クラシック歳時記in松本 (あるいはモーツァルトとともに1年を)

今春発売の内田光子/テイトのCDでようやく好きになれました・・・モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」

音楽歳時記

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(つづき)
 
 次回からは、タイトルも改めて、「モーツァルトとともに1年を <補遺 クラシック歳時記>」 ということで、昨年度1年間の中で紹介しきれなかった季節の曲(11月のブラームスとか)や、<モーツァルト・イヤー>にちなんで、特にモーツァルトについての話題を多めに、

 そして何より今年よりは軽い気持ち、短めの文章で、書けるときに気軽に書く(実は来年度は今年より忙しくなりそうなので)ブログを目指します。

 ついでに機械オンチ、パソコン音痴の私も、皆さんに教えていただいて、画像にも挑戦してみたいと思っていますので、ひきつづきご愛顧のほどをよろしくお願いします。

 それから、ふじやん、spinnakerさん、アルプス登山やお仕事で松本にお出での時はご一報下さいね。駆けつけますので、ミニミニ・オフ会をやりましょう!

 niwabuも久しぶりに信州に来て下さい!(niwabu、ますみクンは共に懐かしい学生時代の友人ナノダ!)

 ほかの皆さんも、例えばサイトウ・キネンでお出での時はご連絡下さい。松本の街をご案内いたしますよ。

 小澤征爾の出演は微妙ですが、そうでなくても今年はアラン・ギルバートのマーラーの5番、内田光子のリサイタルや、ヨセ・ファン・ダム、ナタリー・シュトゥッツマンという豪華な顔ぶれのメンデルスゾーンの「エリア」という楽しみなプログラムです。

 是非お出かけを。


 では ・・・・・・ 再見!  またお目にかかりましょう。

4月1日(土)晴れ

 4月のスタートは久しぶりのポカポカ陽気。今日の最高気温は昨日より+10℃の18℃の予想。東京では絶好の桜のお花見日?信州ではようやく梅の花がほころんだところです。

 3月の終わりになって寒の戻りというのか、5日前は17℃まで気温が上がったというのに、その2日後は最高気温が4℃まで下がり、一昨日は雪が降った。

 TVでも岐阜あたりでもちょうど咲いた桜の花に雪の景色が映っていたが、こちらでは梅の花に雪。

 春の花の中ですべての花に先駆けて咲く梅の花は、寒の戻りの寒さにも遭い、時ならぬ雪にも遭う。それらを凌いで真っ先に、春が来たことを告げてくれるかのように咲く梅は、清雅・高潔のイメージとしてとらえられ中国では古来最も愛された花。

 梅のことを花魁(かかい)ともいう。花の中の一番という意味。古来、梅を詠った詩人は多い。世界史にも出てくる11C北宋の政治家、王安石も<梅花>という詩で、

    檣角(しょうかく…塀の隅)数枝の梅 寒を凌いで独自に開く
    遥かに知る是れ雪ならずと 暗香の来たる有るが為めなり

 と詠っている。

 中国の詩人で私が最も愛する陸游(りくゆう)も、もちろん<梅花絶句>と題する連作で

    青羊宮前 錦江の路  
    曾て梅花の為に酔うこと十年
    豈(あに)知らん 今日の香を尋ねし処を
    却(かえ)って是れ 山陰雪夜の船

 と詠う。この時、陸游78歳。40代後半に10年近い歳月を送った、蜀の成都での梅見を懐かしんだ詩で、錦江、青羊宮といった成都にまつわる固有名詞が、どれも花に似合う美しい字面で興趣深い。

 ここでも梅の花と雪はセットだ。一昨日は、折角咲いた梅の花に雪が積もることを不憫に思ったのだが、それがまた梅の可憐さを際立たせもし、風流ということになるのだなぁと考え直した。

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 さて、昨年の4月(正確には4/2から。記念すべき第1作は「早春の安曇野にひばりのさえずり」(モーツァルト バイオリン協奏曲 第5番 イ長調 K.219 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/1024047.html )から書いてきたこの「クラシック音楽歳時記 in 信州松本」も、季節がひと巡りして、一応のひと区切りをつける時が来た。

