コパンのうら

熊本県北部の山鹿市にあるちいさなフランス料理店「ビストロ シェ・ル・コパン」の舞台裏です。

日記

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ちくわぶとはんぺん。


熊本に暮らして13年、ひとつの場所に長く住んだことのないわたしにとって、もっとも長く暮らす町のひとつとなり、いつの間にか地元の文化にも深い愛着を覚えるようになりました。

が、この季節は毎年ひしひしとアウェイ感を覚えるのです。

だってわたし、はんぺんとちくわぶが好きなんです。

食べないんですよねえ、熊本のかたたちって。はんぺんもちくわぶも(涙)。シェフもそのひとりで、わたしが「はんぺん食べたい」と言うと、露骨に不快な顔をし、「あんたひとりで食べれば」と冷たく吐き捨てます。料理担当のシェフ、冬場はかなりの頻度でおでんを作ってくれるのですが、はんぺんは食べる直前にわたしが冷蔵庫から出してきて自分の分だけカットしてちょこっと載せるだけ。いえ、それならまだマシで、自分は全然興味がない食材なので買ってもくれないことがほとんどです(←わたしに対する意地悪というより、存在を忘れてる)。

さみしい。

ちくわぶ? ここ十数年、姿を見たこともないですね。ああ、なつかしい。あの白雪のような肌が汁を吸って褐色に色づいて、弾力を失ってちょっとくたっとした姿。あの、もちっとしてるわけでもなければ、かと言ってふわっとしてるわけでもなく、口のなかで強い存在感を示すでもなければ、泡のようにすっと溶けるわけでもない、噛みしめて素材の旨さを感じるでもなければ、独特な芳香が鼻腔に抜けるわけでもない、あの限りなく中途半端な感じ(←褒めてる?)。ええ、人間とは、決して白黒はっきりした存在ではない、あいまいで、中途半端で、どっちつかずで、あやふやで、気分がコロコロ変わる、限りなくグレイな存在であることを、あの中途半端なちくわぶを食べるたびに思わされるのです。

ああ、ちくわぶに会いたい。

ええ、中途半端だっていいじゃないですか。「何を考えてるかわからない」「何を目指してるのかわからない」「個性がない」「存在の意味がわからない」と罵倒されたっていいじゃないですか。たとえ人気者にならなくても、おでん界で一位にならなくても、忘れられても、存在を無視されても、ただマイペースで淡々と変わらぬ姿でそこにいるだけで、愛してくれるひとは必ずどこかにいます。そのままで、唯一無二の存在なのです。そう、たとえいろんなことがうまくいかなくて自信を喪失しても、ちくわぶの姿を見て味わうことさえできれば、「まあ、いっか、こんな自分でも。ちくわぶだっているんだし」と、なぐさめられるのです(←ちくわぶに失礼)。ああ、ちくわぶに会いたい。

はんぺんははんぺんで、あれを見るたびに、わたしが大好きな小説、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』というタイトルを思いだします。いいじゃないか、軽くたって。軽くて何が悪い。がんばれ、はんぺん。

愛すべきちくわぶとはんぺんよ、永遠なれ。


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写真は数年前に撮ったおでんですが、はんぺんもちくわぶもありません(涙)。あ、でも、ダイコンとコンニャクも好きです(シェフは餅巾着が好き)。


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いきなりですが、「ヴィットーリオ・エマヌエーレ」ってカッコいい名前だと思いませんか?

もちろん、今までこの名前(サヴォイア家の歴代国王に多い名前ですよね?)を目にしたり、耳にしたりしたことは何度もありましたが(ローマかどこかで通りの名前にもなってますよね? 確か?)、今回、自分の手でこの名前を書く機会があって(というか、キーボードで打つ機会があって)、あらためてウットリ。

このね、「ーリオ」とか「エーレ」とか伸ばすところが、もうなんともいえないです。あと「ヴィッ」ってはねるところも。いずれも、フランス語にはない音だからかもしれません。

