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「日本の史歪曲」正すデジタル島外交大使
2019-05-19 ニュース1
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   慶北道とサイバ外交使節であるバンクは、19日、第8期デジタル島外交大使を足させた。デジタル島外交大使は、オン・オフラインを通じて島と東海に関する表記誤りの情報提供と是正要請の活動をすることになる。彼らは、サイバー独島士官校を通じて島外交大使に志願した少年のうち、書類審査を通過した93人だ。島を通じた大韓民国広報、授業報告書提出、報ブログ運などのミッションを遂行して日本の領土侵奪野心を際社に知らせる役割もすることになる。
  デジタル島外交大使は2012年から7940人の育生を選して706人が育を修了し、そのうちの280人が外交大使として活動中だ。ウォンチャンホ慶北道島政策課長は、「日本は外交青書を通じて繰り返し島を自分たちの領土と主張するなど領土侵奪の野心を曲げずにいる」として、「日本の史歪曲に積極的に対応する」と話した。

<コメント>
  『獨島問題の真實』のサイトに「ドクトは日本の領土です」と書いておいたらひっかかってくれるかな?



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  イ・ヨンフン教授が李承晩TVを通じて韓国人たちには不都合な真実をいろいろと発信していることは、韓国のマスコミでは全く話題にされていません。わずかに「メディアウォッチ」というメディアがイ・ヨンフン教授の主張をかいつまんでいくつか報道しているくらいで、ほかにはに関連ニュースは見えません。
  独島/竹島問題について、韓国内の通説を真っ向から否定した教授の講義が発表されたのが2ヶ月前の3月5日。しかし、それに関するニュースは何もありません。まあ、そういう動画があること自体がそれほど知られてはいないのだろうし(教授自身も最終講で各動画のヒット数が数千程度にとどまっていることに言及している)、知ったとしても、通説に浸りきった「独島研究者」たちは反論ができないので無視するのでしょう。
 ドクトヌンウリタン派の牙城(?)嶺南大学の『独島研究』は年2回の発行で、次は6月30日が発行日です。いつも威勢のいい論文を書く人たちとしてはイ・ヨンフン教授の主張はほうって置けないはずですが、果たして反論が掲載されるでしょうかね。私は9割がた反論はないと見当をつけているのですが、さてどうなるか。

 先日パソコンを新調して以来、ブログを書く時のフォントの制御が以前にも増して難しくなった。字体や大きさが思うとおりにならないのだが、まあ近いうちにこのブログは閉鎖して他に引っ越すことになるので、我慢しとこう。

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 イ・ヨンフン教授の日本語字幕版 [日本軍慰安婦問題の真実] 1. 朝鮮戦争と韓国軍慰安婦 がアップロードされた。

李承晩TVの動画一覧
 ここに、日本語見出しの動画が上記の動画を含めて現在4件ありますが、当面45件まで順次増えるはずです。

 日本語版の視聴数といいねの数が多くなれば、それだけイ・ヨンフン教授に文句をつけようと考える韓国のマスコミなどに対する何がしかの牽制になるのだろうと思う。


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東海・独島表記した日本古地図見ることができる
オンライン写真展進行中

2019.05.17 朝鮮ドットコム
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2019/05/17/2019051701289.html

 
 海洋水産部は第24回海の日(531)を記念して、716日までの2ヶ月間「世界の中の私たちの領土 東海・独島」デジタル写真展を開くと17日明らかにした。オンラインで進行される今回の写真展には、17世紀以後の東海と独島を表記した8ヶ国100点余りの古地図が展示されている。
 
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       1899年日本で作った「万国全図」。日本自ら東海を朝鮮海、日本海などと同時に明記した世界地図だ。日本で製作されたの地図のうち朝鮮海を併記する地図は10種内外で、貴重な資料だ。 /海洋水産部キャプチャー
 
  東海・独島が表記された日本製作地図を始め、アメリカ、オランダ、ドイツ、英国、イタリア、フランスなどの古地図が展示されている。これらの作品は全て国立海洋博物館が所蔵しているものだ。
この写真展は特別な加入なしにサイト(http://www. 독도사진전.com)に入れば見ることができる。来月16日までに「訪問録」に写真展観覧後記を残せば景品を贈るイベントも進行中だ。

