●●館主・宋 竹仙の≪やきものつれづれ草≫●●

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汝官窯 #20 汝官窯青磁奩式三足香炉



イメージ 1
                

                   金文字部分の欠落




 
御題詩文の他の部分の拡大図だが、写真の白○で表示したところの文字部分で、釉肌がはぜ欠落しているが良く判る。文字の一部に金泥そのものがはぜ欠落しているのである。

これは、乾隆帝が収蔵後に金泥で御題詩文を書かせた1778年時点でははぜ欠落は発生しておらず、その時期より後に発生した現象であることを物語っている。すなわち、このはぜ欠落は)盟彡(960-1127)汝官窯で焼成後、乾隆43年(1778年)に乾隆帝が収蔵した時までは発生していなかった現象であり、1778年以降の何時かに発生した現象であることを物語っている。

先に、円明園には、歴代皇帝の財宝・文物など150万点もの夥しい数の品物が収蔵されていたが、1860年に起きたアロー戦争によって、フランス・イギリス両軍の手によってその全てが略奪され施設が焼却されて、痕跡すらなくしてしまった、との歴史の事実を申し上げたが、この作品が円明園の所蔵となっていたとすれば、いかがであろうか?

中国政府はようやく10年ほど前から、1860年に壊滅された清朝皇帝の離宮・宝物殿「円明園」の修復作業を開始した。建造物は後回しだがまず園内の池塘と通路の改修整備を行った。もともと「円明園」のグランドデザインは揚子江下流域の風光明美な情景をベースにし、乾隆帝などは西洋風情まで取り入れた、北方寒冷地の満州族出身の皇帝ならばの借景を具現化させたものである。

私はつい先年、池塘と通路の改修を終えた「円明園」を初めて訪れて、なるほどと一人合点したものである。何故に、いにしえの皇帝たちが、南国の極楽浄土を夢見て、風光明美かつ巨大な人造公園の築造に巨費を投入して北京に作ろうとしたのか、その理由が現地に立ってようやく判ったのである。

「円明園」は宮城・紫禁城から西北約10kmにあった。皇帝が4,5日も遠征して宮城を空ければすればクーデターで失脚の憂き目に遭いかねない政権としては、遊びやプライバシーで出かける距離としては10kmが限度である。まして、何カ月もかけて南国の風情を楽しむことは不可能である。それにしても、たびたび臣下から耳にする南国の情景が羨ましいではないか。

出掛けることが出来ないのであれば、いっそ自分の傍に南国を作ってしまえば良いではないか、と清の皇帝・康煕帝は離宮を作り始めたのであろう。そして「円明園」そのものが歴代皇帝の生き甲斐になったのであろう。そのことは、「円明園」はその後どんどん拡張し続け、後の西太后が執念を燃やして造った現在の「頤和園」としてその全貌を垣間見ることが出来る。

さて、本題に戻って、何時、どこで、このはぜ欠落が発生したのか、を次回でもう少し検証してみたい。

現代に学ぶこと多し、中国陶磁史…




この作品は、こちらの美術館で鑑賞できます。

       中和堂中国美術館

宋竹仙老人のコレクションに関心のある方は、こちらをごらん下さい。

       中和堂コレクション

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