コパンのうら

熊本県北部の山鹿市にあるちいさなフランス料理店「ビストロ シェ・ル・コパン」の舞台裏です。

置かれた場所。

ツイッターのタイムラインをつらつらと眺めていると、人はいろいろなことに傷ついてしまうのだな、とあらためて思います。


他の人の無知、無神経、無意識、あるいは、よかれと思ってした発言や行動に傷つき、ときに怒る。それは、誰もがいつでもどこでも被害者にも加害者にもなりうる、実に日常的なことのような気がします。


たとえば、数年前のベストセラー本、『置かれた場所で咲きなさい』。


このタイトルを見た瞬間にあなたはどう感じましたか、と、つい、いろいろな人に聞いてみたくなります。


本を読んだことがなくても、このタイトルだけで何が書かれているのか、なんとなく想像がついてしまう。ある意味、これは「名タイトル」だと思います。そして、これほどまでに、目にした人たちの印象が真っ二つに割れることばもなかなかないのでは、とも思います。


なぜかここ最近、このことば(本)に救われたという人と、このことばに露骨な嫌悪感を示す人の両方に会いました。そしてツイッターのタイムラインでも、祖母からこの本を贈られたけど結局1ページも読むことなく3年後に捨てた、というツイートをたまたま見かけました。


ちょうどそんな時に、社会学者の岸政彦氏の著書(http://urx3.nu/TZjB)を再読していて、こんなことばにぶつかりました。


ある人が良いと思っていることが、また別のある人びとにとっては暴力として働いてしまうのはなぜかというと、それが語られるとき、徹底的に個人的な、「〈私は〉これが良いと思う」という語り方ではなく、「それは良いものだ。なぜなら、それは〈一般的に〉良いとされているかだ」という語り方になっているからだ。


そう考えると、このタイトルが一部の人たちに猛烈な嫌悪感をもよおしてしまうのは、その「〜しなさい」という命令口調にあるのかもしれません。これがたとえば、「置かれた場所で咲きませんか?」と提案する口調だったら、あるいは、「置かれた場所で咲きました」と、著者自身の「私的な」体験が語られていることを想像させるタイトルだったら、これほどのアレルギー反応は引き起こさなかったのではないでしょうか(ただし、出版社としてこれらのタイトルでは「弱い」のでしょうけど)。または、同じ命令口調でも、「置かれた場所で咲け!」の方が、まだマシだったかもしれません(善意の仮面をかぶっていないだけに)。


そして、なぜこのことばが「暴力的」になりうるのか、ということも、(奇遇にも)岸政彦氏の本には書かれていました。


まともに考えたら、無難な人生、安定した人生が、いちばん良いに決まっている。だから、そういう道を選ぶのは、良い選択である。しかし、負けたときに自分自身を差し出すような賭けをする人びともたくさんいて、それはそれで、ひとつの選択だといえる。どちらが良い、と言っているのではない。ただ私たちは、自分自身の意思や意図を超えて、ときにそういう賭けをすることがある。


人生の賭けとは、「置かれた場所」を捨てることです。その賭けに負けた時、すべてを、あるいは大きな何かを失ってしまったり、多大な挫折感、敗北感を味わったりするのかもしれません。あるいは、その賭けに挑まなかった人は、悔いやコンプレックスや嫉妬にさいなまれるのかもしれません。そして、たとえ賭けに勝ったとしても、期待したような恍惚や快楽は得られず、空虚と孤独を味わうのかもしれません。

その時、くだんのことばは、その人を慰めるのか、癒すのか、あるいはより深く傷つけるのか。自分という人間、自分の人生を、肯定されたと思うのか、否定されたと思うのか。



人はいろいろな言葉で傷つくらしい、という話に戻ります。


わたしたちは、自分が楽しかったり、嬉しかったり、幸せだったりするだけで、他の人を傷つけてしまうことがあるのだな、とツイッターを見ていてつくづく思います。


それについても、(またしても奇遇なことに)岸政彦氏は書いていました。


何もしてないのに「かわいい」「かっこいい」「おめでとう」「よかったね」、そして「愛してる」と言われることは、私たちからもっとも遠くにある、そして私たちにとってもっとも大切な、はかない夢である。そしてそれが同時に、ほかの人びとを傷つけてしまうこともある。だから私は、ほんとうにどうしていいかわからない。


こうした「大切な、はかない夢」は、ツイッターやFBやインスタグラムを通じて、手に入るかもしれない「安易な夢」でもあります。それを求めることは、おそらく、ちっとも悪いことではないはずです。むしろ、場合によっては、そうしたやり取りを端から見ているだけで、ほっこりした気持ちにさせられることもあります。でも、その夢がどうやっても手に入らない人は、他人の夢の成就に傷つくかもしれません。


自分のリア充(と見えるもの、思われるもの)は、他人を傷つける。


そう考えると、わたしたちは何も言えなくなってしまう。

いや、ことばだけじゃなくて、自分の存在そのものが他人を傷つけることがあるのかもしれません(きっとある)。

そう考えると、わたしたちは誰にも会えなくなってしまう。


岸政彦氏はこうも書いています。


本人の意思を尊重する、というかたちでの搾取がある。そしてまた、本人を心配する、というかたちでの、おしつけがましい介入がある。


相手を思って「放っておく」、相手を思って「心配する」、どちらも善意なのに、どちらも思いやりなのに、どちらも暴力になりうる。


人間関係は、社会生活は、難しいですね。


最後に、岸政彦氏はこう書いてます。


(略)私たちは、それぞれ、狭く不完全な自分という檻に閉じこめられた、断片的な存在でしかない。そして、私たちは小さな断片だからこそ、自分が思う正しさを述べる「権利」がある。それはどこか、「祈り」にも似ている。その正しさが届くかどうかは自分で決めることができない。私たちにできるのは、瓶のなかに紙切れを入れ、封をして海に流すことだけだ。それがどこの誰に届くのか、そもそも誰にも届かないのかを自分ではどうすることもできない。


もしかしたら、ツイッターも、瓶のなかに紙切れを入れて海に流す行為なのかもしれません(ただし、誰かに届く確率は本物の海に流すよりずっと高いけれど)。



それにしても、心にひっかかっていたけれどことばにはならなくて、何が問題で何が答えかもわからないような不確かなことが、たまたま読んでいた本の中にきちんと「問題」と「答え」として書かれてた時の爽快感! 岸氏の本は再読なのですが、初読の時には心の中にそういった疑問がなかったせいか、それほど深い印象は残りませんでした。本を読むにもタイミングってあるんですね、音楽もそうですが。


それと同時に、「これ、わたしが見つけて自分で言いたかった!」という悔しさもちょこっとありましたが(笑)。








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