<コメント>
 サイトに入ると100枚くらい地図があります。 http://www. 독도사진전.com
 事例の地図について「日本自ら東海を朝鮮海、日本海などと同時に明記している」とか解説してありますが、ホントに資料を読めない人たちです。それは「同時に明記」しているのではなくて、広い海は日本海で、朝鮮の近海部分だけを「朝鮮海」と書いてあるのだよ。


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<李承晩大統領を正しく知る>
『解放前後史の再認識』特別講義9
 実用主義、民族主義者李承晩は大韓民国建国の元勳
 
[イ・ヨンフン 2006-06-28]
http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1732
                (翻訳2)

  第三に、李承晩は、終始一貫、民族主義者でした。アメリカで40年近く暮しながらも、彼は、結局アメリカの市民権を取得しませんでした。独立運動に絶望したりあきらめたりしなかったことは、今後分かります。彼を親米事大主義者と呼ぶのは、まことに無責任な非難です。彼は、解放以前から、事ごとにアメリカ国務省と摩擦を起こしました。解放以後には米軍政長官と激しく反目しました。米軍政が左右合作を推進したからですね。李承晩の反共主義は、その路線を受容することができませんでした。のみならず、李承晩の現実主義的感覚で見れば、それは始めから空想でした。

  李承晩の実用主義と民族主義がその在任期間に残した最大の業績は、1956年にアメリカと締結した「韓米相互防衛条約」と言えます。李承晩はアメリカに相互防衛条約の締結を繰り返し要求したのですが、アメリカは、韓国のように弱小な国と同盟を締結することに何の魅力も感じなかったのです。そんなアメリカを軍事同盟に引き入れるために、李承晩は韓半島にかかったアメリカの利害関係を、アメリカに圧迫を加える外交カードとして充分に活用しました。

  彼は休戦に反対し、絶えず北進統一を唱えました。彼の叫ぶことが単に口先だけのことではないことを、アメリカは悟ることになります。ある日、巨済島で数万人を突然に釈放したから、全世界が驚きました。李承晩がアメリカの鼻をつねったというわけです。そんな無謀な外交を、当時の米国人たちは 「刀を口に咥えて飛び跳ねるようなもの」と形容したりしました。
  しかし結局、アメリカは、韓国軍をアメリカの統制下に置くという実用的な計算から、韓国と相互防衛条約を締結します。李承晩は、大陸の共産主義国際勢力から大韓民国を防衛する一番確かな手段を、韓米同盟から得ることができるようになりました。
  このように、韓米同盟を締結するまで李承晩が広げた巧みな外交については、『解放前後史の再認識』第2巻に収録されたチャ・サンチョルの 『李承晩と1950年代の韓米同盟』という論文が良い参考書です。ラジオをお聞きの皆さんは、必ず手に入れて読んでください。

  李承晩に対するあらゆる謀略じみた非難が信じられるようになった理由の一つは、彼が親日派を清算するための「反民族特別行為調査委員会」の活動を中断させた事実にあると思います。これからその点について考えて見ましょう。反民特委は1948年10月に設置され、1949年8月末、公訴時効が満了するまで活動しました。その期間に305人が逮捕、221人が起訴、40人が裁判に附されて12人に実刑が宣告されました。

  ところが、今日、当時の裁判記録を読んで見れば、反民特委の活動は事実上はじめから重大な限界に突き当たっていたことが分かります。高等警察のように独立運動を露骨に邪魔して弾圧した人々を除いた他の人々の場合には、裁判と言うものが一種の道徳訓戒と自己反省の域を出なかったです。他人の財産と人命を奪って殺傷したというような実定法上の犯罪ではなかったからですね。検事が犯罪を論証して弁護人が反論する、そのように法理を熾烈に争う裁判ではなかったのです。

  ここで私たちは、再び、解放が如何に成り立ったのかを想起せざるを得ません。 先立って指摘したように、解放は私たちの力で成就したものではありません。独立軍が日本軍を押し出す戦争を通じて解放を成就したのであれば、親日派の粛清問題は問題にならなかったはずです。ナチに対抗してレジスタンスが活躍したフランスがそうだったと知られていますが、悪質な親日派たちは、戦争の途中で既に処刑されたはずです。処刑を逃れるために、親日派たちは日本軍に付いて日本へ逃げなければならなかったでしょう。ところが、連合軍が日帝を降参させる副産物として解放になったため、そのような与えられた解放空間では、誰も親日派を粛清する物理的な力と道徳的権威を持つことができなかったのです。