 思えば山国信州の季節の話題と、その季節になると私が聴きたくなるクラシックの曲を紹介するという、超個人的でおよそ一般受けしそうにもない(今どき画像もない!)ブログを開設した時は、正直言ってはたして読んでくれる人はいるのか非常に不安だった。

 はたして5月くらいまで最初の1ヶ月はほとんどコメントがなく、返事のない手紙をひたすら書き続けるような心境だった。

 (初めてのコメントは原稿を途中で不用意に消してしまった嘆きに対する同情のお言葉でした。でも嬉しかった。)

 そのうち5月くらいからでしょうか、さわやかな5月に相応しい「詩人の恋」など、シューマンの曲に対する、特に女性の反応が意外にあり、「ちさのさち日記」のちささんや「乙女ちっく日記」のクララさんなど常連さんが少しずつ増えていってくれました。

 またこの時期「JBLでクラシックを聴く」のhs9655さんの励ましが励みになり、この1年間の中で一番忙しいはずだった6,7月もブログを書き続けることができたのです。感謝!感謝!

 また一方で、当時ミュンヘンに滞在していた「Gladius Dei」のkalosさん(勝手にかろやんと呼ばせていただきました)や、オランダの「オランダとフランスのつれづれ日記」のなっくんなど、異国の方からリアルタイムでコメントをいただき、改めてブログの凄さも実感しました。

 そして「Tutti Gabbati!」(旧「ピアノ・ソナタ第13番」)のzarathustrafujiこと、ふじやんの辛口時評にどれだけ刺激され、また対抗意識を燃やしブログを書かせてもらったことか。これまた感謝あるのみ!

 例えば1年間のブログ記事のうち、自分自身での会心のひとつを挙げるとすれば、6/12の「愁ひつつ 岡にのぼれば 花茨(いばら) または「漂泊の思いやまず…」の回の シューベルト ピアノ・ソナタ第13番イ長調作品120D.664。

 ここに再録させていただくとともに、ふじやん、そしてすぐに褒めていただいた「健康オタクの不健康生活」のローレライさんに感謝します。どれだけその後の活力となったことか!(6/12http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/4619666.html

 また年間の記事の中でもうひとつ選ばせてもらうとすれば、1/14の「炉辺のモーツァルト」(モーツァルト ピアノ協奏曲第21番ハ長調K.467 )。

 これも「Spinnaker's Music Clip board」(旧「音楽の愉しみMarty101」)のSpinnakerさんにすぐに評価していただいて、とても嬉しかった!(1/14http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/23418928.html )

 以上ここにお名前を挙げることができなかった皆さん、ごめんなさい。その他多くの人たちにアクセスしていただき、この寡作(1年間で93回でした)で遅筆(最後は週1のペース)のブログにもかかわらず、

 開設当初は思ってもみなかった6000を超えるアクセス、1000を超えるコメントをいただき、そして65人もの貴重な固定ファンの皆さんに読んでいただいたことを本当に感謝いたします。

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 さて、1年間のブログの締めくくり、そして2005年という年度の締めくくりに、マーラーの交響曲第2番「復活」を最後に紹介したいと思います。

 1年の終わり、師走の慌しい時期にはベートーヴェンの第九を聴くというのが、日本人の習慣というか、年末の風物詩になりつつあります。

 これはベートーヴェンのこの曲が声楽を伴う大編成の楽曲で、それ自体聴いていると何となく改まった気持ちになるということに加え、

 この曲のモティーフが「苦悩を貫いて歓喜に至れ」というベートヴェンのモットーに最も適っていること、

 そしてそれが越し方1年を振り返り、大変だったことへはそれをよく乗り越えた自分を称え、来年はその上に立ってもっと良いことがありますようにと、

 まるで神社に初詣に行って祈るような感情を日本人がこの曲から感得するレベルに達している証左ではありますまいか。

 そんな年末の第九のように、毎年この時季、年度末になると私が聴いてこの1年度の区切りをつけたくなるのが、マーラーの「復活」なのです。

 声楽入りの5楽章まである長大な交響曲のうち、いつも聴くのは30分以上は演奏に要する最終楽章の後半。(LPでいうと2枚組の2枚目のB面!)

