クラシック歳時記in松本 (あるいはモーツァルトとともに1年を)

今春発売の内田光子/テイトのCDでようやく好きになれました・・・モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」

モーツァルト

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 次のページ ]

このブログについて

  私のブログ紹介   このブログは次の2つの内容から構成されています


1.「クラシック歳時記 in 信州松本」(2005年度)
 
 一年四季おりおりの、山国信州のこの季節にはこの曲が似合うのではと、私がここ20年近く聴いてきた

クラシック音楽を紹介しています。
  
     2005年4月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/1024047.html

     2005年5月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/2237045.html

     2005年6月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/4094813.html

     2005年7月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/6038266.html
         
     2005年8月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/8449515.html

(2006/8/6 ある夏の日の理想的な過ごし方(?)http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/40248226.html

     2005年9月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/10793392.html

     2005年10月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/12888887.html

     2005年11月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/15886311.html

     2005年12月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/19296180.html

     2006年1月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/22502550.html

     2006年2月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/25648702.html

     2006年3月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/28599313.html

    (最終回 マーラー交響曲第2番「復活」http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/31764115.html

    「【補遺】クラシック歳時記」 (2007年度)

    2007 10/27 晩秋はブラームスの室内楽の季節 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/52848162.html

      11/10歩道に雨に濡れそぼる桜の落ち葉 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/53096121.html

       11/24小春日和の日に  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/53345875.html

     2007 1/8 雪の降る日に  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/45722188.html




 2.「モーツァルトとともに1年を」(2006年度)


 2006年はモーツァルト生誕250年のメモリアル・イヤーでした。そこでクラシック音楽の中でも

私が最も好きなモーツァルトの音楽について感じたことを、主にこの年放映されたNHK-BSの「毎日

モーツァルト」の展開に沿って語ってみました。

    2006年4月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/32550720.html

    2006年5月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/35153447.html

    2006年6月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/37376896.html

    2006年7月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/38697569.html

    2006年8月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/40550015.html

    2006年9月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/41391349.html

    2006年10月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/42413521.html

    2006年11月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/43908979.html

    2006年12月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/45271515.html

    2007年1月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/45609880.html

    2007年2月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/46754235.html

    2007年3月 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/47390889.html

    2007年4月  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/48176492.html

    2008 3/23 【補遺】「魔笛」第2幕 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/55463614


 
 残念ながら今後更新はできませんが、新たにコメントいただいたものには、なるべくすぐにお返事した

いと思っています。読んでいただければ幸いです。





 

開く コメント(6)

