クラシック歳時記in松本 (あるいはモーツァルトとともに1年を)

今春発売の内田光子/テイトのCDでようやく好きになれました・・・モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」

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 ブラームス ピアノ三重奏曲第1番ロ長調作品8    演奏 ボロディン・トリオ(1982年)
                                     (LP:Chandos DBRD 2005)
                             
                                   マリア・ジョアン・ピリス(Pf)
                                   オーギュスタン・デュメイ(Vn)
                                   ジャン・ワン      (VC)
                                            (1995年)
                                   (CD:Grammophon 447 055-2)

 紅葉であれ、黄葉であれ、11月後半の信州、晩秋ともなれば木々の葉は次第に枯れて茶色くなり、愛で

る人もまばらに、やがて木枯らしに吹かれ落葉していく。毎年、11月の終わり、勤労感謝の日の前後、茶

色になった木々の葉は、穏やかな小春日和の陽に照らされつつ、いぶし銀の最後の光を放つ。

 そんな今頃の木々の色を我が家では「ブラームス色」と長年呼び親しんできた。最初の赴任地、東信

(東信州)の上田市郊外に在った宿舎からは、遠く千曲川へと落ちていく河岸段丘の縁(へり)に小さな森

が見渡せ、この時季、みごとな茶色に色づくその木々を「ブラームスの森」と秘かに名づけ、愛していた

 このように私にとって「晩秋の作曲家」であるブラームスの音楽、それも地味で内省的なその室内楽の

数々を味わい、堪能するのに最高の季節が今頃であると思う。

 そのような彼の室内楽作品の中で、私が最も愛するものの一つがピアノ三重奏曲第1番作品8である。

 作品番号で分かるように、この作品は彼が最も早い時期から書き出したものであり、例の1853年彼が20

歳の年の9月30日、当時デュッセルドルフにあったシューマン夫妻宅を訪ねる前にはすでにスケッチされ

ていたという。そして夫妻の強いすすめで翌年1月からハノーヴァーで作曲に没頭、クララのピアノで非

公開の演奏が行なわれ出版されたという。(しかしこの間ブラームスの人生でおそらく最も大きな出来事

すなわちローベルト・シューマンが1854年2月27日、精神錯乱の末ライン河に投身自殺(未遂)するという

大事件も起きている。)

 ところが完璧な作品の完成を目指す彼は、この若書きの作品を最初に作曲してから35年も経った1889

年に全面的に書き換え、今日我々が聴いている演奏は殆どがこの改訂版である。そういう意味では若書き

の作品でありながら、ブラームスの生涯に亘った創作活動を反映したものともいえる。

 それでもなお各楽章の主要な旋律は、20そこそこの青年が書いたものといっていいだろう。しかしその

旋律(メロディ)たちの甘くロマンティックなことはもちろんだが、その何と憂いと諦念に満ちあふれて

いることか。「どんな娘でも顔を赤らめることなくキスできるような子どもらしい顔立ち」(三宅幸夫

『ブラームス』(新潮文庫 47P))をしていたというハンブルクから出てきたばかりの20歳の紅顔の美少

年の、いったいどこにそんな老長(た)けた部分があったのだろうか。驚嘆する外ない。

 全楽章を通じて、若者らしいその甘美でロマンティックな旋律と、老年のみが感得できるような渋み、

奥ゆかしさ、悟り、諦念に満ち溢れているのだが、とりわけ演奏に40分近くはかかろうかという大作の

およそ半分を占めようとする第1楽章にそれが色濃く出ている。

  第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ  ピアノの静かな前奏に続いて、穏やかで伸びやかな第1主題を

