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福島市観音寺 夏椿の花 <photo> by : Kalinjin .K
東北南部、数日のあいだ爽やかな晴れ間も見られたのですが、
再び梅雨の蒸し暑さが戻ってきました。梅雨明けはもう少し先のようですね。
冒頭の写真は福島市観音寺の裏庭に咲いたナツツバキの花です。
本日は旬の花・・・・・、ナツツバキのお話など、少々。
ナツツバキ( 夏 椿 )はツバキ科の落葉樹で、日本や朝鮮など東アジアに
古くから自生している樹木です。6月下旬〜7月上旬に白花を咲かせ、
樹の幹肌がツルツル滑らかで美しいため床柱などにも用いられます。
白花は典型的な一日花。午前中に咲いて、その日の午後に散り始めます。
清楚かつ幽玄、そのうえ独特の無常観が漂う不思議な花です。
日本各地の仏教寺院でよく見かけますが、これには理由があります。
ナツツバキ( 夏 椿 ) ツバキ科 日本原産 サラソウジュ ( 沙羅双樹 ) フタバガキ科 インド原産 ※ 画像 草津市立水生植物公園 H P
紀元前のインド・・・・。仏教開祖・釈迦が高齢になり、いよいよ涅槃に入る直前、
釈尊の希望で沙羅双樹の樹の近くに身を寄せたことから、この樹は菩提樹や
無憂樹と並んで仏教三聖樹と呼ばれるようになりました。
ところが・・・・・、この樹は元々インドのような暑い国に育つ樹木・・・・・。
日本の冬には耐えられない樹です。無論、仏教伝来当初は、日本のどこを
探しても見当たりませんでした・・・・・・。 ( ̄ー ̄;).....?? ありゃ??
そこでサラソウジュの代用樹を求めた結果だったのか、あるいは・・・・、
ひょっとしたら単なる誤認だったのか、黎明期の事情がよくわからないのですが、
結果としては自生していたナツツバキをサラソウジュとして扱うようになったのです。
今でも寺院の庭に植えてあるナツツバキの立札などを見ると「沙羅双樹」と明記
してあることが珍しくありません。そのため、ナツツバキを指差して・・・・・・、
あ!これ!沙羅双樹〜!と呼んでいる方々がじつに多いのです。
おそらく平安時代から鎌倉時代初期頃には、
この勘違いが定着したと思われます・・・・・・・。 ((((;゜Д゜)) ひえ〜
平 家 物 語
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす 平家物語に出てくる有名な沙羅双樹も・・・・・、じつはナツツバキなのです。
現代においては温室栽培が確立し、各地の植物園などでインド産の沙羅双樹を
見る機会が得られるようになりましたネ・・・・! めでたし、めでたし。
(´・ω・`)
皆様のお言葉をお待ちしています。
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霊験の庭
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【 福島県二本松市 ・ 鈴石神社拝殿 】
<photo> by : Kalinjin .K
東北南部、天候も安定し、比較的おだやかな御正月でした。
今年は辰年・・・・・。 干支の象徴動物は「龍」ですね。
図像2次元的には誰もが想起できる龍なのですが・・・・・、
その実態は多くの謎に包まれています( 空想か?実在か?)。
本日は「龍の起源」に迫ってみたいと思います〜♪
龍の起源を知る為には、まず古代中国の歴史を遡る必要があります。
なぜなら皇帝の血脈は龍の化身であると考えられていたからです。
歴代皇帝は紀元前の時代から衣服や建築などに龍のデザインを用い、
皇族以外の者たちには意匠の使用を禁じてきました。
中国の歴史の中でもっとも古い龍の痕跡は、今から7000年前に栄えた
査海遺跡に見出すことができます。査海遺跡はいわゆる興隆窪文化(こうりゅうわ)
に属する遺跡ですが、そこで平地に石を配置して龍を表現したと思われる石の
芸術作品が発見されています。
この興隆窪文化は紀元前6200年頃からすでに始っていました。
中国大陸の中では東北部に位置します。
長江文明や黄河文明よりも北に位置する「遼河文明」の一部・・・・・・
に栄えた場所と捉えておきましょう。
査海遺跡の石の龍が最古とされていますが、その後・・・・・・、
甲骨文字にも「竜」の字が刻まれ・・・・・( 龍よりも竜が古く )、
黄河文明や長江文明の中にも夥しい数の龍デザインが登場します。
それらを羅列し始めれば、枚挙に暇がありません。
判りやすく言えば、紀元前のかなり古い時代から、
中国の広範囲で「龍的存在」のイメージが育まれていた・・・・と、
言い換えても差し支えないと思います。
ところで・・・・・、龍とは何か・・・・・。 実在? 空想か?