 3年前の2005年4月1日より3年間つづけてきたこのブログですが、今日で一応閉じたいと思います。

 理由は昨年度くらいからいよいよ仕事が忙しくなってきて、更新できない日々が続いているからです。

それにもかかわらず、毎日20人近くの方が「今日は新しい記事あるかな」って訪問して下さる。ありがた

い気持ちでいっぱいなのですが、同時に申し訳ない気持ちにもなって…。年度の区切りのここらでけじめ

をつけないと。

 もちろん皆さんそれぞれ仕事がお忙しい中、しっかりとブログを続けられている訳で、そういう中で自

分が続けられないのは、ひとえに自分の力のなさだと痛感しております。

 それと一昨年度「クラシック歳時記」、昨年度「モーツァルトとともに1年を」と一応自分の取り上げ

たかったテーマを、不十分ながらも書いてきたし、それにかつて書き手を喜ばすほどの深い内容のコメン

トを熱心にいただいていた「ふじやん」「かろやん」「なっくん」「hs9655」さん「ローレライ」さん

「mksweet」さんといった懐かしい方々が最近ブログから遠ざかられた(?)ことも、理由のひとつです。

 もうひとつ最大の理由、それは昨今いよいよ顕著になってきた温暖化の影響です。1983年、東京から地

元に帰ってきて、毎年決まった時季に季節の移り変わりを肌で感じ、その時季になると決まって聴きたく

なる曲がある。そんなコンセプトでこのブログを始めた訳ですが、ブログを書き始めた途端(というよ

り、今世紀に入ってずっとそうだったのですが、)20年以上続いてきた季節の移り変わりのサイクルが毎

年大幅に崩れ、「今の季節、本来は○○○なのですが…」とか「例年よりは半月ほどずれ込んでいます

が…」などと、言い訳をしながら記事を書いているようなところがあって、正直モチベーションが上がら

なくなってしまった。地球温暖化って北極やツバル、ネパールなど、今のところ極地や発展途上国に大き

な被害が出ていると一般には認識されていますが、実は我々日本文化にとっても致命的なことではないで

しょうか。なぜなら1300年前の万葉の昔から、日本人は四季の訪れを愛で、季節の中の少しずつの微妙な

変化、移り変わりを発見し、それを歌に残した。そういった季節とその変化とそれを感じる美意識と自意

識こそが、日本文化の大切な部分であり、現代の我々も同じ季節が到来すると、1300年前の古の人々が感

じた季節感、美意識を共有できる喜びを感じることができた。それこそが世界に誇ることができる日本の

文化の繊細さであり、ソフィストケイティッシュな部分だと思っていたのですが、温暖化はそうした微妙

な差異を敏感に感じ取ることにアイデンティティを持った日本文化の最も重要な部分を確実に破壊してい

ると思うのです。それらもまた滅びゆくものなのでしょうか…




  それにしても…

  「年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず」

 東京では桜が満開らしい。春未だ遅い信州の我が家では、紅梅、白梅がこちらも満開。これから降るら

しい雨に濡れ、散り、また来年。1年待って、享受できる期間の何と短く、貴重なことか。



 「人生は短し、されど芸術は永し」

 最近とみにこの言葉の重みを感じる。特に昨年度モーツァルトを集中的に聴き、この不世出の音楽家と

その音楽を以前よりもさらに身近に、身に沁みて聴くようになって…。

 自分の人生もしっかり後半に入った。あと10数年仕事をして定年になり、残された人生で自分は何をす

るのだろう?今の自分の周りにあるものを削ぎ落としていって、最後に残るもの。それはやはり大自然の

中に人間が生かされているという思いと、音楽への渇望だと思う。たぶん死ぬまでモーツァルトをはじめ

とするクラシック音楽を聴きつづけるだろう。

 そしていつか自分の人生には終わりの日が来る。しかしその後もモーツァルトの音楽は人々に愛され聴

かれつづけるだろう。逆に自分のこの人生の中でクラシック音楽に出会わなかったら、モーツァルトの音

楽を聴くことがなかったら、自分の人生はどんなにか寂しいものになっていただろう。永遠の生命を持つ

モーツァルトの音楽に、クラシック音楽にふれることで、自分の人生はどんなに豊かなものになったこと

だろう。

 ブルーノ・ワルターの振るモーツァルトの交響曲のレコードがあれば、コレギウム・アウレウムのセレ

ナード/ディベルティメントのレコードがあれば、カサドシュ/セルのピアノ協奏曲集があれば、グリュミ

オー/デイヴィスのバイオリン協奏曲集があれば、アルバン・ベルクの弦楽四重奏曲(ハイドン・セッ

ト)があれば、シェリング/ヘブラーのバイオリン・ソナタ集があれば、アラウのピアノ・ソナタのレコ

ードがあれば…。どんなに年をとっても、どんなに日一日と不如意の人生になっていったとしても、これ

らのレコードの演奏があれば、この人生で出会った珠玉の宝石のような存在として、人生最後の日まで僕

に生きる希望を与えてくれるだろう…。





 最後に自分にとってのベスト○○を紹介してページを閉じよう。いつかまたお会いしましょう!


                私の好きな作曲家


                 モーツァルト


                 (ややあって)


           シューベルト       ブラームス


               (さらに間があって)


    シューマン、メンデルスゾーン、ショーソン、シェーンベルクあたりかな?



