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<photo> by : Kalinjin .K
6月中旬・・・・、梅雨空が続きますネ、あたりまえですけど・・・・。 (*-ω-)
さて、6月15日は弘法大師・空海のお誕生日です。
ハッピー!空海! 〜〜〜♪ ☆.。.:*・゚☆.。.:*・゚☆ 祝 ☆゚・*:.。.☆゚・*:.。.☆
というわけで・・・・・、今回は密教僧空海の生涯について、少々。
弘法大師 空海 774〜835
言わずと知れた平安時代初期の密教僧、日本真言宗の開祖です。
無所属無宗派のお気楽禅師・夏林人もこの御方だけは尊敬しています。
本名 : 佐伯 真魚(さえきのまお)
宝亀5年(774)讃岐国・現在の香川県善通寺市に生まれました。
幼少期から他の子供たちとはどこか違い、粘土をこねて仏像を造ったり、
竹を刈ってミニ草庵を設け、そこに仏像を安置して遊んでいました。
延暦12年(793)19歳の頃から、真魚は山林修行に入ります。
彼は20代の数年間を通して、儒教・道教・仏教の比較研究を行い、
中国語や梵語(サンスクリット)も学び続けました。
その当時の真魚(空海)は僧としてはまったく無名であり、極貧生活の中、
乞食同然の格好で托鉢をしていました。 近隣の村々を訪ね歩くと・・・・、
罵声とともに小石や瓦礫が雨あられのように降ってきたと言います。 ((((;゜Д゜)))
このとき、この乞食坊主がやがて日本真言宗の開祖になるとは、
誰ひとり予見することなどできなかったのです・・・・・・・・・。
ある日、真魚は室戸岬の海蝕洞窟で瞑想中に、不思議な体験をします。
今まで見たこともない不思議な白光に包まれ、すっきりと開かれた境地を
味わったのです。このとき真魚の眼には空と海しか映っていませんでした。
この神秘体験に基づいて、真魚は空海と名を改めました。
延暦23年(804)、31歳の空海に千載一遇のチャンスが訪れます。
遣唐使の留学僧として中国へ渡る許可を得たのです。
このときの同期生には、最澄、橘逸勢、霊仙などの姿がありました。
しかし神々の試練は厳しく、港を出た4隻の船のうち、中国大陸へ至ったのは
わずか2隻。あとの2隻は激しい荒波にもまれ、黒い海へ沈みました。
命がけの船旅で上陸を果たした空海は、長安の青龍寺へと向かいます。
無論、真言密教の第7祖・恵果に会うためです。
当時、恵果には1000人にも及ぶ中国僧の弟子たちがいましたが、
なかなか次の伝承者を決められず、苦心していました・・・・・。 (´-ω-`)
日本からやってきた無名の僧・空海と会った瞬間、
恵果は強いインスピレーションを感じ取ります。 この男・・・・、
ただの僧ではない・・・・・・。 何という澄んだ眼差し・・・・・。
そして程なく、空海の優れた才能を見抜きます。
・・・・・・・そうだ・・・・・、私はこの男が来るのを待っていたのだ・・・・・。
恵果の弟子となった空海は、砂が水を吸うがごとく真言密教の奥義を
次々と会得していきます。仏教の系譜の中でも呪術的色彩が濃く、難解で
凡人には理解しがたい大日如来の宇宙的存在意義も空海は会得しました。
伝承者の位を空海に授ける覚悟を決めた恵果は、仏舎利(釈迦の遺骨灰)、
貴重な経典、仏像、仏具、袈裟などを空海に譲りました。
そしてまもなく、恵果は他界。師の意思を継いだ空海は日本へ帰国します。
大同4年(809)、和泉国槇尾山寺へ。その後、京の高雄山寺へ身を寄せます。
弘仁7年(816)、ついに高野山の森に道場を開く権限を手に入れました。
数年を経て、伽藍建立を果たし、ここに日本真言宗は産声を上げたのです。
承和2年(835)、弘法大師空海、入寂・・・・・。
高野山においては今も空海は生きていると伝えられています。
空海が瞑想していた奥の院へ衣服や食事を届ける特別職の僧(維那)が
今も空海のために一日も欠かさず給仕を行っています。
(´・ω・`)
い
道うことなかれ 此の華 今年開くと
まさに知るべし 往歳種因を下せることを
by : 空 海
【 解 説 】 夏 林 人
いま、目の前に美しい華が咲いていたとしても
それはこの瞬間に突然咲いたものではない・・・・・・。
種や土壌、水や太陽光などの条件に恵まれて、ようやく咲いたのだ。
人間も同じこと。日々の行いが、やがて人生の花を咲かすことになる。