この概念がなかなか判然としませんネ・・・・・・。
起源はタツノオトシゴ説、ワニ説、大蛇説、鯉説など・・・・・・、
いろいろあるようですが・・・・・・。 まだまだ謎に包まれています。
マチカネワニ起源説もなかなか面白い考え方です。
※ 大阪大学総合学術博物館
50万年前〜1万年前までアジア広域に棲息していたとされるワニの一種です。
日本では大阪府豊中市待兼山から化石が出土し、古代日本にもワニが実在した
ことが証明されています。「待ち兼ねたワニ」とも言われました・・・・・。
古事記に出てくる因幡の白兎が渡った和邇(ワニ)の背中とは、ひょっとしたら
このワニの仲間だったのかもしれませんね。
マチカネワニは中国大陸にたくさん棲息していましたので、
これを水神として崇めた可能性はじゅうぶん考えられます。
ただし1万年前の価値観がそのまま代々伝授継承されて、
夏王朝や殷王朝に受け継がれたと言い切るには論理的飛躍があります。
年代がズレているので・・・・・・。 (・ω・)ゞ
とすれば・・・・・・、どのあたりから考察を深めるべきなのか・・・・・・。
私は・・・・・・、長江文明がキーワードになると考えています。
昔の歴史教科書では、中国文明イコール黄河文明という見方が主流でしたが、
最近の研究ではむしろ古代中国の特質を決定したのは「長江文明〜!」と、
言われるようになりつつあります。
長江文明の歴史スパンはたいへん長く、紀元前1万4000年〜紀元前1000年、
この期間の中で稲作文化が開花しています。 しかも長粒種ではなく・・・・・・、
ジャポニカ米です・・・・・! ( ※ 日本稲作の母体です )
稲を育てるには・・・・・、無論、水が必要になります。
現代のように水路が発達していなかった当時は、自然降雨に左右されやすく、
水神信仰が発生したと考えられます。
旱魃や大雨を司る自然神・・・・・・・。
人知の及ばない大自然をコントロールできる神獣・・・・・それは、
爬虫類や哺乳類・猛禽類を合わせたような異種合体的な全能神獣に
他ならなかったのでしょう・・・・・・。
身体は大蛇、角は鹿、耳は牛、眼は鬼、背中は鯉、手足は虎、爪は鷹・・・・・。
雲形を思わせる流線の髭・・・・・・。
このようにして、自然界のパワーを結晶させた全能サイボーグ神獣「龍」が
長江文明に産声を上げたのです・・・・・。
狩猟時代から稲作時代へ大転換を図るときに湧き出た守神のイメージ・・・、
それが龍神だったのです〜! ( 夏林人説 )
龍は雲を呼び雨を降らせる神の化身として、次第に定着します。
春分に天へ飛翔し、秋分に地や淵に沈むと考えられるようになりました。
長江文明末期( 紀元前1000年頃 )は日本の縄文時代末期に符合します。
おそらくその頃に稲作の伝播が成立し、龍の概念も伝わったのではないか、
と考えられるのです。稲を育てるときは水神様(龍神様)を崇めるのだヨ、と。
それまで山の中の岩石に祈りを捧げていた原始古神道に、ようやく社殿が
設けられ、そこに龍が彫り込まれるようになりました・・・・・。
神社仏閣によく見られる龍のオブジェも同様に水を司っています。
【 福 島 県 本 宮 市 ・ 石 雲 寺 】 母国、中国では龍・麒麟・鳳凰・霊亀を聖なる神獣(四神)に定め、
龍脈や龍穴など風水学にも龍が取り入れられるようになりました。
神話・龍宮城、生薬の龍骨、故事成語の登竜門、人相学の龍顔、
ブータンの国旗、ラーメンのどんぶり、日本の九頭竜伝説、龍角散など・・・・・・、
龍の概念は広く東アジア世界に浸透していったのです・・・・・。
ちなみに西洋のドラゴンは撲滅すべき嫌悪の対象と認識され、
東洋の龍神的な畏敬・畏怖の念とはかけ離れているのだそうです。
2012年・・・・・、
龍の力で苦難を乗り越えましょう〜♪
(=^・ω・^=) ゞ
皆様の御言葉をお待ちしています。
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【 モアイ石 】 福島県 飯野町 <photo> by : Kalinjin .K
