●●館主・宋 竹仙の≪やきものつれづれ草≫●●

宋 竹仙のブログへようこそ!! 中国陶磁に魅せられて四半世紀。

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汝官窯 #22 汝官窯青磁奩式三足香炉



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                   御題詩文の金文字一部拡大




 
あの時、どさくさで池に放り込まれた陶磁器たちは、その後どうなったのか?

1860年10月のアロー戦争で、英仏両軍の兵士によって徹底的に破壊された圓明園は、主の居ない廃墟となってしまい、それまでの栄誉栄華が嘘のように寒々とした冬を迎えたのであった。

その冬はまた、ことのほか寒さが厳しく、毎日のように夕暮れともなると急激に気温が下がり、夜の帳が降りる頃には零下20度になる日も珍しくなかった。良く手入れされた盛期の圓明園であれば、園内の樹木は茂り池塘の草花もきれいに咲き誇ったであろうが、はるか郊外から灌水していた水路も閉じられた今となっては、すべての植物は枯れたしまった。

事変の最中に、フランス軍兵士達の目を盗んで池に持ち出して投げ込み、池の底に埋めて隠した陶磁器はどうなったであろうか?あの時は満々と水を湛えていた美しい池々は、今や視るも無残な荒れ地と化して雑草に覆われてしまったし、、粘土のような池の底は干上がっている。

幸いなことに、あの事変で投げ込んだ陶磁器は、ごく微細の黄砂が厚く堆積してゼリーのようになった池の底に埋もれてしまい、外部からは全く見えない。もちろん、そんなことはつゆ知らずの、略奪の宝物を手にして歓喜している英仏軍兵士の目に留まるはずもないではないか。

しかし、1860年10月を境にして不運な運命を辿ることになった、これらの難を逃れた陶磁器たちは、無言のメッセージを残した。そのメッセージこそ、自らの肌を犠牲にして、この作品のように、自然現象でしか生じない証拠を残し、後世の人たちにその運命の末路を伝えようとしているのではないか。

そのメッセージとは、「はぜて欠落」した現象は、乾隆43年(1778年)に乾隆帝が収蔵した時までは発生していなかった現象であり、1778年以降の何時かに発生した現象であることを物語っている上に、物理的にはぜて欠落するためには、汝官窯磁器特有の細かく割れた貫入の割れ目に泥水が入り込み、急激な凍結温度に曝されると発生することが判っている。(前述したように、公的機関で再現実験を試みた)

この現象が起きるとしたならば、1778年以降1860年10月まではあり得ないので、やはり、アロー戦争の事変に略奪阻止の緊急避難で、すぐ近くの池に投げ込んで隠した以降、完全に池が干上がる寸前あたりの年の冬の寒い夜に、急激な気温低下とともに貫入部分の凍結が起き、その部分がはぜて欠落したと思われる。

中国政府はようやく10年ほど前から、1860年に壊滅された清朝皇帝の離宮・宝物殿「円明園」の修復作業を開始した。建造物は後回しだがまず園内の池塘と通路の改修整備を行った。その修復作業が始まるのを知って、「その筋の人達」は夜陰に紛れて、噂に聞いている「池に宝物が埋まっているらしい」話をもとに、ひそかに池の底を掘って盗掘を行ったのではないか?その中にこの作品があったとしても、全く不思議ではない。

この「汝官窯青磁奩式三足香炉」がどんな運命を辿ったかについては推論するしかないが、この作品が私の手に入って以降、新たな運命の歴史のページを刻んだことは事実である。それは、2000年5月と10月の2回、中国大陸に持ち込み、中国側の専門家との会議に上程したことである。その事実経緯について、細部をお聞きになりたい方は改めてご連絡頂きたい。


現代に学ぶこと多し、中国陶磁史…



この作品は、こちらの美術館で鑑賞できます。

       中和堂中国美術館

宋竹仙老人のコレクションに関心のある方は、こちらをごらん下さい。

       中和堂コレクション

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汝官窯 #21 汝官窯青磁奩式三足香炉



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                   金文字部分の欠落




 
御題詩文の他の部分の拡大図だが、写真の白○で表示したところの文字部分で、文字の一部に金泥そのものがはぜ欠落しているのである。さてさて、何時、何処で、このはぜ欠落が発生したのだろうか?その謎が解き明かせられれば、この作品の来歴が自ずと判明する訳なのだが、残念ながら、それを証明する術は、今は無い。

従って、これから記述することは、私、宋竹仙老人の推論であることをお断りしておきたい。

清朝皇帝の離宮・圓明園宝物殿。アロー号事件を契機として圓明園を占拠していたフランス軍は、1860年10月7日8日の両日に、宝物殿に収蔵されていた全ての宝物文物を略奪し破壊し切り裂さいてしまったのである。150万点と言われた膨大な数量の皇帝の収蔵品が一瞬間でこの世から消滅した瞬間である。(このことは事実である。)

