ポカラのほほん日記

ヒマラヤの麓、ポカラから、のほほんでドタバタな日々を綴ります

村訪問記

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村で喪に服す 7

13日目の夜、儀式のために一旦解体された家のかまどが再びつくられ、新しいかまどでの初めての食事を食べることになる。これは、家のものではなく、故人の姉妹のご主人にあたる人によって執り行われる。家のものは、かまどがつくられ、食事がつくられのを待ち、その食事をいただく。そして、それで長い13日目が終わる。
この夜、鶏が夕食のために切られることに。村では肉屋は存在しない。肉を食べる時は、一匹締めなければならない。そしてチキンカレーとごはんで一日が終わる。
そして、次の日。13日目で儀式は終わったが、まだ仕事は終わっていない。
今日はゆっくり休めると思いきや、めちゃくちゃ忙しい一日であった。何しろ、14日目は、今回いろいろ手伝いをしてくれた隣組の人々を呼んでダルバートを振る舞うのだ。
そのために、一匹のヤギが犠牲になることに。ロキシーとロティとヤギのシェクワ風のものをまず振る舞い、その後ヤギカレーとご飯が出される。今日は家のものが作って、昨日働いてくれた近所の人に食べさせる。だいたい20人くらいの人だろうか?それに加え、家の者に加え、儀式のため一時的に帰省中の妹やその子供たち等などだけでも20人くらい。40人の食事というのは、やはり大変なのである。
そして、昨日かりた食器や水タンクの返却などもしなくてはいけない。
そんなわけで、一日中皿を洗ったり、借りたコップの数を数えたりを忙しい一日だった。
このお返しが終わって、やっと一段落なのである。
と思いきや、本家のおばあさんが危篤状態という報せが入る。本家のおばあさんの家までは徒歩20分。最後のお別れに家ものが交互に訪問にいく。本家のおばあさんはもう97歳なのだそうで、多分この村でも指折りの長寿なのではないかと思う。特に病気というわけではなく、老衰のようである。しかし97歳まで生きれば大往生と言えるのではないだろうか?
余分な情報や物がまだあまり侵入していない村では、人の生き様がまさにクリアに見える気がした。人が生まれて、生きて、死んでいくということが、とても当たり前に目の前で展開されている。 数人集まれば、どこどこさん家の誰々がどうしたこうしたなどのうんざりするようなゴシップ大会ではあるのだけど、でも、他人にとても関心があるのは無関心よりはずっと自然なのだろう。
家で生まれ、家で死んでいく。隔離された病院で生死が展開される生活とは違って、暮らしの中に生死がある。そんな暮らしの子供たちは自然と生死について実感として学んでいくのだろうな。

村で喪に服す 6

とうとう最終日。13日目。本日は、葬儀の締めの儀式がパンディット(儀式を取り仕切るヒンズー教の司祭)によって執り行われる。
そんなわけで本日は、朝水浴びに出かけ、儀式に備える。最後の儀式に限り、嫁も参加するのだそうだ。
これまでも亡くなった人の魂を慰め、迷いなく成仏できるようにあれやこれやお経が唱えられ、かつ、死後の旅を不自由なく過ごせるように1年間に必要な食物や衣服を供えるなどのいろんな儀式が行われたが、それらは水場で行われていた。
だが、最後の儀式は台所の土のかまどの火を囲んで執り行われる。このため、台所の土のかまどは一旦解体される。解体されかまどにパンディットが火をおこし、周りに亡くなった人の息子、妻、息子の嫁が並び、パンディットの指示にしたがい、米をまき、聖水をまき、あれやこれやすることとなる。
家の外では、5人のパンディットが朝からそれぞれ違うマントラを唱え続けている。
牛小屋では、牛を一時別の場所に写し、即席台所が設けられ、午後からのお振る舞いのためのダルバートをつくる準備が進められている。200名分のダルバートがつくられるそうで、とても家の者だけでは間に合わないので、これらは隣組の人々が手伝いに来てくれる。ネパールでは、大きな儀式や農作業の際は、今でもそうやって、隣近所が日々助け合っているのである。
台所での儀式は3時間くらいに渡って続けられた。何がなんだかよくはわからないが、パンディットのいうままに、米や水や花を投げたりなんだり、かんだり。それで3時間も座りっぱなしなのである。終わった時にはほっとした。
この儀式が終わると、やっと塩を食べてもよく、普通の服に着替えてもよい。(それにしても冬でなくてよかった。冬だったら寒くて耐えられなかっただろうと思う。)すでに時間は2時すぎ。
やっと食べ物を口にできる。しかも塩味つき。まずはお茶とロティとアチャールをいただく。お、おいしい。家の外にはたくさんの人がいて、ダルバートを食べている。私たちが中であれやこれやしているうちに半分以上の人はダルバートをすでに食べ終わっていたようだ。すでに帰り支度に入ろうとする来客に喪主である息子から最後にティカとささやかなお金が渡される。そんな感じで夕方まで人が来たり帰ったりが続く。
本日このお振る舞いのためには皿洗い人を雇っているのでしばし、のんびり、ひさびさの塩味の食事を味わい、親戚のおばさんたちとしばしの歓談。ほっと、ほっと一息なのである。
でも、あれこれ儀式で忙しくしている間は気丈に振る舞うお義母さんが、ふっと一人になった時、ぽろぽろと涙を流していたには、心が痛んだ。お義母さんは本当にお義父さんが好きだったんだなあ。口の悪いところはあったけど、心は優しいお義父さんだった。そうか、もう村に来てもお義父さんに会えないんだなあと思うと、もっと村に来ておけばよかったと少し後悔した。