 また、すでに「クラシック歳時記」をお読みになって感じられたことと思いますが、私にとっては

               4月の作曲家  シューベルト

               5月の作曲家  シューマン

               6月の作曲家  メンデルスゾーン

              (梅雨に似合う  近代フランス作曲家の室内楽)

              (真夏の日に聴く  http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/40248226.html )

               9月の作曲家  モーツァルト(初秋)

               10月の作曲家  モーツァルト / ブラームス

               11月の作曲家  ブラームス(晩秋)

               12月の作曲家  チャイコフスキー

               1月の作曲家  シベリウス

               2月の作曲家  グリーグ / ショパン

               3月の作曲家  シューベルト



 というイメージがあります。



 次に

            モーツァルトの曲ベスト5(順不同)

              交響曲第39番変ホ長調K.543

              セレナード第5番ニ長調K.204

              バイオリン協奏曲第3番ト長調K.216

             ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482

              弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387

                バイオリン・ソナタK.301〜306(マンハイム・ソナタ)

               ピアノ・ソナタ変ロ長調第13番K.333

              戴冠式ミサ ハ長調K.317

                 「魔笛」K.620 (5つをオーバーしちゃいました)




                   一番好きな交響曲


           シューベルト 交響曲第 8(9)番ハ長調D.944「グレイト」


               
                   一番好きな室内楽曲


        ショーソン ピアノとバイオリンと弦楽四重奏のためのコンセール(協奏曲)



                  
                    一番好きな演奏家


                  ブルーノ・ワルター


     ベルナルド・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団


                  コレギウム・アウレウム


         ヘンリク・シェリング        アルテュール・グリュミオー 
  

                  クラウディオ・アラウ
              


 
 きりがないので、この辺でお開きにしましょう。ご愛読ありがとうございました。

(ただしブログを読むのは大好き!皆さんのブログにはこれからもおじゃましたいと思っています。

 どうぞよろしく!)

開く コメント(26)

 昨年の春、「モーツァルトとともに1年を」の締めくくりに「魔笛」第1幕のことを書いた。

   2007 4.22 魔笛礼讃(http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/48719367.html

         同  (http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/48719465.html

 それからあっという間に1年が経ってしまった。ことにこの4ヶ月は更新もできずにいたにもかかわらず

毎日何人もの方がブログをのぞいてくださる。ありがたい気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいです。

ここらで「魔笛」の続編を綴ることで、このブログの締めにしたいと思います。

           ***************************

 知ってのとおり、タミーノとパパゲーノが夜の女王の娘で、ザラストロに誘拐されたパミーナを救出に

向かうのだが、実はザラストロは善人であり、皆で彼の徳を讃えて第1幕は終わる。つまりパミーナ奪還

のため、ザラストロの屋敷に忍び込んだタミーノとパパゲーノがつかまって、絶体絶命のところで、善悪

が逆転してめでたしめでたしで第2幕に続いていくということで、物語的には第1幕で完結してしまってい

る。第2幕はタミーノとパパゲーノが3つの試練(明らかにこれは当時モーツァルトが属していたフリーメ

イソンの入会の儀式、秘儀を反映している)を乗り越えて、それぞれパミーナとパパゲーナという良き伴

侶を得て、これまためでたしめでたしという予定調和的な内容で、ストーリー的には第1幕のようなスリ

リングさはない。その代わり、1幕には見られなかった各登場人物の肉声を聞くことができる。

 まず第3場、庭園のあずま屋で月に照らされながらひとり眠るパミーナの美しい横顔にそっとキスしよ

うとするモノスタトスの独白。

  誰だって恋の喜びは知っている。お口を突き出し、じゃれ合って、抱きしめたり、キスしたり。

  それなのにこの俺は、恋を諦めなきゃならないんだ。だって色が黒いから。

  黒人の俺には心ってものがないとでもいうのかい?

  血もなければ肉もないとでもいうのかい?