あ、そうそう、あれもカッコいい。

「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」。

この名前を初めて聞いたとき、
「なにそれ! あのひと(というか、あのパスタ)の名前って、ただの『ペペロンチーノ』じゃなかったの!? いつのまに「アーリオ・オーリオ」とかいうカッコいい名字(?)がついてたのよ!? え? 知らなかったのは日本人だけ!?」……と、激しい驚愕をおぼえたものでした。

料理の名前として、今思いつく限りでは一番カッコいいと思います、個人的に。

だって、「アーリオ・オーリオ」ですもの、なんたって「アーリオ・オーリオ」(←しつこい)。


「クアトロ・フォルマッジョ」もカッコいいですよねえ。フランス語だと「キャトル・フロマージュ」になりますが(「四種のチーズ」の意味)、もう断然、「クアトロ・フォルマッジョ」に軍配が上がるでしょう。力強くて、生きがよくて、歴史と文化の匂いがします(しない?)。それに比べて「キャトル・フロマージュ」……うーん、ちょっとなよなよっとして、気どりすぎてますよねえ。

「サルティンボッカ」もいいですねー。イタリア料理店に行ってこの料理がメニューにあると、つい名前だけで選びたくなっちゃいます。「すみません、サルティンボッカください」と言いたいがためだけに。たまーに、むかしのシルク・ド・ソレイユの演目「サルティンバンコ」と区別がつかなくなりますが。「サルティンバンコ……あ、じゃなくて、サルティンボッカください」。

あ、「カンノーリ」も好きです。これもメニューにあると必ず頼んじゃいます、名前にクラっとして。というか、味も好きなんですけど。ゴッドファーザーの大好物のお菓子なんですってね? そういう、マフィアなのに甘いもの好き、的な激しいギャップも、イタリアならではな感じでウットリ。

「バルサミコ」も、90年代半ばに初めて知ったときに衝撃を受けました。実は、初めてこのひと(いや、この酢)の存在を知ったのはわたしがフランスにいたときで、当時は「バルザミック」と呼んでたんです。ええ、フランス語だとそう言うんです、「バルサミコ」じゃなくて「バルザミック」。で、98年に日本に帰国して初めて、その本当の名前を「バルサミコ」と知り、わたしのなかで急に存在感が大きくなったのです。だって「バルザミック」って「バルチック艦隊」とか「バルタザール」とかみたいじゃないですか。なんか正体不明な感じがして今ひとつピンとこなかったんです。それに比べて「バルサミコ」、ああ、南の太陽と濃い緑の香りがするこの名前! そして力強く、輪郭がはっきりして、キレがある。そう、あのお酢の名前は「バルサミコ」じゃないと。


いやあ、イタリア語ってカッコいいなあ……と、こんなことを書いてて思いだしたのですが、20代のころ、「フランス語の音ってカッコいい」と思って、フランス語を始めたんじゃなかったかしら、わたし?

今となっては、フランス語の音にときめくことは皆無となりました。まるで、長年近くにいることで新鮮さを失い、慣れすぎて、飽きがきて、ちっともときめかなくなったパートナーのよう……(ええっと、誰のこととは言いませんが……)。


それにしても、わたしのイタリア語のボキャブラリーって食べ物しかないな。50の手習いで(あ、40だっけ?)、本気でイタリア語勉強しようかしら。食べ物以外の単語を覚えるために。


……すみません、はてしない独り言でした。

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おまけの写真。
この間、福岡方面で見た夕暮れの海です。


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おかえり、マリン。

いやったっ!

テレビも(あまり)見ず、お酒も(ほとんど)飲まず、ネットも(ほとんど)見ず、本も(まったく!)読まず、睡眠を一日2〜3時間削って、翻訳のしごとに集中してきた一カ月半。ようやく一段落つきました! スッキリ! さぁーってと、まずは何をしよっかなー(るん)。


そんな一カ月半でしたが、お店のほうは平常どおりやっておりました。お店のしごととは使う脳と筋肉がちがうので、どうにかなってしまうのですね(まあ、翻訳のほうは筋肉はほとんど使いませんが。……指くらい?)。むしろ、お客さまとお話をさせていただいたり、笑ったりするのがリフレッシュになって、深夜のしごとがさくさくはかどりました。はかどりすぎて、ハッと気づくと朝4時、5時、という毎日。好きなしごとなのでちっとも苦にはなりませんが、睡眠不足が一番のネックでした。ふだんは何よりも寝るのが大好きなわたしが、「寝ずに済むならそうしたい」と切実に思ったほど。



