コパンのうら

熊本県北部の山鹿市にあるちいさなフランス料理店「ビストロ シェ・ル・コパン」の舞台裏です。

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記念切手とメモ書き。

フランスのアマゾンで、年に何回か本を購入しています。

今回欲しかった本(2006年刊行の詩集)は在庫切れでした。再版されるかどうかわからなかったので、マーケットプレイスに出ていた古本をポチッ。マーケットプレイスとは、アマゾンのサイト上で第三者が出品した商品を購入できるシステムです。


楽しみに待っていたところ、届いた荷物(普通の国際郵便で送られてきました)を見てビックリしました。

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なに、このずらり並ぶ記念切手は! 

こうした商取引の郵便物の料金支払証明って、切手じゃなくて料金証紙とかスタンプとかを使うのが一般的では? あるいは、切手だとしてももっと標準的な切手では?(フランスならマリアンヌ像のもの) しかもこんなにたくさん、初めて見たものばかりで、ほとんど違う種類です。

……で、気になって調べてみました。


えーっと、右上から順に:

・ナンシーの戦い(500周年)(1977年発行)
・仔犬を抱く少女(赤十字)(1971年発行)
・オクターヴ・テリヨン(無菌法を発明した外科医)(1957年発行)
・ショーモン陸橋(1960年発行)
・欧州評議会(額面20F)(1958年発行)
・ル・ケノワ(フランス北部の町)(1957年発行)
・ムネ=シュリ(フランスの俳優)(1976年発行)
・リクヴィール(フランス東部の町)(1971年発行)
・欧州評議会(額面8F)(1958年発行)
・アンドレ・シーグフリード(フランスの政治経済学者)(1975年発行)
・ジャン=フランソワ・シャンポリオン(フランスの古代エジプト学研究者)(1972年発行)



古っ! わたしが生まれる前の50年代の切手もあるし! 

え? 待って? ユーロじゃなくてフランなのに使えるんだ? これってプレミアムとかついてないの? なんで潔くこんなに使っちゃうの?……と、よく考えると謎だらけです。


まず、「通貨がフランの時代に発行された切手は今も使えるの?」という疑問については、調べたところ、使えることが判明しました。


ただし、使う前にユーロ換算する必要があるそうです。「え、どうやって換算するの?」と、フランスのネット上でも話題になってましたが(郵便局で「できない」と断られた人や、換算用のソフトが壊れたから無理と言われた人もいたらしい←いかにもフランス)、換算専用のサイトもあってちょっと笑いました。


つまり、そこそこ手間暇がかかりそうですが、使えることは使えるようです。


でもこれらって、古切手としてマニアの間で価値があるのでは? その点についても調べてみましたが、いずれもそれほど高い価値はないようです。きっと発行部数が多かったのでしょうね。

ガッカリするよりも、むしろホッとしました。


さらに、小包の中には「購入ありがとうございます。楽しんでください」的なメモまで入ってました(上の写真の左下)。

やさしい……(感涙)。

記念切手をたくさん貼ってくれたのも、「せっかく遠い日本から注文が来たから、フランスのキレイな切手をたくさん貼ってあげよう」という心づかいではないでしょうか。どういう相手なのか気になって出品者情報を調べたところ、本やCDをネット販売している小さな会社のようです(経営者ふたりで切り盛りしてるっぽい)。そこでこの嬉しさを先方に伝えるべく、アマゾンの出品者評価ページのコメント欄にお礼を述べました(下のスクショの最上段)。

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「完璧でした! お礼のメモ、そして封筒に貼ってくれた切手、ありがとうございます! 嬉しかったです!」。他の方たちのコメントにも「お礼のメモをありがとう」と書かれていたので、きっと毎回そうしているのでしょう。



でも、そこで、ふと思いました。

今回、フランスという遠い国から来た本に手書きのメモが挟まっていたから、わたしもありがたく思ったのですが、もしこれが日本国内の出品者からだったら? そんなに嬉しかったかしら? 

手書きではなくパソコンで打たれたものなら、きっと違和感がないでしょう。でも、たとえば日本語の手書きで「購入ありがとうございます。楽しんでください」と殴り書きされたメモ用紙が一枚ぺらっと本に挟まっていたとしたら? そのざっくばらんで(ある意味ぞんざいで)妙に近すぎる距離感に、もしかしたらドン引きしてしまうかも? それとも、それってわたしだけの感覚? 


