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10月10日(月)曇り
昨日に引き続き、雨天が続くうちに「雨の日に聴きたい曲」を紹介してしまおう。季節の推移が読めなくなってきていて、いつ秋雨のシーズンが終わってしまうかも分からないから。
6,7月の梅雨の季節に室内楽を中心にかなり紹介したつもりだが、まだまだたくさんある。梅雨の時季に紹介できなかったものを、思うまま挙げてみたい。
まずフランクのピアノ五重奏曲だ。(僕の場合どうしても雨というとフランス近代の室内楽が浮かんできてしまう。)
この曲は古今のピアノ五重奏曲の中で、シューマンとブラームスのそれと並ぶ,三大ピアノ五重奏曲という評価を受けている。(次の大関クラスがドヴォルザークやショスタコーヴィッチかな?)
(ただしこの場合のピアノ五重奏曲と呼ぶのは、弦楽四重奏団にピアノが加わる構成のものだけを指す場合が多く、例えばモーツァルトのピアノ五重奏K.422は「ピアノと管楽器のための五重奏曲」だし、
シューベルトの有名な「ます」(7/31参照http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/8191654.html )は、第2バイオリンの代わりにコントラバスを入れた特殊な構成であるため、通常はピアノ五重奏曲の仲間には数えず、表記も「五重奏曲」とだけされる。2曲とも良い曲だけにちょっと残念!)
ともかくこれらの曲の中でフランクのそれは、三大ピアノ五重奏曲といわれる割には最も知られてなくて、CDの種類やコンサートの実演の回数も極端に少ないのではないだろうか。(今年のサイトウ・キネンの室内楽コンサートでプログラムに載ったのはとても貴重だったといえる。)
それは、日本では近代フランス室内楽というジャンルがそれほどまだ一般的ではないという事情によるもので、この曲のせいではない。実に渋く、素晴らしい傑作だ。
一言でいうとすれば何と言えばいいのだろう。そう、あのショーソンの名曲「ピアノとバイオリンと弦楽四重奏のためのコンセール(協奏曲)」(7/1参照http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/6038266.html )と同じ世界。
ショーソンのコンセールに感銘した人が、夢かなうならば、もう一度あの感動を味わせてくれる別の曲に出会ってみたい。そんな願いに応えてくれる曲が、このフランクの五重奏曲だと思うのです。
もっとも曲自体はフランクの作品の方が先にできている。(1879年。ショーソンのコンセールは1891年。)何しろフランクはショーソンやダンディの先生なのだから。
つまりフランクは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて一世を風靡した「近代フランス音楽」の主要作曲家の中で、最も初期の人といえる。(フランクは1822年生まれ。(ブラームスよりも実に11年も早い!)フォーレは1845年、ショーソンは1855年、ドビュッシーは1862年、ラヴェルは1875年生。)
フランクは大器晩成の人だった。今日演奏される彼の作品はすべて彼が50歳を過ぎてからであり、彼の音楽家(作曲家)としての真価が世間に認められたのは、1890年彼の最後の大作「弦楽四重奏曲」によってであるが、その半年後、不幸にも彼は乗合馬車の棒を脇腹に受けたことが元で肋膜炎を患い、68歳の生涯を閉じた。
彼はドイツとの国境に近い、ベルギーのリェージュに生まれ、幼い頃から「ピアノの神童」といわれ、彼が13歳の時、一家はフランス、パリに出て市民権を得る。フランクの父が子の音楽の才能を見込んで、パリのコンセルヴァトワール(パリ音楽院)に入学させようと考えてのことだった。
つまり彼は国籍上フランス人、フランス文化圏の人だが、リュージュ生まれであること、そして母親がドイツ人だったことから、フランスの作曲家でありながら、重厚で論理的、そしてやや晦渋なドイツ音楽の特徴を色濃く持った作風を持つ人であることが納得できる。(唯一の交響曲ニ短調を聴けば一目瞭然!)
ステージ・パパの期待に応え、15歳でパリ音楽院に入学し、ピアノと作曲のクラスで抜群の成績を残すが、保守的な教師たちを刺激するような大胆な作品を書いたため、教師たちから睨まれ、学業半ばで楽院を去ることになる。
それは、息子をいち早く名声高いピアニストとして世に出したかった父親の希望でもあったのだが、しかしその目論見はうまく成功しなかった。父親の売り込み方法にも問題があったろうが、何よりフランク自身の性格が、華やかな演奏家生活に向かなかったのだ。
そこで彼は50歳になるまで、世間に認められることなくパリの教会でオルガニストとして過ごす。教会を訪れて彼のオルガン演奏を聴いたリストが「バッハの再来だ!」と賞賛の声をあげたというエピソードにもかかわらず。
フランクがようやく世に認められた、すなわちパリ音楽院に迎えられたのは彼が50歳の年、1872年だった。しかしそれは作曲科ではなく、オルガン科の平教授としてであった。
その後も同僚やサンサーンスなど当時のフランスの楽壇から軽視され続けたが、彼は57歳でこの「ピアノ五重奏曲」を、64歳で有名な「ヴァイオリン・ソナタ」を、そして66歳でベルリオーズ以降のフランスで最も偉大な「交響曲ニ短調」を作曲し、死の半年前に「弦楽四重奏曲ニ長調」を書いて1890年68歳で生涯を閉じる。
まさに大器晩成。素朴な人柄であること、また世間の無理解によって不遇をかこちながらも、晩年ますますもって偉大な作品を書き続けた点で、ブルックナーの人生と音楽とに重なる部分があるように思う。
さてこの「ピアノ五重奏曲」は、敬虔な教会音楽風な作風の彼にしては、情熱と憧れに満ちた一曲である。一説によると作曲当時、彼は若い弟子の一人で、アイルランド出身の閨秀詩人であり作曲家のオーギュスタ・ホームズに、秘かな想いを寄せていたという。
全3楽章から成り、彼女への激しい情熱のほとばしりのような第1楽章冒頭の主題が全曲を統一的に貫く、フランク独特の「循環形式」が曲の統一感を高めている。
第1、第3楽章のテンポの速い熱っぽい気分に対して、緩徐楽章にあたるレント・コン・モルト・センチメントの第2楽章は、ゆったりとした抒情的な楽章で、ピアノと対話しながら進む弦楽四重奏の重層的な響きが、どこかオルガン的で、フォーレの同種作品を連想させる。(7/9参照http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/6558672.html )
冒頭でも触れたが、この曲を収録したLP、CDはとても少ない。私はCDではジュリアード弦楽四重奏団とホルヘ・ボレットのピアノ(1978年の録音)。(SONY SRCR2587)
LPは何と1961年録音のウィーン・フィル・ハーモニー四重奏団(第一バイオリンはあのウィリー・ボスコフスキー!)とクリフォード・カーソンのピアノの演奏を聴いている。(LONDON GT9369)(往年のクラシック愛好家学生だった人間には懐かしいGTの廉価盤シリーズ!)
その他の演奏としてはリヒテル/ボリショイ劇場SQ(ビクター)、ジャン・ユボー/ヴィオッティSQ(エラート)あたりが名盤とされているように思う。
ショーソンの時の紫陽花ではなく、今度は色づき始めた木々の葉が雨に濡れ光るのを見つめながら、秋の雨の一日、静かにフランクの秘められた情熱のメロディに、耳を傾けてみたい。
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