皆様のお言葉をお待ちしています。
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偉人の庭
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東北南部、一気に気温が上昇し、平地の桜が目を覚ましています。
咲き残っていた梅の花、レンギョウ、ハナモモなどに加えて桜が満開となり、
さらにヤマブキが咲き、ヤナギの新緑さえも芽吹いています。
まさに百花繚乱・・・・・。前回、桜に因み西行の特集記事を書きましたが、
今回は西行の影響を受けた花僧たちのお話を少々・・・・・。
平安末期を飾る漂泊の花僧・西行法師の美学は、
その後の日本人の精神風土に極めて大きな影響を与えました。
和歌や俳句、小説や演劇等の文学的美意識への波及は無論のこと、
「咲いて散る美しさ」は個人の死生観&無常観にまで影響しています。
西行が生きていた時代、西行より少し年下に慈円(じえん)という僧侶がいました。
まだ若き日の慈円は武官を辞めて漂泊の僧となった西行の噂を聞き、
仏教の奥義を授かるべく、西行を訪ねます。 しかし・・・・・、
慈円の願いとは裏腹に西行は仏教の話など一切せず、和歌の話ばかり・・・・。
意図することが理解できず、若き慈円は狼狽します。
西行は慈円に語りかけました。
・・・・和歌の心得が無ければ、真言も得られないのですヨ・・・・と。
つまり言の葉を編むことによって心を整える・・・・・、
それは経典を読んだり坐禅を組んだりすることと同じことなのですヨ・・・・・・と。
1190年、西行が亡くなったとき、慈円は追悼の和歌を詠みました。
君知るやその如月と言ひ置きて
言葉におへる人の後の世
慈 円
【 現代語 】 夏林人
あなたが和歌の中で予言したとおり、あなたは他界してしまった。
あなたが残した言葉はいずれ後世に大きな影響を及ぼすでしょう。
慈円が天寿を全うして数百年後、江戸時代に入ってから、
安芸国広島に似雲(じうん)という人物が誕生します。
似雲は京都で和歌と仏教を学び、諸国を行脚しながら和歌を詠む・・・・、
西行によく似たスタイルの人生を歩みました。西行を尊敬し、西行のように
生きてみたいと思っていたのです。周囲の人々は彼を今西行と呼びました。
そしてある日、似雲はたいへんな発見をします。
大阪南河内の弘川寺に見捨てられた西行の墓を発見したのです。
没後540年の歳月が過ぎ去ろうとしていました・・・・・・。
西行の魂を弔うべく、似雲は墓の周りに桜の樹をたくさん植えました。
西行に姿ばかりは似たれども
心は雪と墨染の袖
似 雲
【 現代語 】 夏林人
西行に憧れ西行のような恰好をして西行の真似事をしてみたけれど、
なかなか心の中に鮮やかな花を咲かすことができない。 結局・・・・、
私の心象には薄暗い雪景色と墨染の袖しか無いような気がする。
福島県 二本松市 本久寺
俳人・松尾芭蕉が辿った奥の細道は、芭蕉が開拓したルートなどではなく、
すでに500年前に西行法師が歩いた道なのです。
芭蕉もまた慈円や似雲と同じように西行に憧れていました。
日本文学の価値観やそれを読む読者のココロも・・・・・、
その多くは西行の影響下にあると言って過言ではないようです。
注) 今回 u p した写真は、福島市や二本松市など夏林人棲息圏の風景です。
(´・ω・`)
皆様の御言葉をお待ちしています。
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東北南部、夏林人地方ようやく桜の開花期を迎えました。
咲きそうで咲かない・・・・妙なもどかしさが続いていたのですが、
19〜20日にかけて近隣の桜の蕾が一気に開きました。
開花を祝して、本日は「花僧西行」のお話など、少々・・・・・・。
西行・・・・・・、日本人の美意識の源流に湧いた漂泊の花僧・・・・・。
本名 : 佐藤義清(さとうのりきよ)1118〜1190、
藤原秀郷の末裔であり、代々、御所の警護を司る武官の家系に生まれ、
義清(西行)本人も鳥羽院北面の武士として公務に勤しむ日々がありました。
流鏑馬(弓道馬術)はもとより蹴鞠や和歌など、御所の行事にて
たいへん優秀な実績を示し、若くして高い評価を得ていました。
そのうえ眉目秀麗・・・・・、颯爽たる姿の義清は女性たちの注目を集めました。
