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4月17日(日)晴れ
昨日モーツァルトのバイオリン・ソナタのK.379を「他と隔絶した最高の傑作」と書いてしまったが、今日そのレコードを棚にしまおうと思ったら、その隣りのレコードが「私のこと忘れてるの!?」と訴えてきた。というより、訴えているように感じて、あわてて取り出してみた。
同じモーツアルトのバイオリン・ソナタの第42番K.526である。
「そうだ!そうだよね!君のこと忘れていたよね。ごめんごめん。」昨年の堀米ゆず子のFMリサイタルで、もう一つ感心した曲があった。
何と言う始まり方だろう。こんなにスッと力をぬいて音楽が軽快に、まるで幼稚園児が突然かけっこを始めだしたような音楽の始まり方ってあるだろうか。
第3楽章も同じ。今度はピアノとバイオリンが追いかけっこしているような…。
とにかくモーツァルトの音楽の中でも、こんなにも軽い音楽って今まで聴いたことがあるだろうか。それでいて気品があり、洒脱でおしゃれで…
一方中間の第2楽章は、モーツァルト最晩年のピアノ協奏曲第27番やクラリネット協奏曲などに共通する、ある種の諦念、枯れた感じさえする。
そして長調なのか、短調なのかわからなくなってしまう、というより長調だとか短調だとかを突き抜けた世界がそこに現出されている。
モーツァルトの音楽の素晴らしさの一つは曲が長調だと思っていたら、いつのまにか短調になり、短調の曲が知らないうちに長調になっている、その切り替えの速さと絶妙さにあると思うのだが、皆さんはどう思われますか。
その具体的な例の一つがこのK.526の第2楽章ではないでしょうか。
モーツァルトさん、ごめんなさい。あなたのバイオリン・ソナタの中の傑作はK.379とK.526の2つですよね。前言を撤回します。
演奏は、ともにモーツァルト弾きとして定評のあるアルテュール・グリュミオーのバイオリンとクララ・ハスキルのピアノ。1956年のモノラル録音。(13PC-246)
もう一つラドゥ・ルプーのピアノにベテランのシモン・ゴールドベルク(フルトヴェングラー時代のベルリン・フィルのコンサートマスター)のバイオリンの組み合わせの1974年の全集の中の1枚。(SLA6195)どちらも愛聴しています。
そして最近偶然にも、ヘンリク・シェリング(Vn)とイングリッド・ヘブラー(Pf)の1969年録音の1枚を入手した。(SFX-8531)
LPで50年代、60年代、70年代の代表的な名盤を3枚揃えたことになる。いずれゆっくり聴き比べをすることとしましょう。
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同じことを感じておられる部分があって、興味深く読ませていただきました。K.379が素晴らしいという意見を見るのもわたし初めてで、嬉しかったです。
2007/3/19(月) 午後 1:22
K.379については「毎日モーツァルト」を見て見方が変わりましたね。K.301から306の一連のヴァイオリン・ソナタがアロイジアへの熱い想いを託した青春の歌であるのに対して、ウィーンでつくったこの379は、もう恋が終わってしまった、終わってしまった自分の恋を懐かしむような、自分の曲で自分を癒すような、そんな穏やかさと諦念を感じますね。K.365の2台のピアノのための協奏曲にも似た雰囲気を。
2007/3/19(月) 午後 10:31
K.379とK.526は演奏者にとっても特別な曲なのでしょうね。最近のCDでは、K.379をCDアルバムの最後に入れているのは、ピリス/デュメイ、K.526を最後にしているのは、ヒラリー・ハーン/ナタリー・シュウ、マーク・スタインバーグ/内田光子、アンネ=ゾフィー・ムター/ランバオート・オーキス。どの演奏も素敵です。
2007/3/20(火) 午後 8:44
JinKさん、古い記事なのにコメントいただいてthanksです。今の僕にとってはK.379がアルバムの最後というのは納得ですが、K.526がこんなにもトリを取っているというのは知りませんでした。素人が聴くとちょっと軽すぎ?て感じの曲ですが、アーティスト、それもここに並んだ錚々たる人たちはやはりこの曲に特別なものを感じるんですね、きっと。
2007/3/20(火) 午後 11:15