クラシック歳時記in松本 (あるいはモーツァルトとともに1年を)

今春発売の内田光子/テイトのCDでようやく好きになれました・・・モーツァルト ピアノ協奏曲第9番「ジュノム」

音楽歳時記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

1月21日(土)曇り

 もうすぐトリノ・オリンピック。日本人の活躍が楽しみなところだが、それにしてもオリンピック代表最終選考会を兼ねた、先月のフィギィア・スケート全日本選手権は素晴らしい大会だった。

 男子もたった1人の代表枠をめぐって、高橋選手と織田選手がしのぎを削ったが、女子は3人の枠を5人が争い、ジュニアの浅田真央選手も加わっての大接戦だった。

 特に最終日のフリーでは、結果次第で誰でも優勝の、そしてオリンピック代表になるチャンスがあるというシチュエーションに、日本中がTVに釘付けになった。

 そしてその、これ以上ない重圧と緊張感の中、5人の選手が自己の持てる力を出し切った。わずかに荒川と安藤がジャンプの着地でバランスを崩したが、それ以外は5人とも完璧な演技に近かった。

 特に村主章枝と恩田美栄は最高の演技ができたことに自分自身が感動している様が、画面を通じてこちら側にも伝わってきて、鳥肌が立つほどこちらも感動した。

 結局オリンピック代表は村主、荒川、安藤に決まったが、中野、恩田も僅差で代表の座は逃したものの、自己のベストを尽くしての結果ということで納得の結末ではないだろうか。

 今の日本女子のフィギィアのレベルは高く、オリンピックでも好成績が期待できる。

 **********************

 ところでフィギィアの演技では音楽にクラシック音楽が使われることが多い。浅田は「くるみ割り人形」、中野は「ドン・キホーテ」、そして村主のは「ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番」。

 適度にロマンティックで、ダイナミック、優雅で劇的なこの曲は、フィギィアの音楽では定番といえるものだが、今回は何と男子の高橋も使っていた。人気曲である。

 私がこの曲を聴いて思い出す光景は、マリリン・モンロー主演ビリー・ワイルダー監督のコメディー映画「七年目の浮気」。

 主人公のサラリーマンが、越してきたお隣りさんの妙に色っぽい風情にあらぬ妄想を働かす。その妄想の場面に必ず登場するのがこの協奏曲。ユーモラスな使い方をされていた。

 時代を遡れば、「逢びき」「旅愁」などの正統派恋愛映画の名作の音楽にも使われている。

 それだけ万人がロマンティックだと感じる、甘美な旋律に溢れたこの曲。逆にいえば安手のロマンティックなムード音楽という批判も多くある。

 かつてニューヨーク・タイムズの音楽時評を長く担当していたC・ショーンバーグはその著書「大作曲家の生涯」の中で、ラフマニノフの音楽を「後ろ向きのロマンティシズム」と表現した。

 確かに後ろ向きかもしれない。ラフマニノフがこの抒情性あふれる曲を書いた時、時代はすでに20世紀に入っていた。(1901年)

 音楽の先進地ウィーンなどで既に現代音楽が主流となっていた時分、ロシアではチャイコフスキーをこよなく尊敬していたラフマニノフによって、この19世紀後期ロマン派の面影を伝える保守的な超ロマンティックな曲が作られていたのである。

 さらに8年後にはこれまた人気を二分するピアノ協奏曲第3番が作られる。

 しかし私が思うには、彼の管弦楽曲での最高傑作は交響曲第2番ではないだろうか。

 3管編成で60分になんなんとするこの曲は、その息の長い起伏のうちに次から次へと、これでもか、これでもかといわんばかりの、ノスタルジックでロマンティックな美しいメロディのてんこ盛りだ。

 ラフマニノフが嫌いな人にはちょっと辟易かもしれないが、好きな人にはたまらない作品だろう。

 第1楽章 ラルゴの序奏からアレグロ・モデラートの主部。

 重い和音の序奏から弦が悲痛かつ甘美な第1主題を奏で、その後美しい旋律が次から次へと浮かび上がってくる。ロシアの抒情、ロシアの憂愁。

 イングリッシュ・ホルンだろうか、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」第3幕冒頭のような空虚な音を響かせる。

 その後の弦に現れる旋律は、歌謡性、流動性、軽快さと振幅の大きさを感じさせる。

 第2楽章 アレグロ・モルトのスケルツォ。

 曲全体の中でこの楽章だけが何か異質だ。唐突な印象のリズムとメロディ。他の3つの楽章につりあわない。この種の違和感を感じるのはブラームスの第4シンフォニーの第3楽章。あれも何か非常に唐突だ。

 ところでこの楽章、昭和40年代に信州に住んでいた人にとっては懐かしい曲。実は民放TVがまだ1社だったころの夜の最終のスポット・ニュース番組「信○(信濃○日新聞)ニュース」のテーマ曲だった。

 子どもながらに夜遅くに、不気味な何かただ事ではないことが伝えられるような緊張感をこの曲から感じていた。

 第3楽章 アダージョ。この曲のハイライトである。

 冒頭からクラシックというよりは、そう1980年代のポピュラー音楽の雰囲気。例えばバリー・マニロウか誰かが歌えばピッタリくるようなスロー・バラード。こんなBGMに乗せて愛を囁かれたら、陥落しない女性はいないのではないかと思わされる。

 第4楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェのフィナーレ。

 一転してロシア音楽伝統のブンチャカ、ブンチャカ、大騒ぎの大円団。そしてフィニッシュは2つのピアノ協奏曲とそっくりの「ラフマニノフ・フィニッシュ」ダン・ダ・ダ・ダン!

