを支える、いささか武骨過ぎる構造です。
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船尾には、1958(昭和33)年後半に増設されたヘリコプタ用飛行甲板。
船の幅を大きくはみ出しています。
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接舷時に張り出した飛行甲板が接触しないよう、バルジの外側にパイプ製のごついバンパ?を装備しています。
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スマートさとは程遠い異形の構造が、60年前の目的達成のための執念みたいなものを感じさせ、思わず見入ってしまいます。



飛行甲板の上に立つとこんな感じです。
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1958(昭和33)年後半に飛行甲板を増設したのは、1958年初頭の第1次越冬隊の撤収が悪天候により困難を極め、かの有名なタロ、ジロを含む15頭の樺太犬を南極・昭和基地に置き去りにせざるを得なかった教訓から、空輸能力の大幅な増強を図るためでした。



南極地域観測隊の本拠地、東京都立川市の国立極地研究所には、1958年の出来事を記憶する樺太犬が今も群れています。
かつては東京タワーの麓にいましたが、2013年にこちらに引っ越して来ました。
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極地研の展示施設「南極・北極科学館」を見学した時の様子は、こちらの記事で。




「皆さんこんにちは、私は『宗谷』の機関長。
後ろにいるのはシコルスキーS58、日本名は『HSS-1』、
増強された空輸能力の要です。」
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S58/HSS-1といえば、怪獣映画の常連でした。
爆弾を投下したりとか、あり得ない任務にしょっちゅう就いていましたっけ。



「はーい、私は航空長。
物資輸送や観測に欠かせない、航空部門の責任者。
HSS-1は大き過ぎて、格納庫が無いのが難点でした。」
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航空長さん、いくら防寒対策とはいえ、それでは単に怪しい人みたい…

大型飛行甲板を無理やり増設したため格納庫が設けられず、ヘリコプターは航海中も甲板に置きっ放し。荒天時対応や整備は、さぞ大変だったと思われます。



「むむぅ〜、儂が『宗谷』の船長じゃ。
機関長や航空長に先を越されて、ちと悔しい。」
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船長さん、何とも濃いお顔ですねえ。ところで何かお話は?
追加装備の影響などもあり、「宗谷」はお世辞にも乗り心地の良い船では無かったようです。



「おいらはギターを抱いた、観測隊員。
今日も赤道の風が、ふぅ〜 熱いぜっ!」
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宗谷には冷房設備が無く、熱帯域を通過する際には暑くて大変だったようです。
それにしても「宗谷」の船内には、個性的な方々が揃っています。



「あー、忙しい、忙しいっ!」
「ほい、ほいっと、一丁あがり〜」
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司厨部員さんたちは、今日も大忙し。
130名に及ぶ乗組員と観測隊員の食事を一手に引き受けていました。




「私は真面目な観測隊員。
『宗谷』の肝心な部分を、ご紹介。」
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南極観測に従事するための大きな変更点。
出力約1,500馬力の蒸気機関を、新潟鐵工(現;新潟原動機)製8気筒ディーゼルエンジン2基に換装し、出力を2,400×2、計4,800馬力へと大幅にパワーアップ。
ちなみに現代の同規模のエンジンでは、1基で4,000馬力以上が可能。技術の進歩ってすごいものがあります。
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とはいえ、航続距離は蒸気機関時の5,000NM(9,260km)から、16,000NM(29,600km)へと大きく向上しました。



いくらパワーアップしたとはいえ、全長83m、総トン数2,734トンに過ぎない「宗谷」で、地球縦断に匹敵する、片道だけで2ヶ月を超える10,000NM(18,500km)に及ぶ大航海は、大変な事だったろうと思います。
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地球上で最も荒天が続く海「Roaring Forties-吠える40度線」を越え、更にその奥の「Screaming Sixties−絶叫する60度線」南極海を渡るのだから大変です。

しかも、二代目「ふじ」からは砕氷時などに機動性が高い、ディーゼル・エレクトリック推進が採用されていますが、「宗谷」はディーゼル直結式。
出力制御も大変だし、エンジン負荷も相当なものだったと思います。



