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9月6日(火)曇り
夏の終わり頃、依然として太陽は照りつけ厳しい残暑が続いているのだけれど、ふっと思いがけず、夏の間には感じられなかった強さの風が庭を吹き抜ける一瞬、というものが毎年ある。
そう、夏から秋への季節の変化は、年によって違いはあるけれど、立秋からお盆すぎ頃にかけて、まず最初に「風」によって感じることができる。
この季節感、季節の変化を感じる心は、歴史を遡っても日本人共通のものだったらしく、平安時代の和歌集『古今和歌集』には、藤原敏行が詠んだ人口に膾炙した歌がある。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」
この歌は『古今集』の「秋歌」(秋の巻)の冒頭にある。つまり今から1000年以上も前に(今年はちょうど『古今和歌集』誕生1100年だ!)、既に日本人の感性の中に風によって秋の到来を知る、という季節感、美意識が定着していたのだ。
さらに時代を遡って1300年前の万葉の頃の歌には、おそらくこの時季に詠まれたであろう僕の好きな歌がある。
「君待つと我が恋ひをれば 我が屋戸のすだれ動かし秋の風吹く」(額田王)
万葉の女流歌人額田王がこのとき待っていたのは、相思相愛の最初の夫、大海人皇子ではなく、その兄で時の権力者中大兄皇子。
略奪愛に近い形で大海人から引き離され、今、中大兄皇子の想い人になっているであろう額田王の心中はどうだったのだろうか。それはともかくとして、想い人が来た気配と感じられたこの風は、「すだれ」という言葉から、やはり秋の初めの風であったように思われる。
今、毎年毎年この時季に秋を告げる風を身に受けながら、このような皮膚感覚を古(いにしえ)の人たちと共有していることへの不思議さと、何かしら安堵の感と感謝の念を感じずにはいられない。
またこの季節感の共有というものが、日本文学の一番の特徴であり、価値でもあるように思う。
さて今年はいつその風が吹いたのだろうか。結論から言うと、ちょうどその頃から台風が幾つも日本にやって来て、今年は秋を告げる風なのか、台風の風なのか、判然としないまま今日を迎えてしまったというのが正直なところだ。
候補はいくつかある。猛暑が続いた先月の20日にシベリウスの4番のことを書いたその翌日、21日の日曜日。急に涼しくなって少し涼しい風が吹いたのだが、遠くから近づいて来た台風11号の影響だったようだ。
またその台風(それとも次の台風かな)がゆっくりと過ぎ去った28日の日曜日の夜、「ヒュルヒュルヒュルー」と音を立てて風が吹き込んできたのだが、またもや遠い台風14号の影響かなと躊躇しているうちに、超鈍足台風のお蔭で1週間が過ぎてしまった。
明日は9月7日、白露(はくろ…冷涼にして露白(かがや)く)。暦はどんどん進んでしまい、もう秋に入っていることは間違いない。
例年一番季節の境い目というか、変化がはっきり分かる夏から秋の季節の切り替わりの瞬間(「今日から秋!」っていう)を、今年は確信をもって確認することができなくて、何だか一つ損をしたような気分だ。
その判定にぐずぐずしていたのが、この1週間のブランクの理由でした。
さて前ふりがだいぶ長くなってしまったが、この夏から秋への時季、秋の到来を告げる爽やかな風を身に浴びるように、一日中でも聴いていたいのが、モーツァルトの交響曲第39番だ。僕がモーツァルトの中で最も愛する曲である。
ご承知のようにこの交響曲は35番以降のいわゆる6大交響曲の一つであり、特に、続く40番ト短調、41番「ジュピター」とで3大交響曲と呼ばれ、それぞれ全く様相の違うこの3曲をわずか1ヶ月半で書き上げたという、モーツァルトの天才の証明のエピソードとしてよく取り上げられる。
