日韓近代史資料集

韓国ニュー・ライトの応援+竹島問題

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 63年前、1947年の韓国の古新聞です。鬱陵島の歴史を要約してあります。この時期は、1946年1月にGHQがSCAPIN677によって竹島を日本の暫定行政権の範囲から除外し、1946年6月にSCAPIN1033(いわゆるマッカーサーラインの設定)により、日本の漁業の範囲を暫定的に制限して竹島近辺は範囲外とし、さらに、

 「連合軍最高司令部がマッカーサーラインを発表したが、その線が独島の東方12浬の海上を通過していたため、我々は獨島が当然わが国の領土に編入されると思っていた。ところが、1947年7月11日にアメリカ極東委員会が「日本の主権は、本州、北海道、九州、四国の諸島と今後決定される周囲の諸小島に限定される」という対日基本政策を発表すると、日本は独島は日本領土であるという世論を起こした。ここに、わが国(韓国)で初めて独島問題が発生した。」 (申奭鎬「獨島の来歴」(『思想界』1960年8月))
 
  という時期です。ただし、この記事には「独島問題」のことは何もなく、鬱陵島の歴史が淡々と書かれているだけです。そういう記事がこの時期に何のために書かれたのかは記事自体からは不明です。
 
 ただ、これも、鬱陵島の歴史を語る中で、竹島/独島のことは全く出て来ないということが分かる記事です。独島は「歴史的にも国際法上も確固たる韓国領土」のはずなんですがね。

  翻訳は、あやしいところが多々ありますが、まあ、あらすじは間違っていないでしょう。
  この記事で面白いのは、このすぐ左下の部分に見えていると思いますが、鬱陵島の東方2kmにある竹島(Cyukdo)のことを書いてあると思われる部分(記事の左上の隅)に妙なインクのしみのようなものが付いていて、何と書いてあるのか分からないようになっています。しみがついたのはたまたま手が滑ってのことなのかな? はい、たぶんそうなんでしょうね。この部分は翻訳文では●●としておきました。
 
 
 
 
鬱陵島の沿革
石宙明
ソウル新聞 1947.9.2
 
朝鮮を代表する島の一つである鬱陵島が我が朝鮮国の属島であったことは疑う余地がなく、かつては于山国として知られ、済州島が耽羅国として知られていたのと対照をなす。この于山国は、その後、羽陵島、武陵島、蔚陵島、鬱陵島等と呼ばれて来たが、全て○○を言ったもののようだ。李朝成宗2年(1471年)には臣朴元宗一行がこの島から大竹と大○魚を持ち帰って来たことがあったが、この大竹の名産地だとして、この鬱陵島は竹島としても知られるようになった。
 しかし、現在は鬱陵島に統一されており、竹島という名は東○の●●島名として指定され、この竹島が爾来我が朝鮮の東端地点を示して来た。
鬱陵島に関して太古のことは知ることができないが、最古の文献である新羅本紀によれば、「東海に于山国があり、地方は百里。人民は剽悍で沿海の村落を年々に侵犯するので沿岸民は永くこれを怖れて来た。そこで、何瑟羅州(現江陵郡)の軍主となった異斯夫は討伐を計画し、「于山人は剽悍で武力では勝つのが難しいから智力でやる」とし、新羅朝智證王12年(512年)に木○○(木○○子に五色で彩色し、口からは火炎を吐くようにした)を率いて于山に至り、「汝ら、降伏しないならこの猛獣で全滅させる」と言ったので于山人は怖れおののき投降し、その後は新羅に貢納した。」という記録がある。
  高麗朝に至り、太祖○○年(930年)にこの島の土豆が来貢して来たので、太祖は使者白吉に○を授け土豆を本島の正朝としたが、その後太祖21年(938年)には○○○王王子にも○○し、正朝となした。そして 高麗顕宗干戌年(1022年)には本島が女真族の侵犯を受け島民が本土へ避難するということがあったが、その後、○宗、仁宗朝にも○貢したというので、高麗太祖以後に二百余年も本島には定住民があり、本土沿岸諸地方と往来したようだ。
そういう中、仁宗の次の毅宗12年(丁丑1157年)に溟州道(現江陵郡)観倉使金柔立に命じて本島を巡視させたが、その復命で「島中に村落の廃墟が七ヶ所もあって石仏、石塔、鉄鐘等もあるが、全島に岩石が多く産物も無いので住むには不適である。」と述べたので、殖民のことは中止された。しかし、記録が無いために、このときの島民の全滅は何によるものか永久に知るすべがない。
その後、李朝になってから、本島は海賊の根拠地となった。太宗朝には流刑民が多数この島に遁入したので、安撫使金麟雨に命じて全部を送還させたことがあった。世宗20年(1438年)には、金丸という賊がこの島を根拠としてたびたび本土の辺境を侵したので、月松(現蔚珍郡平海)萬戸である○○に命じて討伐させ、このときこの島の住民七十余人を捕らえたことがあった。その後には月松萬戸と三陟営将に命じて隔年に兵を派遣し賊徒を掃討し、農民であっても居住を許可せず、再び本島は無人島となった。
前述したように、成宗2年(1471年)に朴元宗一行の巡視のときにも本島は無人島であることを確認していたが、ここは定住民がいない○○○として本島に侵入を開始したのが日本の漁業者たちだった。これが発端となって、後には日本との三回の国際問題まで惹起したが、そのたびに朝鮮が勝った。
  1787年には「ラ・ペルーズ」が本島を踏査し、その一行中の天文学者がこの島を「ダゲルレ」(Daegelet)と命名したので、以後、これが鬱陵島の西洋名となった。
  その後、李氏朝末の開国492年(1884年)には鬱陵島開拓令が発布され、○○島長を置くこととなり、このときから江原、慶北、慶南の各○の人民が相次いで入島し、原生林を伐採する一方、火田農業も○○ようになった。  
  光武5年(1891年)には島長の制度を廃止して島を郡とし郡守を置き、光武7年には郡庁を西面台霞洞から現在の南面○洞へ移転し、隆煕元年(1907年)には本郡を江原道から慶南道に移管し、全島を南、西北の二面に分割した。移民が激増するに従い、1914年には慶北道に移管し二面を各々三面に改組し、この島にも○○○を新設、翌1915年には郡制を島制へ変更して今日に至っている。
 