好評パワースポットシリーズ・・・・・、今回はUFOの里として名高い
飯野町の古代文明を取り上げます。
まずは冒頭の写真をご覧下さい。落ち窪んだ大きな眼が二つ、
やや低い鼻(自然損壊か?)、しゃくれたアゴ・・・・・。
飯野町の小高い丘に和風モアイ像とも言うべき巨石があります。
このモアイ石は大昔からこの丘に存在していましたが、
昭和期頃から「モアイ像に似ているネ・・・」と地元の人々のあいだで噂になり、
次第にこの町のシンボル的巨石と扱われるようになりました。
高さは3.4m、大人の背丈の2倍ほどで、横幅と奥行きも相当なものがあり、
丘の上から飯野町の風景を見下ろしています。
この巨石が単なる人面岩の類ではなく、もっと深い深い・・・・、
謎めいた世界の象徴であることについて、お話します。
それでは、次の写真をご覧下さい。
【 千 貫 森 】 標高 462m これはモアイ石が鎮座する丘の位置から撮った写真です。
県都福島市から南東へ十数km・・・、隠れ里的風景に見えます。
ここでご注目いただきたいのは、遠景に見える形の良い山です。
この山が数々のUFO目撃情報で話題となった「千貫森」なのです!
千貫森には古くから謎めいた神話が言い伝えられています。
雲を貫くような巨人が大きなタンガラ(背負い籠)で土や岩を運び、
この山を形作った・・・・・・・と。
子供だましの神話に聞こえるかも知れませんが、じっさいに近寄って見ると、
人為的に石を積み重ねたような痕跡もあり、頂上で強く地面を蹴ると、
ボンボン・・・・と深く地の底へ反響する場所もあります( 空洞説あり )。
さらに不思議なことに、この山では方位磁石が狂うポイントが
何箇所もあるとか・・・・、強い磁場である事も明らかになっています。
この近辺に存在する普通の里山とは違い、幾何学的な円錐形を成し、
古代研究家たちのあいだでは、この山はピラミッドだったのではないか?
とさえ囁かれているのです!
エジプトとは違い、多雨多湿の日本においては容易に草木が生い茂り、
森林的な外観になったのだ・・・・・・・と。
もしUFOが磁気エネルギーを吸収し、そのパワーを動力源にしていると
仮定すれば、この千貫森がエネルギー供給地点の機能を果たし続けてきた
のではないか・・・・・と、考える説もあるのです。
ちなみにこの近辺は落雷多発地帯でもあり、内部に何らかのエネルギー貯蔵
機能が存在しているのかも知れません・・・・・。
もう少し、考察を進めてみたいと思います。
次の写真をご覧下さい。
【 白山遺跡 】 縄文時代中期
【 和台遺跡出土品 】 縄文時代中期 ※ 飯野町HPさん、画像をお借りしています。
千貫森やモアイ石から程近い場所に、縄文時代の遺跡があるのです。
とくに和台遺跡は230軒にも及ぶ竪穴式住居遺構が発見され、
この地に巨大な縄文ムラが形成されていたことが確認できます。
和台遺跡から出土した縄文土器のデザインは極めて珍しく、
人体をそのままデフォルメ した造形は他に類似したものが
無いのだそうです。どこか岡本太郎の作品を彷彿とさせます。
大昔の話なので、古代文明の時代考証はとても難しいのですが、
それでもここ飯野町が縄文時代由来の強烈なパワースポットであり、
有史以前のオーラが渦巻く隠れ里であることは間違いないと・・・・・、
わたくし夏林人も納得しています。
ひょっとしたら縄文人たちは宇宙人と交信していたのかも・・・・・? (・ω・)
エネルギー充填〜♪ ・・・・ですよネ〜
(=^・エ・^=)
皆様の御言葉をお待ちしています。 |

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<photo> by : Kalinjin .K
知られざるパワースポットシリーズの続編です。
東北南部、暑かったり涼しかったり、照りつけたり曇ったり、