 これがあるからフィギィアの最後も決まる!んですよね。

 演奏はラフマニノフの全管弦楽作品を録音しているアンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団。(1973年、ロンドン、キングスウェイ・ホール)(LP:英EMI 29 0498 1)

 ラフマニノフへの異常なまでの共感を示すプレヴィンの、これは情熱に満ちた名演である。映画音楽、ポピュラー音楽と揶揄されるこの曲を、一転クラシックの名曲の領域に踏みとどまらせている。

 言い忘れたがロシアの作曲家で、冬を連想させる曲を書いているのがまずチャイコフスキー。そしてその次がこのラフマニノフだろう。

 彼の作品はチャイコフスキー以上に分厚くぼてっとした印象だけに、他の季節に聴くにはちょっと暑苦しいが、それだけに冬の風景の中で聴くとちょっとハマる。


 ところで安藤美姫が音楽を「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」から、オリンピックでは「蝶々夫人」に代えるという。シンクロナイズの小谷美香子も使った定評のある曲だし、陳腐だが異国の人々に日本をアピールするには手堅い選曲だろう。

 しかし私としては、どうせ代えるならば「ピアノ協奏曲第2番」を超えるためにも、同じラフマニノフの交響曲第2番を使ってほしかった。

 第1楽章の哀愁の旋律に乗って登場。最初のジャンプ。中間部は第3楽章魅惑のアダージョに乗って、優雅にスパイラルそしてスピン。最後は第4楽章フィナーレの勢いに乗ってステップと再度のジャンプ。(できれば4回転サルコウを)そしてフィニッシュはもちろん「ラフマニノフ・フィニッシュ」で華麗にダン・ダ・ダ・ダン!

 これでレベル4続出、選曲では優勝まちがいなしだと思うのですがどうでしょうか、ジェンキンスさん?

 

 

 

1月13日(金)晴れ

 先日のNHK「クローズアップ現代」を見て驚いた。キャスターの国谷裕子氏の歯切れの良い進行で、毎回旬の時事問題や社会現象を取り上げ、短時間ながらその本質や背景をきちんと視聴者に明らかにしてくれる「スグレもの」TV番組なのだが、その回は何と「昨今の日本のモーツァルトブーム」についてであった。

 無論今年はモーツァルトの生誕250年の「モーツァルト・イヤー」なのだが、それとは別個に最近日本でモーツァルトのCDが爆発的に売れているのだそうだ。

 通常1万枚売れればクラシックの世界ではベストセラーといわれるのだが、「癒しのモーツァルト」などというストレス解消やリラックスさせてくれるためのモーツァルトの曲の選曲シリーズのCDが何と70万枚も売れたという。

 これは普段あるいは今までモーツァルトをあまり聴いたことがなかった層が、モーツァルトの記念年だから話題だから聴いてみようというのではなく、純粋にモーツァルトの曲そのものが良いから、あるいは癒しの効果があったりα波を出してくれるから、または仕事や家庭でのBGMとして好ましいから選んでいるのである。

 勿論ブームだからあるいは口コミで買ってみたという人もいるだろうが、考えてみればこれは凄いことだ。明治以来、日本人の最も好きな作曲家はベートーヴェンだった。その影に隠れ、戦前から日本ではモーツァルトというのは地味な存在であったという。

 それが高度経済成長期を過ぎ日本が豊かになり、さらに昨今の競争とストレスが激化している社会の中で、今までもっぱらJ-POPを聴いてきた若者を含めた日本人が、自らの意思でモーツァルトの音楽を選んでいるのだ。

 大学以来モーツァルトを最も好み、自分の経験から職場のBGMとして最も仕事の効率を高めてくれるのが、モーツァルトのヴァイオリン・ソナタだと以前ブログにも書いた(4/16)
(http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/1543884.html)自分としては嬉しい限りだ。

 番組に登場したノーベル物理学賞者の小柴昌俊は、いかにも好々爺という感じの満面の笑みをたたえながら、次のようなことを語っていた。

 「我々の仕事で、例えばアインシュタインがすごい発見をしたからといって、それが直接我々を幸せな気分にさせてくれるかといったら、そうじゃないよね。だけどモーツァルトの曲を我々が聴くとたちまち幸せな気分になっちゃうんだからモーツァルト(の作品)っていうのはすごいよね。」

 全くその通りだ。氏が例にあげたアインシュタイン、相対性理論で知られる大物理学者のアルバート・アインシュタインも実は大のモーツァルト・ファンだったことで知られる。

 あるとき「あなたにとって死とはどんなものだとお考えになりますか」と聞かれて、すぐさまこう答えたという。「そうさなぁ・・・死とはモーツァルトが聴けなくなることじゃよ。」