  ずーっと女の子なしに生きるなんて、本当に地獄の苦しみだい。

  だから俺だって生きてるからにゃ、お口を突き出し、キスしたい、優しく愛を交わしたい。

  優しいお月様、許しておくれ。俺は白い娘に惚れたんだ。

  白いって本当に綺麗だな、どうしてもこの娘にキスしたい。

  お月様、どうか姿を隠してくれ、それがだめならせめてその目をつぶってくれ。

 女主人公パミーナに黒い欲望を持って迫るこの黒人奴隷は、パパゲーノと並んで「魔笛」全体の重要な

狂言回しの役割を演じている。と同時に決して一方的な悪役には描かれていない。夜の女王もそうだが、

モーツァルトのオペラの登場人物には悪役はいない。悪者は登場しない。邪悪な心を持ったモノスタトス

の、しかしこの急くような焦燥感にかられたアリアに込められた切ない恋心に全くの共感を感じない聴き

手はいないだろう。

 ところで「魔笛」におけるモノスタトスは、「フィガロの結婚」におけるケルビーノの役割を演じてい

るのではあるまいか。

 ともにドラマの脇役でありながら、重要な狂言回しなのだが、彼らは本人たちが意識しているかどうか

は別として、モーツァルトその人の性衝動が人物化した、いわばモーツァルト自身のファルス(男根)的

存在だと私は考える。

「自分で自分が分からない」と歌い、伯爵夫人からスザンナへ、花から花へと飛び回る「蝶」のようなケ

ルビーノは自分の性衝動を未だ自覚することのない10代の少年である。
 
 一方「お月さんよ、目をつぶっていておくんなさいよ」とうたうモノスタトスは、自分の内側にひそむ

黒い欲望を認識している30代の男だ。「フィガロの結婚」から「魔笛」への時間的経過、モーツァルトの

人間描写の深化が両者の対比を形作っているのだろうか。

 次に出てくるのが夜の女王の有名なアリア「復讐の心は地獄のように胸に燃え」

 面白いのはここで夜の女王が登場するまで、第1幕から2幕にかけていかにもフリーメイソン思想の影響

を受けたような、女性蔑視の教訓がいくつも出てくることだ。

  女というものは仕事はちょっぴり、おしゃべりはたっぷりするものじゃ(第1幕第3場 弁者)

  女というものは男なしでは、えてして自分の本分を踏みはずしてしまうものだから(同ザラストロ)

  女性のたくらみに心すること。多くの賢い男も過ちをおかし用心を怠って手管にはまる(第2幕 僧)

  男はしっかりした精神を持っている。男は話していいことをよく考える(第2幕 第2場)

 ザラストロが、弁者が、そしてタミーノまでが口をそろえての女性非難に包囲される中、夜の女王は登

場し、そしてオペラ史上最高のコロラトゥーラを持ってして、その包囲網を粉砕する。

 男の道徳的非難が何だというの。この私の声の魅力に抗える男はいるのかしら?とばかりに。

 もうひとつ、「魔笛」それも特に第2幕を聴いていて気づくのは、その登場人物の関係性に重層構造と

いうか、パラレルな関係が見てとれることだ。

          (叡智界) ザラストロ     

                   |        

          (理性界)  タミーノ      

                   |        

          (自然界) パパゲーノ    

ざっと書けばこんな感じだろうか。

 また先ほどの男女の置かれた序列でいうと

     (男性)  ザラストロ     タミーノ  

              |        |
 
     (女性)   夜の女王      パミーナ 

こんな関係図になるだろうか。

 さて上の図でいうとタミーノの下に位置するパパゲーノ、そして下の図におけるパミーナはそれぞれ

理性を拒否した野生児であるゆえに、また女性であるがゆえに、理性界の優等生タミーノのようにはザラ

ストロ率いるところの叡智の世界に入ることができない。その悲しみをパミーナは

  ああ、私は感じる。愛のしあわせが永遠に消え去ってしまったことを!

  あの愛の喜びの時は私の心にはもう帰ってこない!

  ごらんなさい、タミーノ、愛するひと。

  あなたのためだけに流れるこの涙を。

  あなたがもはや愛の憧れを感じないのなら

  私の安らいは死の中にしかない!

と詠唱する。一方パパゲーノはひと目かいま見たパパゲーナが二度と現れないことに絶望して

  パパゲーナ!僕の奥さんになるひと!

  パパゲーナ!可愛い小鳩ちゃん!

  でもやっぱりだめだ、何の返事もない!

  もう生きているのがいやになった!