「宗谷」から50年の時を経て、2009年に就役した現役の南極観測船、
「AGB-5003型砕氷艦『しらせ(二代目)』」。

全長138m、総トン数12,650トン。AC給電−インバータ制御ACモータのディーゼル・エレクトリック推進で出力30,000馬力と、大幅に能力が向上しています。
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2018年4月、「5003『しらせ』」は第59次航海を終え、晴海に入港しました。
現在は第60次航海に向け、点検整備中でしょうか。




閑話休題、
現在の南極観測の原点ともいえる、1912年の白瀬矗(しらせのぶ)南極探検隊の「開南丸」は、全長30m、200トン級の木造帆船でした。
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今から100年も前に、遠洋漁船を改造した3本マストの木造スクーナーで、南極海までの10,000NM(18,500km)を航海しただけで、もう十分すぎる大冒険です。



こちらが歴代の南極観測船。
左下が全長30mの「開南丸」、右手前が83mの「宗谷(PL107)」。中左が全長100mの「ふじ(5001)」、奥の134mの「しらせ(5002 初代)」へと大型化しました。
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「宗谷」に戻り、ここはチャートルーム(海図室)。
1912年の「開南丸」から1956〜62年の「宗谷」まで、あまり変わらなかったと思われるのが、天体観測を基に海図上で船の現在位置を決定する天測航法。
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加えて「宗谷」の時代は、初期の電波航法「ロランA」が実用化された頃でしょうか。
現在ではGPSなど人工衛星を利用するシステムで、航法も格段に進歩しました。

また「宗谷」は航海中に、南極海域の海図作成のための測定なども行いました。
さすがは海上保安庁。(日本での海図の元締めは海上保安庁です)
「宗谷」が測定したデータは、その後の南極観測に生かされています。




こちらは「宗谷」の通信室。
長距離通信も、現在では人工衛星を利用するシステムが実用化されていますが、
「宗谷」の時代には無線通信が頼みの綱でした。(長〜短波通信かな?)
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デスクの中央右に、電鍵(モールス符号を送出する器具)が装備されています。
無線電信が重要な通信手段だった事を感じさせます。



操船の中心となる操舵室(ブリッジ)。
遠洋航海をする船としては、相当にコンパクトかつシンプルです。
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操舵室内には椅子が無く、操作は全て立って行ったようです。
双眼鏡を首に掛けた仁王立ちは、まあ「船乗り」のイメージにぴったりですが。




「PL107『宗谷』」は、1956年出発の1次隊から1962年帰港の6次隊まで、南極観測に従事しました。
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南極観測船としての役割を、後継の1965年竣工の砕氷艦「AGB-5001『ふじ』」に譲った後も、「PL107『宗谷』」は海上保安庁の大型巡視船として、1978(昭和53)年に至るまで現役を続けました。

エンジン換装を含む幾度もの大改造を行ったとはいえ、1938年の進水から40年に及ぶ現役生活は、艦船としてはかなりの長寿命でした。(通常は20〜30年程度で代替されます。)


余談ですが「PL107『宗谷』」の後を継ぎ、1978年に就役したヘリコプタ搭載大型巡視船「PLH01『そうや』」は、就役から40年を経た今も現役続行中。
まもなく、先代「宗谷」を超える現役生活の長さになりそうです。

海上保安庁にとり「宗谷/そうや」は、今や特別な意味を持つ存在かもしれません。



「宗谷/そうや」の頼もしい後輩、2013年就役の「PLH32『あきつしま』」。
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全長150m、総トン数6,500トン、出力40,000馬力(推定)を誇り、ヘリコプタ2機を船上で運用可能な、海上保安庁最大級の最新型巡視船です。

高速航行向きの細長い船型など、駆逐艦に近い性能を誇る期待の後輩です。






おまけ

南極観測船に代々受け継がれる鮮やかな塗色、「アラートオレンジ」。
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おっと間違えた、これはウチのオレンジ色の片手鍋だった。


南極観測船に代々受け継がれる鮮やかな塗色、「アラートオレンジ」。
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視認性の高さからこの色が採用されました。