うーむ。


でも、フランス国内での取引でそのメモ書きが喜ばれてるってことは、少なくともフランス人にはこういう感覚はないのでしょうね。


いや、まてよ、ネット取引とはいっても、結局は人と人とのやり取りなのだから、距離の近さに違和感を感じるわたしのほうがおかしいのでは? ネットでのみつながる顔の見えない相手とはそんなにビジネスライクに徹したいのか、自分? こうして本を譲り受けるのも何かのご縁なのだから、少しは相手に親しみを感じてもよいのでは? ……とは言っても、自分がもし出品者の立場だったら、相手に引かれるのが怖いからやっぱり手書きメモは入れないかなあ……。

ふと、「コンビニの店員とコミュニケーションを取らない日本人」と似たものを感じてしまいました(ちなみに、わたしはコンビニの店員さんとはふつうにコミュニケーションを取ります)。

今後、考える余地のあるテーマのような気がします。



ちなみに、購入した詩集(フランス人がフランス語で書いた作品)には、「日本には『出会いは一度だけ』という意味の格言(一期一会)がある」と書かれていました。



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ある書店の最期。

15年前、東京から山鹿へ移住する際、わたしより半年早く現地入りしたシェフに住居を決めてもらいました。その際、わたしが出した条件はただ一つ、「徒歩圏内に書店があること」でした。


田舎暮らしをしたことがなかったわたしは、それがかなり厳しい条件だということを知りませんでした。これまで暮らした土地では、コンビニやスーパーと同様、徒歩圏内に書店(しかも複数)があるのが当たり前。でも田舎では、コンビニ、スーパー、そしてもちろん書店へも、車で出かけるのが普通です。それは当時のわたしは考えもしなかったことでした。それでもシェフはその条件をきちんと守り、徒歩30秒(!)のところに書店がある住居を見つけてくれたのです。


かつて、わたしは日に一度は必ず書店を訪れていました。どこに暮らしても必ず行きつけの本屋がありました。生まれ育った埼玉、引越し先の横浜、移住先のパリ、帰国後の東京……それぞれの町に思い出深い書店があります。中学校の帰りに新潮文庫を少しずつ買い集めた近所の小さな本屋、高校時代に行きつけだった横浜ルミネの有隣堂、アテネフランセの行き帰りに寄り道した御茶ノ水の茗渓堂、会社帰りに立ち寄った大崎の文教堂、CDも本もすべて揃っていたFNACレ・アル店、手がちぎれるほど大量の本を紙製バッグにぶら下げて小田急線で帰った新宿の紀伊國屋書店……自宅の書棚に並ぶ蔵書のほとんどの購入先を懐かしく思いだすことができます。


書店通いは日常だったので、生活圏に書店がないと生きていけない、と思っていました。コンビニやスーパーより、書店は大事な場所でした。


ええ、アマゾンが台頭するまでは。


当初は、自宅の目と鼻の先に書店があることが嬉しくて、夜10時までオープンしていたこともあり、お店からの帰宅途中に必ず立ち寄っていました。新刊書、文庫、新書、実用書、女性誌、音楽雑誌……いろいろなものを購入しました。ただ、ややマイナーな本は取り扱っていなかったため、ある時、仕事の資料が急遽必要になったのをきっかけに、送料無料で即日届けてくれるアマゾンを使うようになったのです。


アマゾンは思った以上に便利でした。


かつては、欲しい本を探すために、徒歩圏内の書店を数カ所巡り、それでも見つからなければ電車に乗って大型書店を訪れました。でも山鹿では、そうするだけの足も(車の免許がない)時間もありません。欲しい本がすぐに手に入らないのは大きなストレス。でもアマゾンがその悩みを解決してくれたのです。


ネット書店の影響で、全国的に書店の経営が厳しくなったと言われるようになったのは、それから間もなくでした。


書店の実店舗を守りたい。でも、欲しい本がなかなか手に入らないストレスには耐えられない。そうしたジレンマの中、なるべく実店舗で本を買うようにして、ないものだけはアマゾンで……と心がけていたのですが、そのうち「どうせ一冊買うなら」とまとめてアマゾンで買ってしまうことが増えていきました。