武官としての公務、藤原家子孫ゆえの荘園・・・・・等々、
何不自由ない生活を送っていたはずなのですが、義清は突然、
大切な御所の仕事を辞めて、出家してしまいます。
西行の出家理由は謎に包まれたままで、今も判然としません。
友人の死、失恋の傷心、政争に対する嫌気・・・・・など、
いろいろあったと伝えられていますが、真相は西行にしかわかりません。
23歳の頃、勝持寺にて出家しましたが、鞍馬や嵯峨など京都の周辺部に
庵を結び、転々とします。一念発起、僧侶に転身したわけですが、それは
僧のスタイルを借りたに過ぎず、なかなか仏道に専念できません。
まだ若き西行は都の華々しい生活に未練があったのです。
春風の花を散らすと見る夢は
さめても胸の騒ぐなりけり
西 行
仏典などあまり読まず、桜をテーマにした和歌を詠み耽ります。
仏道や悟り云々というよりは数寄の暮らしを楽しんで、京都各地を
何となく彷徨っていた・・・・・・・・・と言ったほうが正しいかもしれません。
26歳の頃、西行に転機が訪れます。
当時、異国的な北の僻地であった奥州への旅です。
西行は生涯で計2回の東北旅行を体験していますが、
一度目は26歳頃、二度目は69歳の時です。
山紫水明の地を歩き、歌枕の聖地を訪ねる風雅な旅・・・・・・、
との見方もあるようですが、少なくとも2度目の時は奥州藤原氏に対する
砂金勧進(寄付のお願い)が目的であったと伝えられています。
源平の争乱で焼失した東大寺を再建すべく、その当時、勧進職に就いていた
重源(ちょうげん)からの依頼を受けて、西行は平泉の親戚を訪ねたのです。
旅の途中、西行は信夫の里(福島県福島市)に立ち寄ります。
無論、信夫の里には佐藤一族が住んでいたからです。
源義経に随行し戦乱を生き抜いた武士・佐藤継信&忠信の故郷は
現在の地名で言えば福島市飯坂町・・・・・・・です。
藤原秀郷の子、藤原千常の子孫に生じたのがいわゆる「佐藤姓」であり、
西行(佐藤義清)も佐藤継信&忠信も血のつながった親戚関係なのです。
福島市飯坂町 鯖湖湯 あかずして別れし人の住む里は
佐波子の見ゆる山の彼方か
西 行
【 現代語 】 夏林人
名残惜しいようだが、信夫の佐藤氏と別れ、旅を続けよう。
振り返れば、山の彼方に小さく佐波子(鯖湖湯)が見える・・・・。
※ 佐波子とは昔の地名です。今は鯖湖の字が使われています。
第一回目の奥州の旅を終えた頃から、西行の生活観に変化が生じます。
それまでは京都周辺を徘徊していたのに、吉野山に草庵を結んで、
3年間はどっしりと腰を落ち着けるようになりました。(吉野奥千本時代)
そして32歳の頃、いよいよ高野山へ入ります。
すでにこの頃は雑念や迷いが無くなっていたのでしょう。
この高野山生活は30年間にも及びます。
ちょうど時代は保元の乱〜平治の乱・・・・・、天皇と上皇が分裂し、
平家の台頭、源氏の巻き返し・・・・・、血なまぐさい戦乱があちらこちらで
勃発していました。政争のみならず飢饉や疫病なども各地で発生し、
世の中は混沌としていました。
西行は・・・・・、その感受性の鋭さゆえに・・・・・・、
あるいは平安末期という時代の空気感をいち早く感知し、
御所の武官を退いたのかもしれません・・・・・。
晩年の西行のところへ、まだ若き明恵上人が訪れ、談話の中で
西行独自の歌論を学ぶ機会を得ます。
一首詠み出ては 一体の仏像を造る思ひ
西 行
西行は明恵上人に語りました。
じつは私も若い頃は数寄の精神ばかりで、気取った和歌を詠んでいたのだが、
ある時期からその未熟な境地を脱することができた・・・・・・。
今は、一首の和歌を詠む時、一体の仏像を造る思いでそれを行っている。
言の葉を編み上げて観念上の仏像を造るのだヨ・・・・・。
(´-ω-`) 深い・・・・
春ですネ〜♪ (o*~∇~*)
皆様の御言葉をお待ちしています。
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東北南部、まだまだ春の進行が鈍い感じがします。
もう少し気温が上がれば花々も咲き誇るはずなのですが・・・・・。
3月16日、戦後最大の思想家・吉本隆明さんが他界されました。
本日は吉本隆明氏について、少々お話などを・・・・・。
よしもとばなな・・・・・は知ってるけど、吉本隆明は知らない。
え・・・? 吉本隆明って、よしもとばななサンのお父さんなの〜?