 僕もアインシュタインがそう言ってなかったら、代わりにそう言ってみたくなる言葉だ。もしこの世にモーツァルトが現れなかったら、もしこの世にモーツァルトの遺してくれた珠玉の作品、例えば交響曲39番がなかったら、不協和音がなかったら、魔笛がなかったら、僕にとって人生というものは半分位の価値しかないものになるだろう。

 毎年初秋の風を受けワルターの39番を聴きながら、いつも僕は思う。「あと何回この曲が聴けるだろうか」と。(9/6 http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/10793392.html)

   *****************

 さてモーツァルトの曲というのはあまり季節感がない。それはしかしベートーヴェンとは逆の意味でだ。

 後者の作品が作曲家の主観(メッセージ)を強く前面に出すものなので、そもそも季節とは関係のないところで存在している非常に人工的な音楽であるのに対し、前者の曲はモーツァルトの頭の中を通り過ぎた風景としての旋律を書き留めたものであるから、特定の季節にとらわれることなく、どの季節に聴いてもしっくりくる。

 だから特に冬に聴きたくなるモーツァルトの曲というのは、それほどない。まあ「レクイエム」とか「フリーメイソンのための音楽」などの宗教曲、「魔笛」くらいだろうか。

 ただチャイコフスキーの弦楽セレナードのように、冬の暖炉の前で聴きたくなる曲がある。外の寒さに縮込んでいた身体が、暖炉の温もりで徐々にほぐれてきて、張りつめていた気持ちまでホッとして溶けていくような、何気ない幸福感に包まれながら炎を見つめている。そんな時に聴きたい曲。

 それはピアノ協奏曲第21番の第2楽章だ。

 モーツァルトのピアノ協奏曲は全部で27曲もあるが、そのどれもが傑作揃いの質の高いジャンルである。

 彼の作品群は交響曲、室内楽、オペラ、宗教曲etc.とあらゆるジャンルに及んでいるが、その中で特に傑作が多い、質が高いのは弦楽四重奏曲とピアノ協奏曲だと思う。

 弦楽四重奏曲は23曲あるが、いわゆるハイドン・セットと呼ばれる第14番以降はどれもが傑作だ。

 ピアノ協奏曲も9番「ジュノム」以降のそれはどれもモーツァルトの曲として第1級品である。

 個人的にも9番(バレンボイム)、10番(2台のピアノのための)(ギレリス父娘)、17番(カザドシュ/セル)、19番(ハイドシェック)、20番(ハスキル)、22番(カザドシュ、バレンボイム)、23番(ハイドシェック)、24番(ハスキル、ペライア)27番(ギレリス、ゼルキン)と好きな曲が多い。

 どの曲を聴いても「あぁ、モーツァルトの曲を聴いたなぁ」という満足感に浸ることができる。

 我が家では全員が顔を合わせ、時間をかけられる夕飯の食卓には、必ずどれかモーツァルトのピアノ協奏曲をBGMにかけることにしている。(ただしラジカセでですが)

 モーツァルトのヴァイオリン・ソナタが、オフィスでの仕事が最も効率よくできるBGMであるのに対し、こちらは食卓の音楽として最も食べ物の消化を良くしてくれると思うし、それにプラスして家族全員で食事ができることへの感謝、ささやかな幸福感を増幅してくれるような気がするからだ。

 何よりも職場や学校で疲れたり、気を張ったりしている皆の気持ちをほぐし、にこやかに食卓を囲む雰囲気にさせてくれるのだ。

 さて傑作揃いのモーツァルトのピアノ協奏曲だが、おおよそ幾つかのグループに分けることができる。

 K37からK107までの初期の作品は他人の楽曲をピアノ協奏曲に編曲したもので、習作の域を出ない。

 そういう意味で彼の本当の意味での最初のピアノ協奏曲といえるのは1773年の第5番K175からということになる。ここから第10番(2台のための)変ホ長調K365までの6曲は、ともにザルツブルク時代の華やかなギャラント様式の社交音楽的な気分でまとめ上げられている。

 同様にウィーンに出てきてからも同じギャラント様式で作ったのが、第11番ヘ長調K.413から第13番K.415までの3曲。これらはモーツァルト自身が予約演奏会でソリストを務めるための、社交的・娯楽的色彩が強い。(当時のウィーンの聴衆受けを狙ったといってもいい。)

 それに対し曲が単なる演奏会用の演目として作られたという水準を超え、モーツァルトのピアノ協奏曲が芸術作品として飛躍的にレベルアップしたのが第14番変ホ長調K.449からだといわれている。

 すなわちこの曲を境に、ピアノとオーケストラ・パートは一体化し、「交響的統一体」として作品が力強くなっていく。同じ1784年に集中的に作られたのが第19番ヘ長調K.459までの6曲。

 そして1785年には有名な第20番ニ短調K.466から第22番変ホ長調までの3曲が。翌1786年にも第23番イ長調K.488から第25番ハ長調の3曲が作られるが、このころから有名な第20番ニ短調や第24番ハ短調K.491のように、後のベートーヴェンの音楽を先取りするようなロマン主義的な激情を吐露した緊張感のある曲も現れてくる。

