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竹島問題/石島≠独島

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小嶋日向守さんの探索による情報です。これはなかなかの大発見だと思います。
 


萬歳報という新聞の1906713日の記事
 イメージ 1
 
◎各郡地形更圖
統監府에서内部公文하야各郡地圖一一送交하야其面積洞里를다시그려다디라
 
<仮訳>
統監府から内部(内務部)に公文が送られて、各郡の地図を一つ一つ送付して、その面積と面()洞里(村あるいは大字といったところか)を改めて書き出せ書き出したとのこと。
 (■は現在使われていないハングル文字なので良く分からないのですが、推測としては過去形のほうが合っているように思います。)


<コメント> 
1906713日という日は、皇城新聞が例の「鬱島郡の配置顛末」の記事を掲載したのと同じ日付です。ということは、統監府は鬱島郡について質問するのとほぼ同時に各郡の地図や行政区分についても質問していたということになります。
統監府としては、日本の竹島領土編入で妙な話が広まって鬱島郡の範囲などを確かめることになったが、もともと各郡の基本的な情報は必要だからこの際全部を集めておこう、ということだったんでしょうかね。 

 それで、鬱島郡を含めた各郡の地図が統監府に送られたはずですが、鬱島郡の範囲については、既に「鬱島郡の配置顛末」の件で韓国政府は統監府に対して竹島を含まない趣旨の回答を送っていたのだから、小嶋日向守さんのコメントにもあるように、各郡地図の鬱島郡地図にも竹島は無いと考えるのが自然です。

で、その地図が確認されるならば、これまででもウソであることが明らかになっている現代の韓国政府の主張――1900年勅令41号の石島が独島である――がさらに目に見える形で否定されることになるのですが、問題はその地図が現存しているかどうか、です。
統監府にあった書類は終戦時の混乱の中で廃棄されたか、あるいは韓国側に接収されたか、どうなったのか分かりません。ただ、1906年という年は日本が韓国に対する干渉を強め始めたころなので、各郡の地図というものは統監府にとって重要な資料であったと共に、日本本国の政府にとっても役に立つもののはずだから、統監府で写しが作成されて日本本国に送られた、ということは無かっただろうか、それが今総務省か外務省あたりに残っているということはないだろうか、などとちょっと希望的観測をしてしまいますね。
もちろん、韓国政府が統監府に送付したものの控えを持っていたという可能性もあります。それが実際にあったかどうか、あったとしてそれは現在もあるのかないのか、いろいろ分からないですが、ともかくこれは面白い情報です。
 




 

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 小嶋日向守さんの御紹介です。

 1901年4月1日の韓国の帝国新聞は「ヤンコ島」という島のことを報道しています。



翻訳試案(かなり怪しい)

○鬱陵島東南三十里海中のヤンコという島を日本で・・・・・・が、その島は天下地図に上がっておらず、産物は魚物で、海中の物が一番多く、漁夫たちを大いに・・・・・するという。


(「日本で」の後の言葉が鍵です。韓国語を良く分かる人による解読が必要です。)

<追記>
「日本で・・・・・・が、」の部分は「日本が得たが、」となるそうです。




  韓国政府の説明によれば、竹島は1900年10月25日の大韓帝国勅令41号に「石島」という名称で規定されたそうですが、この記事ではヤンコと言っていますね。

イメージ 1


下の新聞の3面中段の中ほど


帝国新聞 光武5年(1901年)4月1日








資料出処
大韓民国新聞アーカイブ

その中の



<追記>
matsuさんの2014.9.9のコメント

柳美林・チェウンソク
『近代日本の地理誌に現れた鬱陵島・独島認識』韓国水産開発院、2010.12

82〜83p
 これを立証するほどの資料が1901年4月1日帝国新聞の記事だ。ここに‘ヤンコ’という島名前が初めて見えるが、この‘ヤンコ’が“鬱陵島東南三十里海中にある”とした。しかしここで30里を朝鮮の里程で見るならば独島でない竹島(訳注:竹嶼)を示すと見ることができる。だがここで言う30里が上の『韓海通漁指針』で言う“鬱陵島から東南方で約30里”とある内容と関係があるならば、帝国新聞の30里は300里をいうことだ。それならこれは独島を示す言葉になるが、韓国の新聞で日本の里数を言ったと見るのも難しい。‘ヤンコ’を独島と見る場合、この島を日本が得たといった点は、1900年を前後した時期に照らしてみる時、事実とは合わない点がある。