 
 
 (翻訳者注)
  最後の段落について。島を郡とし郡守を置いたのは1900年(光武4年)のはずだが、この記事では「光武5年(1891年)」となっている。はて?

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ご苦労様です。

2010/11/21(日) 午後 11:16 みぃにゃん 返信する

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おもしろいものを掘り起こしてきましたね。確かにこの染みの付き方は怪しい。印刷時に付いたのか、それとも……(以下省略)。
予断を持っては行けませんが、「竹島という名は東○の●●島名として指定され」とあるのを推測すると「竹島という名は東側の于山島名として指定され」なんですかねぇ?

2010/11/22(月) 午前 1:40 [ Makoto ] 返信する

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みいにゃんさん、どうもです。

Makotoさん、もしその場所に「于山」の二文字があるのだとすれば、たまたま手がすべってインクが落ちるには非常に適切な場所ですね。
どなたか新聞の現物を確認していただければありがたいところですが・・・・・・。

2010/11/22(月) 午後 7:10 [ Chaamiey ] 返信する

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この「鬱陵島の沿革」(石宙明 ソウル新聞1947.9.2)の記事は、下記の資料を見たら、石宙明という人は1947年8月の鬱陵島・独島調査団の参加者の一人であり、この記事は調査報告的な意味合いで書かれたものであることが分かりました。

「解放後韓国の独島に対する認識と政策(1945−51)」
http://www.pref.shimane.lg.jp/soumu/web-takeshima/takeshima01/kenkyukaijoukyou.data/3-12.pdf#search='韓国山岳会 鬱陵'

2010/11/23(火) 午後 11:55 [ Chaamiey ] 返信する

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>>どなたか新聞の現物を確認していただければありがたいところですが・・・・・・。

「どなたか」と曖昧にしつつ、現物確認の下駄を預けられたような気がしないでもないので、現物の所在確認を進めていたのですが、国会図書館関西館のアジア情報室に所蔵されていそうなところまでは追いかけられました。chaamieyさんが掲載した画像の出処はどちらでしょょうか? 国会図書館関西館アジア情報室所蔵のものですと確認したことになりませぬゆえ、ご教示いただければ幸いに存じます。

2010/12/2(木) 午後 8:39 [ Makoto ] 返信する

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Makotoさん、この資料は人から教えてもらったものでその経緯を忘れていたのですが、今調べ直して見たら国会図書館関西館のものであるようです。よって、それ以外の場所にあるものが確認できればはっきりすると思います。ただ、国会図書館関西館のものでも、現物を見れば、印刷時点で付いたものかどうか分かるかも知れません。
もしMakotoさんがそんなに手間をかけることなく調査可能ならばありがたいですが。

現物確認のことはdokdo-or-takeshimaにも書こうと思ったのですが、ここ一週間ほど何度書いてもコメントがはじかれて書き込み不能で困っています。

2010/12/3(金) 午前 7:11 [ Chaamiey ] 返信する

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よろしくお願いします(^o^)/

2010/12/4(土) 午後 5:36 [ Chaamiey ] 返信する

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>>島を郡とし郡守を置いたのは1900年(光武4年)のは
>>ずだが、この記事では「光武5年(1891年)」となって
>>いる。はて?

書き間違いでしょう。光武5年なら1901年のはず。1891年ですと朝鮮は独自の元号を用いていませんよね。
ついでながら指摘すると「島長の制度を廃止して島を郡とし郡守を置き」とあるのは「島監制度を廃して」の誤りですね。1882年に鬱陵島の空島政策を放棄していますが、このときは「島長」を置いているんですよね。その後「島監」に変更され、1900年に郡守がおかれるまで島監だったはずなんですが。してみると「島長」が「島監」に改称された年かな? 何かのついでに調べてみましょう。

2010/12/8(水) 午前 2:33 [ Makoto ] 返信する

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ありがとうございます(^o^)/

2010/12/8(水) 午前 7:48 [ Chaamiey ] 返信する

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お疲れ様でした〜。これではっきりしました。ありがとうございます。その部分をデジタルカメラで撮影してメールで送っていただくというのはどうでしょうか。

2010/12/16(木) 午後 8:27 [ Chaamiey ] 返信する

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