同じく視認性の高さから、航空関係では「インターナショナルオレンジ」が救難機などに使われます。(二代目南極観測船「5001『ふじ』」搭載のシコルスキーS61A)
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東京タワーの塗色も航空標識にならい、インターナショナルオレンジ/白です。
遠目に見ると赤/白に見えますが。



また、フライトジャケットの裏地は伝統的に「レスキューオレンジ」です。
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遭難時にはこの面を広げ、発見され易いようにとの工夫です。

レスキュー隊員の制服も視認性を高めるため、「レスキューオレンジ」が多く採用されています。


そういえば1966年放映開始の「ウルトラマン」に登場する、「科学特捜隊」の制服もオレンジ色でした。科特隊はかなり先進的だったのかも。
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何とはなし、オレンジ色が頼もしく思えてきます。

とはいえ別に、「オレンジ色の『憎い』奴」とは全く関係はありません(笑)






今回のタイトルは、1947年のヒット曲「港が見える丘」から採りました。
「♪あなたと二人で来た丘は 港が見える丘…
…ちらりほらりと花片(はなびら) あなたと私に降りかかる 春の午後でした♪」
と続きます。


「港が見える丘」が何処かには諸説ありますが、横浜市中区山手町の高台に、この曲にちなんで命名された、1962年開園の「港の見える丘公園」があります。
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左の鉄塔に掲げられた、国際信号旗による4文字の旗旒信号は「AHHW」。
昔の港湾コードによる「横浜信号所」を今も示しています。

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昔の横浜港への入港目標には、
鳥ヶ埼信号所(AQTV 横須賀市)⇒富岡沖灯浮標(ブイ)⇒北1.2マイル本牧鼻(岬)−外防波堤灯台−横浜信号所(AHHW)−内防波堤灯台とあったようです。



かつての内防波堤灯台(東水堤白灯台)。
山下埠頭の拡張により1958年に灯台としての役目を終え、「氷川丸」を見守る現在の場所に移設されました。
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氷川丸について詳しくはこちらの記事で (その1)  (その2)



港の拡張や横浜ベイブリッジの建設により、港の見える丘公園からの眺望は海がやや遠ざかってしまいました。
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この公園には、国際信号旗による旗旒信号がもうひとつ掲げられています
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横浜を舞台にしたジブリ映画に登場した、
「貴船の安航を祈る−Bon Voyage!」を意味する、2文字の「UW」旗。
「UW」に語源的な意味は無く、この旗を掲げる事が「Bon Voyage!」を意味します
現物は… お出かけになった際にでも探してみてください(^^ゞ



今回は此処から、山手の古い洋館を眺めに出掛けます。(UW1)←「UW」への返答



港の見える丘公園の敷地内、イングリッシュガーデン越しの「イギリス館」。
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イギリス館は1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建てられました。
コンサートホールや集会室として、今でも現役です。

イギリス館周辺は「イギリス山」と呼ばれますが、1859年の横浜開港直後の1864年、自国民保護の名目で、イギリスがここを軍の駐屯地とした事に由来します。



イギリス山の北側は「フランス山」と呼ばれています。
こちらも、1863年にフランスがここを軍の駐屯地とした事に由来します。
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フランス山に残る遺構は、1930(昭和5)年に建てられたフランス領事館官邸。
残念な事に、戦後すぐの1947(昭和22)年に焼失してしまいました。



イギリス山に戻り、
イギリス館の南側に建つのは、南欧風の外観の「山手111番館(ラフィン邸)」。
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玄関前の3連アーチのパーゴラ(日陰棚)が特徴的な、1926(大正15)年の建築です。
米国人実業家ラフィンさんの自宅として、横浜の建築にとても縁の深い米国人建築家J.H.モーガンが設計を担当しました。

鉄筋コンクリート造地下1階+木造地上2階建。
地下の一部は現在喫茶室になっていて、バラ園を望むとても素敵な休憩所です。




「AHHW」旗旒信号の西南西側に戻ると、存在感のある「横浜地方気象台」。
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1927(昭和2)年に竣工した、モダニズムとアールデコが交差する建築です。
訪れた時は残念ながら公開時間外で内部を見学出来ませんでしたが、シャープな外観に対し、曲線を多用した優しいアールデコ調の室内が独特の趣きです。




