静岡県のお城 〜ブログ編〜

2/11に開設したHP「静岡県のお城」(http://shizuokacastle.web.fc2.com)公式ブログ!

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今日はあいにくの天気でしたね><
ホームページ「お城一覧」を更新しました。地図でも探せるようにしてみました。

お城一覧、情報追加しないとだなぁ

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まずはトップページをリニューアルしました。
静岡から離れたので、題名も「日本のお城」に変えています。

中身も随時リニューアルしていくのでよろしくお願いします!!

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ひどい記事

ちょっと無視できない記事があったので、叩いておこう。



【静岡・古城をゆく】直虎動乱の渦 桶狭間の戦い 「東海制圧」へ出陣か

桶狭間の戦い(永禄3年=1560)は、小勢であった織田信長の見事な奇襲で大軍の今川義元を破ったことが通説になっている。それは明治35(1902)年に帝国陸軍参謀本部がまとめた『日本戦史・桶狭間の役』によるもので、この頃は中国やロシアと対峙(たいじ)しており、日本を信長に見立てて、「少数でも大国に勝てる」指針としたとみられる。

 桶狭間古戦場公園は愛知県豊明市(伝承地)と名古屋市緑区有松町の2カ所あるが、近年の広大な開発で地形的判断は難しい。緑区の公園近くには義元の首を検証した長福寺、井伊直盛が布陣した巻山、瀬名氏俊が布陣した「セナ藪」の背後に義元本陣跡があるが、日本戦国史を代表する合戦場の面影は浮かんでこない。

 約20年前に震撼(しんかん)の新説が出て話題となった。信長側近の一人、太田牛一が記した『信長(しんちょう)公記』から先学は「乾坤一擲(けんこんいってき)の一か八かの大勝負にでた正面攻撃」と指摘している。

 細かい戦いは次回で紹介するが、それよりも意外に分かっていないのが義元の尾張侵攻で、従来は「衰退した足利将軍にとって代わろうとする上洛」説であったが、これは早くから否定されていた。

 諸説として、今川領となった「三河国の安定支配」説と、信長をたたき那古野(名古屋城)まで奪い取る「尾張国奪取」説がある。

 ところが近年“目から鱗(うろこ)”の文書史料が見つかった。桶狭間の戦い2カ月前に、今川氏重臣・関口氏純が伊勢神宮に宛てた手紙で、「伊勢下宮の変遷費用は制圧した三河国から工面するが、これから尾張国へ出馬し、さらに『国々』(伊勢・志摩)を制圧し調達する」という内容だ。

 まさに東海の国々を手中にする「東海地方制圧」説で、「東海王国の樹立」を目指しての出陣は“最強”今川軍の余裕さえもうかがえる。(静岡古城研究会会長 水野茂)




産経新聞の記事である。記事を書いたのは、我らが静岡古城研の会長水野茂様である。
今川義元の尾張侵攻の目的については諸説あるので省略する。問題は、「関口氏純が伊勢神宮に宛てた手紙」の解釈である。
この「手紙」とは、永禄3年と推測される3月20日付関口氏純書状(『愛知県史』資料編11-5号、または『戦国遺文』今川氏編1504号)と考えられる。
以下に本文を掲載する。

珍札披見本望候、仍去年者太神宮御萱米料之儀被仰越候間、雖斟酌申候、春木方達而被申候故、及披露返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給候、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、


難しいのだが、簡単に訳すと、
「伊勢神宮の御萱米料を出せとおっしゃった。遠江国は弁解して出さなかったが、三河国は承知した。まず三河国に出させることになったから、残った国々も、三河国と同様に出すようおっしゃってよい」
みたいな感じになる……と思う。
この場合、「相残候国々」とは、まだ御萱米料を出させていない「国々」、つまり今川支配下の遠江・駿河両国ということになる。

さて、記事に戻ろう。水野氏は何と言っているか。「これから尾張国へ出馬し、さらに『国々』(伊勢・志摩)を制圧し調達する」と言っている。全く解釈が違うのである。確かに関口氏純は、「今川義元が近日尾張国境に進発するよ」と述べているが、そのあと「国々」を制圧するとは述べていない。

これはひどい誤訳である。というより妄想だ。ましてこのひどい誤訳が産経新聞という全国紙に載ったのだから最悪だ。一般の購読者が誤解する可能性がある。

ひどい記事を今日目にしたため、あえて掲載いたしました。

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本日、国の史跡に指定されている島田市の諏訪原城跡で発掘調査の現地説明会が行われました(`・ω・´)

今年は行ってきましたよ!!情報くれた後輩O、ありがとう!!

