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10月25日(火)霧のち晴れ
2、3日前から寒気がやって来ていて、槍、穂高、乗鞍は雪化粧。今朝は随分冷え込んで松本の最低気温は4℃。この秋一番の冷え込みだ。稚内、留萌では里も初雪だそうだ。
今朝は冷え込んだせいか、街は濃い霧に包まれた。(盆地特有の気象現象なのかな?)そして9時頃ようやく霧が晴れて、青空と太陽が見えてきた。と、急に小学校の今時分の遠足のことを思い出した。
小学校の年中行事で秋の大運動会といえば9月の下旬だったし、秋の遠足は10月の下旬、毎年今頃だった。
里山辺とか城山公園とか学年によって行き先は異なるが、ちょっと郊外の稲刈りが済んだ田んぼの脇道を列になって歩き、大きく実がなった柿や栗の木を左右に見ながら、道の脇のススキの穂を抜いて、前を歩く子の首筋を撫でまわしたり、
いのこずち(この辺の方言では「ばか」という。東北出身の友達は「泥棒」というんだと教えてくれた。いずれにしてもなぜかあまり良い名前では呼ばれていないらしい。)をむしって、後ろの子のセーターに投げてくっつけたり。
そんなイタズラをしながら、一日のんびりと里の秋を満喫した(もちろんその頃は季節を楽しむなんていう意識はなかったが)という楽しい思い出として残っている。
(道々、先生が「これがアケビの実だよ」といって、ぱっくり口を開けた中に小倉あずきが入ったゼリーのように光って透明な実をつけた植物を見せてくれたり、そうやっていろんな植物の名前を覚えたような気がする。)
さてそんな秋の遠足の日というと、決まって朝方、濃い霧が立ち込めていた記憶がある。今日のように、強い寒気による放射冷却のせいだったのだろうか。
トレパン穿いて赤白帽子をかぶって家を出る頃(8時前だったかな)は、霧のせいで今日は天気がいいのか、悪いのかさっぱりわからず、雨が降ったらいやだなぁと思いながら学校へ。(今みたいに精度のいい降水確率なんてなかった時代だったから。)
校庭に着いても霧はさっぱり晴れず、同じ格好をして小さなリュックサックを背負った友達と、少し不安気におしゃべりしている。
それが、整列して校長先生の話を聞いてるうちにだんだん霧が晴れて来て、出発する8時半か9時頃には霧はすっかりどこかへ行ってしまって、思いの外強い日射しと真っ青な空が顔をのぞかせて、「なんだ、すごくいい天気じゃん。」と安心する。
まさに年中行事。毎年そんな思いを繰り返していた秋の遠足を懐かしく想い出す。(週五日制とかで行事が減らされている今の小学校でも残っていてほしいな。)
話がだいぶ長くなったが、そんな今の季節の(子供の頃の秋の朝のちょっとした心理ドラマの)BGMとして聴きたくなるのが、「王宮の花火の音楽」や「水上の音楽」などのヘンデルの管弦楽作品だ。
どちらも、片やジョージ2世治世下の1749年、オーストリア継承戦争終結後の平和回復を祝う祝賀会(大花火大会)の、もう一つはジョージ1世の1715年(17年説もある)のテムズ河の舟遊びの際のBGMとして作られた、れっきとした「機会音楽」である。
ヘンデルは日本では同じ1685年生まれのバッハに比べ、どうも今ひとつ評価が低いような気がする。バッハ崇拝者は数多くいても、熱狂的なヘンデル・ファンというのはあまり聞いたことがない。
「バッハが好き」っていうと何となく精神的というか、クラシック音楽愛好派の王道を往くというイメージがして一目置かれるのに対し、ヘンデル愛好派っていうと何か軽い、ロッシーニ・ファンみたいに見られるからなのか。(ロッシーニ・ファンの人ごめんなさい。)
確かに重厚で、思わず襟を正したくなるバッハの作品も素晴らしいが、それとはまた違う、晴朗で華やか、豪快かつ繊細な面を併せ持った、何よりお洒落で粋なヘンデルの音楽が私は大好きだ。
