クラシック歳時記in松本 (あるいはモーツァルトとともに1年を)

今春発売の内田光子/テイトのCDでようやく好きになれました・・・モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」

過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

2月12日(日)曇りのち晴れ

 昨夜、昼は随分春めいてきたとブログに書いている頃、外では静かに雪が降り積もっていたらしい。

 朝起きると、うっすらではあるが一面の雪景色だった。外に出てみると、空はどんよりと曇り風は冷たく、まさに「春は名のみの風の寒さや…」の風景だった。

 立春の頃、春めいたとはいえ、信州ではここから桜が咲き、百花繚乱の本格的な春の到来までが長い。ざっと2ヶ月はある。

 この時期、春を待つ心はロマン派の音楽に親しみを感じる。4月にシューベルト、5月にシューマンなど、春の音楽として紹介してきたが、実はこの2月、3月こそロマン派音楽を本当に楽しむ時期なのかもしれない。

 なぜならロマンティシズムとは「心ここに在らず」ということ。目の前の現実の世界に飽き足らず、どこか遠くの理想に憧れ、恋焦がれる気持ち。

 であるならば、今時分の残寒の中で春を待つ心情に訴えてくるのは、ロマン派の音楽ということになろう。

 そのトップバッターはショパンのピアノ協奏曲第2番。北国ポーランド出身のショパンの響きは、やるせないほどの春への憧れ、初恋の痛みが疼くような青春の香りに満ちたロマンティックな作品である。

 この曲がショパン初恋の女(ひと)コンスタンティア・グラドコフスカヤへのプラトニックな恋愛表現であったことはよく知られている。

 当時ショパンは19歳。同じワルシャワ音楽院に学ぶ同級生で、「まばゆいほど美しく、すばらしい声」を持った声楽科の学生が彼女だった。

 1829年10月ショパンは友人ティトゥス宛に手紙を書く。

 「実は僕には理想とする女性がいるのだ。これは僕の不幸の原因かも知れないが、まだ1度も彼女とは話したことがないのにもかかわらず、もう6ヶ月も僕は彼女に心を捧げてきた。僕は彼女のことを夢に見て、ただひたすらそのひとへの想いで協奏曲のアダージョを書いたのだ。」

 この協奏曲こそ、これから聴く2番のコンチェルトである。(有名な第1番はこの1年後20歳の時に作曲されたものだが、出版の時期が逆になり、より若書きの作品が2番と名づけられてしまっている。)

 より技巧を凝らし、規模も大きくなった1番よりも、初々しい情感により満ちた2番の方を私は好んで聴いている。(1番はちょっと大仰で何か歌謡曲的、演歌的で、聴いてて都はるみの「北の宿から」を連想してしまうのは私だけでしょうか。)

 第1楽章 マエストーソ ヘ短調。冒頭のオーケストラの前奏がたまらなく好きだ。最初の1音ですでにショパンの世界が立ち現れている。初恋の痛みに疼くような、胸締めつけられるような、オーケストラの音自体が夢見ているようだ。

 ショパンという人は何と繊細かつ鋭敏な神経の持ち主なのだろう。1番ほどではないが、オーケストラの泣き節が心をえぐる。人を想って書かれた曲なのに、ショパン後年の望郷の念を思わずにはいられない。

 第2楽章 ラルゲット 変イ長調の緩徐楽章。オーケストラを伴って、ピアノが甘く華麗にノクターン(夜想曲)風の主題を歌っていく。コンスタンツィアへの切々たる思慕の情を、甘く切なく掬いとった曲想。

 今まさに始まろうとしているオリンピック、フィギュア・スケートの中間部、スロー・テンポでスパイラルを決めるあたりの曲に使うとぴったりだと思うのですが…。

 第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ ヘ短調 4分の3拍子。ピアノが奏でる第1主題はまさしくポーランドの民謡マズルカのリズム。これが初演以来聴衆に人気だったという。

 経過部、中間部、再現部ときて、ホルンの高らかな合図で曲はヘ長調の絢爛たるコーダに入っていく。

 演奏はクリスティアン・ツィマーマン(ジメルマン)のピアノ、カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロサンゼルス・フィルの1979年の録音のもの。(LP: 28MG0008)

 ツィマーマンは弱冠19歳で1975年のショパン・コンクールに優勝、しかも久々の地元ポーランド出身ということで話題をまいた。

 この頃は、僕はしかし2位になったソ連(懐かしい響き!)のディーナ・ヨッフェのファンだったので、ツィマーマンの印象は薄かったのだが、その後の大家への成長ぶりはご存知のとおりである。

 このレコードでもピアノの音が美しく、タッチにシャープな切れ味を感じる。特に第1楽章でピアノが出す最初の1音の何というシャープな響き!たった1音で恋する者の心に、恋の苦しみが突き刺さるようだ。