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石島≠独島 余話

久しぶりに Wikipedia  の「石島(韓国)
 
を見てみたら、石島は独島ではないことについての私の指摘が2点採用されていた。うれしいことですが、ウィキペディアは一個人のブログの意見を採用するんですかね。
 
 
 その2点の一つめは、沈興澤は、島根県の一行から竹島編入のことを知らされて、上司に「独島が日本の領土になったそうです」と報告したわけですが、独島が勅令の「石島」であるのならば、沈興澤が勅令で定められた「石島」という公式用語を使わなかったのはおかしい、というものです。
 
石島はどこか(4)」
 
 
 
 
 二つめは、韓国政府自らが独島は石島ではないことを認めている『独島問題概論』の記事ですね。
 
  「石島は独島ではない! 韓国政府は確認ずみ」
 
ただ、この二つめについては、「議論を呼んでいる」とまとめてあるのですが、残念ながらこのブログで言っているだけでして、他のどこでも議論を呼んではいませんね()
 
 
 
 

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「世界人が独島問題を理解するための16のポイント」
シン・ヨンハ
http://plaza1.snu.ac.kr/~bigbear1/booklet/dokdo16point.pdf
 
10 1900年、大韓帝国は勅令第41号により、独島を韓国領土として西洋国際法を参照して世界に再び公表しました。
 
(1)鬱陵島は開港場ではなかったにもかかわらず、日本人たちが不法入島して居住し始め、日本政府もこれを幇助したので、大韓帝国は、19006月、内務部調査官禹用鼎、釜山海関税理士フランス系イギリス人ラポート(E. Laporte)と日本人官吏駐釜山日本領事館副領事赤塚正助などで構成された国際調査団を鬱陵島の現場に派遣して、現地の実態を調査することにしました。
1899年<大韓全図>、大韓帝国学務部で製作配布した標準地図で、独島が鬱陵島の東方に位置して経度と緯度が当時の基準で表示されている(イ・チャン教授提供)
 
<翻訳者茶々:>
当時の基準で? これがウワサに聞くウリカトル図法か。
 
 
調査団の報告を受けた後、大韓帝国は、19001025日、勅令第41号として地方官制を改正し、従来江原道蔚珍県に属した鬱陵島と独島を、今度は独立させて鬱陵島とその付属島嶼を「鬱島郡」に格上げさせ、鬱島郡の管轄地域を鬱陵島と竹島(竹嶼島)石島(独島)と法定しました。そして、この地方官制改正の事実を、中央政府の「官報」19001027日付けで国際告示しました。
大韓帝国の1900年勅令第41号の国際告示によって、鬱陵島と独島(石島)の大韓帝国領有が、西洋国際法としても再び世界に公布されたのです。もちろん、この時に日本側は何の反対意見その他の意見も無かったのです
 
1900年、大韓帝国勅令第41号を収録した「官報」。1900年、鬱陵島と竹島、石島を管轄する行政区域として鬱島郡を設置するという大韓帝国勅令第41号を掲載しました。
 
 
(2)この時、独島を従来の名称の「于山島」とせず「石島(独島)」と表記したのは、空島政策が廃止されて1883年から合法的に入って来た鬱陵島民たちが、方言で石(Rock, Stone)を「ドク」と発音し、独島をドルソム(Rock islet)という意味の地域方言として「ドクソム」と呼んだからです。「ドルソム」は意味を取れば「石島」となり、音を取れば漢字で「独島」と表記していたが、意味を取って「石島」と表記したのでした。
また、この時、国際法に明るかった調査団のフランス系イギリス人ラポート(E. Laporte)は独島が「Liancourt Rocks」という西洋の呼称もあることを知っていて、これも「リアンクル石島」になるので、併せて石島と表記したものと解釈されます。
実際、日本海軍省の水路局が1882年に発行した『日支韓航路里程一覧図』では「于山島」を「リアンコルド石」と表記しました。すなわち韓国語の「ドクソム(ドルソム)」は、意味によって漢字表記すれば「石島」となり、音で漢字表記すれば「独島」になるのです。「独島」は、大韓帝国鬱島郡守の行政統治期間に、日本では「リアンコ島」と呼んでいました。これは、日本海軍省が鬱陵島の名称を従来独島に付けていた「松島」(Matsushima)に変えたために独島には名前がなくなり、「リアンクルド石」という西洋の名称を借りて用いたのです。
 