しばらくすると、近所の書店のラインナップがみるみる変わっていきました。文芸書、とりわけ海外文学をほとんど取り扱わなくなり、代わりにライトノベル、コミック、アダルト文庫、成人向け雑誌が幅を利かせるようになりました。定期的に購入している女性誌や音楽雑誌も1、2冊しか入荷されないので、すぐに売り切れてしまいます。もはや欲しい本はほとんど見つかりません。さらに閉店時間が夜9時に繰り上がり、お店帰りに立ち寄れなくなったため(お店の閉店は8時半)、まったく行かなくなってしまいました。


書店があるから住みはじめた場所なのに、目と鼻の先に書店があるのに、まったく足を向けないなんて。かつてのわたしには考えられないことです。


そしてとうとう、閉店時間が繰り上がってほぼ1年後、その書店は廃業してしまいました。


現在、店舗の解体作業が進行中です。建物は瓦礫の山となり、国道沿いにそびえる背の高い看板を除いて、もはや1カ月前の面影は残っていません(写真)。


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2019年5月9日のようす。


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2018年6月撮影のグーグルストリートビュー。つい1カ月前まではこんな感じでした。


悲しいのは、わたしがそのことになんの感慨も覚えないことです。


出版流通の取次制度によって、書店に入荷される新刊書の種類と冊数は、その書店の立地、規模、過去の実績に応じて決められます。書店が欲しい本をいくらでも入荷できるわけではないのです。交通の便が悪くて人口も決して多くないうちの近所の書店には、もしかしたら売りたい本が思うように入ってこなかったのかもしれません。いや、だとしてもあのラインナップはないよなあ……それが山鹿の「売れ筋」だとしたら悲しいし、でも結局廃業してしまったということはやはり路線を見誤ったのかしら、とも思ったり。


決して、愛すべき書店ではありませんでした、わたしにとっては。でも、感慨がないながらも、すぐそばの書店が瓦礫の山になってしまった責任の一端はわたしにもあるような気がして、目の前の風景を見るたびに胸がチクリと痛みます。


この小さな胸の痛みを、忘れないようにしなければ。


ところで跡地に何ができるのでしょう。わたしは個人的に◯OOK O◯Fだったらいいのに、と思ってるのですが(←実は、北九州から鹿児島まで、九州中の店舗を訪れるほどの自称◯OOK O◯Fマニアです)。無理か。


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「青春」ってなんだろ、と今日はずっと考えてました。いや、むしろ、なんだったんだろ、と。


せいしゅん 【青春】
若く元気な時代。人生の春にたとえられる時期。青年時代。「を謳歌する」「期」「時代」
(大辞林より)


……というのが、どうやら一般的な定義らしいですが、わたしにとってはちょっとちがうようです。

50代になった今、振り返ってみて「青春」だったと思える時期は2回あります。1回目は10代後半、2回目は20代中盤。具体的に言うと、1回目は高校時代から就職するまで、2回目は会社を辞めて渡仏して学校に通っていた時期(ライターの仕事を本格的に始めるまで)。

どちらも間違いなく、わたしの青春でした。でも、「じゃあ、おまえにとって青春の定義とは何なのだ」と問われると、うーん、なんだろ、よくわからない。少なくとも「若くて元気」でないことは確かです。とくに2回目なんて若くも元気でもなかったし(笑)。「定義がわからないのにその時期が青春だったと断言できるはずがないだろう」と言われると、ええ、確かにおっしゃる通り。で、もやもやするので、今日はずっと熊本市内を往復するバスの中で(定休日でひとりで外出。シェフは免許更新に)、好きな音楽を聴き、黄金色の麦畑が喧騒の街へ変わっていく風景を眺めながら、考えてました。

問題は2回目のほうですよね。2回目を「青春」と仮定するなら、1回目と同じ要素を探せばよいのです。

音楽、読書、勉強、友だち、旅、映画、不安と期待、モラトリアム……共通する要素をいろいろ挙げてみました(ちなみにわたしの場合、「恋愛」は「青春」の要素に入りません(キッパリ))。そうしていてようやく、わたしにとって一番ピッタリくるワードは「焦燥」だということに気づきました。

