|
モーツァルト ピアノ協奏曲第17番ト長調K.453(1784年 28歳)
この曲は昔から僕の大好きな曲だ。僕にとって「お気楽モーツァルト」「陽気なモーツァルト」といっ
た時に代名詞のように頭に浮かぶ、オペラ・ブッファにも似た曲である。底抜けに明るい陽気さが、いか
にもモーツァルトらしい。
まず第3楽章フィナーレを聴いてほしい。これはまるであの「魔笛」に登場するパパゲーノの旋律では
ないか!「ホイサッサ、エサホイサッサ、サッサ、サササのサ」と聴きながら、思わず合いの手を入れて
しまうようなおどけた節回し。人生最初に作曲したクラヴィーア・ソナタK.1から最晩年の「魔笛」まで
モーツァルトの中に生涯流れ続けたメロディなのだろう。モーツァルトその人をこの1曲に凝縮した曲と
いってもいい。
ところが今回「毎日モーツァルト」で新発見があった。(それとも僕が知らないだけだったのか?)
件のフィナーレの旋律、実はこれ、作曲当時モーツァルトが飼っていた「ムクドリ」のさえずりを模し
た、いわば「ムクドリ」のテーマだったという。モーツァルトが鳥かごの中のむく鳥をつっつきながら、
鼻歌まじりに浮かんできたのが、この曲というわけだ。
1784年の春、モーツァルトの家計簿にはこの時のむく鳥を購入した記録がつけられているという。
「むく鳥34クロイツァー、それはきれいな声だった。」
そしてその言葉と一緒に、このピアノ協奏曲第17番第3楽章冒頭の旋律が五線譜に書き込まれていたと
いうから間違いない。確かにこれは「むく鳥」のテーマなのだ。(しかしピアノ協奏曲「むく鳥」じゃネ
ーミングとしていまイチだよね。)
さらに何とナント、モーツァルトにはそのむく鳥に捧げた一篇の詩が残されているという。それがまた
傑作だ!
いとしの道化 一羽のむく鳥
憎めないやつ
ちょいと陽気なおしゃべり屋
時にはふざける いたずら者
でも あほう鳥じゃなかったね
これって何?詩なの?語呂も悪ければ、別に韻を踏んでるわけでもなさそうだし、詩を捧げると称して
モーツァルトがふざけてるとしか思えないですよね。TVの前で思わず声を出して笑ってしまった。
鳥かごの前で突っつきながら、鳴き声を真似しながらむく鳥と戯れているモーツァルト。彼こそ「魔
笛」の鳥指し男。パパゲーノはやはりモーツァルトその人だったんだなと、妙に納得してしまう。
この曲が作られた1784年というのは、午前中は貴族の子女へのピアノのレッスン、夜は個人演奏会とい
った生活がいよいよ軌道にのり、暮らしぶりも豊かになっていた。そこへ妻コンスタンツェの2度目の妊
娠が分かり、モーツァルト夫婦は喜びに包まれる。そんな生活のゆとりから生まれたモーツァルト一流の
ユーモア溢れる1曲というのだが、はたしてそう単純に考えていいものだろうか。少なくとも僕にはそう
は思えない。
その週の最終日に出てきて、次のピアノ協奏曲18番の第2楽章の魅力を語った作家の赤川次郎はモーツ
ァルトのことを「やっぱり淋しい人だったんでしょうね、きっと。短調の曲を聴いていると、ただきれい
な旋律だけでは飽き足らない人だったんだなって思います。」といった。
この18番変ロ長調K.456は第2楽章ト短調の緩徐楽章が有名だが、この身も世もないような哀しみの調
べはモーツァルトの作品の中でも、「協奏交響曲変ホ長調K.364」の第2楽章やポストホルン・セレナー
ドニ長調K.320の第5楽章アンダンティーノ(どちらも4/23のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/34021349.html参照)、「フィガロの結婚」の侍女バルバリーナの
カヴァティーナ「なくしてしまった」などに匹敵するほど痛切だ。
ところがこの18番のピアノ協奏曲ができた頃、モーツァルトには待望の次男カール・トーマスが授かっ