 皮肉なことにその頃からモーツァルトはウィーンの聴衆から冷淡に迎えられるようになり、第24番ハ短調が予約演奏会のために作られた最後の作品となってしまう。

 その後晩年のモーツァルトは往年の人気を取り戻そうとするかのように、再び肩の凝らない作品を書き始める。それが第26番ニ長調K.537の「戴冠式」であるが、単に娯楽的というのではなく、彼ですら晩年の境地に達して初めて書きえた非常に個性的な協奏曲を生み出す。

 それが死の年の1月に完成した清澄な、澄みきった境地を描いたような傑作、第27番変ロ長調K.595である。

 これらの中で第21番というのは、飛びぬけたな存在、名曲というわけではないが、ハ長調という基本的な、落ち着いた調性の中で、3楽章いずれも長調で明るく、交響曲といってもよいくらいのオーケストラ部分の充実した非常に晴朗で健康的な曲に仕上がっている。

 第20番ニ短調K.466がデモーニッシュな性格の「ピアノ協奏曲の(交響曲)40番」とすれば、この21番は「ピアノ協奏曲のジュピター(41番)」といってもいいかもしれない。

 その中の第2楽章、ヘ長調のアンダンテが炉辺の音楽だと冒頭に言った。「ド・ミ・ソ、ド・ミ・ソ・・・」とコントラバスが最も基本的な和音をピチカートで繰り返す中、弱音器をつけた弦によって奏せられる主旋律の美しさは、モーツァルトの音楽全体の中でも特に美しいものだと思う。

 まるで幼子イエスを胸に抱いた母マリアが幸福感のあまり、ひっそりと流し頬伝う涙のように、慈愛に満ちた美しいメロディ。

 しかしこれが一般によく知られるようになったのは「短くも美しく燃え」という1967年のスウェーデン映画の映画音楽として使われてからだという。

 戦時下、軍隊を脱走した中尉と踊り子が逃亡を続けるが、やがて所持金もなくなり二人は死を選択するという悲恋の物語のラストシーンに使ったというアイディアは秀逸だと思う。

 演奏はロベール・カザドシュのピアノ、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団の1961年録音のものを学生時代から聴いている。(LP:CBS SONY 13AC-1067)

 古い録音だが、相変わらず完璧なセル/クリーヴランドの演奏と、先程の第2楽章の美しい旋律を支える低弦のド・ミ・ソの和音など、低音がしっかりと分離して聞き取れる録音は古さを感じさせない。

 なお2003年版の「21世紀の名曲名盤、究極の決定盤100」(音楽之友社)では
ディヌ・リパッティ(Pf)/カラヤン/ルツェルン音楽祭管(1950年)(EMI-TOCE59175)と
フリードリッヒ・グルダ(Pf)/アバド/ウィーン・フィル(1974年)(G-UCCG3328)の、これまた古い演奏が断トツの1、2位を占めている。

 モーツァルトの250回目の誕生日、1月27日まであと2週間である。

 


 

 


 

開く トラックバック(2)

 1月9日(月)晴れ

 ここ2日快晴に近いお天気で放射冷却も加わって、朝の寒さが厳しい。今朝、木曽の開田(かいだ)高原では最低気温が何とー20℃とか。

 気温がマイナス20℃というのは一度しか経験したことがない。学生の時、冬の白馬岳に登った時だ。

 夜、冬用テントの中であまりの寒さに登山靴を履いてシュラーフに入っていても、足先が痺れるように痛い。

 そして翌日、一瞬の晴れ間をついて山頂に辿り着いたが長くいることはできず、1週間近くかけてピークに着いたのに写真だけ撮って15分で退散した。

 下山し、駅の洗面所の鏡を見て気づいたのだが、ピークへのアタックの時、目出帽(めでぼう)にスキーのゴーグルで顔を覆ったはずが、ちょっとだけ出ていた額の真ん中の部分が凍傷になっていた。

 それ以来冬山は基本的に止めた。我々が下山したのとすれ違いに入山したパーティーが、雪崩で遭難したからだ。

 冬山には人知の及ばない、どんなに努力しても、最善の準備と細心の注意をしていても、やられるときはやられてしまう、自然の厳しさ、非情さがある。岩山もそういう世界だ。

 さて話は違うが、この時季、空は今にも雪が降ってきそうな曇り空なのだが、意外に周囲の山々がしっかりと山頂まできれいに見えるという時がある。

 いわゆる「高曇り」の状態なのだが、他の時季と違い、この時季の北アルプスの山々はすっかり雪化粧している。

 だから空が白く山も白いので両者の区別が付きにくいかというと、実はそうではなくて、二つの白い色が微妙に違う分結構ビビッドに常念や槍(ヶ岳)が「コンデンスミルクをかけたかき氷」のように美しく見える時でもあるのだ。

 正月明けにそんな厳冬の常念岳の雄姿を見ると、何となくベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が聴きたくなってくる。