(ここから推論である。)当日、この情景を目の当たりにした圓明園の官吏達は、略奪破壊にたけり狂ったフランス軍兵士の目を盗んで、貴重な宝物文物を少しでも救うために緊急避難を試みた。しかしながら、相手は武器を持った兵士達であるから、我が身さえ命の危険に曝しながらの隠密行動であるから、せいぜいが両手に抱えて衣服で隠し、素知らぬ顔で屋外に持ち出すしかなかったので、持ち出す作品も限られていた。

ところが、身に隠して持ち出した園内のその先には、フランス軍兵士達が戦略品をうずたかく積んで歓声を挙げているではないか。たとえその目を逃れて園外に出ようとしても、全ての出入口は既に封鎖されていて、誰も出入りが出来ない。

その時、官吏たちの目の前に見えたのは、宝物殿に隣接する池であった。そうだ!あの池に持ち出したものをとりあえず投げ込み、池の底に埋めて隠しておこうではないか!!数ある宝物の中でも、幸いにも、苦労して袖の下に隠して持ち出してきたのは、水につけても傷まない陶磁器である。よし!略奪に嘆き悲しんでいる素振りをして池に入り、袖の力を抜けば兵士たちに見つからず池底に隠せる…

圓明園内の全ての宝物文物が消滅し、やがてイギリス軍によってすべての施設が破壊・焼却されて、そのご150年の眠りに就いたのである。園内に作られた人工池に導水されていた水源も閉鎖され、何時の間にかヘドロだけの干上がった池池には雑草が生い茂り、かっての風光明美な情景の跡かたもなくなってしまったのである。

あの時、どさくさで池に放り込まれた陶磁器たちは、その後どうなったのか?

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汝官窯 #20 汝官窯青磁奩式三足香炉



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                   金文字部分の欠落




 
御題詩文の他の部分の拡大図だが、写真の白○で表示したところの文字部分で、釉肌がはぜ欠落しているが良く判る。文字の一部に金泥そのものがはぜ欠落しているのである。

これは、乾隆帝が収蔵後に金泥で御題詩文を書かせた1778年時点でははぜ欠落は発生しておらず、その時期より後に発生した現象であることを物語っている。すなわち、このはぜ欠落は)盟彡(960-1127)汝官窯で焼成後、乾隆43年(1778年)に乾隆帝が収蔵した時までは発生していなかった現象であり、1778年以降の何時かに発生した現象であることを物語っている。

先に、円明園には、歴代皇帝の財宝・文物など150万点もの夥しい数の品物が収蔵されていたが、1860年に起きたアロー戦争によって、フランス・イギリス両軍の手によってその全てが略奪され施設が焼却されて、痕跡すらなくしてしまった、との歴史の事実を申し上げたが、この作品が円明園の所蔵となっていたとすれば、いかがであろうか?

中国政府はようやく10年ほど前から、1860年に壊滅された清朝皇帝の離宮・宝物殿「円明園」の修復作業を開始した。建造物は後回しだがまず園内の池塘と通路の改修整備を行った。もともと「円明園」のグランドデザインは揚子江下流域の風光明美な情景をベースにし、乾隆帝などは西洋風情まで取り入れた、北方寒冷地の満州族出身の皇帝ならばの借景を具現化させたものである。

私はつい先年、池塘と通路の改修を終えた「円明園」を初めて訪れて、なるほどと一人合点したものである。何故に、いにしえの皇帝たちが、南国の極楽浄土を夢見て、風光明美かつ巨大な人造公園の築造に巨費を投入して北京に作ろうとしたのか、その理由が現地に立ってようやく判ったのである。

「円明園」は宮城・紫禁城から西北約10kmにあった。皇帝が4,5日も遠征して宮城を空ければすればクーデターで失脚の憂き目に遭いかねない政権としては、遊びやプライバシーで出かける距離としては10kmが限度である。まして、何カ月もかけて南国の風情を楽しむことは不可能である。それにしても、たびたび臣下から耳にする南国の情景が羨ましいではないか。

出掛けることが出来ないのであれば、いっそ自分の傍に南国を作ってしまえば良いではないか、と清の皇帝・康煕帝は離宮を作り始めたのであろう。そして「円明園」そのものが歴代皇帝の生き甲斐になったのであろう。そのことは、「円明園」はその後どんどん拡張し続け、後の西太后が執念を燃やして造った現在の「頤和園」としてその全貌を垣間見ることが出来る。

さて、本題に戻って、何時、どこで、このはぜ欠落が発生したのか、を次回でもう少し検証してみたい。

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汝官窯 #19 汝官窯青磁奩式三足香炉



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                   金文字部分の欠落




 
この作品の釉肌に見られる小さな欠落が、.悒疋躱の水中に埋められていた。急激な気温の低下で凍結温度になった。の2点が合わさった場合に発生したと考えた時に、この作品が乾隆帝の収蔵品となった以降の彷徨った過去において、この条件を満たす場面が必ずあったとすれば、それは何時であろうか?