ている。普通に考えればこの曲に喜びを爆発させてもいいはずと思うのだが…。
逆に底抜けに明るい17番はむしろ、最初の子テオドールを失って9ヶ月あまり。哀しみに心の中にぽっ
かりと空いた空白を埋めるため、慰めるために飼い始めたのが件のむく鳥ではなかったか?そして
鳥かごの中でさえずるむく鳥に癒され、モーツァルトは悲痛な心を隠し、努めて陽気にふるまい、オペ
ラ・ブッファのように、深刻さの微塵もない万人を楽しませる曲を書いてくれたのではないだろうか。
モーツァルトのピアノ協奏曲17番は、そういう曲だと私は思う。
以下3つの楽章の印象を簡単に述べる。
第1楽章 アレグロ 軽やかな第1主題が滑るように転がるように始まる。一聴してすぐにオーケス
トラの充実ぶりに気づく。とりわけオーボエ、フルート、ファゴットといった管楽器の活躍が印象的だ。
前々からウィーンに来てからのモーツァルトの作品は、ザルツブルク時代に作られた曲とどこが違うのか
気になっていた。私見ではクラリネット、バセット・ホルンなどに代表される管楽器の扱いがよりうまく
なって、弦と管とのバランスが絶妙になり、作品に深みと奥行きが出てきたといえるのではないかと思
う。過去にも管だけのディヴェルティメントなどもあるにはあったが、どちらかといえばザルツブルク時
代の曲は弦主体の、澄み切ってはいるが、やや単調な一筆書きのような曲が多いのに対して、ウィーン時
代の作品は弦と管がうまく溶け合った、ふくらみのある充実したものが多いように感じる。一番印象的な
のがファゴットの使い方がうまいこと。その音色が効いて曲にふくらみと陰影が増している。
第2楽章 アンダンテ 緩徐楽章 静かに始まる長い長いオーケストラの序奏。長調なのにどこかほ
の暗い、清澄とした癒しの音楽。オーボエ、フルート、ファゴットと受け継がれる主旋律。ようやくピア
ノがそこに加わる。憧れに満ちたピアノのモノローグ。だが次の瞬間には一転して短調へ。たったひとつ
の和音でピアノは何事もなかったかのように長調から短調へ。心に沁みるピアノの短調の調べ。そしてま
た長調の世界へ。この静かなモーツァルトの世界には長調も短調ももはや関係がなくなる。ひたすら緩や
かに、伸びやかに、くつろぐことのできる癒しの世界。あのコケティッシュな両端楽章に挟まれたとは思
えない静謐な世界。数あるモーツァルトのピアノ協奏曲の第2楽章でも出色の出来ばえかと思う。モーツ
ァルトを聴く喜びここに極まれり。
第3楽章 アレグレット 終楽章。 件のパパゲーノを思わせる旋律(実は むく鳥のテーマ(笑)と5つの
変奏からなる。この曲を聴いて心弾まない人、体が自然に動き出さない人はいないだろう。軽妙でコミカ
ルな主題が例によって、オーボエ、フルート、ファゴットの順番に受け渡される。第4変奏でやや短調で
神秘的な曲想になるも、第5変奏、プレストのコーダでは一転して「今のはウソ泣きでした。アッカンベ
ーッ」とでもいわんばかりに、最後はホルンが加わって、ドタバタ劇のオペラ・ブッファのような賑やか
な大円団でお開きに。
しかめっ面をしている人に、肩に力が入りすぎている人に「元気出せよ、力みすぎるなよ。」って、落
ち込んでいる人に「人生そう捨てたものじゃないよ」って、ポーンと肩を叩いてくれるような、モーツァ
ルトその人のような1曲である。
演奏は学生の頃から愛聴しているロベール・カザドシュのピアノ、ジョージ・セル指揮クリーブランド
管弦楽団(1968年)のもの。(CBS SONY 13AC1066)前回の15番とセットになったものだが、15番よりず
っと音がいい。確かにオーケストラのトゥッティ(強奏)ではやや荒い音になるものの、オーボエ、フル
ート、ファゴットの木管トリオの音がほの暗く、生々しく、明晰に聞こえて気持ちが楽しくなる。
この曲を聴かずしてモーツァルトを語ることなかれ。
|