 昨日ベートーヴェンの音楽は自然の四季ではなく、人間が作った新年とか年度初めとか年末とかの人工的な時の区切りに聴きたくなる音楽だと書いた。

 この曲はそういう意味でも、新年になり、改まった気持ちで清々しく新たなスタートを切ろうとする前向きな気持ちに合う曲だ。

 ****************

 ベートーヴェンとその作品については、他の作曲家のように知ったかぶりでいろいろ書き並べるのはやめようと思う。

 ブログに書く程の知識がないのだ。彼に関する本も一冊も持っていない。どちらかというとベートーヴェンは好きな作曲家ではないのだ。

 ここで私のクラシック音楽事始めの事情を書く必要があろう。

 私が初めてクラシック音楽なるものを意識したのは中学1年。いきなり最初の音楽の授業でヴィヴァルディの四季を聴かされた。インパクトが強かった。衝撃があった。音楽的素養も関心も全くない田舎の家庭に育った自分の周りには、今まで存在しない世界がそこにあった。いわゆるカルチャー・ショックである。

 中2の時友達の家でドヴォルザークの「新世界から」のレコードを聴く。初めてクラシックの曲を40分以上最後まで聴けた。嬉しかった。それが本当のスタートだったのだろう。

 次いで聴いたのがベートーヴェンの交響曲第7番。ちょうどその頃「FMレコパル」という雑誌があり、そこに松本零士描くところのフルトヴェングラーの伝記マンガがあった。題名は「不滅のアレグレット」。フルトヴェングラーの指揮した7番の第2楽章を指す。

 マンガに出てきたレコードが聴きたかった。でも家にはステレオなどない。そこで家にステレオのある友人に買ってもらって二人で何度も聴いた。何だか涙が出た。

 そのうちにフルトヴェングラーというのはベートーヴェンが得意で、特に5番とカップリングされた「第九」は伝説的な名演(バイロイト盤)だということを知る。

 今度は自分が買って、その友人の家にボトル・キープならぬレコード・キープして預け、遊びに行くたびに聴いた。

 高校時代はその延長でもっぱらベートーヴェン、ワーグナー、ブラームスなど、フルトヴェングラーが得意とするレパートリー(ドイツ系のシンフォニー)ばかりを聴いて、何やら哲学的気分に浸っていた。

 
 またロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」の岩波文庫を無理して8巻読んだりもした。

 そんなクラシックの聴き方が変わったのが東京の大学に入ってから。奨学金で早速(?)ステレオを買い、音楽生活再スタート。確か最初に買ったレコードはフルヴェンのブラームスの3番だった。

 しかしその頃から、音質は悪くても精神的な演奏(だと自分に半ば思い込ませていた)のフルトヴェングラーのベートーヴェンよりも、美しい流れるような旋律をたっぷりと歌わせるブルーノ・ワルターの振るモーツァルトの音楽に惹かれるようになった。

 やせ我慢をするのではなく、美しいものを美しいと素直に感じ、感動することが自然なことであり、正しいことではないのか。

 そのうちベートーヴェンの作品がちっとも魅力的に感じなくなってきた。ひたすら美しく淀みなく流れるモーツァルトなどの音楽に比べれば、ベートーヴェンのそれは少しも美しくないしスマートでもなく、何だかただゴムが伸び縮みしているだけのように感じられた。

 その頃からベートーヴェンの音楽から離れた。一通りレコードはあるが、滅多に聴くことはない。せいぜい「英雄」「第九」「大公」かチェロ・ソナタの3番くらい・・・。

 基本的にはその傾向は今でも続いている

 しかしもちろん今はまた大学時代とは少し変化してきているように思う。(年を考えれば当然だ。)

 いつだったかFMで吉田秀和がベートーヴェンについてこんなことを言っていた。

 ーー晩年の彼の作曲ぶりを身近で見ていたある人が「彼は人の心に訴えかける旋律を書くために、大変な努力をしていた人だ。」といった。ーー

 ベートーヴェンはモーツァルトはもちろんシューベルトやチャイコフスキーなどに比べ、魅力的な旋律の着想という点で劣っていた。しかし彼はそのコンテンツの乏しさを、ハイドンが創始したソナタ形式を彼一代で限りなく完成に近づけることで、つまり音楽の型(形式)を究極まで高めることで補って余りある成果を得た。

 旋律の美しさと豊富さで聴く人をうっとりさせるのではなく、ソナタ形式という型で、いわば様式、プロットで、聴衆を曲の終局でものの見事に高揚させる術(すべ)を知っていたのだ。

 だからベートーヴェンの曲では初めと終わりが大事。第1楽章における主題の提示とその反復。中間楽章で、一見冒頭の主題は顔を見せていないように見えながら(聞こえながら)、巧妙に伏線をはり、聴衆に無意識のうちに主題の再登場、復活を期待させる。

 そこへ千両役者よろしく、第4楽章(終楽章)フィナーレで「待ってました」とばかりに颯爽と冒頭のモティーフが凱旋して、高らかに雄叫びを上げ勝利のうちに全篇を閉じる。

 最後に聴く人にカタルシスを用意する。もやもやの欲求不満が最後に解消されたような、迷宮入りの未解決事件が急転直下、名推理で解決されたような爽快感、満足感、高揚感を聴衆に与える。テクニシャンBというべきか、あるいは古畑ベン三郎というべきか。