そんな一カ月半の間、一番の事件といえば、なんといっても「自転車盗難」。

FBにも書かせていただきましたが、11月3日の深夜、自宅の自転車置き場に置いておいた自転車が盗まれてしまいました。集合住宅なのですが、大通りから奥まったところにあり、住民以外はほとんど出入りがない(と思っていた)ので、カギをかけていなかったのです(恥)。おそらく近所のカラオケ店(うちの近所にはそのくらいしかない)で深夜まで酔っ払って遊んでいた若者が、足代わりに乗って帰ったのかな、と。古くてボロボロの自転車なので転売目的ではないはずです。

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かれこれ15年以上乗ってました。東京に住んでいたときに四谷の専門店で買い、かつては山手線内は電車に乗らずに常に自転車移動してたくらいのヘビーユーザーでした。カリフォルニアの「マリン」というブランドです。「マリン」はあまりメジャーではありませんが、フレームの形がキレイで好きなのです。フォルムがスッキリしてて、断面が丸ではなくて四角くて、細くて、溶接が美しい(←ここ、ポイント)。熊本移住時に引越し業者に運んでもらい、それからは自宅と店の往復に毎日乗っていました。乗ってる時間はむかしより減りましたが、回数はむしろ増えたくらい。まさにわたしの「足」でした。

それがある日突然、こつぜんと消えてしまい、予想以上の喪失感を味わいました。どこに連れていかれちゃったんだろう、今ごろどこにいるんだろう、こんな別れかたをするなんて……などとことあるごとに思い、胸を痛めていました。でも、たぶん見つからないだろうな、と諦めてもいました。警察にも連絡したのですが、防犯登録番号を控えていなかったので(←アホ)、盗難届として受理してもらえませんでした。

ところが。

数日後の11月7日の朝、女性の常連のお客さまからお電話をいただき、「シルバーの自転車が放置されてるのを知り合いのひとが見つけて警察に届けたらしいけど、もしかしてコパマネさんのじゃない?」と。そのお客さまはFBに登録されていないため、投稿のコメント欄を見ることができず(←そうなんだ!)、わたしの自転車がどういうのかを確かめることができなかったそうです。でも、もしかしたら、とすぐにご連絡くださったのだそう。

もちろん、場所を伺ってさっそく見に行きました。

確かに、わたしの自転車でした(感涙)! 大通り沿いではありますが、あたりには民家も商店もなく、左右は竹やぶに覆われ、昼でも薄暗くてさみしいところです。たまに車で通りますが、ひとが歩いているのを見たことがないですし、車を停められるスペースもなく、いつもただ通り過ぎるだけ。その一角の、つたがからまって雑草に覆われた、朽ち果てたような電柱にぽつんと立てかけられていたのです。

いったいどうしてこんなところに? うちから10キロくらいだけど、住宅もなければバス停もない、どうしてこんなところに乗り捨てるんだろう? そう思いながらそそくさと回収すると、フロントとリアのライトがふたつとも消えてました。ええ、フロントライトは想定内でしたとも。USBライトをゴムバンドで留めただけのものでしたから。でもリアライトは……なんと、ネジ留めしてあったのをご丁寧にドライバーではずされていました。

ええーっ、じゃあ、単なる足代わりじゃなかったの? だって、ふつう、ドライバーって持ち歩かないよね? それとも、自宅まで足代わりに乗っていって、ライトを取ったあとわざわざここまで運んで放置したの? 車を停める場所もないのにどうやって? しかも、あんなに古くてサビだらけのライト(←15年以上使ってる)、盗んだってしかたなくない? ……うーむ、なんだか謎が深まってしまいました。

でも、戻ってきてくれたことは素直にうれしい。それにしても、よくぞまあ、あんなに目立たないところにあった自転車を見つけてくださって、警察に届けてくださったこと! 目だたない色合いなので、やぶのなかにすっかり埋もれてしまい、わたしが見たときはもう何年も前からそこに放置されていたような風情が漂ってました。もしかしたら、わたしが知らずに車で通っても気づかずに通りすぎちゃったかもしれません。

