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5月20日(金)晴れ
例年になく、初夏のさわやかな天気が続く。初秋と並んで、1年で最もクラシック音楽が聴きたくなるこの季節。
ここ数年は連休明けからもう夏のような暑さだったので、温暖化のこの先、もうそんな好い時季は存在しないのだと諦めていただけに、今年はすごくうれしい。自然と心がはずんでしまう。
10日ほど前から、山都松本の街では、つつじ、菖蒲、マーガレットと白い花が美しい。最近、花の色は
最終的には白が一番きれいなのかな、と思うようになってきた。
仕事に紛れてこの好い季節をみすみすやりすごしてしまうのかと思いながら、忙しくお昼を食べていたら、不意に郭公の啼く声が聞こえた。今年初めてだ。
と、今度は「けきょけきょけきょ…」とけたたましい鳴き声が。今まではそれがうぐいすの鳴き損じの声だとずっと思っていたのだが。待てよ、もしかしたらこれってほととぎすの声かも、と初めて思った。
ものの本には「キョキョキョキョキョキョキョ」と鋭い鳴き声で啼くとある。今聞こえたのはどちらかといえば「けきょけきょけきょ」というよりは「きょきょきょ」の方が近いかもしれない。
今の季節うぐいすは遅すぎる気がするし、ほととぎすは、ちと早い感じもする。さてどっちなんでしょうか?どなたか教えていただけると嬉しいです。
「 あしひきの山霍公鳥(やまほととぎす)汝(な)が鳴けば家なる妹(いも)し常に偲(しの)はゆ」(万葉集)
さて、話を郭公に戻そう。郭公の声は自分には好ましく聞こえる。
今日は真昼に聞いたのだが、普通は今の季節から夏に向けて、朝、それもとびきり早く、すでに明るくはなっているが、まだみんなが眠っている5時前、既に鳴き始める。
郭公の鳴き声自身の強さと、まだ眠っている街の静けさから、何キロも先で啼いていてもはっきりと聞こえる。高原都市の夏の朝の風物詩だ。
もう4時台から空が明るくなっている時季なので、時々そんな時間に目が覚めてしまうときがある。そんな朝、遠くから郭公の声が響いてくるのを聞くのは、不快ではない。
むしろ、今起きている人だけがこの音を聞いているのだ、とどちらかといえば少し得をしたような気分にさせてくれるのが、さわやかな郭公の声だ。
クラシックの世界で郭公の声が出てくる作品で、しかも交響曲といえばベートーベンの交響曲第6番「田園」と、グスタフ・マーラーの交響曲第1番が有名だろう。
ベートーベンの田園は、彼自身が「田舎を旅行したときの愉しい気分」と注釈しているから、彼がウィーン郊外を散歩した時、森(たぶんハイリゲンシュタットの森)から聞こえてきた郭公の鳴き声を描写したものだろう。
さてマーラーの交響曲1番である。実はこの曲では冒頭の下降4度で表現される郭公の鳴き声が、この楽曲全体の中心的モティーフになっている。
このマーラー好みの下降4度の郭公を目を閉じて聴いていると、マーラーが幼い頃育ったであろうボヘミアの深々とした森のイメージが広がってくる。
後年、音楽の都ウィーンで西欧音楽の頂点に立った彼の作品、とりわけ交響曲作品には、明らかに自然描写と思われる旋律、音楽表現が多い。
それはドイツ・オーストリア音楽世界における辺境の地ボヘミアの、しかもモラヴィア地方との国境の町カリシュトに生まれた彼の自然豊かな生まれ故郷への郷愁と、大都会ウィーンへのコンプレックスの裏返しなのではないだろうか。
さてこの曲はマーラー28歳の若書きの交響曲である。
しかもこのシンフォニーの1楽章と3楽章はそれぞれ、彼が23歳の時、自作の詩に作曲した歌曲集「さすらう若者の歌」の第2曲「今朝、野辺を歩けば」と第4曲「彼女の青い眼が」の旋律を主題としている。
この歌曲集を作曲した当時、歌劇場の補助指揮者だった彼は、美しい女性歌手ヨハンナ・リヒターと恋仲になったが、やがて裏切られ彼女は他の男のもとへと嫁いだ。
彼は彼女へ向けた青春の情熱と愛惜とを、この歌曲集に託して自ら葬り去った。
ちなみに「さすらう若者の歌」の1曲目のタイトルは「彼女の婚礼の日は」
愛しい女(ひと)が嫁いでゆく
幸せそうに嫁いでゆく
僕を悲しみの日が訪れた!
ほの暗い小部屋の中に
小部屋の中に閉じこもって
愛しい女(ひと)を思って泣いた
恋しい女(ひと)を思って泣いた!
青い花よ しおれるな!
小鳥は優しく甘い声で
緑の原っぱで歌っている
「あぁ、なんてこの世は美しいんだ
ピイチク、ピイチク、ピイチク」と
鳥よ、歌うな!花よ、咲くな!
春はすでに過ぎ去ってしまった
すべての歌声もやんでしまった
夜に、眠りにつこうとしながら
僕が思うのは、この胸の苦しみ! (訳は 西野茂雄による)
この曲は「巨人」というタイトルがついているが、これは19世紀ドイツ・ロマン派の作家ジャン・パウルの小説の題名から採られたもの。
したがって、この仰々しいタイトルにとらわれることなく、むしろ若者一般が抱く青春への愛惜と感傷の気分を、マーラーが自らの青春時代への決別を込めて抒情的に描いた、とてもさわやかな作品ととらえていただければと思います。
演奏は愛弟子ワルターの歴史的名盤や、さらに孫弟子のバーンスタイン指揮のものなど名演が目白押しですが、私は小澤征爾がボストン交響楽団を振ったレコードを愛聴しています。(GRAMMOPHON MG-1106)
このレコードに限りませんが、1970年代後半の小澤・ボストン響のコンビの録音はどれもすばらしい。
得意の弦がいよいよしなやかにして絹のようなつややかさ。演奏も、マーラーの青春の抒情を愛おしく掬い上げるような繊細さと、終楽章の嵐のような大きな起伏を描ききることに成功しています。
何度聴いても、フィナーレの、トランペットに、トロンボーンが大きな虹をかけるようにしてかぶさってくるところで感動しないことは殆ど不可能に近い、というのは言いすぎでしょうか。
また小澤の演奏でこの曲の第4楽章を聴いていると、チャイコフスキーの幻想序曲「ロミオとジュリエット」との共通性を感じたりもします。
小澤/ボストン響とのコンビでは、このマーラーの1番を始め、ブラームスの1番、ベルリオーズの唯一の交響曲(つまり第1番!)と作曲家の若書きの作品に名盤が多い。
まだ青臭さが残る青春の残滓を掬い取ることに小澤が長けているからでしょうか。
または、やはりあっさり好みの日本人には晩年の成熟、熟々した老獪な作品よりも、こういった爽やかな作品の方が扱いやすいのでしょうか。
もっとも小澤が振った「巨人」に出てくる郭公は、遠くボヘミアの森で深々と啼くそれではなくて、東洋の、日本の、信州の初夏の高原で啼いている、爽やかな声の郭公かも知れませんね。
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