 交響曲5番はまさにその典型だろう。例の「運命」の動機、最初に提示されたダダダダーンの4拍だけで曲を構成し、最終楽章で華々しくそれが戻ってくる。まるで数学の証明問題のように最後にピタッと帳尻が合うのだ。

 このヴァイオリン協奏曲も冒頭のティンパニーの静かな4拍。これがこの曲のアルファであり、オメガである。全てだ。

 そういう点ベートーヴェンは主題を聴衆に印象づけるために、曲の始め方にあらゆる工夫をした人だ。

 ティンパニーの拍で始まる協奏曲なんてのも前代未聞だし、ピアノ協奏曲第4番ではいきなりピアノのカデンツァ風のモノローグで始めてしまう。

 またそれ以上に彼は最終楽章、フィナーレ書きの天才だ。

 普通名のある作曲家でも、曲の結末、終局、どう曲を終わらせるかに結構皆苦心している。

 天性の旋律家シューベルトの交響曲はいつも第1楽章は断然素晴らしい。第2楽章もまあまあ。しかし曲を収束に向かわせる後半、第3、第4楽章でいつも失敗する。あるいは第1、第2に比べ明らかに見劣りする。

 「グレイト」などは本当に素晴らしい第1、第2楽章だと思うが、続く第3、第4は凡庸だ。「未完成」などはその名のとおり第1、第2が素晴らしすぎて、ついに第3、第4が書けなかった。

 ブルックナーあたりも第7の第1、第2の超絶的な素晴らしさに対して、それに見合ったスケルツォや特にフィナーレが書けているとは思えない。

 ドヴォルザークやブラームスなども、最終楽章に農民やジプシーの踊りなどの速いテンポの素材を使って、何とか曲を熱狂のうちに終わりに持ち込もうと苦心している様があるし、あの天才モーツァルトですら最後、曲が尻切れトンボで終わってしまってる曲もいくつかある。(39番、Vn協奏曲第3番)

 その点ベートーヴェンのフィナーレは用意周到に、まるでフィナーレのお終いから曲を書いたかのように、最後ですべてが報われる。観客は拍手喝采で溜飲を下げる。それがわかっていても感動してしまう。だから彼のプロットは完璧なのだ。

 そのあたりはこのヴァイオリン協奏曲でも、聴けばきくほど感動してしまう。冒頭のティンパニーの4拍を胸に刻んだ我々は、第1楽章展開部でこの主題が戻ってくるのを、今か今かと待たされ、焦らされ、「やっと来たーっ」と泣きそうなまでになる。

 そして第2楽章で優美な旋律の陰に見え隠れして、何だかプスプスと不完全燃焼のような思いにさせられてきた我々の前に、最終楽章に入ったとたん冒頭の4拍を想起させる旋律が独奏ヴァイオリンに現れ、ここでもまた我々はカタルシスに酔うのだ。

 「始め良ければすべて良し。終わり良ければもっと良し。」これがベートーヴェンの曲が持つ魅力の秘密なのである。
 
 何度も何度も聴くことによって、そのことは次第に明らかになっていくでしょう。

 演奏は学生時代はもちろんメニューインのVn、フルトヴェングラー指揮フィルハーモニアの1953年の録音(LP:EAC-50069)。最近はもっぱらヘンリック・シェリングのVn、ベルナルト・ハイティンク指揮アムステルダム・コンセルトヘボウの1973年の演奏を聴いている。(LP:PHILIPS X-8546)

 型の天才ベートーヴェンの芸術的なプロットの真髄に迫りたければ、文句なくフルトヴェングラー盤を。曲そのものの持つ美しさ、気品、風格を味わうなら、これまた文句なくシェリングのヴァイオリンをお薦めします。チャイコフスキーでも触れたように、これらレコードでのシェリングの美音はまさに空前絶後だ。

1月8日(日)晴れ

 1/5は小寒(少し寒い)だった。ここから1/20の大寒(大いに寒い)までが1年で一番寒い季節。

 暦通り、ここ2,3日松本は最低気温がー11℃の日が続く。最高気温も零下の真冬日。

 小さいころからの感覚でいうと、いちばーん寒いのが昔の成人の日、1月15日頃。記憶にあるのが中1の成人の日。マイナス15℃だった。

 あまり氷点下になったことのない所にお住まいの方に、零下の温度の感覚をお話すると、松本で今朝は寒い!と思わず口に出すのは大体マイナス10℃以下。「言うまいと思えど今朝の寒さかな」

 マイナス10℃を超えるとどうなるかというと、歩いていて顔が痛い。そして普段意識することのない鼻の中の水分を意識する。つまり鼻の中の水分が氷り始めるのだ。

 そしてマイナス15℃になると、それが霜柱みたいになって(もうちょっと綺麗な言い方をすればダイヤモンド・ダストのようになって)内側から鼻の粘膜に刺さるのです。

 (暖かい地方にお住まいの方には想像できない世界?)