以前に、皇帝の離宮・宝物殿「円明園」のことをお話ししたが、この「円明園」は清朝康煕帝が建設を始めて以降、歴代皇帝が増設を重ねた、まさに皇帝の権力と富を集約させた施設であった。「円明園」のグランドデザインは揚子江下流域の風光明美な情景をベースにし、乾隆帝などは西洋風情まで取り入れた、北方寒冷地の満州族出身の皇帝ならばの借景を具現化させたものである。

その円明園には、歴代皇帝の財宝・文物など150万点もの夥しい数の品物が収蔵されていたそうだが、残念なことに、1860年に起きたアロー戦争によって、フランス・イギリス両軍の手によってその全てが略奪され施設が焼却されて、痕跡すらなくしてしまったのである。

その略奪の様子は≪アロー戦争と圓明園≫(矢野仁一著・昭和14年刊)に詳しく記述されているので参照してほしいが、矢野博士によれば、フランス軍によって陶磁器などは破壊されたり、略奪した物のかなりの品数が分捕委員によってその場で競売され、お金に換えてフランスへ持ち帰ったたそうである。

その本には記載されない「蛇の道は蛇」として、それらの競売の資金提供者としては、紫禁城周辺の金持貴族以外には見当たらない訳で、何が金目の物か、どれが大切な物かなどを知り尽くし、どこに展示収蔵されていたかを知りつくしていた者が、そのチャンスにシメシメと乗じたことは容易に想像できるではないか。当然、それら資金提供者は国族であるから自ら名乗り出ることは生涯ないはずである。

そんな金持でなくとも火事場ドロボー達も大勢押し寄せた訳で、矢野博士の調査には口をつぐんだ、漁夫の利を得たものも大勢居たに相違ない。当然、これら火事場ドロボー達も犯罪者であるから自ら名乗り出ることは生涯ないはずである。

もちろん、戦争になる直前に、円明園関係者の意のあるハイレベルな人たちは、ひそかに文物の移動や疎開、秘匿を行動に移したに違いない。このことは中国歴代の皇朝崩壊直前に宝物を隠す「窖蔵」と言われる、独特の思想がアロー戦争でも行われたと考えて何ら不思議はない。

この作品の金泥で書かれた御題詩文をよく観察すると、文字部分以外の釉肌のはぜ欠落は当然にしても、文字の一部に金泥そのものがはぜ欠落していることが判る。(写真の白○で表示したところを参照)これは、乾隆帝が収蔵後に金泥で御題詩文を書かせた、その時期より後に発生した現象であることを物語っている。すなわち、このはぜ欠落は)盟彡(960-1127)汝官窯で焼成され、乾隆43年(1778年)に乾隆帝が収蔵した時までは発生していなかった現象であり、1778年以降の何時かに発生した現象であることを物語っている。


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汝官窯 #18 汝官窯青磁奩式三足香炉



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                   器肌に出来た欠落部




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                   欠落部の拡大写真




 
この作品の所在をおぼろげながらでも証明できる証拠として、この写真に見られるような、器肌の全面いたるところに釉薬が「はぜて飛んだ」跡が見られることである。これらの小さな窪みは何十か所とあり、触手でもざらざらとすぐ判る程である。通常の汝官窯青磁(その多くは窖蔵品のため)の器肌の表面は滑らかであり、釉薬がはぜて窪みが見られることは今まで経験したことのない現象である。

「はぜて飛んだ」跡を仔細に観察すると、釉肌に入ったひび(貫入)に沿ってクレータ状に欠落していることが判る。ちょうど細かく貫入している不定形な島の部分が欠落して窪みになっているのである。それでは何故、どんな事情でこの窪みが出来たのであろうか?

窪みが出来るのを物理的現象として捉えるならば、第一の方法として、先の尖った金属か鉱石を人工的に打ち込んで力学的に欠落させる方法であるが、器体内部の手の入れにくい個所にも同じような窪みを入れる難しさと同時に、この作品の品格から見て、全体の破壊につながる方法として、まずありえないだろう。

第二の方法について、この作品を焼成した汝官窯で出来た「窯疵」とする見方は、後に説明する金泥で書かれた御題詩文の一部欠落を考察するとあり得ない現象である。

第三の方法として、誰しも予期せぬ自然現象がこのような窪みを形成してしまったのではないかと。その現象として推察できることは、極微細な「へどろ(例えば日本にも到達するほどの微細な土、すなわち黄砂が池に堆積した状態)」状の泥水に器体を埋め、全体を急激に凍結温度まで冷やすと、細かく貫入した隙間に入り込んだヘドロの水分が凍結膨張して、その部分を「はぜ(窪み)」飛ばしたのではないか。

第三の方法について、過年に公式機関で再現実験を試みたところ、ほぼ似たような症状が見られたので、この作品がその現象を引き起した可能性が極めて高いと考察されるので、その検証を試みたい。

ポイントは、.悒疋躱の水中に埋められていた。急激な気温の低下で凍結温度になった。の2点であるが、この作品が乾隆帝の収蔵品となった以降の彷徨った過去において、この条件を満たす場面が必ずあったはずである。次回はタイムスリップしてこの作品の流転物語を語りたい。


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