 前半の大オーケストラの咆哮、呻吟が一段落した後、舞台の後方から金管が、マーラー幼き日に生まれ故郷ボヘミアはカリシュトの兵舎から遠く聞こえてきただろうラッパの音を、そして近くからフルートがボヘミアの森に啼くナイチンゲール(夜鶯)の声を模するところから。

 マーラーは28歳で最初の交響曲第1番「巨人」を書いた。タイトルの大仰さとは裏腹に、この曲で自作の歌曲集「さすらう若者の歌」の旋律を用いた彼は、ひとりの女性への想いを断ち切り、自らの青春時代に決別をしたのだった。(5/21 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/3162830.html)

 それを受けて、この「復活」の第1楽章は葬送の曲で始まる。「私はこの第1楽章を<葬送の祭典>と名づけた。それはこの祭典の主人公が、第1交響曲で私が墓に埋葬した人物だからだ。

 そこで直ちに大きな疑問が浮んでこよう。なぜ生きているのか?なぜ悩み苦しんだのか?我々が生き続けようとするからには、これらの疑問の全てに答えなければならない。

 この疑問の呼びかけに耳を傾ける全てのものに答えなければならないのである。そして私は第2交響曲の終楽章にその答えを出したのである。」(マーラー自身の言葉)

 その答えとは、1894年彼が敬愛した大指揮者ハンス・フォン・ビューローの葬儀の時に彼にひらめいたものだった。

 「ちょうどその頃ビューローが亡くなり、私は彼の葬儀に参列した・・・。私が不帰の客となった人をしのび座っていた時の気持ちは、まさに私がひきずっていた作品の精神そのものだった。

 そのときオルガン席から合唱隊が、クロプシュトック(18Cのドイツの詩人)のコラール<よみがえらん!>を歌い始めたのだ!

 それは稲妻のように私を貫いた。そしてその瞬間、いっさいがくっきりと、鮮やかな姿をとって私の魂の前に立ち現れていた!」 (同  酒田健一 訳)


     よみがえる そう よみがえるだろう
     わが塵なるものよ
     つかの間の想いを経たならば
     死すことを知らぬ生命!
     
        (中略)

     おまえを呼び給いし方が
     さずけてくださるだろう
     再び花咲くために
     おまえは種として蒔かれる…      (深田 甫 訳)

 
 こうしてクロプシュトックの「復活」を原詞に、マーラー自身が加筆したテキストを、ソプラノおよびアルト独唱と合唱が壮大に歌い上げる終楽章が完成した。

 必ずしも、この歌詞に込められたマーラーの想いにとらわれなければならないことはないだろう。むしろ曲のこの大団円における、あざといばかりの彼の劇的なオーケストレーションに注目すべきだ。

 先程のステージの向こうから聞こえてくる金管のファンファーレ、フルートの夜鶯の木霊から始まり、地の底からかすかに湧き上がってくる無伴奏による「復活」の合唱。

 オーケストラ演奏に導かれ、始まるアルトとソプラノの競演。一瞬の沈黙の後の男性合唱の高らかな響き。「生き続けると覚悟を決めるんだ!」

 そして最後はオルガンと鐘の音を加えた崇高な響きのうちに、天国にたどりついた魂の救済の勝利をうたいあげる壮麗さで、全曲をしめくくっている。

 時期的に「復活祭」の季節だからという先入観もあるかも知れないが、4月に始まり3月に終わる仕事に携わっている者にとって、越し方1年を振り返り、また始まる新しい年度もがんばろうと自分に気合を入れてくれる気がする曲なのである。

 演奏はバーンスタイン、アバドの名演もあるが、私はずっとズービン・メータ指揮ウィーン・フィルの1975年の録音を聴いている。(LP:LONDON L36C-5033,4)