チェロが弾く。低音のチェロで弾かれるからこそ、若々しく憧れに満ちたロマンティックな旋律が、さら

に何か、溢れる自己の情熱を一歩引いたところで静かに語っているような落ち着きと、大人の慈愛に満ち

た曲想をも作り出している。(前述のCDでは)開始から45秒後にようやくヴァイオリンも和して、ユニゾ

ンでこの優しさに充ちた旋律を共にうたいあげる。

 この第1主題でも充分に魅力的なのだが、さらに心惹かれるのがその後に出る、胸を締め付けられるよ

うに悲痛で切ない、そして胸の奥底に秘めた、それでいてどうしても吐露せずにはいられない激情のほと

ばしりのような第2主題だ。(前述のCDで3:30秒頃に出る)

 しかもこのテーマをブラームスは、第1主題の展開が一段落した2:30秒頃から早くも顔をのぞかせなが

らも、出そうか出すまいか逡巡し、ためらい、行きつ戻りつ、躊躇しながら、実に1分に亘る時間の経過

ののち、ついに(3:30秒頃)自らのクララへの本当の想いを吐露するかのように明らかにする。がこの

短い旋律こそ、作曲家にとってこの曲で最も重要なそれであろう。(この第2主題はしかし15分という長

大な第1楽章の中で、あとは 7:45秒と12:40秒、都合たった3回しか出てこない。)

 温和な第1主題は、師シューマンへの限りない尊敬の情、そんな師に邂逅できたブラームスの静かな幸

福感と安堵、そしてその妻クララへの心からの友情の気持ち…。そんなものを表現している(世間に向か

ってのこれは公式の心の表出である)とすれば、一方短いが激しい哀切に満ちた第2主題は、そんな世間

体をかなぐり捨てた彼の本心。ひとりの女性として心からクララを愛し、秘かにひとつになりたいと願う

あせり、焦燥。ブラームスが自らをもごまかそうとした彼の実存からの叫びなのだ。この世では封印する

しかなかった…。

 実際ブラームスはシューマンの自殺未遂からの2年間のすべてを、遺されたクララとその子どもたちに

救済の手を差し伸べることに尽くしたが、2年後シューマンがエンデニヒの精神病院で息をひきとると、

クララへのあれほどの想いを自ら断念する。お互いに手紙で「尊敬する夫人」から「最も貴重な友へ」さ

らに「愛するクララ夫人」から「愛するクララ」と呼び、一方も「心からあなたの クララ」と呼びかけ

あう関係になっていたにもかかわらず…。(ブラームスにはシューマン夫妻に出会った直後からクララに

恋心を感じていたことをシューマンに気づかれ、そのことがシューマンを死に至らせたのではないか、と

いう負い目を生涯持ち続けていた節がある。それを端的に示すこの頃の作品が「バラード」作品10の1

「エドワルド」という父親殺しをテーマとしたピアノ作品。がここではこれ以上詳しくは触れない。(吉

田秀和作品論集『ブラームス』(音楽之友社) P 20 )

 つまりこの曲で私の心を最も熱くさせるこの第1楽章第2主題こそ、ブラームスがその後生涯に亘って心

に封印したクララへの本当の想いの音楽表現なのだ。

 公式にはともかくブラームスの胸の中ではクララへの想いがどんなに強く永遠のものであったか。1896

年5月20日、クララは77歳の年にフランクフルトで息をひきとる。運悪くブラームスは保養地イシュルに

いて、その通知が彼の手元に届くのが遅れた。急ぎ列車を乗り継いだがついに葬儀には間に合わなかった

しかも遺体はシューマンに並び埋葬されるためボンに運ばれてしまっていた。結局前後40時間の列車の旅

の末、彼にできたのは埋葬するクララの柩の上にひと握りの土をかけることだけであった。

 「ああ、何ということだ。この世ではすべてが虚しい。私が本当に愛した、ただひとりの人。それを

私は今日、墓に葬ってしまったのだ。」(ルドルフ・フォン・デア・ライエンへの手紙)