 また伴奏のジュリーニの指揮するオーケストラも流麗に、馥郁たる青春の香りを漂わす名演だと思う。

 日本のDGのレコードの中では珍しく音がとても良いのも嬉しい。
 

 

開く コメント(14)

開く トラックバック(1)

2月11日(土)晴れ

 ここのところ日中は随分暖かくなってきた。昨日は最高気温が8℃。今日も春を思わせる陽気だった。(もっとも朝夕はまだびっくりするほど冷える。昨日の最低気温は何と−9℃だった。夜はまだしっかり冬なのだ。)

 それでも1週間前の2/4は最高気温が−3℃。急に暖かくなってきたのだ。僕にとっては今日が今年の「体感」立春!そして僕にとっての立春の曲はブラームスの1番だ。

 厳冬を思わせる第1楽章からの緊迫感迫る曲想が続いた後、第4楽章フィナーレの冒頭に現れる朗々としたあのホルンの旋律が僕にとって、この曲の一番の聴きどころだ。

 まるでブラームスの故郷北ドイツの冬の厚い重苦しい雲間の中から立ち現れ、待ち望んだ春がやがて来ることを高らかに告げる音楽のように僕には聞こえる。 

 その有名なホルンの旋律には、実は「高き山より、深き谷間より、あなたに千回の挨拶を贈ります」というブラームスがクララ・シューマンに宛てた歌詞がついていたという記事が、先日の朝日新聞土曜版の特集に載っていた。(1/14「愛の旅人」) 

 私がこのことを初めて知ったのは『吉田秀和作曲家論集ゥ屮蕁璽爛后戞焚山敘畦Ъ辧2002年)を読んだ時だった。

 この曲についてはよく知られた曲であるため、ベートーヴェンの交響曲を越えるべく、慎重居士のブラームスが慎重の上にも慎重を重ね、構想から20年もの歳月をかけた曲であるとか、

 そのフィナーレの主題がベートーヴェンの第九の有名な「歓喜の歌」によく似たものであり、その意味からベートーヴェンの「第9番」に続く「第10番」の交響曲といわれるとか、有名なエピソードも多い。

 が、ここではそのホルンの旋律に付けられた「高き山より…」の歌詞をめぐる話題を中心に論じてみたい。

 以前にも書いたようにブラームスは20歳前後に、その人生が決定づけられてしまうような大きな出来事に遭遇している。

 1つは彼が20歳の1853年の9月、初めてシューマン夫妻を訪ね、自作のピアノ曲を激賞され、音楽界に華々しくデヴューする。しかしそれからわずか5ヶ月後、シューマンがライン河に投身、自殺未遂をはかる。

 音楽家としての経歴としては前者の方が重要だろうが、ブラームスの人生、そして彼の作品に込められた音楽的モティーフとしては断然後者の方が重い意味を持ったと思う。

 とるものもとりあえずクララのもとに駆けつけた、美しい髪と青く澄んだ目をしたまだ21歳にならぬ青年ヨハネスは、遺された母子のために父親代わりから子守、走り使いのすべてにわたって奔走する。

 半年前に人生で初めて出会った眩しいほど高貴な女性のすぐ傍で、その人のために献身する。この時期、彼の作品として完成されたものはほとんどない。

 が、しかし急速にクララとの親密の度合いを増した彼の、クララへの尊敬が愛情に変わっていく喜びと苦しみが込められ、内面化され、音符となったとしかいいようのない旋律たちが、楽器編成を何度も変えながら、その後名曲の数々となっていく。

 「ピアノ協奏曲第1番作品15」「ピアノ五重奏曲作品34」「ピアノ四重奏曲第3番作品60」そしてこの「交響曲第1番」はその最後の例である。

 「ピアノ協奏曲第1番」が、最初4楽章形式の2台のピアノのためのソナタとして(おそらくはクララとの連弾を想定して)書かれたということはよく知られているが、それが一応書き上げられたのは1854年の4月9日だったという。

 シューマンの投身事件からわずか1ヶ月余の時点ということになる。

 そしてその曲の終楽章(「勝利のフィナーレ」)として構想された旋律(モティーフ)が、交響曲第1番フィナーレのあの主要主題なのである。

 つまり20年の長きにわたった交響曲第1番の成立過程はこうである。

 最初にフィナーレがあった。(2台のピアノのソナタの「勝利のフィナーレ」)それは暗い戦いの後の明るい前進を意味した。

 次いでハ短調の第1楽章の主要部が構想された。勝利のフィナーレに辿り着くためにくぐり抜ける苦闘と苦悶として。

 しばらくしてフィナーレを母胎として、第2、第3楽章が書かれた。その時までに第1楽章にあの求心的な導入部が加えられ、それによって残りの楽章との結びつきはより顕在化してきた。