 メータ指揮するウィーン・フィルの豊麗かつ大変きめ細かい演奏は、何度聴いてもみずみずしく鮮やかで、メゾのクリスタ・ルードヴィヒと、ソプラノのイレアーナ・コトルバスの独唱も、絹のような光沢と輝かしさがある。

    
 それでは以上で「クラシック歳時記 in 信州松本」は閉じたいと思います。1年間のご愛読、本当にありがとうございました。

 (最大文字5000字を超えるそうなので、続きはその2に書きますね。)


 

 

 

 

 
 
 









 
 


 

 

3月26日(日)曇り時々晴れ

 この週末ちょっとした発表があって、東京に行った。

 東京は桜がまさに咲き始め!目白の学習院と茗荷谷の跡見のキャンパス入り口の桜が綺麗だった。

 東京の春というと学生時代を思い出す。前述のように、信州の本格的な春は4月も半ばにならないと来ない。しかもそれは突然やって来る。(http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/1742439.html

 それに比べ、東京では2月ともなれば何となく暖かくなり、いつの間にか梅の花も咲き始める。今頃の夜が寒くなく、歩いていると夜風が肌に心地よいのが信州の人間からすると驚きだ。

 さてここ信州でも昼間は春の陽射しを強く感じる今日この頃。夜も東京のような訳にはいかないが、何だか猫ではないが、そわそわした気持ちにもなって来る。

       恋猫の皿舐めてすぐ鳴きにゆく   加藤楸邨

 こんな艶めかしい夜は、シューベルトの8番の弦楽四重奏が聴きたくなる。

 第1楽章冒頭。第1ヴァイオリンの人なつこい、艶めかしい半音階の旋律。一度聴いたら忘れられない、悩ましい音色。人を好きになった切なさを知る人なら、心動かされずにはいられまい。

 第3楽章のメヌエットも人なつこい、懐かしい旋律で、シューベルトその人の人の良さ、素朴で快活な彼の一面を彷彿とさせる。

 こんなチャーミングな佳曲を、シューベルトは世間に出すことなく、あくまでも家族の団欒のための作品として書いた。(17歳。この魅力的な第1楽章を何と4時間半で書き上げたという。)

 兄のイグナーツが第2ヴァイオリン、次兄のフェルディナントが第1ヴァイオリン、父がチェロ、そしてシューベルト自身がヴィオラを受け持って、家族で弦楽四重奏を楽しんでいたのだ。

 シューベルト一家だけの、そんな19世紀的な小市民的な楽しみを今レコードで楽しむことができるのは、本当に贅沢なことだと時代に感謝したい。

 演奏は1980年LP最後期に録音されたアマデウス弦楽四重奏団のもの。(LP:28MG-0185 SQ10番とのカップリング)

 1980年代前半、新譜が長いこと2800円だった時代に、その一番高い値段で買った数少ないレコードの一つ。これまた私にとってかけがえのない1枚だ。
 
 

 
 

3月19日(日)曇り

 クラシック音楽を聴く楽しみの一つに、弦楽器、とりわけヴァイオリンの音色を楽しむことがあげられる。打楽器という感のあるピアノよりも、しっとりと絹のように艶やかな弦の音が好きだ。その中でもヴァイオリンは美しい女性を思わせる。

 ヴァイオリンの音色に惹かれクラシック音楽を聴き始めた者にとって、ジャンルでいえばやはりヴァイオリン協奏曲やヴァイオリン・ソナタが一番好きだ。

 華やかなヴァイオリン協奏曲もいいが、つややかなヴァイオリンの音色と硬質なピアノの音が絡み合うヴァイオリン・ソナタは調和と均衡がとれ、また室内楽らしい落ち着きと奥ゆかしさがあり、私の最も好きなレパートリーだ。