必死に走ってるつもりなのに、ちっとも前に進んでいない。無我夢中で這い上がろうとしているのに、ちっとも上に辿りつかない。自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、まったくわからない、とてつもなく強い焦燥感と孤独。そんな中での日々の救いが、音楽、読書、勉強、友だち、旅、映画でした。当時はそれを「逃避」と指摘した人もいましたし、わたしも少なからずそう感じていましたが、今思い返すと、不思議なことに、あの強烈な焦燥感と孤独から救ってくれたものたち(音楽、本、友だち、映画……)こそが、今のわたしという人間のベースを作ってくれたような気がします。

そう思った時、先日読んでいた本で出会ったことばを思いだしました。


個人は社会が要求する同調や参加から一歩距離をおいて、自己の責任において判断する秘密の時間、あるいは自由な空間を保持していなければならない。この秘密な時間、自由な空間は、(中略)自己自身による判断を生み出す拠点となるという点で、能動的な態度設定をもちうるための不可欠の条件なのである。(山之内靖『方法的序論 総力戦とシステム統合』)


好むと好まざるとにかかわらず、当時はほとんどの時間をひとりで過ごし、自由に考え、自由に行動せざるをえない環境にありました(ネットもありませんでしたし)。そういう中で出会ったモノ、ヒトが、わたしを作ってくれて、そのおかげで今のわたし(あんまり悩まないし迷わないわたし)があるのだと思います。

現在、社会貢献とか、社会の役にたつこととかが一部では強く奨励されていて、役に立たない(ように見える)ことが糾弾されたり、また自らコンプレックスを抱いたりするケースが増えているようですが、そんなの、くそくらえです。

社会貢献を否定するつもりは毛頭ありませんが、それを焦るよりは、まずは自分自身の確固たるベースを築くほうが大事ではないかしら、と。たとえ、社会が、世間が、世論が、国が、世界がどう変わろうと、決して揺るがない自分のベースを持つことのほうが。

孤独や焦燥と戦いながら、自分ひとりで考え、行動し、あらゆる雑多なものを、選り好みせずに貪欲に吸収していくことで、いつしか自分の中に溜め込んだものを使って、自分のベースの上に何かを築き、まとまった形にすることができるのではないかしら、と。創作活動のことに限らず、人間形成においても。……あ、わたし自身は基本的に怠惰なので、好きなこと(とラクなこと)しかしなかったですし、言うほどたくさん吸収してなかったんですけどね(恥)。


……うーん、おかしいな、これを書きはじめた時はこんな結末へ持っていく予定じゃなかったんですけど。

本当に書きたかったのはですね、あの「青春」時代、同じように焦燥にかられ、自分と戦いながらあらゆるものを吸収していたであろう友だち(=同志)が、今元気そうだったり、幸せそうだったり、プロとして活躍していたり、かつての夢を叶えたりしてるのって、それを遠くから知ることができるのって(SNS万歳)、なんかもうめちゃくちゃ嬉しいことなんだな、と。勝手に、自分のことのように、あるいは家族のように喜んでますもん。ま、ドン引きされそうだから直接本人には言いませんけどね。

今、タイムスリップできたら、何もわからず、どこにも行けず、途方にくれている当時の自分(その時期をいずれ「青春」と呼ぶことになるとは夢にも思っていない自分)に、とりあえず言ってあげたいです。

「人生は、あんたが今予測するより100倍も1000倍も想定外だから、あまり先のことをくよくよ思い悩まなくてもいいよ」と。

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小学生時代、自分で言うのもなんですが、まんべんなく何でもできる優等生でした。でも、突出してこれというものは何もありませんでした。本を読むのは確かに好きでしたが、友だちと外で駆け回って遊ぶのも同じくらい好きでしたし。

シェフは子供の頃から料理が好きで、料理の道を行くと早くから決めていたそうです。一方のわたしは、まんべんなく何でもできたけど(いや、たぶんそのせいで)、「自分はこれ!」という決意や自信は何もなく、「どこかの誰かがわたしの才能を見いだしてくれるのを待とう」という、今思えば赤面ものの自信過剰と他力本願っぷり。

で、何もしないのに誰かに見いだしてもらえるわけもなく、いっこうに道が定まらないまま長い年月が経ち、「やっぱり自分には何もないのか」「いや、まだわからないぞ」と諦めと期待の間を激しく揺れ動きつつ、でもやはり自分からはとくに努力をすることもなく(苦笑)、のらくらと生きてきたのでした。

そういう意味で、非常に怠惰で傲慢な人生だったのですが、その一方で、ある夢のために邁進してきたのも確かです。

はじめに、ことばがありました。

「どこで暮らそうが同じ」

そのことばを、堂々と言えるようになるのがずっと夢でした。もしかしたら、唯一の夢だった、と言っても過言ではないかもしれません(いや、やっぱり過言か?)。とにかく、虚勢を張るのではなく、誰にも納得してもらえる状況で、このことばを発したい、とずっと願ってきました。

なぜそんなふうに思ったのか?

