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阪神淡路大震災から16年が経ちました。
近代の自然災害として忘れてはならないこの日です。
皆さん、
犠牲者や被災者の皆様のために黙祷を捧げましょう。
その日
俺はその当時暮らしていた東京の田端という町にあるマンションで目を覚ましました。
28歳。鶴田写真事務所という会社で助手兼セカンドカメラマンとして仕事をしていました。
朝8時に起床。その頃は渋谷の事務所に10時出勤だったので少し遅い起床。
居間に行きテレビをつけてトイレへ・・・
ん?テレビ騒がしいな〜
トイレから出てきた俺が震撼したのが
高速道路が横倒しになっているテレビ画面でした。
『ねえ。大変なことになってるよ〜神戸』と俺
『あれ〜・・・』と眠い目をこすりながらもテレビに見入る妹
出かける支度をし、9時過ぎに駒込駅へ向かう
お隣のお肉屋さんのお母さんとおはようの挨拶をし
関西大変みたいですね・・・なんて声をかけつつ
道すがら毎日通過する田端銀座の雰囲気も何かよそよそしい感じがして・・・
当然ながら東京はいつも通り
いつも通りの山手線に乗り渋谷まで
でも・・・なんか違う空気がただよう静かな車内に
あ〜やっぱりみんな心配してるんだな〜なんて思っていた。
9時45分過ぎに事務所へ入り
留守番電話の点滅に目が行く
エアコンのスイッチを入れ、留守電のスイッチを押し
コーヒーを入れる準備
留守電からは太い声が
『APAの○○です。関西支部連絡がつかないから、今日会議やります・・・・・・・・・』
テレビをつけると、ヘリに乗ったレポーターの叫び声
見入っていると玄関があく音
『おーいおはよー。大変だな神戸。どーなった』と鶴田師匠
『おはようございます。早いっすね。いや〜わかんないな〜こんなになるもんなんですね・・・』と俺
『あ!会長から会議の留守電入ってましたよ』
『そうか・・・関西支部大変だよな〜かけてみるわ電話。木村そっちで大阪の○○さんにかけてみて』
鶴田師匠は所属する日本広告写真家協会の会長さんに
俺はお世話になっている大阪の写真家の事務所に
それぞれ電話をかけた。
隣の部屋で師匠は繋がったようだ
俺のほうは・・・繋がらない・・・3回かけてみたが・・・呼び出し音・・・無音・・・話中の音
俺は電話をしている師匠の顔をのぞき首を振る
師匠は電話をしながらうなずく
コーヒーが入ったので、師匠にコーヒーを持っていき
俺は向かいのライトテーブルでネガの整理を始めた。テレビを見つつ・・・
その日は撮影が無かったので、前年の海外ロケのフィルム整理をするつもりだった
しかし・・・気もそぞろとはこのことか
『木村、俺京橋会館の会議に出るから。電車で行くよ。あと頼むな』
『いってらっしゃい。なんかあったら連絡します』
お昼、その当時付き合っていた彼女から電話
『ちょっと。京都の○○さんの家にも会社にも繋がらないんだけど・・・』
『あ〜そ〜・・・来週末来るんだったよな〜』
二人共通の京都の友人が次の週末に上京する予定だったのだ。
『どうしよう・・・』
『ホテルか・・・連絡取れてからのほうがいいかもな・・・』
その時もう一本の電話が鳴った
『ごめん切るよ〜』と俺
『とりあえず待ってみるか。それじゃ明日ね』と彼女
出てみると師匠から
『木村。車で京橋会館に来てくれるか。今年の総会の資料もって』
『は〜い。京都も繋がらないですよ電話。今出ます〜〜』
青山通りを走りながら・・・車も少ないななんて思いながら
ラジオでは情報が錯そうしているのかさっきから同じことを繰り返している
午後1時時点での確認された死者数は
約300人だったと記憶している
京橋会館の会議室に入り、師匠に資料と車のキーを渡し
『ラジオでは300人の死者といっています』と報告をしたところ
居並ぶ写真家の先生方の間でもどよめきが走った。
最終的には6000人以上の死者を出すことになるこの震災
なにかその日の出来事をダラダラと書き綴ったが
今でも忘れずこれだけのことを覚えているということは
それだけ衝撃的な出来事だったということだろう。
特に、函館ではなく東京という街に暮らしていた当時のこと
いろいろな繋がりをもった人もたくさん関西には住んでいたし
何よりもこれだけの情報社会の中で
国の中枢にいる我々でもほんの少しの情報しか得られないという不安
それは恐ろしいことであると感じた。
現地の被災者の皆さんはもっと怖ろしい日々をおくったことだろう。
昨年日本テレビが制作した神戸新聞社を舞台にしたドラマを見ても分かる通り
離れている我々も、現地の被災者の皆さんも
当時は断片的な情報しか得られないでいたのである。
あの当時の政府から現在の政府まで
このような激甚災害についての情報収集のありかたや
災害対策についてはどのようなことが行われてきたのだろう
あらゆる観点から照らし合わせれば
救助救出や援助などの刷新がはかられていれば
同じような災害がおきたとしても
救える人の数は多くなるだろうと思うのである。
なによりも
地震大国日本である
我々も日頃の備えをおこたらず
国全体も備えを強固にしたいものである。
そのためには
この日を風化させることなく
毎年必ず黙祷を捧げたい
それが被災者の皆さんへの全国民の心であり
日本国民の義務ではないかと思います<m(__)m>
ちぃにぃ
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