横浜地方気象台から山手本通りを南に進むと、緑の外壁が特徴的な小さな洋館、
「山手資料館」があります。
1909(明治42)年に本牧に建てられた牧場の応接室を、1977(昭和52)年にここに移築しました。
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「山手資料館」の現在地での保存に大きく貢献したのが、「山手資料館」のすぐ隣に建つ、横浜ではとても有名なレストラン「山手十番館」です。
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山手十番館は、1927(昭和2)年創業の「勝烈庵」、こちらも横浜では有名なカツレツの老舗の流れを汲みます。
この建物自体は1967(昭和42)年の建築ですが、今や山手の他の洋館群に引けを取らない風格を保っています。



山手資料館の南に建つ大きな教会は、「横浜山手聖公会」。
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上述の山手111番館と同じJ.H.モーガンの設計による、1931(昭和6)年の建築。
大谷石を用いた外壁が、ちょっと独特な雰囲気を醸し出します。
この教会は1945年5月の横浜大空襲、2005年1月の火災と、二度に渡り大きな被害を受けましたが、その度に修復され今に至ります。




街路樹の緑の中に建つのは「山手234番館」。
関東大震災の復興事業として、1927(昭和2)年に立てられた共同住宅です。
1階が展示スペース、2階はギャラリーなどに利用されています。
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山手234番館の南西、元町公園の一角に、1926(大正15)年に山手町127番地に建てられたスイス人実業家の自宅、「エリスマン邸」が移築されています。
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この建物が元々建っていた山手町127番地は、現在地から南東に約400m。
再開発による解体が決定した際、ここに移築保存しました。
直線的でモダンなデザインは、現代の住宅に通じるものがあります。

この家の一角はカフェになっていて、醤油ベースのプリンとかサンドイッチといった、ちょっと変わった美味しいメニューが楽しめます。




エリスマン邸−元町公園の西に建つのが、横浜山手の洋館住宅の中では最も大きな、1930(昭和5)年建築の「ベーリック・ホール」。
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英国人貿易商ベリックさんの自宅として、上述の「山手111番館」や「横浜山手聖公会」を手掛けたJ.H.モーガンが設計しました。
大きな住宅なのに、南欧風の軽快さが特徴的です。

訪れた時には結婚式が行われていて、内部を見学する事が出来ませんでした。
ここまで眺めてきた「イギリス館」、「山手111番館(ラフィン邸)」、「山手十番館」、「エリスマン邸」、ここ「ベーリックホール」、更にはこれから登場する「外交官の家」、「ブラフ18番館」では、結婚披露宴やパーティーを行う事が出来ます。

歴史ある西洋館でのイベント、一度くらいは誰か招待してくれないかなあ(^^ゞ



ベーリックホールから西に約500m、山手イタリア山庭園の一角に建つのが、1910(明治43)年に渋谷区南平台に建てられた旧;内田邸、「外交官の家」です。
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1997年に南平台からこの地に移築されました。
この家の一角も喫茶室になっていて、絶好の休憩スポットです。



「外交官の家」から少し下ったところに、関東大震災直後の1923(大正12)年に山手町45番地にオーストラリア人貿易商、バウデンが建てたと云われる「ブラフ18番館」。
この名称は、現在この建物の建つ場所(旧山手町18番地)に由来するものです。
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こちらの建物、正確な竣工年などは不明なのですが、震災前から山手町45番地に建っていた建物を、バウデンが震災直後に再建したものと考えられています。
1991年までカトリック山手教会司祭館として使われた後、現在地に移築されました。



何だかカタログみたいになってしまいましたが、横浜山手の洋館群は、殆どが関東大震災後、大正末から昭和初期の建築なので、意外な程軽快でモダンな趣です。
また、個人の住宅が多く、往時の暮らしを感じる建築が多いのも見所でしょうか。

