ここから本文です
季節の風景15
本年も宜しくお願いします

書庫全体表示

【大垣市墨俣2】

墨俣の春Ⅰ

イメージ 1
墨俣城①

イメージ 2
墨俣城②

イメージ 3
墨俣城③(出世橋)

イメージ 4
墨俣城④

イメージ 5
墨俣城➄

イメージ 6
墨俣城➅

イメージ 7
墨俣城⑦

イメージ 8
墨俣城⑧

イメージ 10
墨俣城⑨

イメージ 9
墨俣城⑩

イメージ 11
墨俣城⑪

イメージ 12
墨俣城⑫

イメージ 13
墨俣城⑬墨俣城(資料館)出入口





◆墨俣城
墨俣城(すのまたじょう)は、現在の岐阜県大垣市墨俣町墨俣にあった戦国時代日本の城(実際には砦の様な要塞)で城郭はなかった様である。
築城時期の詳細は不明である。長良川西岸の洲股(墨俣)の地は交通上・戦略上の要地で、戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた(墨俣川の戦い)。斎藤氏側で築いた城は斎藤利為らが城主を務めた。また、1561年永禄4年)ないし1566年(永禄9年)の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がわずかな期間でこの地に城を築いたと伝えられている。これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、様々な議論がある。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。公園内には大垣城天守を模した墨俣一夜城歴史資料館が建てられているが、史実上の外観とは異なる。また、公園内にある白鬚神社式内社荒方神社の説がある)には境内社として模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。

 

歴史[史実]

  • 信長公記
    • 太田牛一著。
    • 巻首「十四条合戦の事」に、洲股要害の修築を命じ、十四条で美濃勢と合戦に及んで勝利、洲股帰城の後これを引き払う、との記述がある。
墨俣城が最後に歴史にその名を記すのは天正12年(1584年)4月で、小牧・長久手の戦いを目前にして当時美濃を支配していた池田恒興の家臣伊木忠次が改修したとある。その2年後の天正14年(1586年)6月、木曽三川の大氾濫木曽川の流路が現在の位置に収まったので、墨俣は戦略上の重要性を失い、以来この地が城として使われることはなかった。
秀吉の墨俣築城に関するそのほかの史料を以下にあげる。
  • 甫庵太閤記
    • 小瀬甫庵著、寛永3年(1626年)成立
    • 永禄9年(1566年)に秀吉は敵地の美濃国内で新城の城主になった、という記述がある。 城の場所や城名は明らかではなく、また墨俣の地名は甫庵が著作中で何度も使用しているのにもかかわらず、この箇所の記述においては用いていないことから、ここで秀吉が入れられた城は墨俣とは別の、木曽川沿いの場所のどこかであったとも読みとることができる。 また、記述の中にも閏月が考慮されていないなどいくつか問題点がある。
  • 武功夜話』(前野家古文書)
    • 昭和34年(1959年)に発見された前野家古文書のうちの『永禄州俣記』、一部が『武功夜話』昭和62年(1987年)出版。
    • 江戸時代初期までにまとめられたと言われている同書には、墨俣一夜城築城の経緯が克明に記録されており、ほとんど伝説として扱われてきた一夜城の実態を知りうる史料と考えられている。しかし、偽書説も根強く、資料としての信頼性には意見が分かれるところである。現在、墨俣一夜城の逸話が史実として紹介される場合、その詳細はこの『前野家古文書』に多くを拠るもので、墨俣城跡にある墨俣一夜城歴史資料館も『前野家古文書』に基づいて展示を行っている。

この記事に

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
  • 名前
  • パスワード
  • ブログ

本文はここまでですこのページの先頭へ
みんなの更新記事