あらためて、教えてくださったお客さまに経緯を伺いました。いつもうちのFBをご覧になって、それから知り合いのかたのブログを見るのを習慣にされているそうで、わたしがFBに「自転車なくなった」と書いているのを見た後、知り合いのかたが「自転車が放置されてる」と書かれていたので、「あれ!?もしや!?」と思われたのだそうです。

なんという奇遇な……(驚)。

その話を伺いながら、思わずそのお客さまに抱きつきたくなっちゃいました。

ちなみに、こちらがそのかたのブログです。


こちらの写真、あれから何度もついつい眺めてしまいます。よくぞまあ、こんなところにいたのを見つけてくださったものだ、としみじみ思いながら。

マリンが戻ってきてくれた当日、すぐに空気を入れ直し、拭き掃除をし、サドルの破れを補修しました。もちろん、あれ以来、毎日カギをかけてます。あ、防犯登録の番号も控えました(反省)。

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実は、「しかたがないから、モペット(トモスかソレックス)でも買おうかなあ」とちらっと思ったのは、うちのマリンには内緒、内緒。







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すべては滑舌のせい。

簡単更新です。


以下は、昨日、買い物したときにもらった伝票です(一部修正を加えてます)。

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シェルゴパン


シェルポパン。


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ゴパン


ポパン。


すべては、買い物をしたシェフの滑舌のせいです。


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マタイはどこに?

須賀敦子さんの『トリエステの坂道』を再読していて、ローマのサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会にあるという、この絵を見たくなりました。

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『聖マタイの召命』(1600)。
カラヴァッジョの公的デビュー作であり、最高傑作のひとつとも言われています。

イエス・キリストが、収税所で働くマタイのところへやってきて、自分に従うよう促したというシーン。右端後方に立ち、顔に光が当たっている人物がイエスです。手を伸ばして「いっしょに来なさい」と言っているようです(ちなみにこの手の形は、システィーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた『アダムの創造』の神の手を模したものと言われているそうです)。


参考)ミケランジェロの『アダムの創造』。

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では、この絵のなかでマタイはどこか?


須賀さんは作品のなかでこう書いています。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
レンブラントを思わせる暗い画面の右手から一条の光が射していて、ほぼ中央にえがかれた少年の顔を照らしている。一瞬、その少年がマッテオかと思ったほど、光に曝された顔の白さが印象的だった。(中略)収税人マッテオは、私が最初、勘ちがいしたように、光を顔に受けた少年ではなくて、その横に、え、あなたは私に話しかけているのですか、というふうに、自分の胸を指さしている中年の男だ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「マッテオ」は「マタイ」のイタリア語読みです(ちなみにフランス語読みはマチュー)。つまり、左側に座っている五人のうち、主役は中央にいるヒゲ面の男。確かに、イエスのほうを向いて驚いた顔をして、「え……お、おれ?」と言っているように、自分の胸を指で示しているように見えます。

ところが。

ウィキペディアを見ると、なんと、こういう記述が。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。髭の男は自分ではなく隣に居る若者を指差しているようにも見え、カラヴァッジョ作品では人差し指は第三者を指す場合用いる事、髭の男は金を支払う手つきをしており、若者は右手でその金を数え左手で財布を握りしめている事から、この左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る、そのクライマックス直前の緊迫した様子を捉えているのである。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ヒゲの男ではなく、左端の青年が聖マタイ! そう言われると確かに……。俯いている青年が、このシーンの直後にイエスのほうへすっと顔を上げ、無表情のまま立ち上がり、まるで金縛りにあったかのように黙ってイエスについていく……そんな姿が想像できるようです。