 そして最後にホルンによるフィナーレのための導入部が書かれ、曲の精神的中核であった21歳になろうとした青年ブラームスのクララへの遠い山からの愛の呼びかけが、ついに形となって現れた。

 「高き山より、深き谷間より、あなたに千回の挨拶を贈ります」

 これは1868年9月にブラームスがクララに送った手紙の一節である。ブラームス35歳。クララ49歳。シューマンの自殺未遂事件から、実に14年の歳月が流れていた。

 以上は、前述の吉田秀和の『作曲家論集 ブラームス』より知ったことである。

 この作品は聴き終えた後、非常な満足感がある。迷宮入りの事件が、最後の最後に急転直下胸のすくように解決された推理小説の読後感のようなカタルシスを覚える。

 それは上記のような、この曲がほとんどフィナーレから遡って作曲されたという事情によろう。

 作品のすべての部分が、フィナーレに向かって、フィナーレと関連づけられて作られた、しかも20年の長きにわたって推敲に推敲を重ねて完成した傑作なのである。

 1月のベートーヴェンの作品のところで触れたことと、全く同じことがブラームスにもいえる。両者の作品から受ける完璧さ、重厚さは(重すぎてもたれることもあるが)、この堅固なフィナーレの印象から来るのである。

 モーツァルトやシューベルトとは全く性格の違う名作がここにある。

 以下、各楽章に関連した個人的感想を簡単に述べる。

  第1楽章 ハ短調。冒頭のウン・ポコ・ソステヌートの導入部の求心力の強さには驚かされる。

 いきなりのオーケストラのトゥッティ(全奏)。しょっぱなから100%の全力疾走というか、キャンバスに塗り残しのない油絵のような分厚さが、ブラームスのブラームスたる所以といえば所以だ。

 その後の主部アレグロも含めて、これほど哲学的思弁と形容したくなるような音楽もちょっと見当たらない。実は学生の頃、集中力を高めて論理的に思索しなければならない時とか、おまじないのようにこのレコードの第1楽章ばかり聴いていた。

 第2楽章 ホ長調の緩徐楽章(アンダンテ ソステヌート)。緊張感のつづくこの曲全体の中のホッとする中間部であり、美しい旋律が印象的だ。

 特に最後のコンサートマスターによる、消え入るように長く尾を引くヴァイオリンのソロはため息が出るほどだ。

 思い出すのは学生時代NHKホールで聴いた、チェリビダッケが指揮したロンドン交響楽団の来日公演。私が今まで聴いてきたすべての演奏会の中で、オーケストラの音が最もきれいだった。

 絹のような弦、とありふれた表現しかできないのが悔しいほどだが、とにかく不純な音を含まないpureな音色だった。それだけチェリビダッケがオーケストラに要求するものが高かったというべきか。

 チェリビダッケの演奏はその時1度限りだったが、とにかく恐ろしく耳のいい指揮者なのだなと思った。

 余談だが、その演奏会にまだ10代の千住真理子が江藤俊哉氏のレッスンの帰りだったのか、ヴァイオリンケースを抱えて聴きに来ていた。

 たぶん先生に「あのコンサートマスターの音を聴いておいで」と言われたのだろうか。 最前列の席で聴いていたことを、この曲のこの部分を聴くといつも思い出す。

 第3楽章 変イ長調。冒頭のクラリネットの息の長い旋律が好きだ。ブラームスは旋律の魅力に乏しいという通説に、異を唱えたくなる。

 そして第4楽章 ハ短調の導入部。テインパニーの乾坤一擲。北ドイツの冬の重苦しい雲のように、再び1楽章の悲愴さが戻ってくる。

 その暗雲の中から、件(くだん)の悠然たるホルンの旋律が高らかに聞こえてくる。(他の楽器はすべてピアニッシモであることから)このクララへの挨拶がいかに曲全体の中で重要なものか、お分かりいただけるだろう。

 そしてオーケストラ全休符の後、ハ長調の主部、「歓喜」の、「勝利」の、「解決」の旋律がやって来るのだ。(調性的にもハ短調で始まった曲が、ハ長調で終わる。)

 演奏は、フルトヴェングラーが1952年2月10日に、ベルリンのまだバラックのようなティタニア・パラストで、ベルリン・フィルを指揮したライヴをずーっと聴いています。(LP:DG 2530 744)

 聴衆の咳払いも心なしか緊張しているような、あの時代だからこそ、またフルトヴェングラーとベルリン・フィルのコンビだからこそ可能だった演奏だと思う。

 世情評価の高いミュンシュ/パリ管やカラヤン/ベルリン・フィル(1987年)を押さえて、かろやん(kalos1974さん)が第一に推していた気持ち良く分かります。

開く コメント(18)

開く トラックバック(4)

全1ページ

[1]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事