むかしから、こういうことばをよく耳にしたものです。

「田舎は退屈でつまらない」
「都会は刺激があって楽しい」
「田舎の人はあったかい」
「都会の人は冷たい」
「田舎はみんなが監視しあってて窮屈だ」
「都会なんてゴミゴミして人間が住むところじゃない」
「外国は危険だから日本のほうがいい」
「日本にずっといて外へ出ないと井の中の蛙になる」

そのたびに、本当かな、と疑ってきました。

憶測やイメージ、限定的な経験の感想にすぎないのでは?
コンプレックスの裏返し、あるいは、経験者としてのマウンティングでは? 

さらに、わたしに対してこんなことを言う人たちもいました。

「外国で暮らす? きみのような神経質な人間には無理だよ、心身症になるのがオチだ」
「田舎暮らし? あなたのような自由人には無理に決まってる。すぐに逃げ帰ってくるよ」

そんなことを言われるとですねー、わたしのパンク魂がうずくんですよ。ええ、やってやろうじゃないの、で、いつか必ず言い返してやる、「どこで暮らそうが同じよ」って(鼻息)。

怠惰で他力本願なくせに、変なところで負けず嫌いなので、「いつか見返してやる」と思いつづけて苦節?年、今ようやく堂々と言えるようになりました、「どこで暮らそうが同じ」と。

あ、もちろん、ある程度の治安や温暖な気候が保証されている場所、に限りますけどね(汗)。

今、しょっちゅう「田舎暮らしは退屈じゃないですか? 窮屈じゃないですか?」と尋ねられますが、仕事をしてると毎日20時間近くがあっという間にすっとびますし、ネットでいくらでも情報は手に入りますし、趣味の本や音楽や映画にも不自由しませんし、九州中あちこち訪ねまわってますし、ちっとも退屈でも窮屈でもありません。まわりの人たちにも恵まれているので(←実はそれが一番ありがたい)、ストレスはほぼゼロです。

また、意外にも自分が自然(とくに植物)を好きだったことに気づけたのは、田舎暮らしのおかげです。いや、もしかしたら、田舎暮らしではなくて、歳をとっただけかもしれませんけど。

でも、「じゃあ、もう田舎でしか暮らせないでしょう?」なんて思わないでくださいね。福岡、または東京やパリへ行くたび、「このままここに暮らしてもまったく問題ないな」と心から思うのも事実ですから。

上で挙げた「都会VS田舎」「外国VS日本」の一連のセリフは、一般論としてはそうかもしれませんが、それが自分に当てはまるかどうかは、実際にやってみないとわかりませんよね? 少なくとも、わたしにとってはいずれも当てはまりませんでした。だから、他人に対してこれらの一般論をふりかざすつもりは毛頭ないです。

だから、こうした一般論がネックとなって、動きたいのに動くのを躊躇している人がいたら「迷ってるならとりあえず動いてみれば?」と言いたいです(ただし、多大な期待はしないほうがいいですし、それなりの努力は必要だと思いますが)。逆に、動く必要がないと思う人は、そのままでいいと思うのです。コンプレックスを抱く必要もまったくない。生まれ育った場所が世界で一番好きというのは、間違いなく誇れることです。ただ、だからといって、動こうとする人の足を引っ張ってはいけないと思いますが。

いずれにしても、「どこで暮らそうが同じ」って、心を自由にしてくれますよ、けっこう。


P.S. 上の文章を翌日に読み返して、なんだかまるで動くのを奨励しているようだな、と思い、補足します。わたしは個人的に、動いても動かなくても同じだと思ってます。どんな場所に暮らそうが、時間の経過によって人は否応なしに変化を迫られるわけですし。どこに暮らそうが、ずっと同じでいることはできない。だから、無理やり動く必要もないし、逆に動くのをそれほど大変なことだと思う必要もない、と思うのです。わたしは個人的に、自分がいる意義と役割があればどこにでも暮らせるような気がします(今のわたしにはコパンがそれ)。たとえば明日、「きみにしかできない仕事があるからすぐにアラスカへ行ってほしい」と言われたら、二つ返事で出かけちゃいます、きっと。