  今はこんなに胸焦がしていても

  死んでしまえば恋もおしまい

とばかりにロープで首をくくろうとし、パミーナは短剣で胸を突こうとする。

 その2人を救うのはいずれも3人の少年たちだ。パミーナには彼女が不実を嘆くタミーノその人を引き合

わせ、パパゲーノにはあの魔法の鈴、グロッケンシュピールを鳴らすことを教えて…

 パミーナと3人の少年たちはうたう。

  愛に燃え立つふたつの心は 人間の力では引き離すことはできない

 武士たちも歌う。

  夜と死とを怖れないひとりの女は、聖別されるに値し、またされるであろう

 そうなのだ、この「魔笛」というオペラではザラストロ、またはタミーノに代表された人間の叡智と理

性の勝利が讃えられる。それはフリーメイソン的な世界観からすれば当然のことなのだが、もうひとつ、

死をも怖れず愛に身を捧ぐ自己犠牲の姿。つまりパミーナにせよ、パパゲーノにせよ、愛のために死をも

怖れずと決意したその時、その気高さゆえに救済される。

  恋の高貴な目的は、明らかに示しています

  夫であり妻であること、妻であり夫であることで

  人間は神々しさに達するのです (第1幕 パミーナとパパゲーノの二重唱より)

 ドイツ的美徳とは何かと聞かれ、愛(Die Liebe)と皇帝に答えたというモーツァルト。

 「死はぼくらの生の本当の最終目的なのですから、僕はこの数年来、この人間の真実で最上の友人とと

ても仲良しになってしまったので、死の姿を少しも恐ろしいと思わないどころか、むしろ大いに心を安め

慰めてくれるものと考えているくらいです。そうして僕は死が我々の真の幸福への鍵であることを知る機

会を与えてくれたことで、神に感謝しています。」と病床の父に宛てて手紙を綴ったモーツァルト。

 愛と死の音楽家モーツァルト。「魔笛」こそは彼の生涯の最後に相応しいオペラ、ジングシュピール

(歌芝居)ではなかったろうか。

 「愛の力、愛による成就。これはこの作品を貫いている1本の赤い糸のようだ」

       (イングマル・ベルイマン「映画『魔笛』に関するノート」より)



  

  

  

  

 

 

  

  

開く コメント(8)

開く トラックバック(1)

 
 (つづき)Die Liebe 愛、恋。これこそモーツァルトが「魔笛」で歌い上げたかったテーマのひとつ

だ。映画「アマデウス」の中でだが、皇帝から「ドイツ的美徳とは何か」と聞かれ、モーツァルトはこう

応えている。「愛です。イタリアのオペラでは男が金切り声で太った女を追い回す。愛どころか滑稽で

す。」つまりモーツァルトがいいたかったのは、かけひきとしての恋ではなく、男と女が純粋に生涯の良

き伴侶を求めようとする、人間のごく自然な、素朴な感情を大切にしているのが、野暮ったいといわれよ

うが、それがドイツ人が誇る素朴な民族性なのだということではないか。従前のタミーノのアリアにして

も、このパミーナとパパゲーノの民謡のような素朴なアリアも、第1幕でメイソン員モーツァルトが最も

歌い上げたかったところのように僕には聴こえる。

 さてこの後、3人の少年に導かれてザラストロの神殿までやって来たタミーノは、門の前で弁者と対峙

する。この場面からフィナーレまでの第1幕は、聴く者に息つぐ暇を与えないほどの緊迫感と音楽的充実

に満ちている。門を前に武者震いするタミーノ。思いがけない「下がれ!」"Zurück"の声。パミーナは

生きていないかも知れないという悲観的な気持ちを持ちながらの、弁者との緊迫感あふれる問答。おご

そかで、それでいて何て深い悲しみに満ちた音楽なんだ。(このマイナー(短調)の音楽も、ワーグナー

『ワルキューレ』第1幕のそれに真っ直ぐ繋がっている。)タミーノはパミーナの存在に一縷の望みを持

ちながらも、自分の微力では助けられないのではと悩む。タミーノの笛の音を聞き、喜ぶパミーナとパパ

ゲーノ。一転モノスタトスの一味に捕まるが、パパゲーノが天使たちにもらったグロッケンシュピールを

鳴らして、窮地を脱する。しかしそこへザラストロの凱旋車がやって来て「今度こそお陀仏だ」と観念す

るパパゲーノに「"Die Wahrheit"(真実)を語りましょう」と覚悟を決めるパミーナ。そして最後はザラ

ストロの心眼の美徳と正義に救われる。この間の刻々たる事態の変化に、一喜一憂する登場人物の微妙な

心理を描き出すモーツァルトの音楽の何と雄弁なこと!