それが、近頃の読者さんたちの意識なのだそうです。。。( ̄ー ̄;)....ありゃ??
吉本隆明(よしもとたかあき) 1924〜2012 日本の思想家
東京月島出身。戦前に生まれ、多感な時期に第2次世界大戦を経験し、
敗戦後の思想的混迷を斬って斬って切りまくった人です。
1945年、広島・長崎の原爆投下によって日本は終戦を迎えました。
竹槍で敵国を倒せと叫んでいたのに、一転して、ギブミーチョコレート〜♪
すべてを失った状況から戦後復興〜経済成長へと向かう時代に、
わが国の思想界も大きな変化を強いられていました・・・・・・・・・・。
反戦・平和を訴える人々が古色蒼然たるマルクス・レーニン主義を弄び、
複雑怪奇な机上の空論を繰り返していたわけですが、それらはすでに動き出した
昭和の怪物的経済とは噛み合わないことも多々ありました・・・・・。
1968年、吉本隆明は歴史的な名著 『共同幻想論』 を発表します。
この書物は当時の知識人たちに強烈なインパクトを与えました。
一般に有形のものとして扱うのが常である国家像を、あえて無形のもの
として扱い、原始レベルの人間精神から解析を試みた革命的思想書でした。
わかりやすく言えば、先天的に国家が存在するのではなく・・・・、
人と人が集まればグループが生じ、それが肥大した姿こそ国家なのだヨ・・・・、
その制度を信じている人々にとっては国が存在するけれども、
ほんとうは何も無いという視座から考えるのが正しいんじゃないの〜?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・という考え方なのです。
国家、自治体、法人、法律、宗教、祭祀、村社会・・・・、あらゆる共同体は
その構成員が共通の約束事(多くの場合は禁忌)を意識しているからこそ
制度が成り立っているのであって、その共同幻想が消えてしまえば、
あくまでも個人と個人の寄せ集めに過ぎないのです。
イデオロギーがどうのこうのと概念的な屁理屈に終始していた知識人たちは
まさに「目からウロコ状態」になってしまったというわけです。
左とか右とか・・・・・、そのようなレベルの話を超越してしまったのです。
( わたくし夏林人も20歳前後にこれを読み、衝撃を受けました )
思想的閉塞状況が破られ、何も無いところから何かを生み出そうとする
文化的エネルギーが次第に芽生え出したのが70〜80年代でした。
忌野清志郎、坂本龍一、北野たけし、糸井重里・・・・・・。
吉本隆明はその新しい潮流を歓迎し、高く評価しました。
サブカルチャーへの関与も楽しそう行っていましたね・・・・・♪
戦後の政治経済文化に多大な影響を与えた、横綱級の思想家なのです。
慎んでご冥福をお祈りいたします。
さて、東日本大震災という国難を経験した私たちは今・・・・、
ヒロシマ・ナガサキ・・・・・にも匹敵するフクシマの衝撃を味わいました。
復興期にあたる現在は、戦後の状況にもよく似ています。
未曾有の国難を境にして、「震災前」と「震災後」では政治も経済も哲学も
ありとあらゆることが大きく変わっていくはずです。
科学万能主義は果たして人間を幸福にしたのか?
オール電化の人工楽園のために何が犠牲になっていたのか?
中央集権的国家は災害時に地方を救済できるのか?
これらの問題は後世の学者たちによって厳しく解析されていくはずです。
新しく台頭してくる新思想の人々の眼には、今日の原発問題などは
未開時代の稚拙な技術・・・・・あるいは愚の骨頂に映ることでしょう。(´・ω・`)
自由に考えることの大切さを教えてくれた
吉本隆明大横綱に・・・・・感謝です。
皆様の御言葉をお待ちしています。 |
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東北南部、寒波の中にも少し明るい日差しが感じられます。
来たる2月14日はバレンタインデー・・・・・・なのですが、
もうひとつの視点として、美術運動家・岡倉天心の誕生日でもあります。
本日のお題は・・・・・・ズバリ、「岡倉天心の生涯」です。
岡倉天心( 本名 覚三 )は幕末横浜の生まれです。
幼い頃から英語に親しみ、頭脳明晰で、東京開成所( 現・東大 )に入ります。
そこで東洋美術研究家のアーネスト・フェノロサと出会い、彼の助手になります。
1880年( 明治13 )頃からフェノロサとともに各地を巡り、
日本仏教美術の調査事業を行うようになりました。
フェノロサ 「日本の仏教美術は素晴らしい。是非、現場を案内してください!」
岡倉天心 「わかりました〜! それでは奈良の興福寺へご案内します〜♪」
現場に辿り着いた二人を待ち受けていたのは・・・・・・・・、
地面に転がる手、足、頭・・・・・、無惨に破壊された仏像の姿でした。
それもそのはず・・・・・・・・・、
幕末から明治に切り替わる頃に新政府が出した「神仏分離令」が
ヒステリックに波及し、全国的な廃仏毀釈運動が行われていたのです。
当初、新政府の意図としては神道(神社系)を中心軸に国家の姿を整え、
独立した国家像を西洋に示すのが狙いであったと考えられるのですが、
庶民はこれを拡大解釈・・・・・・。 露骨な仏教弾圧をやってしまったのです!