 さてもう松の内もすんで、とっくにお正月は済んでしまったが、この3連休明けの10日から本格的に新年の仕事が始動するということで猶予を頂いて、もう1つ2つ、新春に相応しい(と僕が思っている)曲を紹介しよう。

 今日はベートーヴェンの「ヴァイオリンと管弦楽のためのロマンス」。

 曲の説明の前に、このブログでベートーヴェンの作品を取り上げるのは多分初めてだと思う。

 僕にとってべートーヴェンというのは、あまり季節感と関係のない作曲家というイメージがある。

 確かにヴァイオリン・ソナタ第5番「スプリング」とか交響曲第6番「田園」とか、いかにも春らしい(あるいは若葉の季節のような)自然描写に優れた曲もある。

 しかしそれ以外には、ベートーヴェンの曲というのは、ある意味自然や季節とは関係のないところに成立している音楽ではないだろうか。少なくとも僕はそう思っている。

 着想するのが田園の中の散歩の時だったり、森のカッコウの声を描写した音楽を書いていたりしているが、出来上がった作品は非常に人工的なもので、自然よりも人間の営為を強く感じさせる。

 つまりある季節が来て、ベートーヴェンの曲が聴きたくなることはあまりなく(全然なくはないが、)生活の中で非常に感激したり、興奮したり、悲しんだり、そういう人の感情の高まった時、あるいは改まった気持ちになった時に聴きたくなるのが彼の作品ではないだろうか。

 したがって季節感という点でいうと、自然界にある四季ではなくて、新春とか年末とか、人間が人工的に作った時間の区切りに、人は何となくベートーヴェンの曲が聴きたくなる。

 そう考えれば、年も押し迫った年末に日本人がやたらと「第九」を聴いて、越し方この1年を振り返る気持ちになるのも理由があることのように思える。

 またその反対に「1年の計は元旦にあり」ということで、今日から気持ちを新たにという気分になったり、またお正月らしい清澄な、荘重な、厳かな気分に浸りたい時に「皇帝」であれ「大公」であれ、ベートーヴェンの曲はどれも合うのではないだろうか。

 このことについてここでこれ以上書くと、まさしくベートーヴェンの曲のようにくどく、理屈っぽくなってしまうので、今日はこの辺で止めますが、上記のことはやはり彼の創作の根底に「苦悩を通して歓喜へ」という思想があるからではないかと指摘しておきます。

   *********************

 さて「ロマンス」である。これはベートーヴェンの比較的初期に書かれた作品で、古典的形式感のある、柔和な、そして優美な旋律の曲である。

 特に第2番ヘ長調の旋律というのは大変有名で、(ベートーヴェンの書いた旋律としてはあの「エリーゼのために」くらい有名?)大抵の方はどこかで一度は耳にしているメロディだ。

 曲は2曲とも演奏時間7、8分のロンド形式の簡素な小品で、オーケストラが伴奏するヴァイオリン独奏曲。だからヴァイオリン協奏曲の第2楽章(緩徐楽章)が独立した作品と思えばいいでしょう。

 書かれたのが1802〜03年、ベートーヴェン32歳位の作品で、作品番号から見て一番近いのが交響曲第2番Op.36。作曲家としては交響曲第3番「英雄」で彼の個性を確立する前の、ハイドン、モーツァルトなどのウィーン古典派の流れを受け継いだもの。
 
 彼の作品としては極めてリラックスして聴け、先程述べた清澄な、清新な気分にさせてくれる佳品で、優美な調べのヘ長調の第2番の方が有名だが、私はどちらかといえば地味だがより荘重さを感じさせる第1番の方が好きだ。

 そう、他の曲(Vn協奏曲)に例えると第2番はメンデルスゾーンのVn協奏曲、第1番はベートーヴェンのVn協奏曲という感じだろうか。

 また建築物(古代ギリシア建築)に例えると、第2番は優雅なイオニア様式の柱、第1番は荘重なドーリア様式の柱ってイメージかな、僕の場合。

 皆さんはどちらがお好きですか?また2つの曲のイメージはどんなですか?

 演奏は、僕が持っているのはすごーく古いユーディ・メニューイン(Vn)/フルトヴェングラー指揮フィル・ハーモニア管弦楽団(1953年)(LP:EMI AB-8039)と、かなーり古いアルテュール・グリュミオー(Vn)/エド・デ・ワールト指揮ニュー・フィル・ハーモニア管弦楽団(PHILIPS 17CD-57)しかありません。

 ちなみに1982年度レコ芸「ベスト・レコード300選」(古くてすみません)では

    ズーカーマン/バレンボイム/ロンドンPO ・・・17点
    スーク/マリナー/アカデミー室内O    ・・・16点
    ハイフェッツ/スタインバーグ/RCASO ・・・16点 と続き、

 グリュミオーも14点、メニューインも9点獲得しています。

 皆さんイチ押しの「ロマンス」の演奏も、お教え下さい。




 

 

 
  

 
 

 

 
 