 
(3)日本外務省の「2008-10のポイント」の(6)は、「独島」の名称は1906年鬱島郡守沈興澤の報告書で初めて出る呼称だと主張していますが、これは事実ではありません
日本側が露日戦争の時、独島に日本海軍の望楼を設置する調査のため、軍艦新高号を派遣した時、鬱陵島で聞き取りした情報として、新高号は、1904925日付け報告で、「リアンコルド岩は韓国人はこれを獨島と書き、日本人漁夫たちはリアンコ島と呼ぶ」と報告しました。
 
鬱陵道民が独島(于山島)を「独島」と書き、日本人たちは「リアンコ島」と呼んだことを記録した1904925日付け日本軍艦新高号報告 (シン・ヨンハ教授提供)
 
 鬱陵島の韓国人たちは、1904年以前から既に独島を「独島(Dokdo)」と書いていたのです。
 
 
(4)日本側が1906年に大韓帝国政府に鬱陵島所属の島々を質問して来た時、大韓帝国政府は、19001025日、政府会議を経て郡守を配置したが、鬱陵島の付属島嶼は竹島(竹嶼島を意味)と石島で、その距離は合せて200余里(80km)と回答しました。鬱陵島から100里あるいは 200里離れた所にある島は東海には 独島しかないので、石島がすなわち独島であることはさらに再確認されるのです。
 
 石島が鬱陵島から200余里(80km) 離れた島であることを明らかにして石島がすなわち独島であることを証明した大韓帝国内務部の公文書を報道した皇城新聞1906713日付けの記事
 
 
 
<コメント>
 
1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正する件

第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること

 
 韓国政府も研究者も、この「石島」が今の竹島/独島だと言っているわけですが、これがウソであることはほぼ明らかだと言っていいでしょう。
 まず、石島が竹島/独島の位置に描かれた地図とか、石島が竹島/独島の姿をしている島であることを示す説明書きなど、石島に関する資料は現在まで韓国側から何一つ公開されていない。そんなものは無いからか、若しくは、石島は鬱陵島近接の観音島であることがバレてしまうために隠蔽されているのか、のどちらかだろう。石島が竹島/独島であると口で言うだけであって、証明はされていない。
 逆に、韓国政府や関係者の過去の行動は、石島が竹島/独島であるというには矛盾があり過ぎる。
  竹島が日本に編入されたことを1906年3月に知った後の韓国政府関係者の反応の中に、竹島/独島が勅令に規定された石島であることを示唆する発言は全くない。戦後のサンフランシスコ講和条約締結をめぐる韓国政府の応対の中でも勅令第41号の件は全く持ち出されなかった。
 
 プロパガンダ大先生は、上の文章を禹用鼎の日韓合同調査団の派遣から書き起こして、いかにも現地調査を踏まえて竹島/独島を「石島」として郡の管轄に含めたのだという印象を与えようとしているように見えるのだが、調査団はこのときに竹島/独島までは行っていない。調査しなかった遠くの離れ小島を管轄に入れたというのは説得力ゼロ。
 
 勅令を定める際の伺い書きにも竹島/独島のことは何も触れられていない。
 
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正することに関する請議書
 右該島は東溟に特立し大陸から遠隔であるが、開国504年に島監を設置して島民を保護し事務を管掌させており、島監羌┝の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄を參互節査したところ、該島地方は縦が八十里ほど、圓聾渊塾い箸いΑ
 四圍壁の中に巨山があって北より南に至る。その間に大川あり、広さ深さは舟を幾つか容れることができ、その土は肥沃で民は素朴であり、この数十年、人口は蕃殖し、戸数は四百余戸あり、墾田は万余斗落ある。
  居民の農作一年の収量は、藷二万余包、大麦二万余包、 黃豆一万余包、小麦五千包という。大まかに戸数、田数と穀数を陸地の山郡と比較すれば、数は及ばないが甚しく劣るものでもない。
  最近、外国人が来て交易し、交際上のことも有り、島監と称するのでは行政上の障害もあるため、鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するのが妥当であるので、この段、勅令案を会議に提出する。