ただ、これだけの建物群を順に見て歩くと、かなりの時間がかかります。
なので今回はここ迄に。



「♪あなたを想うて来る丘は 港が見える丘…
…うつらとろりと見る夢は あなたの口許 あの笑顔 淡い夢でした♪」

「港が見える丘」のエンディングは、少し淋しかったりします。



それでも「UW」旗でも掲げ、
人生の荒波ってやつを、何とか乗り切ってゆきたいものです。
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改めて
「Bon Voyage!」




東京都下、JR中央線武蔵小金井駅からバスで5分、都立小金井公園の中に広大な屋外博物館「江戸東京たてもの園」があります。
ここはその名の通りに、江戸から昭和時代の建築を移築保存しています。
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「下町中通り」と名付けられたこの通りには、銅板葺きの外壁が特徴的な昭和初期の「看板建築」の商店が建ち並びます。
この通りは、ジブリ映画のモデルになったとも云われています。




通りの突き当りに、社寺風の外観を持つ如何にも東京的な銭湯、「子宝湯」。
1929(昭和4)年の建築(足立区千住元町から移築)。
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子どもの頃にはこの手の銭湯がまだ多く街に残っていましたが、今では殆ど見かけなくなりました。


何故銭湯と神社仏閣が似ているのか昔は不思議でしたが、柱の無い広い室内空間と高い天井という共通項があったのだと、今では分かります。
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銭湯といえばやはり、富士山のペンキ絵が欠かせません。
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とはいえ銭湯のペンキ絵は、東京・神奈川を中心とするかなりローカルな存在だったと、大人になってから知りました。


全国区的には、タイル絵やモザイクタイルのほうが一般的なようです。
このタイル絵は猿蟹合戦かな?
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風呂上りには、格天井を見上げてフルーツ牛乳を飲み干しましょう。
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とまあ、子どもの頃の銭湯を思い出したりします。


江戸東京たてもの園には、このような建物が30棟も移築保存されているので、全部を見て回るのは結構大変です。なので個人的にお気に入りの物件を一部ご紹介。




まずは1937(昭和12)年建築の「常盤台写真場」。
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東武鉄道が1936(昭和11)年から分譲を開始した郊外住宅地、板橋区常盤台に建てられました。


建物2階北側にある写場(上記写真左上)は、自然光を巧みに取り入れる大きなスリガラスの窓が特徴です。
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この光を見ていると、ふとフェルメールのアトリエを連想します。


居住空間は、和がやや強めの和洋折衷スタイル。
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80年前から今に通じるモダンなテイストに感心します。
今と異なるのは、ガラス一枚のサイズが小さい事くらいでしょうか。




もう一軒は、1925(大正14)年建築の「田園調布の家(大川邸)」。
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田園調布といえば今では超高級住宅地の代名詞ですが、当時の田園都市株式会社(東急の前身)*が1923(大正12)年に分譲を開始した郊外住宅地でした。
この家の施主は鉄道省の技師、いわば大正期の勤め人が郊外に建てた自宅です。


*「田園都市」は渋沢栄一を中心とする実業家グループが大正期に提唱した、「理想的な郊外住宅地」の建設を目指す開発計画とその事業。
郊外に向けて鉄道を敷設、その沿線に都市計画に基づく街を総合開発し、都心に通勤する層に向け「文化的で理想的な郊外住宅」を提供するというビジネスモデルでした。
現在に至るまで、日本の都市開発に大きな影響を与えています。

東京都大田区から世田谷区にかけての田園調布地区が、最も成功した事例といわれています。



この家のデザインは、とても92年前とは思えない程モダンです。
タイル貼りの玄関床に、ベンチにもなる作り付けの低いシューズロッカー(下駄箱とは呼びたくないところ)。玄関ホールからリビングに通じるドア。
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上り框が伝統的家屋のように高く無く、現代住宅と同じ高さ(低さ)です。
一枚上の外観写真に写っていますが、現在では主流のベタ基礎が使われているようです。関東大震災後の建築なので、耐震性を考慮したのかもしれません。



そして玄関ホールから入ったリビングを、家の中心とする間取り。
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左のドアが玄関ホール。ピアノの奥、右のドアが主寝室。奥にダイニング。


リビング南面には、二面採光の窓と作り付けのベンチ。
下部が収納スペースを兼ねています。
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この窓の外に見えるのが、