村で喪に服す 5

10日目から12日までは、同じような日々が続く。朝起きて午前中は、茶をいれたり、子供たちの(孫たち、子供は食事回数の規制もないし、10日目からは塩を食べることは許される。ただし、肉や卵はだめ)食事を用意したり、床掃除をしたりしてすごす。
9日目と違うのは、水浴びの後、自分たちで家の外で炊事をして、ご飯を食べることができること。しかし、家の外で薪でご飯を炊くのはなかなかムズカシイ。ちゃんとしたかまどがあってもなかなか火をキープできない私である。つくるのはもっぱらお義姉さんである。まったく、何の役にも立たないんだからとぶつぶついいながらも、トウモロコシを焼いたものを先に私に食べさせてくれる。口が悪いだけで根は優しい人なのである。
食事に使えるのは、小さなタライのような鍋一つ。これで、まず茶をつくり、茶を飲み終わったら、それでご飯を炊く。ご飯を炊きながら、火の横でトウモロコシを焼きつつ、食べつつ。そしてご飯が炊きあがったら、ギューと砂糖とでそのご飯をいただく。それだけなんだけど、昨日バナナチップを食べただけの身にはなんでもおいしいのである。食べれることに感謝。
裸足で足が痛くたって、今、生きていてここを歩けていることに感謝。痛みを感じるのも生きているからなんだよな〜、なんて、しみじみと思ってしまう。この村で生まれて、生きて、死んでいく人々の暮らしを思いながら。何か、私たちが忘れてしまったものがまだここにはあるなあと、感じなら。
ところで、食事に使う食器は、葉っぱを細井竹串で縫い合わせてつくった自家製のお皿。そして、これ、使った後は、家の近くに穴を掘って、そこに埋めなければならないという。実はお義母さんやお兄さんたちも葉っぱの皿でご飯を食べているのだが、彼らの皿を埋める穴にある。嫁用には、また新たに穴を掘って埋めねばならないのだそうだ。
しかしもって、こういうのって村じゃないと無理だよなあとつくづく思う。