 ドイツ・ロマン派、フランス近代の作曲家のものは勿論、ヴァイオリン・ソナタであれば何でもFMでエア・チェックするし、レコードがあれば買いたい。

 そして季節感でいえばヴァイオリン・ソナタは、どれも3月の春まだ浅き早春から4月の終わりの晩春までの春の音楽という印象だ。

 バイオリンの弦が奏でるつややかな音色が、なんとなくやるせない、なまめかしい春の雰囲気に似合うのと、ピアノとの対話がどことなく恋人たちの相聞歌に聞こえるからだろうか。

 ヘンデル、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタから、20Cのラヴェルのソナタまで傑作が目白押しだが、その最高峰はセザール・フランクのそれではないだろうか。

 もう一つ並び称されるフォーレの1番には遅れをとるものの、官能的でありながら宗教的かつ気品にあふれるこのフランクのソナタがなければ、後のルクー、ドビュッシー、ラヴェルといったフランス近代のヴァイオリン・ソナタの傑作群も決して生まれなかっただろう。

 フランクのソナタにはこんな逸話がある。

 美智子妃(現在の皇后)が当時の皇太子と成婚される前、記者会見で「ご趣味は」と聞かれ、「音楽」と。「ではどんな音楽がお好き」と聞かれ、「セザール・フランクのヴァイオリン・ソナタが好き」とお答えになったという。

 別に皇室に対して特別な感情を持つ者ではないが、いかにも好ましいエピソードだと思う。

 英語にノーブル(noble)という言葉がある。高貴な、気高い、貴族的という訳を持つ、この言葉の本当の意味を教えてくれるのが、このフランクのヴァイオリン・ソナタではないだろうか。 

 この曲はフランクの最晩年の64歳、1886年に作曲され、当時のフランコ・ベルギー楽派を代表する大ヴァイオリニスト、イザイに捧げられた。(イザイの結婚のお祝いとして)

 第1楽章。アレグレット・モデラート。ピアノが静かに問いかけ、それにヴァイオリンが夢見るような旋律で応える。まさにピアノとヴァイオリンとの相聞の歌だ。

 第2楽章。アレグロ。唯一の短調(ニ短調)。唯一の速い楽章。ピアノのせくようなリズムに、ヴァイオリンは情熱的な主題を力強く弾く。

 続いて憧れに満ちたヴァイオリンの第2主題が出て、ふたつの主題が対位法的に絡み合い次第に高揚し、ニ長調の白熱したコーダで楽章を閉じる。

 第3楽章。緩徐楽章。ピアノの和音に続く、ヴァイオリンのレチタティーヴォ。これほど自省的、瞑想的、宗教的な音楽がこれまでにあっただろうか。

 さざ波のようなピアノに導かれ、解決音を含んだヴァイオリンが奏でる主題の登場。この曲のハイライトだ。

 第4楽章。アレグレット・ポコ・モッソ。イ長調。ピアノとヴァイオリンがカノンでロンド主題をうたう。今までの楽章で出てきた主題も顔を出し(循環形式)、最後はロンド主題による華やかなコーダで締めくくられる。

 演奏はLPではアルテュール・グリュミオーのVn、イストヴァン・ハイデュのPf(PHILIPS 13PC-243)(1961年録音)を長いこと聴き、最近CDでオーギュスタン・デュメイ(Vn)/マリア・ジョアン・ピリス(Pf)の演奏をよく聴いている。(Grammophon POCG-1896)(1993年録音)

 デュメイはグリュミオーに師事した。つまり、ともにイザイからのフランコ・ベルギー楽派の流れをひくヴァイオリニストであるふたりの演奏は浪漫的で、ゆかしさがあり、そして華がある。

 早春の今日のような日に、本格的な春を待ちわびながら静かに耳を傾けてみたい。



 


 

 


 

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3月12日(日)曇りのち雪

 「三寒四温」で春になっていくとは分かってはいるものの、春のような、冬のような天気がつづいて落ち着かない。

 また、ニュースやブログの皆さんの記事で拝見する東京や大阪の春の様子とも、こちらは明らかに違う。梅の花の満開の写真や嬉しそうなコメントを見るたびに、こちら信州は二分法でいえば、明らかにまだ冬なのだと思う。