晩夏のような初秋のような・・・・・・ちょっと変な秋が進行しています。
本日は福島県二本松市安達町に伝わる上人奇譚をお伝えします。
二本松市を通る旧・奥州街道を少し北上したところに安達町があります。
歌舞伎『黒塚』の発祥地として有名な「安達が原」のある町です。
とても静かで落ち着いた農村風景が続きます。
安達町を過ぎれば、先日ご紹介した八丁目宿に至ります。
この安達町には寿福院という寺院があります。
しかし・・・・、寺院といっても純粋な仏教のお寺ではなく、
もともとは神道の拠り所であったらしく、社殿は神社の造りになっています。
< 寿 福 院 > 遠くから見ると神社なのに、近づいてよく見ると・・・・・、
傍らに梵鐘が吊るしてある様子が眼に入ります。
この謎めいた様式はひとりの上人の生涯と深く関わっています。
月照海上人・・・・・・、江戸時代中期の僧侶です。
古人の言い伝えによれば、上人は九州地方の出身で、若くして仏門に入り、
諸国を巡錫しながら北へ北へ向かい、出羽国湯殿山で神道の奥義を究めます。
いわゆる木食(もくじき)の苦行を行ったと言われています。
木食とは一切の穀類を食べずに山の中の木の実や草で命をつなぐ修行法です。
湯殿山での修行を終えた月照海上人は山形から福島へ南下します。
そして、静かな農村・安達町に住み、寿福院に身を置くようになりました。
究極の荒行を終えた上人は奇法妙術を操り、農村の人々を驚かせます。
・・・・・・この頃、寿福院に漂泊の坊主が住み着いたよネ・・・・・・
・・・・・・何だか奇妙な仙術を使う人らしいネ・・・・・・
・・・・・・名前は?・・・・・ ・・・・・・月照海という人だよ・・・・・
この噂は瞬く間に広まり、時の相馬藩主の耳に届きました。
相馬藩主はこの怪僧に興味を抱き、城へ招きます。
参城した月照海上人は藩主の期待に応え、病める人を治し、
悩める人を癒しました・・・・。そして、その功績が高く評価されました。
安達へ帰ろうとする上人に相馬藩主は土産を持たせます。
それはとても立派な大日如来像でした・・・・・。
大日如来は言うまでも無く、あらゆる宗派を呑みこむ全宇宙的な神です。
神道系の修行僧であった月照海上人もこの報謝を快く受け取り、
寿福院のお堂の中に安置しました。さらに梵鐘も加えました。
こうして神社と寺が一体化した様式が生まれたのです。
一般に、明治期の政策で仏教と神道は無理やり区別された経緯がありますが、
大昔はむしろ日本の神(神道)と東洋の神(仏教)が山岳信仰の場において
矛盾無く融合していた・・・・ということの歴史的痕跡でもあるのです。
わたくし夏林人が訪れたときは、公道から寿福院へ至る小道に
夥しい数の蜘蛛の巣が張られたままの状態でした。
道端に落ちていた棒を拾い、蜘蛛の巣を除去しながら進んでいきました。
完全放置・・・・? というわけでもないのでしょうが、
参拝者が少ないことの証しと思われました・・・・。
月照海上人〜! わたしが掃除しておきましたヨ〜♪ (・ω・)
ガイドブックにも載らない隠れ家的パワースポットでした・・・・・。
好評パワースポットシリーズ、
次回をお楽しみに〜♪
(^◇^) つづく
皆様の御言葉をお待ちしています。
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福島市飯坂町 天王寺 7月初旬 <photo> by : Kalinjin .K
東北南部、暑い日が続いています。連日、最高気温 35〜36℃・・・・・・。
7月中旬にしては異例の高温状態です。
皆様お住まいの地域はいかがでしょうか。
本日はパワースポット系の話題をお届けします。
冒頭の写真は福島市の奥座敷・飯坂町にある 香積山 天王寺です。
え?・・・・・・、大阪の四天王寺を真似したんじゃないかって・・・・・、
そう思われてしまいますよネ。 ところが・・・・・・・、
これには深い深い歴史秘話があるのです。
さあ〜、タイムトラベルのお時間です〜!