写真は、昨年の「ビブグルマン」のお祝いでいただいた蘭の花。頂いた時もとても嬉しかったですが、無事に今年も咲かせることができてさらに嬉しく、どこかホッとしています。

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ちょうど何日か前、この本を購入したばかりでした。

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パリに25年滞在したフランス文学者・哲学者、森有正のエッセー集。
『遥かなるノートル・ダム/黄昏のノートル・ダム/遠ざかるノートル・ダム/日記1961年5月4日〜68年1月2日』(ちくま学芸文庫)。

著者は、長い滞在期間の多くの時間を、ノートル・ダム大聖堂が見えるところで暮らし、季節や時間によって変貌するその姿を眺めながら、哲学的思索を深めてきました。ここに収められている文章の多くは、ノートル・ダムに直接関係のある内容ではありませんが、それでもその背景にはあの「貴婦人」の姿が常にそびえ建っているような気がします。

以下、長いですが、一部抜粋します(一部旧仮名遣いを修正しています)。

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すぐ近くにノートル・ダムがあるのにその存在を意識せず、何週間もそれを考えずに過ごすことがますます多くなってきた。そういう時でも、季節や天候の変化で、石の壁の色彩や目で見た感触が変わると、はっと気がついて眺めることがある。そういう時の幸福感は何にたとえようもない。こうして生活の忙しさの中に、ノートル・ダムは意識下に沈んでいく。あるいは忘れられていく。(中略)

そういうある日、ふとノートル・ダムを見ると、それがいかに美しいものであるか、他のものと桁違いに優れたものであるか、しみじみと感ぜられたのである。こうして自然、外界、天候、季節、またパリの町全体の小さいまた大きい美しさ、そういうものとの接触からノートル・ダムが輝きだすようになってくる。パリという歴史ある町の一定の地理的位置と風土との中の生活感情とが一つに融合して、その関連からノートル・ダムの美しさが見えるようになってくるのである。(中略)

しかしその美しさが本当に私どもの感覚にあらわれるようになるのは、その全体をすでに含んでいる感覚が成熟を遂げなければならないのである。我々の感覚は見ていても、見えていないのである。(中略)パリの空間感覚、多くの教会や公共建築物の空間の特殊な、豊かで自由な感覚から離れてそれに気がつくことはむつかしいのである。こうしてノートル・ダムは、パリの町の内側から見えてくるのである。そしてパリの町の内側は、そこに住む人の生活感情を離れてはありえない。ノートル・ダムの外側がパリの内側から見えてくるのである。それ以外のところからは容易に見えがたいのである。

『遠ざかるノートル・ダム』(1974)

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さらに森氏は、シャルトルやランスの大聖堂がたとえどれほど素晴らしくても、やはりパリのノートル・ダム以上には好きになれない理由について、「一つの教会は一つの町に融合し、町全体の内側からしか理解できないから」だと述べています。もしかしたらそれは、町と城(たとえば、熊本と熊本城)についても言えるのかもしれない、と思いました。


わたし自身、パリを擬人化する時、脳裏にはあの貴婦人の姿、とりわけ裏側から見たフライングバットレスと尖塔の素晴らしさを思い浮かべます。ええ、エッフェル塔でも凱旋門でもなく、ノートル・ダムを。この大聖堂は、フランス革命、ナポレオンの戴冠、パリ・コミューン、68年革命、二度の世界大戦、パリ同時多発テロ、すべてを見つめてきたのですから。

かつてわたしは、セーヌ河岸でこの姿を眺めながらぼーっとしたり、軽食をとったり、本を読んだりするのが好きでした。当時の写真が一枚だけ残っています(1996年撮影)。多くの時間をここで過ごしたはずなのに、たったこれしか記録がないなんて。しかも肝心の大聖堂が小さすぎる。もしかしたら、生きているうちにもう二度とこの姿を見られないかもしれないのに。

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