 そしてまるで自分の本当の伴侶、妻が亡くなると、男性は生きる望みを急速に失われると世間でよく言

われるように、クララを失ったブラームスは健康を害し、クララの死から1年足らずの翌年の4月3日この

世を去る。

 この63歳の人間ブラームスの悲痛な嘆きを想う時、私は12C中国南宋の詩人、陸游(りくゆう)の話を思

い出す。彼は20歳の頃、唐琬(とうえん)という女性と結婚した。二人は仲睦まじく暮らしたが、母親はこ

の嫁を気に入らず離縁した。それ以後逢うこともかなわず、やがて陸游は王氏と再婚し、唐琬も別の男性

と再婚した。十年の歳月が流れた春のある日、二人は紹興の沈(しん)家の庭園で偶然再会した。唐琬は再

婚した夫とともに来ていたので、夫に訳を話し、酒肴を贈らせた。この偶然の出会いの後、ほどなく唐琬

は他界したという。その陸游に「沈園(しんえん)」という有名な詩がある。

  城上の斜陽 画角哀し
  沈園復(ま)た旧 池台に非ず
  傷心 橋下 春波 緑なり
  曾(かつ)て是れ驚鴻(きょうこう)の影を照らし来たる

 (城壁の上に夕日がかたむき、もの哀しく響く角笛の音
  沈氏の庭園とて、もはや昔の池や楼閣ではない
  橋の下を春の水が緑の波をたゆたわせているのが、何とも心を傷ましめる
  この水はかつて驚き飛び立つ鴻(おおとり=唐琬のこと)を映したこともあったのだ)

 陸游がこの詩をつくったのは、実に彼が75歳の時。永遠の別れとなった沈園の再会から40年以上が経っ

ている。北宋を征服した金への主戦派、愛国詩人として知られる陸游は、このように亡くなる85歳に至る

まで、心ならずも離縁した妻の面影を追い求め、沈園での再会の一瞬を思い続ける情愛の持ち主でもあっ

たのだ。

 ブラームスと陸游。洋の東西の二人の男が、それぞれこの世で出会ったかけがえのない女性への熱い想

いと、それを心ならずも断念した悔恨、そして諦念。その重さ…。

 ブラームスのピアノ三重奏曲第1番第1楽章。それは彼の人生が凝縮された音楽だ、と私は思う。


 第1楽章だけで紙面が尽きた。楽しかった青春の日々を純粋に無邪気に回想しているように明るいトリ

オを中間部に持つスケルツォの第2楽章。まるでドビュッシーの「沈める寺」のように深く沈潜したピア

ノのモノローグで始まる第3楽章アダージョ。そして再び「愛情から交わりが生まれ、交わりから執着が

生まれる」と仏陀が喝破したような、人として生まれ、人を愛し、それゆえに哀しみもだえる人の業(ご

う)と人生の最後まで正面から向き合った男の音楽としてのフィナーレ第4楽章アレグロ。この曲全体が

ヨハネス・ブラームスという男の人生の在り様そのものを物語っているようだ。

 演奏は優秀録音で知られる英シャンドス・レーベルのボロディン・トリオのLPレコードを長い間愛聴し

てきた。が今回この稿を書くにあたって、デジタルな演奏時間を確認すべくピリス/デュメイ/ワンのCDを

何度も何度もかけ、すっかりその演奏にも愛着が湧いた。「交わりから愛情が生まれ、愛情から執着が生

まれ」である。しかし愛着も執着もまたよし。執着あってこその人生ではないだろうか…。
 


 

閉じる コメント(16)

ブラームスのピアノ・トリオ第1番は、優しい光があって小春日和に聴くのには最高の音楽ですね。私もピリス、デュメイ、ワンのトリオ演奏が好きです。美しくて懐かしいブラームスの心に深く沁みこむ音楽です。

2007/11/25(日) 午前 7:23 JinK 返信する

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JinKさん、そうですね、ピリス、デュメイもいいですね。でも自分の場合ボロディン・トリオで刷り込まれた部分がありますね。いろいろぐちゃぐちゃ書いちゃいましたが、単純に小春日和の日にこの曲を聴いていただければ嬉しいです。

