コパンのうら

熊本県北部の山鹿市にあるちいさなフランス料理店「ビストロ シェ・ル・コパン」の舞台裏です。

マタイはどこに?

須賀敦子さんの『トリエステの坂道』を再読していて、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるという、この絵を見たくなりました。

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『聖マタイの召命』(1600)。
カラヴァッジョの公的デビュー作であり、最高傑作のひとつとも言われています。

イエス・キリストが、収税所で働くマタイのところへやってきて、自分に従うよう促したというシーン。右端後方に立ち、顔に光が当たっている人物がイエスです。手を伸ばして「いっしょに来なさい」と言っているようです(ちなみにこの手の形は、システィーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた『アダムの創造』の神の手を模したものと言われているそうです)。


参考)ミケランジェロの『アダムの創造』。

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では、この絵のなかでマタイはどこか?


須賀さんは作品のなかでこう書いています。

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レンブラントを思わせる暗い画面の右手から一条の光が射していて、ほぼ中央にえがかれた少年の顔を照らしている。一瞬、その少年がマッテオかと思ったほど、光に曝された顔の白さが印象的だった。(中略)収税人マッテオは、私が最初、勘ちがいしたように、光を顔に受けた少年ではなくて、その横に、え、あなたは私に話しかけているのですか、というふうに、自分の胸を指さしている中年の男だ。
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「マッテオ」は「マタイ」のイタリア語読みです(ちなみにフランス語読みはマチュー)。つまり、左側に座っている五人のうち、主役は中央にいるヒゲ面の男。確かに、イエスのほうを向いて驚いた顔をして、「え……お、おれ?」と言っているように、自分の胸を指で示しているように見えます。

ところが。

ウィキペディアを見ると、なんと、こういう記述が。

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長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、カラヴァッジョ作品では人差し指は第三者を指す場合用いる事、髭の男は金を支払う手つきをしており、若者は右手でその金を数え左手で財布を握りしめている事から、この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。
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ヒゲの男ではなく、左端の青年が聖マタイ! そう言われると確かに……。俯いている青年が、このシーンの直後にイエスのほうへすっと顔を上げ、無表情のまま立ち上がり、まるで金縛りにあったかのように黙ってイエスについていく……そんな姿が想像できるようです。


一方、須賀さんは、この青年についてこう書いています。

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私は、キリストの対局である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。カラヴァッジオだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。
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須賀さんは、マタイは中央のヒゲの男性だと思っている。でも、左端の俯いた青年の存在感の大きさも気になる。そこで、これは画家本人ではないか、と考えたようです。カラヴァッジョは天才画家でありながら、性格にかなり問題があったようで、いつでもどこでもすぐに激昂し、そのせいでとうとうひとを殺めてしまいました。変形した手に光が当たっている青年は、たとえ醜くても絵を描く手だけは光をもたらす、ということを象徴しているのではないか、と須賀さんは考えたようです。


となると、真実はどうなのか、非常に気になってきます。

ちょっと調べたところ、どうやら聖マタイは、日本では左端の青年、イタリアでは中央のヒゲの男、が定説となっているようですね。


イタリアでヒゲの男がマタイとされることにも、理由がいくつかあるようです。そのうちのふたつは、確かにかなり納得させられるものでした。

実はこの絵、『聖マタイの殉教』『聖マタイの霊感』というほかの2作品とセットになった「聖マタイ三部作」のひとつなのです。ほかの2作ではマタイは「ヒゲ面」(しかも帽子をとった姿から「ハゲ」(←直接的な表現、すみません……)でもあるとわかるのですが)なのに、これだけがふさふさ髪の青年のはずがない、というのが理由のひとつ。なるほど。


こちらが、『聖マタイの殉教』。

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中央に横たわっているのが聖マタイ(ううむ、確かにヒゲだ)。その上にまたがっている半裸の男性は、刺客……ではなく、左側にいる着衣のひとたちが刺客で、すでにマタイを切り倒した後なのだそう。半裸の男性は直前までマタイから洗礼を受けていた信者で、刺客から剣を奪い、マタイを助け起こそうとしているのです(ちょっとわかりにくいですね)。


『聖マタイの霊感』

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明らかに、ヒゲ+ハゲ……(何度も連呼してすみません……)。確かにこの姿、『召命』の中央の男性によく似ている気がします。


そしてもうひとつの理由として、ヒゲの男は青年を指さしているのではなく、その指先には影ができている……つまり指先を曲げているのであって、青年ではなく自分の胸を指さしている、というのです。

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ちょっとわかりにくいですが、そう言われてみれば、指先が内側に曲がっていて、自分自身の胸を指しているようにも見えますね。


そうか、やはり、聖マタイはヒゲの男なのか……。そうなってくると、今度は、須賀さんの「青年=カラヴァッジョ自身」という説が気になってきます。そちらもまた一理あるのかもしれない、と。


ただし、『殉教』の中央左手奥にちんまりと描かれた、竹中直人と市村正親を足して二で割ったような(?)男性、これがカラヴァッジョなのだとか。

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うーん、『召命』の青年とはあまり、似てない、かな……。『召命』の青年って、鼻筋が通って、目元と口元がキリッとした、いわゆる美男子ですよね。


ちなみに、こちらもカラヴァッジョの作品ですが、自画像ではないかと言われているそうです。どうやら若いころのようで、まだ竹中直人でも市村正親でもないですが(苦笑)、確かに同じ系統の顔立ちです(丸顔で、まぶたや唇がちょっとぼてっとした感じが)。うーん、やっぱり『召命』の青年とはあまり似てないかなあ。

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ただ、ですね、たとえ自分の似姿ではなくても、作品のなかの人物に自分自身の心理を投影させることは、ありうるような気もしないでもないです。『召命』のなかの、俯いたままの、手が変形した青年は画家自身ではないか、と言った須賀さんの視点は、個人的にはやはり慧眼だった気がするのですが。


あーあ、できることなら実物を自分の目で見て、そのときに自分がどう思うかが知りたいなあ。さいきん、ちょっとイタリア期に入ってます、わたし(笑)。





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