村で喪に服す 4

とうとう嫁もネパール式喪に服する日がやってきた。朝から何も食べてはいけないと言われるが、(水も口にしてはいけない)午後遅くに水浴びに行くまでは、 台所仕事に追われてすごす。
9日目には、 親戚がやってきて、ギュー(ネパールの塩抜きバター)や砂糖やロキシー(自家製のお酒)を置いていく習わしになっており、それらの人々にお茶やダルバートを振る舞わなければならないからだ。何しろ隣の村から来たといっても、徒歩2時間かかったりするのである。
これ、日本でいえば、お香典みたいなものと思っていいと思う。誰が何をどれくらい持って来たかは帳面に記帳され、13日目のお振る舞いの時にお金が返される仕組みなのだそうだ。一番多いのはギューであるが、これ、塩抜き期間はギューが必需であるのと、13日のお振る舞いにもお客様全員にギューを振る舞う必要があるためなのだそうだ。何しろ13日目には200人くらいの人が来るというのだから、ギューもたくさん必要なのである。
それにしても、ここは村。ギューも各家庭の手作りだ。そして、小さな水のつぼに入れられたそれは葉っぱでふたがさて、手でよった細い紐をくくりつけて手でさげられるようになっていて、なんだかかわいかった。
そんなこんなで20人以上も人が来ては帰っていき、一日中、空腹のまま断続的に皿洗いをしているうちに、ついにお義姉さんから水浴びにいくから支度しなさいとお声がかかる。つきそいとして隣のおばさんが一緒に行くという。何しろ水浴びした後はご飯を食べ終わるまで、人にふれてはいけない、鶏にふれてもいけない。そういうわけで、人払い、鶏払い、牛払い人としてつきそいをつけて水浴びに行くのが習わしなのだそうだ。しかも、汲み置きしてきた水ではだめだそうで、わき水が出ている水場までいかねばならない。それも、裸足でだ。私とっての一番の難関はこの裸足で歩かねばならないことであった。何しろ普段靴の生活しかしてないもので、私の足の裏の皮はとても薄い。草履のそこ並みにしっかりと固い皮のお義姉さんの足とは大違いなのであるからして、彼女のようにすたすたとはとても歩けない。
たいして遠くない水場までいったい何分かかって歩いただろう。水場には男の子が洗濯をしていた。そういう公共の場で水浴びするなんて、こんな機会でもなければ絶対にしなかっただろうが、今回は、なんだかもう有無を言わせぬ雰囲気が漂っていた。ルンギ一枚をバスタオルを胸に巻くように巻き付けたまま、水を浴びる。洗うというよりは、浴びるとい感じ。何しろ、シャンプーはおろか、石けんも使ってはいけないという。
そして水浴びをした後は、一枚のコットンの4メートルくらいの布を一枚渡され、それを着ろという。というか、それ以外のものは頭に巻く布(夫の兄の前では髪を隠さないといけないことになっているので、これは必須)と寒さ対策のショール以外身につけられない。髪を束ねるゴムもだめで、だいたい髪は束ねてはいけないのだという。足も靴下もくつもなし。これで13日目まで過ごすである。
それにしても、サリーよりも少し短めのそれを、ペチコートなしにどうやって着るのか?おろおろしていたら、見かねたお義姉さんが、全く、そんなこともできないのかという顔でなんとか着せてくれた。しかし、なんか、風呂上がりバスタオル巻き付け状態とあまり変わらないんですけど…このかっこう…。
しかし、恥ずかしいとか思う余裕もないのである。その時は。これから家に戻るまで誰にも、鶏にも触ってはいけないというし、足の裏は痛むし。歩くのに必死だった。
そして、家についたら、待望のその日の食事が待っていた!!じゃじゃーん。果たして、それは、一皿のバナナチップスである。まだ青いバナナと薄い輪切りにして、ギューで揚げたものである。このバナナチップスとお茶だけが本日口にできるもの。
これを食べたら、一応、明日の水浴びまで、私たち嫁は、人や鶏にふれてもいいし、家の仕事をしてもいい。
しかし、服装は一枚の布だし、ずっと裸足でないといけないし、次の日まで何も食べられないし。しかも、布団にねることも許されない。その日は、藁であんだグンドゥリと呼ばれる敷物の上にねる。毛布一枚だけはかけることを許されるらしい。なんだか長い一日だった。

村で喪に服す 3

8日目は、特別な儀式はないそうで、7日目同様、白装束の3人は一日の日課となっている水浴びへと出かける。嫁は明日から水浴び&一日一食(しかもその一食以外は何も口にできない)へ突入する。そんなわけで、今日はいっぱい食えと周りの人はいうけれど。そうはいっても、塩なしのご飯で、そう食が進むものではない。
塩抜きの毎日の食事は、朝はお茶とバナナかロティ。午前中に1回と夜に1回ミルク掛けご飯かギュー(ネパール式塩なしバター)かけご飯、おやつにはお茶と果物か焼きとうもろこし。
それにしてもとうもろこしのあるシーズンでよかった。牛乳(正しくは水牛乳)かけご飯よりも、とうもろこしを焼いたものの方が、なんぼかおいしいし、腹持ちもいい。
3年くらい前から電気がこの村にも来て、テレビもあるのだが、13日間はテレビはつけない。ラジオもかけない。音楽は流してはいけないし歌ったり踊ったりもいけないのだそうだ。といいながら、携帯の呼び鈴はみな音楽がいれてあって、あちこちでなっているのだけれど。
そう、今回、驚いたのが携帯がかなり普及していること。一家に1台はあるんじゃないか?と思ってしまう。水汲みや薪での炊飯などは以前とまったく変わってないのに、片手にモバイルって、なんか、ミスマッチである。でも、ミスマッチだけど、とても便利は便利だ。何しろモバイル以前は家から徒歩20分のお店まで電話かけに行かねばならなかったのだから。

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