 そしてそのことを我々に強調してくれるのが、節目節目で連呼されるドイツ語のリフレイン。

   "Zurück! Zurück! (パミーナ救済に門から入ろうとするタミーノに僧たちが)

   "Bald, bald…"(「もうすぐ、もうすぐ(希望の光がお前にも差し込むだろう))

   "Sie lebt? Sie lebt?"(「パミーナは)生きている、生きているんですね!」)

   "Umsonst, umsonst!"(「だめだ、だめだ!(やっぱり救うことはできない!)」)

   "Vielleicht…, vielleicht…"(「きっと、きっと」あの人に会える!)

   "Nur geschwinde, nur geschwinde"(「さぁさぁ、急いで急いで」ここから逃げましょう!)

   "Die Wahrheit, die Wahrheit"(「真実を、本当のことを」話しましょう!)

「愛」をドイツ語(Die Liebe)でこそ高らかに歌い上げようとしたモーツァルト。当時ロンドンで破格

の待遇を受けていたダ・ポンテからの誘いを断ってまでウィーンに残り、ウィーンの庶民の国民語である

ドイツ語のオペラを、残り少ない命の炎を燃やし尽くしながら民衆のためにつくり上げたのだ。私は「魔

笛」以上にドイツ語の響きの持つ美しさに気づかせてくれるオペラを他に知らない。

 第1幕の最後は群衆が「美徳と正義が偉大な道に名声をふりまくならば、この地上は天国となって、人

間は神々のようになるだろう」ザラストロの徳をたたえ、大団円となる。ここのところのアレグロであり

ながらの堂々たるフィナーレ、終結のしかたは、モーツァルトの最も神々しいシンフォニー「ジュピタ

ー」のそれと瓜二つ。古今のオペラの中で私が最も好み、かつ聴くたびごとに熱いものが胸にこみ上げて

くるフィナーレである。

 

 

開く コメント(18)

  
 モーツァルト 歌劇「魔笛」K.620(1791年 モーツァルト35歳 死の2ヶ月前に完成)

【登場人物】     ザラストロ(高僧)      テオ・アダム(バス)

             夜の女王           シルヴィア・ゲスティ(ソプラノ)

             タミーノ(王子)       ペーター・シュライヤー(テノール) 

             パミーナ(夜の女王の娘)   ヘレン・ドナート(ソプラノ)  

             パパゲーノ(鳥刺し男)    ギュンター・ライプ(バリトン)

             パパゲーナ(パパゲーノの恋人) レナーテ・ホフ(ソプラノ) 

             モノスタトス(ザラストロの奴隷 ムーア人)ハラルト・ノイキルヒ(テノール)

             弁者             ジークリート・フォーゲル(バス)

             その他 (夜の女王の)三人の侍女、三人の少年(天使)など

             合唱             ライプツィヒ放送合唱団

             管弦楽            ドレスデン国立歌劇場管弦楽団

             指揮             オトマール・スウィトナー

            (LP:K18C9261〜3  CD:BMG74321 32240 2)(1970年録音)

 モーツァルトの音楽作品の最高傑作は、おそらく歌劇「フィガロの結婚」だろう。しかし彼が我々後世

の人間に遺してくれた最も素晴らしい贈り物といえば、それはジングシュピール(歌芝居)「魔笛」に違い

ない。20世紀の偉大な音楽学者アルフレード・アインシュタイン(従兄弟にあの有名な物理学者アルバー

ト・アインシュタインがいて「死とは、そうさなぁ、死とはモーツァルトが聴けなくなることじゃよ。」

という名言を残した。ややこしいね。)は言う。「<魔笛>は子供を夢中にさせると同時に、最も経験を

積んだ大人をも涙が出るほど感動させ、最も賢明な人間をも高揚させることのできる作品である。どんな

個人もどんな世代も<魔笛>のうちにそれぞれ異なった何物かを発見するのであって、この作品が何事も

語りかけないような相手は単なる”教養人”と全くの野蛮人だけであろう。」(浅井真男氏訳)