光武四年十月二十二日
                            議政府賛政內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閣下 査照
 
 
 
 要するに、現在まで明らかになっている事情によれば、石島=独島の事実は証明されておらず、逆にそれを否定する状況証拠は多数あるという現状です。もし誰かがこの状況で石島は独島であるのか否か判断を下さなければならないとしたら、石島は独島であるという結論はまず出せない。
 
 勅令41号の公布手続について、「大韓帝国の1900年勅令第41号の国際告示によって、鬱陵島と独島(石島)の大韓帝国領有が、西洋国際法としても再び世界に公布されたのです。」と誇らしげに書いてあるが、読んでも島がどこにあるのかも分からない書き方の規定ではとても国際告示とは言えない
 
 外務省の2008-10のポイント」の(6)は、「独島」の名称は1906年鬱島郡守沈興澤の報告書で初めて出る呼称だと主張しています、とあるが、外務省の該当ページにはそんなことは書いてないようで、これは何の間違いだろうか。軍艦新高の報告書のコピーを持ってきて赤線を引いて、いかにも何か日本の主張の弱点を突いているかのような印象を与えたいのだろうが、これは、要するに1904年の時点で韓国人たちが竹島のことを独島と呼んでいたことが分かるというだけのことであって、韓国の領有権に何の関係もない資料です。
 
 
 鬱島郡の配置顛末については、記事の全文は次のとおり。

  統監府から内部に公照された江原道三陟郡管下に所在する鬱陵島の所属島嶼と郡廳設始年月を示明せよとの故に答酬され、光武二年五月二十日に鬱陵島統監として設置され、光武四年十月二十五日に政府会議を経由して郡守を配置したが、郡庁は台霞洞に置き、該郡所管島は竹島と石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里だという。
 
 大先生は、「二百余里」が鬱陵島から竹島/独島までの距離だと説明しているが、「東西が六十里で南北が四十里なので」という説明のつかない部分を完全カットしている。「東西が六十里で南北が四十里なので、合せて二百余里」という言い方は明らかに「距離」ではなく何かの「範囲」を示しているわけで、この文章からは鬱陵島から92km離れた竹島/独島のことを説明する意図は全く読み取れません。
 

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韓国政府が独島領有の法的根拠として挙げる例の勅令第41号

1900年大韓帝国皇帝勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するの件
第一条 鬱陵島を鬱島と改称し、江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制に編入し、郡等級は5等にすること
第二条 郡庁は台霞洞に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること




本日、この勅令を制定する際の制定上奏文が Dokdo-or-Takeshima? のブログで紹介されました。
http://dokdo-or-takeshima.blogspot.com/2010/02/1900-oct-22-petition-by.html


ざっと訳するとこんな感じです。

鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守と改正することに関する請議書

 右該島は東溟に特立し大陸から遠隔であるが、開国504年に島監を設置して島民を保護し事務を管掌させており、島監羌┝の報牒と本部視察官禹用鼎、東萊稅務司の視察錄を參互節査したところ、該島地方は縦が八十里ほど、圓聾渊塾い箸いΑ 四圍壁の中に巨山があって北より南に至る。その間に大川あり、広さ深さは舟を幾つか容れることができ、その土は肥沃で民は素朴であり、この数十年、人口は蕃殖し、戸数は四百余戸あり、墾田は万余斗落ある。
 居民の農作一年の収量は、藷二万余包、大麦二万余包、 黃豆一万余包、小麦五千包という。大まかに戸数、田数と穀数を陸地の山郡と比較すれば、数は及ばないが甚しく劣るのでもない。
 最近、外国人が来て交易し、交際上のことも有り、島監と称するのでは行政上の障害もあるため、鬱陵島を鬱島と改称し島監を郡守に改正するのが妥当であるので、この段、勅令案を会議に提出する。
光武四年十月二十二日
         議政府賛政內部大臣 李乾夏
議政府議政 尹容善 閣下 査照






この文章のどこに、90km離れた無人島を管轄に入れるという発想が窺えるだろうか?

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