1月5日(木)曇りのち晴れ

 皆さま、新年明けましておめでとうございます。(相変わらずのスロー・スターターでごめんなさい!こんな私ですが)今年もよろしくお願いいたします。

 さて記録的な寒さと雪の中で迎えた2006年新春ですが、皆さんは何か良いことありましたか?私は新年早々車のボディを擦ってしまい、奥さんに怒られてしまいましたが、それでも2つ位は良いことが…。

 1つは12年前に東信(長野県の東側)地方の学校を卒業した教え子達の同級会に出て、久しぶりに懐かしい顔を見れたこと。結婚して、子どももできた方が多く、これから30代という仕事でも家庭でも充実した時を迎える彼ら彼女らの姿が清々しく、こちらが大いに元気をもらったこと。

 もう1つは息子の付き合いで入った古本屋で「立花隆のすべて」という単行本に出会い、改めてこの「知の巨人」の人となりと仕事に触れ、読んでいるこちらも知的好奇心を刺激されたこと。

 そんなこんなで気がついたら正月5日になってしまいましたが、まだ松の内ということでお許し下され。

 それでは私がお正月に聴きたくなる曲を3曲ほど紹介していこう。

 まず第1弾は近代フランスの作曲家エルネスト・ショーソン(1855〜1899)の唯一の交響曲を。

 ショーソンは7/1に雨に似合う曲として、「ピアノ、ヴァイオリン、弦楽四重奏のための協奏曲(コンセール)」と「ピアノ三重奏曲」の2曲の室内楽作品を紹介したことがあるが、彼の大規模な作品の紹介は多分これが最初で最後になるだろう。

 以前にも紹介したが、彼はフランクの弟子にあたり、歌曲を中心とする彼の作品は全部合わせても40そこそこしかない寡作家だ。

 その理由は2つ。1つは彼が25歳でパリ音楽院に入学した遅咲きの音楽家で、しかも44歳の若さで死んでしまったこと(なんと自転車事故で頭部を強打して)。もう1つは彼は弁護士の資格を持ち、いわば日曜作曲家であったこと。

 決して多作とはいえぬショーソンだが、私は彼の作品の殆どが好きだ。「詩曲」「終わりなき歌」「愛と海の詩」とても自分と相性のいい作曲家だと思っている。

 一番好きな作曲家は?と聞かれたら多分モーツァルトと答えるだろうが、一番好きな作品の割合が多い作曲家は?と聞かれたら断然ショーソンと応えたい。

 それは私の大好きなジャンルの一つ、19世紀後半近代フランスの作曲家たちの作品の中で、ショーソンの音楽が、ドイツ後期ロマン派とりわけワーグナー風の官能美と、フランス音楽の洒脱さいわゆるエスプリとのバランス感覚を一番感じさせる、センスの良いチャーミングな作品だと思うから。

 さてそんなショーソンの交響曲を新年第1曲目にご紹介するのは・・・やっぱり自分の好きな人の作品を大勢の方に知ってもらいたいから、という気持ちはもちろんあります。

 で実際のところは、この曲の出だし、第1楽章の序奏の荘重な感じが何となくお正月の厳かで改まった雰囲気に合うかなぁ、なんて言ったら「なんだ、それだけの理由か」って怒られるかな?

 でも確かに冒頭の数小節はまるで「君が代」だよ。某FM番組の「よく聴くとどこか似ているかもコーナー」なんぞに出したら、案外受けるかもしれない。

 第1楽章。その荘重な序奏の後、弦が弾んで、意外にも軽く明るい主題がアレグロ・ヴィーヴォで始まる。この対比というか、先ほど言った程良いバランスが、ショーソンの音楽の魅力じゃないかな。

 この曲全体が有名な、師フランクの交響曲ニ短調を意識した、似た雰囲気の作品であることは間違いない(曲冒頭の旋律や第1楽章の主題が、曲全体に顔を出すいわゆる循環形式を用いていることなど)

 が、ドイツ人よりドイツ的といわれるフランクの交響曲の渋さ韜晦さに比べ、ショーソンのそれは明らかにラテン系の明るさ、軽さ、そしてフランス風の洒脱さが感じられる。

 「非常にゆっくりと」と指示された第2楽章、緩徐楽章でも、それは変わらない。

 第3楽章。アニマと指定されたフィナーレは、オーケストラが華やかに、しかし短調で乱舞する。だが先程の冒頭の荘重な響きがそれを静かな終息へと導いて行く。ここにもショーソンらしい心地よいバランスの妙を見ることができる。

 演奏はミッシェル・プラッソン指揮トゥールーズ・キャピキャピ・・・じゃなかったキャピトル(市立)管弦楽団。(1976年)(LP:仏EMI 2C069-14086)(日本盤だとEAC-40184)

 他に古いところではアンセルメやミュンシュの演奏もあるようだ。

 (ところでこの作品の1891年の初演は失敗といわれ、あのドイツの大指揮者アルテュール・ニキシュ(フルトヴェングラーの前任のベルリン・フィルのシェフ)が1897年にパリで演奏して、初めて喝采を浴びたというエピソードもあるそうだ。意外にそう遠くない時代のことなのだ。)


 

 
 

 

   


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事