 ゲーテは「魔笛」をこよなく愛し、その続編を構想したといい、ベートーヴェンはモーツァルトの最高

傑作は「魔笛」と公言し、劇中のパミーナとパパゲーノの二重唱「恋をするほどの殿方は」のメロディか

らチェロとピアノのための「魔笛の主題による変奏曲」をつくった。

  僕にとって「魔笛」は生まれて初めて買ったオペラの全曲レコードだった。そして今でも最も好きな

オペラをひとつだけと言われれば、やはりこの作品を選んでしまうだろう。1980年代前半の貧乏学生には

2800円の正規盤は当時高くてとても手が出ず、レコードといえばいつも、1500円位の廉価盤を大学生協で

注文し2割引で買うものだった。だから何枚組かのオペラはずうっと高嶺の花。ようやく買ったのが大学3

年の春休み。大船から松戸への1日がかりの引越しのバイトをして「お前は力がないなぁ」と何度も怒ら

れながらも、その日にもらったバイト代を握り締めて生協へ。この廉価盤ながら評判の3枚組全曲盤、た

しか5400円だったと思う。大事に抱えて下宿に帰り、早速徹夜で対訳と首っききで聴いたのが、このスウ

ィトナー盤だ。廉価盤なのでオリジナルの対訳ではなく、どこか他のレコードで使われた歌詞カードをそ

のまま使用したのだろう。せりふのところなど、随分演奏と違うなと鉛筆で書き込んだり、線で消したり

しながら聴いたことを覚えている。

 あらすじはご存知の通り。王子タミーノが鳥刺し男パパゲーノと、夜の女王の娘でザラストロに誘拐さ

れたパミーナを奪還しに行くが、実はザラストロは善人であり、パミーナとも出会い、皆とザラストロの

徳を讃えて終わるのが第1幕。第2幕はタミーノがザラストロが課した3つの試練(これがフリーメイソン

入会の際のエジプト式秘蹟、儀式に例えられる)を乗り越えてパミーナと結ばれ、合せて自然児パパゲー

ノも良き伴侶パパゲーナを得て、めでたしめでたしの大円団となる。以下曲の進行に従って注目すべきと

ころを指摘したい。

 まずは序曲。完璧なるオペラ序曲(completely Mozartの1つ)であろう「フィガロの結婚」の序曲を更

に凌駕する傑作だ。フィガロには、開幕今や遅しと待つ聴衆をワクワクさせるような軽快さとスリリング

さがあったが、「魔笛」序曲にはそこに加え、独特の清澄さと堂々たる落ち着きとがある。清澄さとは、

交響曲第39番と同じ「変ホ長調」という調性がおそらくはもたらしたもので、冒頭の全合奏による3つの

変ホ長調の和音の強奏が、このオペラ全体の色調を作り出している。(ちなみに変ホ長調はフラット3つ

の調号を持つ調性で、3という数字に特別な意味(おそらく闇から光へ、または正、反、合というヘーゲ

ルばりの弁証法的な意味での解決の数字、調和の数字と考えていたのだろう)を見出していたフリーメイ

ソンの思想を象徴的に表す調性として採用されたと思われる。)また堂々たる落ち着きは、今言った3回

鳴る和音の多用とともに、フリーメイソンの音楽で好んで使用された低音のバセットホルンと、随所で鳴

るティンパニーの音が曲を引き締め、「フィガロ」序曲の唯一の欠点と言ってもいいある種の「軽薄さ」

を克服している。

 "Zu Hilfe!zu Hilfe!"「助けてくれ!助けてくれ!」幕が上がると、大蛇に襲われ逃げ惑う主人公タミ

ーノが登場する。主役がいきなり逃げ惑いながら登場するのは、モーツァルトという人物像の持つ一端を

いかにも象徴しているように思われる。モーツァルトの一生はあの世からのお迎えから「逃げる」一生で

はなかったか。「アマデウス」(神に愛されし者)というクリスチャン・ネームを持つからという訳では

ないだろうが、この不世出の音楽の天才を天上の神々は所望した。「早くこちらの世界に来て、我々をお

前の音楽で楽しませておくれ」と。彼の音楽を愛したのは我々地上の人間だけではないのだ。結果、彼は

35歳という若さで夭折してしまうのだが、彼は彼なりに精一杯天上界からの手招きに抗ったのではないだ

ろうか。彼には天上の手招きが見えていた。「僕はいつも、ひょっとすると自分は明日はもうこの世から

いなくなっているかも知れないと思わずにベッドにつくことはありません。」(1787年4月4日の父への手

紙)「後宮からの遁走(誘拐)」という名のオペラもあるが、いつも死神から「遁走」していたモーツァ