パーゴラ(日陰棚)のあるテラス。奥に二面採光の主寝室。
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丸テーブルを中心としたダイニングにはペンダントライト。
作り付けの食器棚の下に、キッチンと繋ぐカウンタ。
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一列に並んだキッチンカウンタ。右の収納の中央がダイニングに繋がるカウンタ。
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もう見事なまでに、現代のシステムキッチンと同じ考え方です。


間取り図を見ても北側に集中させた水回りなど、とても92年前とは思えない今風の造りです。今と違う贅沢さは独立した書斎と、住み込みのお手伝いさんの部屋がキッチン脇にある点でしょうか。
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お手伝いさんの部屋(女中部屋)だけが、唯一畳敷きという割り切り方です。
(実際には竣工後、主寝室を畳敷きに変更したようです。)
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建築面積がおおよそ100㎡(約33坪)の平屋建とそれ程広くはないため、作り付け家具の多用や、採光面を広く取った明るい部屋など、現代住宅とほとんど同じアイデアが既に採用されています。
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しかも、この家の建て方は、輸入材を多用した2×4(ツーバイフォー)工法!
ますます現代住宅と同じです。

実寸した訳ではありませんが、部屋の広さや建具の微妙な小ささが、輸入材と国産材を併用した(インチ・フィートと尺貫法が混在する)、1970年代の2×4住宅ととてもよく似ています。

ちなみに現在は2×4専用資材を使うので、微妙に広めに仕上がります。
(1尺[曲尺]=30.303cm、1フィート=30.480cmと、西洋式の方が少し長い。)




まあそんな細かな事はともかく、
この家に暮らすひとたちは、1931年に登場した東急のモハ510系あたりに乗車して、郊外から都会に通勤や通学、買い物に出かけたのでしょう。
生活スタイルも今とあまり変わらないなあ、なんて思ってしまいます。
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東急田園都市線宮崎台駅、電車とバスの博物館所蔵車両。
モハ510系について詳しくは、こちらの記事で。
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つい、乗り物のほうに思いが走ってしまう訳ですが、江戸東京建物園内には1962年に登場した都電7500系も保存されています。
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都電は、最盛期には路線距離が200kmを超える日本最大の路面電車網でしたが、利用者減などにより、荒川線(12km)以外の路線は、1967年から1972年にかけ順次廃止されてゆきました。
当時の情勢では仕方無かったとはいえ、今思えば勿体ない事をしたものです。




こちらのバスは、1950年代の都営バスの塗色ですが、1979年製いすゞTSD43四輪駆動シャシーに、1968年製北村製作所のバスボディを架装した変わり種。
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このバスは今も走る事が出来るのだとか。




江戸東京たてもの園のある都立小金井公園には、C57-186号機も保存されています。機関車の後ろには、スハフ32系客車が1両連結されています。
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C57-186号機は1946年に製造され、1975年に引退するまで文字通り日本中を走り回りました。



最後は乗り物に走ってしまいましたが、江戸東京建物園には、三井さんち*の豪華な邸宅など、他にも見どころがたくさんです。
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*三井さんち;往年の三井財閥の総領家。
最後の財閥当主となった、第11代三井八郎右衛門邸が移築保存されています。
ちなみに上記写真は、三井さんちの廊下のシャンデリア!

ついでに11代目は自動車好きとしても有名で、歴代の愛車が凄いものばかり。
例えば、
左のイスパノ・スイザ(西)とか、右のブガッティ(仏)などなど。
イメージ 26イメージ 27
(実際の所有モデルとは異なります)
画像は長久手市トヨタ博物館所蔵 これらの車について詳しくは、こちらの記事で。

おっと、最後の最後まで乗り物に走ってしまった…


「江戸東京たてもの園」
東京都小金井市桜町3-7-1 都立小金井公園内
4月〜9月:午前9時30分〜午後5時30分
10月〜3月:午前9時30分〜午後4時30分
(入園は閉園の30分前まで) 月曜休園

ただし、殆どが屋外なので、暑い時期に巡るのにはちょっと気合が要ります(^^ゞ


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