時は6世紀末、飛鳥時代・・・・・。
物部氏との対立に終止符を打った蘇我氏と厩戸皇子(聖徳太子)は
いよいよ日本への仏教導入&普及定着を推進しはじめます。
593年(推古元年)、大阪に四天王寺を、
607年(推古15年)、斑鳩に法隆寺を造りました。
わが国最古の寺である四天王寺は一切の宗派に捉われない
和宗総本山であり、東西南北を守護する毘沙門天を祀っています。
このとき、おそらく厩戸皇子は日本全体を司る為には、
戦乱による覇道の手法ではなく、和を以って・・・・・・・、
仏道による社会秩序を実現させようと願っていたに違いありません。
その為にも、各地に寺を建てるべきだ・・・・・・と。
厩戸皇子( 聖徳太子 ) ココロの拠点が必要なのだ・・・・・・と。
飛鳥時代においては、まだ日本全域の情報を一括管理することなど
不可能であったことは言うまでも無く、とくに東北地方は遠い遠い謎めいた
秘境のような場所でした・・・・・・。
厩戸皇子は考えました。 まずは・・・、信夫に寺を・・・・・。
当時、大和朝廷が置いていた北の地方官「信夫国造(しのぶくにのみやつこ)」
が存在する信夫(現・福島市)へ、東北最初の寺が建てられました。
それが福島市飯坂町に現存する「天王寺」なのです。
年代に関する正確な建立記録は残されていませんが、飛鳥時代、
おそらく西暦で言えば600年前後の時期に、用明天皇と聖徳太子の
意向によって建てられたとする開基石碑が残されています。
ということは・・・・・・、1400年の歴史があるわけです。
東北で最も古い仏教拠点であり、奥州三十三観音のひとつにも
選ばれています。 ちなみに、岩手県平泉の中尊寺建立が850年頃ですから、
ほんとうは福島の天王寺も世界遺産レベルなのでしょう。
福島市飯坂町 香積山 天王寺 7月初旬 話はまだ続きます・・・・・・。
平安時代、1171年(承安元年)、この地の有力者である糸井国数ら数名の
代表者たちが、この地の平和と人々の幸福を祈り、土着の神々を鎮める為に
経文を入れた陶筒を裏山に埋めました。 ( ※ 経塚 )
時が流れ、裏山に埋めた経文のことも、古い時代の有力者たちの名も
次第に忘れ去られて・・・・・、平安、鎌倉、室町、江戸・・・・・、
新しい時代が訪れ、それもまた古くなり・・・・・・。
そして、明治32年、奇跡が起こります。
土木工事か何かの都合で裏山が掘り起こされたとき、偶然、
非常に珍しい古風な陶筒が発見されたのです!
何と700年以上の時を経て、そのタイムカプセルは開かれました。
当時、地元の新聞紙上を大きく賑わせた・・・・とのことです。
その後、その経文は国指定重要文化財に指定されました。
今もお寺の秘宝館に保管されています。
福島市飯坂町の天王寺は黎明期には和宗として始まり、
その後、天台密教の時期を経て、現在は臨済宗に属しています。
現在の建造物は江戸時代に再建されたものだそうです。
東日本大震災を起こした自然の神々を鎮める為に
今 私たちは東北の太平洋側にたくさんの経文を
埋めなければならないのでしょう。 ( ~〜 ~ )
皆様の御言葉をお待ちしています。
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