今回の発掘調査区域は、以下の通りです。

イメージ 1

赤丸で囲った部分、「二の曲輪東馬出」になります〜。

今回の調査のポイントは、

1.「二の曲輪東馬出」の生活面の地層は、一層か二層か。
2.堀の形状はどうなっているか。

のようでした。1点目は、昨年度調査した「二の曲輪東内馬出」が二層だったことが影響しています。武田氏の後に徳川氏が改修したのか、その痕跡があれば地層が二層になり、なければ一層になる、ということです。 
2点目は、「二の曲輪東内馬出」が薬研堀から箱堀に形状が変わっていることが影響しています。改修の跡があるかどうかがポイントのようです。

発掘調査の全景は、下の写真を参考にしてください(入りきりませんでした……T_T)

イメージ 2


今回の発掘調査成果は、以下の3点になります。図に示すとこんな感じ。
相変わらず拙い図ですが、分かればよし(´・ω・`)

イメージ 3


1.礎石の検出

礎石とは、建造物の土台となって、柱などを支える石のことです(Wikipediaより)。今回の発掘調査で、2点の礎石が検出されました。

イメージ 4

 赤丸で囲った石が礎石になります。
 中心から測ると、石と石の間は1m60cmとのこと。本来、礎石は4つで1セットなのですが、残り2つは植林の際失われた可能性が高いとのことです。残念(´・ω・`)
 なお、この礎石、諏訪原城で検出された礎石の中で、最も大きいとのこと。「この場所が重視された証拠では」との説明がありました。


2.2層の検出

 今回の発掘調査区域のセクションを観察したところ、2層の生活面が検出されたとのこと。

イメージ 5

検出された礎石の側に設けられたサブトレンチのセクション(土層断面)です。ちょっと分かりにくいですが(写真の技術が下手なのです><)、黒い土の層⇒茶色の土の層⇒白い土の層の順で堆積していることが分かるでしょうか?
黒い土の層が1層、白い土の層が2層です。茶色の土の層は、いわゆる整地層ですかね。

なお、検出された礎石は、白い土の層にあたります。また、黒い土の層から鉄砲玉が複数出土しました。「黒い土の層が武田、白い土の層が徳川の可能性がある」とのことでした。

ちなみに、一番下の石がゴロゴロしている層は、牧之原礫層(れきそう)といい、遺跡が作られた時点の地表面です。俗にいう「地山(じやま)」ですね。

3.薬研堀の検出

 「二の曲輪東馬出」の堀にトレンチを入れ、堀の形状を調査したところ、薬研堀であることが判明しました。
薬研堀とは、断面がV字になる形状の堀を言います。

イメージ 6

 天気が良すぎてうまく撮れませんでした( p_q)。いい写真がありません……。
 堀の深さは、5m50cm(城外側)〜7m50cm(城内側)、堀底の幅1mで、角度が50度〜55度の急斜面となっています。斜面の角度が45度を超えると登るのが困難と言われます。かなり急傾斜ですね^^

 地層から判断する限り、薬研堀から箱堀に改修した形跡はないとのことです。「徳川時代のものではないか」とのことでした。




今回の調査によって、「二の曲輪東馬出」「南馬出」「南内馬出」が、諏訪原城にとって非常に重要な曲輪であることが分かってきました。それは、他の場所に比べ、鉄砲玉が多く検出されていることからもうかがえます。諏訪原城の激戦地であったと言えるでしょう。
当時の諏訪原城がどのような防衛線を敷いていたか、解明に期待ですね!!








帰りに島田市博物館に寄って、企画展をみてきました。
誤読がありましたよ……(´・ω・`)
「糺明」「関所」「番中」ではないでしょうか??
読み下しがない古文書がいくつかありました。確かに文章が長いので、全部読み下すのは難しいと思います。しかし、ポイントとなるべき文言を拡大して、横に読みを乗せるとよかったのかなぁ、と思いました。

イメージ 7
こんな感じで……。

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2015年もあとわずか

2015年もあとわずかになりましたね。

おかげさまで忙しい日々をおくっております。そのため、あまり城と関わることができない状態が続いています。
まあ、色々とあったので、これからは焦ることなく、在野でのんびりやっていくつもりです。


辛口ですけどね^^




「杉山城問題」以来、城研究は各分野それぞれの研究方法の見直しと再構築に走っています。
2015年もその傾向が顕著でした。もう何年たつのでしょう?城の愛好家が多すぎて、城の研究者が少なすぎる。この傾向は来年も続くことでしょう。



2015年、『城館と中世史料』という本が刊行され、城研究における文献史学の現在の研究レベルが示されました。
おそらくみなさん思っていると思います。ああ、まだこのレベルなのかと。

そう、文献史学の城研究は、1984年の井原今朝男氏の指摘以来、あまり進展していません。今回の本でも、城に関連する用語に地域性があることが分かったくらいかな。
まだまだ基礎作業が必要です。もっと史料を読みこむ。政治史において二次史料として扱われる軍記物も、言語学から見れば一次史料足り得る。広い範囲から用語を集積し検討することを願っています。

個人的には、戦国前期にこだわる前に、まず戦国期の「城」とは何か、概念提示してもらいたいものですね。




それでは、よいお年を。




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