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10月2日(日)晴れ
9月、結構今年は涼しくて、先週東京に行った折りも快適だったが、ここへ来てまた暑くなった。今日などは風が涼しいものの、「残暑」という感じ。
昨日も幼なじみの友人の床屋さんで散髪してもらいながら、二人で「10月の初めの神道祭り(松本市内繁華街の縄手通り沿いの四柱神社のお祭り)って言えば、昔はもう寒かったよねぇ」と話していた。「10月でこんなに暑いなんてことはなかった」とはうちの奥さんの弁。
「またまた温暖化の影響って言いたいんでしょ」とお思いも読者も多いと思いますが、その通りです。歳時記とか季節感ってものは、「今年もそうだ」っていう一種の安堵感に支えられているものだと思う。
それがどんどん崩れていったのでは、繊細な季節の変化を愛でる日本文化のアイデンティティの存亡にかかわる問題だと思う。事態は深刻です。日本が世界のどこよりも、この問題に熱心にならねばならない文化的な理由がそこにあります。
またまた前置きが長くなってしまった。先月、秋の訪れを告げる「風」の音楽としてモーツァルトの39番を、深まりを気づかせる「影」のBGMとして弦楽四重奏の14番を紹介し、本格的な秋を実感する曲として、毎年恒例のブラームスの「セレナード第1番」を紹介した訳ですが、実は今年はそれと並んで、ドヴォルザークの交響曲第7番が聴きたくてしょうがなかった。
理由は単純で、やはり先月NHK-FMで聴いたアシュケナージ/チェコ・フィルの新譜(でもないのかな? CANYON PCCL-00441)の演奏が素晴らしかったからだ。
実は昔、学生時代、当時定評のあったケルテス/ロンドン響の廉価盤を買って聴いたのだが、何回か聴いて、さっぱりいい曲だと思えず、売ってしまった経験がある。それ以来この曲のレコードは持っていなかった。
しかし今回は妙に胸にズシンとくるものがあり、「セレナード第1番」に匹敵するほど秋の風景にマッチしている気がして、そのFMの録音を何度も聴いていた。
すると、世の中というものは不思議にどこかでつながっているもので、たまたま松本のクラシックCD・LP専門のレコード店「クレモナ」に、大量に中古LPが入荷したという情報が入り、買いにいったら、このドヴォ7のレコードに出会えたのだ。
(このクレモナはクラシック関係のCD・LPだけを扱っている、全国でも珍しい貴重なお店だ。サイトウ・キネンの会場、まつもと市民芸術館のまん前にある。)
演奏はこれまた名演と呼ばれるジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団のもの(LP: CBS SONY 13AC212)。
家に着くと、待ちきれず針を下ろす。さすが名演奏と長く言われてきただけある。オケが完全に鳴りきっている。一糸乱れぬアンサンブル。フルート、クラリネット、オーボエのソロも耳に鮮やかに響く。
そして何より曲の素晴らしさが、今度はしっかりと伝わってくる。学生時代のケルテスの演奏が悪かったという訳ではないだろう。そうではなくて、自分がドヴォルザークの音楽の良さに、7番の渋さに魅力を感じられるような聴き手に、やっとなってきたということだろう。
(しかし完璧主義者と呼ばれるセルの演奏の凄さは、これまで1枚しか持っていなかったそのレコードだけでも十分に分かる。コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」組曲とプロコフィエフ交響組曲「キージェ中尉」のカップリング。軽く楽しんで聴ける小曲を、完璧なテクニックと透徹した音色で、藝術作品として聴く者を感動さす、しかも名録音(13AC803)。)
ドヴォルザークに話を戻すと、彼の交響曲では何といっても圧倒的に9番「新世界から」と8番が有名で、実演でもよく取り上げられるクラシック音楽全体の中のポピュラーな作品だが、それに続くとなると、この7番がたまに取り上げられるくらいで、あとは殆どない。
この7番。ドヴォルザークという作曲家の持つ土の匂い、野性味、男くささ、そしてチェコ、ボヘミアの民族色を一番感じることのできる交響曲ではないだろうか。
第1楽章から印象的な付点のリズムが、第3楽章スケルツォ、第4楽章フィナーレと全曲を貫いていて、特に第3楽章はチャーミングな舞曲のようで親しみ深い。付点リズムが曲全体の統一感も形作っている。
しかし今回聴いて気づいたことは、この曲の例えば第1楽章を聴いていると、あのブラームスの「セレナード1番」の第1、第2楽章によく似たフレーズが何回も出てくるということだ。
第2楽章アダージョも、男のリリシズムというか魅力的な旋律だが、どことなく「セレナード」第3楽章アダージョの哀愁に似ていなくもない。
もちろんあちらがニ長調、こちらはニ短調なので、曲想はやや暗く、より悲劇的で感傷的だが、雰囲気はとてもよく似ている。
実は恥ずかしながら、今の今までドヴォルザークの音楽が、ブラームスの音楽から多大な影響を受けていることに気づかなかった。ブラームスという人がもっと古い時代を生きた音楽家のように、どうしても思ってしまうのだ。
しかし実際には8歳しか違わず、ブラームスの方はともかく、ドヴォルザークは音楽の都ウィーンで活躍する先輩ブラームスに、憧れと尊敬の気持ちを抱いていたようだ。
シューベルトと同じで、とかくメロディー・メーカーとして天賦の才を持つがゆえに、交響曲の作曲においてもメロディに頼り過ぎてしまう彼が、がっちりと形式を作り上げるブラームスの作曲法をお手本にしていただろうことは、十分に想像できる。
この7番は、その2年前に書かれたブラームスの第3交響曲に感銘を受けて作られたという。そのブラ3との類似性をここでは論じることができないが、私がこの曲を聴いて感じたブラームスの「セレナード第1番」との類似性も、あながち根拠のないものではなさそうだ。
この秋、今まで正直聴いてこなかったドヴォルザークの交響曲にこだわっていこうと思ったのは、ブラームスという作曲家の向こうに(次に)、ドヴォルザークという未踏の山域があることにようやく気づいたからである。
両者が、田園の音楽、土の匂いのする音楽、そして男くささのする音楽という共通性を持っているからこそ、今まで秋といえばもっぱらブラームスの音楽ばかりを注目してきたが、より深く秋を楽しむためには、ドヴォルザークという未知の領域を探検する冒険が残されていたことを、誰に感謝しようか。
アシュケナージ?レコードショップ「クレモナ」?LP入荷の情報を寄せてくれたM氏?
自分の周りにいるすべての人に感謝しなければ、1枚のレコード、1つの音楽も聴くことはできないのだが、まずはドヴォルザークその人に、そして彼に多大な影響を与えたブラームスにも、感謝の気持ちを捧げようと思う。
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