 昔、森進一の唄に(作詞作曲は吉田拓郎だったと思うが)「えりも岬」というのがあって、「北の街ではもう哀しみを暖炉で燃やし始めてるらしい…」と始まり、「えりもの春は何もない春です♪」と唄う。

 信州の三月もまさにそんな感じだ。昔高校生の頃はこの時季が一番嫌いだった。何とも中途半端で、花もなく、緑もなく、大地はただ乾燥していて、そこへ春一番が吹きつけてやたらとほこりっぽくガサガサしていて、一言でいえば1年で一番「うるおいのない」季節だと思っていた。

 卒業式が終わってひと月近くの春休みがあり、そういう年頃なのか、時季だっだのか、昼間から悶々とした思いでフルトヴェングラー指揮するところのベートーヴェンの「英雄」を聴きながら、家の中でうろうろしていた記憶がある。

 あの頃読んだ伊藤整の「青春について」というエッセイに「当時私は所有したいと切望するものを何一つ所有していなかった。その一点において私は青春を生きていた…」という意味の一文があり、妙に慰められたというか、共鳴している自分がいたことを懐かしく思い出す。

 (だからなのかな、未だにベートーヴェンとかフルトヴェングラーという言葉を聞くと、何よりも気恥ずかしさが先に立ってしまう。)

 それでも昨日、白茶けた庭の芝生の中に一つ二つ、今年初めての小さな花を見つけた。黄色いクロッカスの花。毎年真っ先に咲いてくれる花だ。

     君が歌うクロッカスの歌も新しき家具の一つに数えんとする    寺山修司


 さて春になりきれない信州のこんな季節の夜更けには、シューベルトの室内曲が聴きたくなる。弦楽五重奏曲ハ長調D.956が。

 ドイッチェ番号でも分かるとおり、この曲はシューベルト最晩年に作られた曲だ。1828年の9月、彼の死ぬ2ヶ月前。その半年前には最後の大交響曲ハ長調「グレイト」(第8番(僕らの年代には長く親しんだ9番という番号で胸に刻まれているのだが))が完成している。

 同じウィーンの街に住み、彼が深く尊敬して止まなかったベートーヴェンが死んだのが前年の1827年。その葬儀にシューベルトは友人とともに参列し、松明を持って棺に従ったという。

 晩年のシューベルトは少しでもベートーヴェンの域に達しようと、懸命の努力をつづけていた。「こうして僕は大交響曲への基礎を築いているのだ。」と友人に書き送ったのが1824年。

 しかし彼はベートーヴェンの生前、自分をベートーヴェンと同等、などとは思ってもみなかったようだ。ベートーヴェンは偉大な芸術家、自分は単なる歌書きというくらいにしか考えていなかった。

 ベートーヴェンが死の床で「シューベルトには神の閃きがある。彼こそは世界に名を成すだろう。」と言ったといわれるにもかかわらず。

 しかし目標とするベートーヴェンの死後、彼は期するものがあったのだろう。「歌はもうやめた。オペラと交響曲だけを作曲する」と言って、今までのスタイルをかなぐり捨て、真にスケールの大きい男性的なシンフォニーとして8番を完成させた。

 その半年後に同じ思いで作られただけに、この弦楽五重奏曲は室内楽的であるよりは、はるかにシンフォニックに作曲されている。そして単にスケールが大きいだけでなく、シューベルトならではの汲めども尽きぬ魅力的な旋律に満ち溢れている。