ルト。彼一流の、脱兎のごとく軽快なアレグロで走る明るいオペラ・ブッファも、華やかな協奏曲もそう

思うと、必死に「遁走」するモーツァルトの姿の分身のようにも聴こえる。堂々と荘重さを湛えた魔笛の

序曲も、アレグロの部分はひとつの旋律が逃げ、追いかけるフーガの技法(バッハから学び取った)が、

いよいよモーツァルトの自家薬籠中のものに到達したことを示している。

 LPレコードだと1面の最後を飾るのが、ロケットに描かれたバミーナを見て歌うタミーノのアリア『何

と美しい絵姿』これ以上シンプルで甘美なテノールの詠唱を私は知らない。"Soll die Empfindung Lieb

e sein?"「この感情が愛(恋)というものなのか?」"Ja,ja,die Liebe ist's allein!"「そうだ、これ

こそ愛(恋)というものだ!」

 次の有名なアリアは夜の女王の『恐れることはない、若者よ』"O zittre nicht,mein lieber Sohn"

"Du bist undschuldig,weise,fromm."「御身は穢れなく、賢く、敬虔です。」このあたりのモーツァルト

の、メロディへのドイツ語の乗せ方、言葉の置き方、あるいは音の跳躍が絶妙だ。ワーグナーの『ライン

の黄金』での女神フリッカのごときおごそかさ、あるいは『ワルキューレ』第1幕でのジークリンデを思

わせる可憐さを合わせ持ったような、みごとな夜の女王の登場の仕方である。(無論ワーグナーの方がモ

ーツァルトを真似したのかも知れないが)

 続く"Zum Leiden bin ich auserkoren,denn meine Tochter fehlet mir,durch sie ging all mein Gl

ück verloren."「私は悲しみに暮れています。愛する娘がいなくなってしまったのですから。あの子と

ともにすべての幸福は失われました。」に始まる短調の部分は、我が子を失った母親の悲しみをメロディ

が良く表出している。最後、一転して"Du,du,du wirst sie zu befreien gehen"「御身、御身こそがあの

子を救いに行ってくれるでしょう」とマーチ風に締めくくるあたりは、ファゴットの低音が小気味良くコ

ロラトゥーラのソプラノのアリアを支えてくれている。

 次のパパゲーノのHm hm hmの合唱のところでは、フリーメイソンを背景にしたオペラらしく、最初の教

訓(Warnung 戒め)が出てくる。侍女とタミーノとパパゲーノが三重唱で「嘘つきどもの口を、皆こうい

う錠前でふさいだら、憎悪や誹謗、いさかいが、愛と友情にかわるだろう」と。これが教訓その1。

 その2は捕われの身となっていたパミーナがパパゲーナと出会い、自分を愛し、助けに来るだろう王子

(タミーノ)のことを聞き、「愛ですって?じゃ、その方は私を愛していらっしゃるの?ねえ、もう一度

『愛』って言って頂戴。私は愛って言葉を聞くのが大好きなの。」といって、パパゲーノと歌うこれまた

有名な『恋を感じるほどの殿方は』。ベートーヴェンが「魔笛の主題による変奏曲」にした曲だ。

   「恋(Liebe 愛)を感じるほどの殿方には 善良な心も欠けてはおりません

    甘い衝動を一緒に味わうのが 女のひとの第一のつとめです

    私たちは皆、恋を楽しみましょう ただ恋のみによって生きましょう


    恋はあらゆる苦しみを和らげ 生あるものは皆 恋に身を捧げるのです

    恋は日々の生活に味をつける この世の至るところにその味がする

    恋の高貴な目的は、明らかに示しています

    夫であり、妻であること以上に尊いものはないことを

    夫であり妻であること、妻であり夫であることで 

    人間は神々しさに達するのです」   (字数制限のため、つづきは次ページへ)

 

開く コメント(2)

開く トラックバック(1)

全8ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8]

[ 次のページ ]


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事