  そういうはっきりしない状況で、親日派問題は、左派と右派政治勢力の間の最も深刻な対立点の一つになってしまいました。左右間の対立だけでなく、同じ右派同士もこの問題を巡る対立は深刻でした。1945年12月中旬、ソウルの国一館で起った事です。帰国した臨時政府の要人を歓迎する席が、韓民党の幹部によって用意されました。その席で臨時政府の申翼煕が 「国内にいた者は、多かれ少なかれ皆親日派だ。」と言いました。すると張徳秀が、「それでは私は間違いなく粛清される組だな、そうだろう?」と言い返しました。続いて、紹介することも憚られるような言い争いが起りました。この苦いエピソードは、当時から、いわゆる親日派の粛清問題が、国造りという重大な歴史的使命を控えた人間たちを、どれほど戸惑わせていたかをよく物語っています。

  これに対する李承晩の立場は次のようでした。彼が初代内閣を構成して発表すると、一部閣僚の中に親日経歴の持ち主が含まれていることに対して批判の世論がおこりました。これに対して李承晩は、
「悪質な独立運動妨害者以外に親日派と言うものはありえない」と断固たる立場を見せました。非難されるかも知れませんが、私は、李承晩大統領のこのような主張に共感します。

  初代政府の経済省庁に勤めたある年配の方の回顧によれば、当時の政府の官僚たちは、親米派、親中派、親日派に分けられたと言います。親米派はアメリカ出身で少数の高位職であり、親中派は中国から臨時政府と共に帰って来た人々であり、政治的立場が一番強いが実務能力に欠けた人々だったし、
数の上で一番多い親日派は、日本に留学をしたとか国内大学の出身者たちであって、政治的立場が一番弱いながらも実務能力は一番優秀だったと言います。 
  そんな状況で、反民特委の活動は、政府の実務官僚たちを動揺させました。済州島と麗水・スンチョンでは南労党(南朝鮮労働党)の起こした反乱が展開している中でした。

  そういう政治的混乱期に、反民特委は、法的に与えられた1年の期限で既にその歴史的使命を尽くしたと見られます。少なくとも、李承晩大統領はそのように思ったようです。それはどうしても不十分なのでした。しかし、それは、大韓帝国が滅亡して40年間日帝の植民地支配を受け、他人の力によって解放されて独立した国としては、歴史の業報(因果)とも言うべきものでした。
   
胸にしまったまま沈黙することで皆が皆に寛大になる必要がある、そういう歴史的業報でした。長年の沈黙の後に歴史の省察として後世に静かに伝えて残す、そういう業報でしたこの問題についての初代大統領の苦悩に満ちた政治的決断はそういうものであったと、私は見当をつけています。

  もちろん、李承晩は完璧な人ではありませんでした。権威主義的で固執不通だったという道徳的批判には、私も同意することができます。そのために彼が犯した政治的間違いもあると思います。しかし、国を建てるという何世紀に一度有るか無いかの極めて重大な政治的事件に係わる限り、歴史的人物を個人的性分や執権以後のいくつかの政治的過誤で見逃しては、公正な評価になりません。彼が追い求めた政治的理想は何だったのか、その国を盤石にするために彼の追い求めた国際政治はどんなものだったのか、内政・外政に努力した彼の業績は以後長期的にどんな影響として残ったのか、等々の政治史的視覚で李承晩は再評価されなければなりません。

  そんな視覚で見直せば、李承晩は、彼を除いては大韓民国の出発を説明することができないくらい国造りに大きな功績を残した人です。 大韓民国の歴史教科書は、彼を建国の元勳として丁寧に扱う必要があります。彼と政治的に対立した人々、甚だしくは北朝鮮の金日成まで単独でその顔が出てくる歴史教科書に、どうして李承晩大統領の単独写真はないのでしょうか。あまりに馬鹿馬鹿しいデマのような非難が中・高等学校の教科書に横行しているので、その点を敢えて指摘しておかざるを得ません。

  イ・ヨンフン(ソウル大学教授、『解放前後史の再認識』共同編集者)

                   (特講9翻訳終わり)

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