2007/11/28(水) 午後 9:47 gustav 返信する

そうですね。あまり演奏がどうというようなことが気にならない曲です。本当の名曲です。

2007/11/30(金) 午後 11:02 JinK 返信する

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これだけの名曲がブラームスの室内楽作品の中でも、クラリネット五重奏曲やピアノ五重奏曲などより有名でないのは残念でなりません。もっと多くの人に聴かれて良い曲だと思います。

2007/12/1(土) 午後 2:34 gustav 返信する

ブラームスのこのお話とても感激します。ピアノ3重奏曲1番を買って聞くことにします。情熱的な解説ありがとうございます。愛着と執着ですね。

2007/12/3(月) 午後 10:50 Konnichiha 返信する

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kyokoさん、ありがとうございます。クラシックのブログは多いのですが、ブルックナー、マーラーといった交響曲の大作とかばかり語られ、室内楽の話題はホントに少ないなぁと思います。室内楽にこそクラシックを聴く醍醐味があるのになぁ…。ブラームスの室内楽はみんないいですが、このピアノ・トリオは是非。おすすめします♪

2007/12/4(火) 午後 10:50 gustav 返信する

こんばんは!
このデュメイ・ピリス・ワンのブラームスは
なんといっても出だしがすっごぃいいですよね!
一番のお気に入りのCDです!

2007/12/6(木) 午後 11:00 [ - ] 返信する

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ジョンさん、ようこそ!ブログ拝見させていただきました。趣味が合いそうなので、これから楽しみです。どうぞよろしく!

2007/12/6(木) 午後 11:29 gustav 返信する

GUSTAVさん,おはようございます。
コメント,ありがとうございました!
こちらからもよろしくお願いします。
「お気に入り」に登録させてもらいますね〜♪

2007/12/8(土) 午前 8:17 [ - ] 返信する

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ジョンさん、こちらこそありがとうございました☆

2007/12/13(木) 午前 6:15 gustav 返信する

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改めて読ませていただき、素晴らしい観察眼これは詩人の文章です。
最近私は感情が先に来る雑な言葉しか出てこないので脱帽です。
確かに第一楽章の第二主題からはブラームスの想いが感じられます。
鎌倉は大雨です。

2011/8/26(金) 午後 5:58 [ JH ] 返信する

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松本はようやく本来の残暑の気候に戻りました。
褒めて戴いて恐縮なのですが、実はそれが裏返せば悩みの種で…ある程度自分の納得できる文章でないといけないので、書きっ放し、云いっ放しができなくて、ついついブログの文章に時間がかかり、気がつけば日曜一日それで終わってしまったなんてことも…それもブログを更新できなかった大きな理由でした。
ブラームス ピアノトリオ1番1楽章の第二主題を、そのように聴いて戴ける方がひとりでもいらっしゃることは大変光栄でかつ嬉しく思います。雨の季節の鎌倉を想像しています。

2011/8/27(土) 午後 2:33 gustav 返信する

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私もこの曲は大好きだ。
いい文章が読めてよかった。

2013/1/3(木) 午後 11:19 [ ねどべど ] 返信する

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ねどべどさん、コメントありがとうございます。
返事が遅くなってすみません。

2013/1/14(月) 午後 7:29 gustav 返信する

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泣かせるバイオリン、自分で弾いてみたいです。どなたかパート譜を貸してくださいませんか。

2016/4/21(木) 午後 6:33 [ yam*l3 ] 返信する

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> yam*l3さん
返信遅くなってすみません。最近、このブラームスとクララの関係は一般的にもよく知られるようになりました。たとえばNHKの「らららクラシック」でも何度も取り上げられていますね。もうちょっと自分でも突っ込んで調べてみたいと思います。 削除

2016/7/1(金) 午後 10:58 [ gustav ] 返信する

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