一般には「宿命のト短調」40番や、古典派交響曲の最高峰41番「ジュピター」に比べても、また「ハフナー」「リンツ」「プラハ」とそれぞれ愛称のついたその他の6大交響曲に比べても、名前のついていないこの39番は、人気や演奏会で演奏される回数は随分低いように思われる。
しかし私はモーツァルトの作った最も優れた交響曲だと思う。「調和と均衡」(バランス&ハーモニー)という点で41番を凌ぐ。一言でいって、軽やかであり爽やかな曲だ。
第1楽章。アレグロ・コン・スピリット。3分ほどのやや長いハイドン風の荘重な序奏(重々しいのは曲全体の中でここだけ)の後、弦に出る颯爽とした第1主題(テーマ)。これこそ万葉の古より日本人が連綿と感じ取ってきた、秋の到来を告げて吹き渡る風を音楽で表現したものであるかのようだ。
酷暑に別れを告げ、ようやく凌ぎやすい季節がやってくることへの喜びと同時に、そうとはいえ、あの夏の情熱の日々が過去のものになっていってしまうことへのある種の哀しさ、はかなさ。その二面性を持ちながらも、あくまでも爽やかな主旋律が風のように鳴り渡る。
第2楽章。アンダンテ。第1楽章の旋律が持つ哀しさ、はかなさがここではさらに展開され、静謐(せいひつ)な世界が形作られている。静謐な世界といっても天国というよりは、そこは彼岸という言葉の方が相応しいようだ。
私にはその彼岸の世界に、静かに白鳥が佇んでいる情景が目に浮かぶ。この39番が時にモーツァルトの「白鳥の歌」と言われるのは、そんなこの第2楽章のイメージから名づけられたのではないだろうか。モーツァルトの交響曲の中で、最も優れた緩徐楽章だと思う。
第3楽章。メヌエット。一度聴いたら忘れられない、モーツァルトその人のような人懐っこい旋律。
中間部トリオも有名だ。当時としては珍しいクラリネットが旋律を吹く。(余談だが、妻のお産の時、秋だったということもあり、普段しょっちゅう聴いていたこの曲のこのクラリネットの3拍子の部分に合わせて、二人で「ヒーヒーフー」の呼吸法の練習をしていた。こんな曲でお産の呼吸法やったのはうち位だよねって、時々そんな思い出話が出る。)
第4楽章フィナーレ。ブレスト。軽快でユーモラスで、まさしくモーツァルト自身のような音楽。フィガロや魔笛のあの、ドタバタでどんでん返しの世界に真っ直ぐにつながっている。そして全くの予告なしに、曲はスパッとあっけなく終わる。
後のベートーベンなどロマン派の人には考えられないあっけない終わり方だが、モーツァルトには「バイオリン協奏曲第3番」など似たものはいくらでもある。自分の曲にさほどの執着を見せない、モーツァルトならではの軽(かろ)み、美意識がそこにある。
以上改めて振り返ると、この曲はその軽やかさ、溌剌さ、爽やかさから、モーツァルトその人が音楽になった曲であるかのような印象を受ける。そこが私がモーツァルトの作品の中で、最もこの曲を愛する理由なのかも知れない。
演奏はフランス・ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラなどの最近の古楽器演奏のものも評価が高いが、私はこの曲はやはりブルーノ・ワルター指揮のコロンビア交響楽団の昔の演奏を愛します。(LP: CS SOCL1053)(CD: SRCR2302)
モーツァルトの音楽の生命である曲の自然な流れ、地球上で一人重力から免れているような軽やかさ、低音がしっかりと高音を支えているからこそ生み出される全体の絶妙な調和(ハーモニー)と均衡(バランス)。これらをしっかりと再現しているのは、やはり20世紀最高のモーツァルト指揮者ワルターではないでしょうか。
毎年毎年、この時季にこの曲を聴く。それこそ毎日のように聴く。それでも思う。
「あと何回、この晩夏から初秋という一年で最も好きな季節を迎えられるのだろうか。
そして自分は死ぬまでにあと何回、このレコードを聴けるのだろうか。」と。
「人生 看得(みう)るは 幾(いく)清明(せいめい)」(蘇東坡)
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