 モーツァルトの弦楽五重奏曲以来の傑作といわれるこの曲だが、モーツァルトのそれが弦楽四重奏にヴィオラを追加した通常の形であるのに対して、チェロを加えた特異なもの。

 例のピアノ五重奏曲「ます」(8/31拙ブロ参照)がコントラバスを含めた構成だったのと同様に、シューベルトの低音重視の音楽作りの傾向がここでも見られる。

 さて第1楽章。序奏なしでいきなり第1ヴァイオリンによって第1主題が提示されるが、同音の音符がタイで結ばれ、まるでアダージョの序奏が始まるよう。

 それにしても曲の開始を告げるこの最初の一音の、夢見るような音色はどうだ。音楽が、いや音そのものが夢を見ているようだ。

 たった一音で聴く者をどこか、今いるこの場所ではないどこかへと連れ去ってくれる。その場所を或る者は彼岸といい、或る者は天国というだろう。

 まごうことなきロマン派の世界、シューベルトの世界だ。美しい旋律が次々と立ち現れる。1つの楽章で5つもの主題が現れるのは驚異的としか言いようがない。

 5つの主題が入れ替わり立ち代り、それぞれ心ゆくまで歌われ展開されるので、曲はまさに「天国的な長さ」(シューマンが第8交響曲を評した言葉)となる。

 この1楽章だけで15分近くかかるが、質、量ともにこんなに長大かつ充実した室内曲は空前絶後だろう。

 第2楽章 アダージョ。第1ヴァイオリンのピツィカートのリズムにのって、第2ヴァイオリンのひたすら長く美しい旋律が、繰り返し繰り返し、ゆっくりとゆっくりと流れていく。

 「冗長はロマン主義者の証」シューベルトは許される限界まで、いや殆ど「永遠」を願って曲を続けている。いつ果てるとも知らぬ音楽…。

 中間部はシンコペーションを伴ったリズムが複雑に変化する中、第1ヴァイオリンが心の動揺を示すヘ短調の旋律を弾く。

 再現部。より細かく装飾された伴奏リズムにのって、主題が再現されていく。永遠に、永遠に、この曲の終わりが来ることはないかのように…。(第1楽章より長く、演奏時間およそ16分。)

 第3楽章。スケルツォ。ベートーヴェンの交響曲並みの堂々たるスケルツォであり、弦楽合奏で演奏したならば、著しくシンフォニックな響きの効果が期待できよう。

 しかしトリオでがらりと気分が変わり、テンポを落とし、抒情性あふれる楽想を展開するのはやはりシューベルトその人のオリジナルだ。彼にしか書けない内省的な音楽である。

 第4楽章。アレグレット。形式的には展開部を持たないソナタ形式ということになろうが、ソナタ形式とかロンド形式といった従来の型にはめることのできない、シューベルトならではの自由さ、明るさ、若々しい伸びやかさが横溢している。

 つまり最終楽章において、曲はシューベルトその人になりきっているのだ。

 全体を通して、交響曲「グレイト」と同じく、ベートーヴェンの交響曲を受け継ぐべきスケールと内容の充実を見せる傑作であるが、そこにおのずと滲み出るシューベルトその人の持つ、魅力的な旋律と抒情性がより一層この曲のかけがえのない価値を作り出している。

 しかしこの曲を愛する者として、一方でいつものシューベルトの作品パターンがここにもあると素直に認めざるをえないことも正直に告白しておこう。
 
 すなわち第1、第2楽章が超一級品であるのに対して、後半、第3、第4楽章は二級品とは言わないまでも、一級品にとどまっている事実。「グレイト」「死と乙女」また然り。

 そのシューベルトの限界ともいうべき瑕疵。それを含めてまるごと彼を愛してこそ、真のシューベルティアンなのだろう。私も喜んでその名乗りを上げよう。

 このシューベルトの室内楽曲の最高傑作。現代最高のテクニックと音楽性を持つアルバン・ベルクSQとシフのVcの演奏(EMI TOCE11101)が定番であることはいうまでもないが、

 私はコレギウム・アウレウムの合奏団員による、ドイツはキルヒハイムにあるフッガー城糸杉の間での1980年の録音のレコードを楽しんでいる。(LP:(独ハルモニア・ムンディ)日本ではテイチク ULS-3246-H)

 フランツヨーゼフ・マイヤーをリーダーとする古楽器奏者たちが、残響まことに豊かなフッガー城糸杉の間で、思いっきりロマン的解釈で演奏してくれるこのレコードで、

 日常を刻んでいる時間とは別の、シューベルト作品だけが持つ永遠の時空の世界に遊ぶ思いを堪能している。

 

 

 
 

 
 

 

 


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