オラトリオ「メサイア」は勿論だが、他にも合奏協奏曲作品3と作品6、二重協奏曲第27番、ハープ協奏曲変ロ長調作品4-6(マツダのCMで使われたあのチャーミングな曲)、ヴァイオリン・ソナタ第4番(4月のブログで紹介)、トリオ・ソナタ(フルート・ソナタ)。
そして「リナルド」「アルチーナ」「忠実な羊飼い」「クセルクセス」などのオペラやカンタータの名旋律。(「クセルクセス」のラルゴ「懐かしい木陰」(オンブラ・マイ・フ)はニッカのウィスキーのキャスリーン・バトルの美声で一世を風靡しましたね。)
ヘンデルの好きな曲はたくさんあるが、やはり「水上の音楽」と「王宮の花火の音楽」が一番好きかな。
「水上の音楽」を聴いていると、朝方低血圧だったものが、みるみるうちに「ドックン、ドックン」と自分の血管が脈打って、正常値の血圧になっていく経験を何度もした。
それほどこの曲は自分を自然に、優雅に、心地良い気分にさせてくれる、私にとって相性ピッタリの曲だ。低血圧の方、お試しあれ。
(ヘンデルのみならず、バロック音楽全般にそういう効用があると私は思っている。きわめて自然に、ナチュラルに、気分や体調を正常な状態に高めて(アジャストして)くれる。だから長年NHKのFMで早朝「あさのバロック」「バロックの森」という番組が続いているのは誠に理に適ったことだと思う。)
また「王宮の花火の音楽」はいかにも野外音楽らしい豪快さと爽快さを感じさせてくれる。
が,どことなくユーモラスでひょうきんな音楽にも聴こえ、また聴く者をどことなくワクワク、落ち着かない気持ちにさせるのが、記憶の中の秋の遠足の朝の霧にやきもきした気分や、大運動会の朝の軽い興奮した気分のBGMにぴったりという感じがする。
どちらの曲も長年ジャン・フランソワ・パイヤール指揮、パイヤール室内管弦楽団の演奏で親しんできた。(LP: ERATO 12E-1004, 同1005)
コレギウム・アウレウム同様、昨今の古楽器・古楽奏法全盛の時代に忘れられつつある感のあるパイヤール室内管だが、レコードで聴く彼らの音は未だに美しい。
一度上田にいる頃、彼らを生で聴いたことがある。前半がバッハの管弦楽組曲第1番。後半がヴィヴァルディの「四季」。
組曲第1番の冒頭の最初の音、和音を一音聴いた瞬間に「ワッ」と涙が溢れてきた。あんな経験は後にも先にもこの時だけだ。
何で突然涙が出たのだろう。未だにわからない。やっぱりバッハの音楽の偉大さか。その頃の自分の精神状態もあったのかもしれない。
しかしパイヤールの生の音が、それまで聴いたどのオーケストラの音よりも美しく、柔らかく、包み込んでくれるような音だったのだろう。今でいう「癒し」てくれる音だったのだと思う。
パイヤールの「王宮の花火の音楽」の方(1962年演奏)は珍しい「初演管楽演奏版」。弦が入らない分だけ「おちゃめ」というか軍楽隊らしい野趣あふれる「わんぱく」な演奏で、聴いててとても楽しい。
CDでは残念ながら両盤ともないみたいなので、最近代わりにネヴィル・マリナー/アカデミー室内管の新盤(1979年録音)で聴いて楽しんでいる。(PHILIPS UCCP-7072)
P.S. 今気づいたのだが、今日のような、そしてあの遠足の日のような霧は、その秋初めて冬の寒気が訪れた証拠。言わば季節を分ける霧ではないか。
それまでの秋は「夏に近い」秋。今日からは「冬に近い」秋。そういえば先日23日は暦の上では霜降。霜の降りる頃である。
P.S.2 その後ハーティ/セル編曲の「水上の音楽」(ジョージ・セル指揮ロンドン交響楽団 1961年録音)のCD(DECCA UCCD-7115)を買う。今の季節の晴れた日の夕方、陽が落ちてブルッと身震いするほど冷えてきた信州の秋の夕闇に、この演奏がすごく合う。しみじみとしていて…。もののあはれってこういうことなんだろうか。
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