一方、須賀さんは、この青年についてこう書いています。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
私は、キリストの対局である左端に描かれた、すべての光から拒まれたような、ひとりの人物に気づいた。男は背をまるめ、顔をかくすようにして、上半身をテーブルに投げ出していた。どういうわけか、そのテーブルにのせた、醜く変形した男の両手だけが克明に描かれ、その手のまえには、まるで銀三十枚でキリストを売ったユダを彷彿させるような銀貨が何枚かころがっていて、彼の周囲は、深い闇にとざされている。カラヴァッジオだ。とっさに私は思った。ごく自然に想像されるはずのユダは、あたまになかった。画家が自分を描いているのだ、そう私は思った。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

須賀さんは、マタイは中央のヒゲの男性だと思っている。でも、左端の俯いた青年の存在感の大きさも気になる。そこで、これは画家本人ではないか、と考えたようです。カラヴァッジョは天才画家でありながら、性格にかなり問題があったようで、いつでもどこでもすぐに激昂し、そのせいでとうとうひとを殺めてしまいました。変形した手に光が当たっている青年は、たとえ醜くても絵を描く手だけは光をもたらす、ということを象徴しているのではないか、と須賀さんは考えたようです。


となると、真実はどうなのか、非常に気になってきます。

ちょっと調べたところ、どうやら聖マタイは、日本では左端の青年、イタリアでは中央のヒゲの男、が定説となっているようですね。


イタリアでヒゲの男がマタイとされることにも、理由がいくつかあるようです。そのうちのふたつは、確かにかなり納得させられるものでした。

実はこの絵、『聖マタイの殉教』『聖マタイの霊感』というほかの2作品とセットになった「聖マタイ三部作」のひとつなのです。ほかの2作ではマタイは「ヒゲ面」(しかも帽子をとった姿から「ハゲ」(←直接的な表現、すみません……)でもあるとわかるのですが)なのに、これだけがふさふさ髪の青年のはずがない、というのが理由のひとつ。なるほど。


こちらが、『聖マタイの殉教』。

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中央に横たわっているのが聖マタイ(ううむ、確かにヒゲだ)。その上にまたがっている半裸の男性は、刺客……ではなく、左側にいる着衣のひとたちが刺客で、すでにマタイを切り倒した後なのだそう。半裸の男性は直前までマタイから洗礼を受けていた信者で、刺客から剣を奪い、マタイを助け起こそうとしているのです(ちょっとわかりにくいですね)。


『聖マタイの霊感』

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明らかに、ヒゲ+ハゲ……(何度も連呼してすみません……)。確かにこの姿、『召命』の中央の男性によく似ている気がします。


そしてもうひとつの理由として、ヒゲの男は青年を指さしているのではなく、その指先には影ができている……つまり指先を曲げているのであって、青年ではなく自分の胸を指さしている、というのです。

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ちょっとわかりにくいですが、そう言われてみれば、指先が内側に曲がっていて、自分自身の胸を指しているようにも見えますね。


そうか、やはり、聖マタイはヒゲの男なのか……。そうなってくると、今度は、須賀さんの「青年=カラヴァッジョ自身」という説が気になってきます。そちらもまた一理あるのかもしれない、と。


ただし、『殉教』の中央左手奥にちんまりと描かれた、竹中直人と市村正親を足して二で割ったような(?)男性、これがカラヴァッジョなのだとか。

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うーん、『召命』の青年とはあまり、似てない、かな……。『召命』の青年って、鼻筋が通って、目元と口元がキリッとした、いわゆる美男子ですよね。


ちなみに、こちらもカラヴァッジョの作品ですが、自画像ではないかと言われているそうです。どうやら若いころのようで、まだ竹中直人でも市村正親でもないですが(苦笑)、確かに同じ系統の顔立ちです(丸顔で、まぶたや唇がちょっとぼてっとした感じが)。うーん、やっぱり『召命』の青年とはあまり似てないかなあ。

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ただ、ですね、たとえ自分の似姿ではなくても、作品のなかの人物に自分自身の心理を投影させることは、ありうるような気もしないでもないです。『召命』のなかの、俯いたままの、手が変形した青年は画家自身ではないか、と言った須賀さんの視点は、個人的にはやはり慧眼だった気がするのですが。


あーあ、できることなら実物を自分の目で見て、そのときに自分がどう思うかが知りたいなあ。さいきん、ちょっとイタリア期に入ってます、わたし(笑)。





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