( 今も全国の寺院で首無し地蔵や腕の無い仏像が確認できます。例:島根県隠岐 )
奈良興福寺ではこの魔女狩り的な弾圧に危険を感じた僧侶たちが、
となりの春日大社に逃れ、そのまま神官になってしまったという逸話さえあります。
貴重な経典は奪われ、転売され、最後は商品の包み紙に・・・・・・。
木製の仏像は破壊されたあと、薪として燃やされました・・・・・。
遺跡は血に染まり 緑の苔まで生ぐさい
鬼や霊が古庭で哭いている
by : 岡倉天心
粉々に砕かれた仏像を見て、天心は心に誓います。
・・・・・・・・千年以上の歴史が一瞬にして破壊されてしまう・・・・・・・・
・・・・・・・・東洋の美意識が結晶した日本の魂が失われていく・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・仏閣・仏像・経典・仏教美術全体を守る必要がある〜!・・・・・・・・・
卒業後、天心は文部省に入り、文化財保護の仕事に取り組みます。
西洋崇拝的な風潮の中で、見捨てられていた日本美術を再発掘すべく、
古社寺保存法( 現・文化財保護法 )制定への道を拓きます。
フェノロサもまた尽力し『 国 宝 』という概念を生み出します。
アーネスト・フェノロサ 1887年( 明治20 )、東京美術学校設立。天心とフェノロサは新しい美術学校の
中にも仏像修復の部門をつくり、失われた和の魂を取り戻そうとします。
東京美術学校には横山大観ら、のちに巨匠となる若者が集まってきました。 少しずつ日本の美意識が復興されていく兆しが見えはじめました・・・・・。
ところが・・・・・・!
再び、天心の生涯に運命的な事件が起こります。
西洋かぶれの反・天心派の者たちが恐るべき怪文書を配り、
岡倉天心を排斥してしまったのです・・・・・・!
美術学校を追い出された天心は弟子の横山大観ら数名とともに
上野谷中に日本美術院を発足させます。これがいわゆる『 院 展 』の母体です。
1901年、岡倉天心はインドへ旅立ちます。
そして・・・・、インド国歌作詞者:タゴールと交流します。
1904年、ボストン美術館の要職に就任。
1905年には日本美術院の拠点を茨城県五浦に移します。
1913年、新潟県赤倉温泉の山荘で永眠したと伝えられています。
岡倉天心 1863〜1913
岡倉天心を語るとき・・・・・・・、
その背景に明治時代という激しい奔流を知る必要があります。
19世紀、アジア諸国が西洋からの侵略的なアプローチに威圧され、
その触手は日本へも及ぼうとしていました・・・・・。
征服の触手をかわすために、当時の日本人は「 脱亜入欧 」を唱え、
東洋的なイメージを切り捨てようとしたのかもしれません。
日本はアジア圏じゃなくて西洋の一部です・・・・・・、と。
殿様が消え、刀が消え、法が変わり、衣食住も一変しました。
男はスーツにネクタイ、女はドレス、洋食を食べながらカタカナ語を話す。
擬態とも言うべきこの傾向は、古い時代の象徴である仏教美術への弾圧、
すなわち廃仏毀釈現象を引き起こしたのです。
魔女狩りにも似た嵐のような激流の中で、
岡倉天心はあくまでも東洋を意識し、「和の魂」を守り抜いたのです。
岡倉天心の名著 『茶の本』 は今も世界中で愛読されています。
茶道、華道、弓道、剣道、陶芸、草木染、盆栽、和裁、和食、古民家・・・・・。
和の素晴らしさを語り出したら、枚挙に暇がありませんネ♪
最後に岡倉天心の名言をご紹介します。
ア ジ ア は 一 つ で あ る
by : 岡倉天心
皆様の御言葉をお待ちしています。 |





