静岡県のお城 〜ブログ編〜

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今日はあいにくの天気でしたね><
ホームページ「お城一覧」を更新しました。地図でも探せるようにしてみました。

お城一覧、情報追加しないとだなぁ

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まずはトップページをリニューアルしました。
静岡から離れたので、題名も「日本のお城」に変えています。

中身も随時リニューアルしていくのでよろしくお願いします!!

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研究史整理メモ その4

面倒なので、読んだ論文のまとめを、メモ代わりにここに書きます。
4回目。

齋藤慎一「15世紀の城館」(荻原三雄・中井均編『中世城館の考古学』高志書院,2014)

はじめに

・課題
 …「城とは何か」という議論の欠如
  →あらためて「城」の概念規定が必要なのではないか(452)

・本稿の目的
 …文献資料から15世紀において「城とは何か」を考察する
  →東日本を対象に、古文書及び日記から関係用語を抽出し、同時代における語彙の対象が何かを分析


1.京都と「城」

・15世紀の京都
 …「平安城」「京城」「洛城」などの語彙が存在
  →それぞれ「城」の文字を伏していることに注目(453・454)
   ⇒軍事性を帯びない場であっても「城」の語彙は使用されることがあることを示唆。京都の中核部を示す

・菅浦
 …「城」を固めたとの記述
  →ここでの「城」は菅浦の集落そのものを指す

【小結】
・京都や菅浦に「城」の語が付される
 →「城」の概念の中には、この両者の存在を許容する内容が含まれていた(454)


2.京都と「城」

・「城郭」
 …15世紀にはほぼ使用されなくなっている
  →「城郭」の語彙が持っていた内容が失われ、実態が変容してしまったと予想(455)

・「要害」
 …15世紀後半になって頻出
  →いわゆる戦国期の軍事的な城館とは「要害」の語彙で表現されていた(455)

・「城」
 …15世紀をとおして存在
  →「要害」とは異なる存在意義が15世紀前半から存在⇒「要害」と「城」の概念は、内容を異にしている(455)


3.「城」と「館」

・結城城
 …古文書でほぼ「館」、日記で「城」の使用で統一
  →「館」と「城」は言い換えが可能なほどに近似した存在(456)

・朝倉氏
 …「朝倉館」と「朝倉城」がほぼ同意で用いられる
  →「館」と「城」が言い換え可能な状況(456)

【小結】
・「館」と「城」は言い換えられることが可能な存在
・一方で、使い分けも
 →その理由のひとつに、「館」に格式の表現が含まれている可能性
  →「屋敷」と区別される呼称の階層性(457)


4.「城郭」と「城」

・「城郭」の語源
 …本来は「城」と「郭」に分離され、「城」に附属して「郭」が存在
  →二重方形区画と関連していた見ることが可能(457)

・15世紀
 …「城郭」の語彙が見られなくなり、「外城」事例が増加
  →城館構造の変化を表現(459)
   =臨時の「郭」がなくなり、常置の「外城」が出現するように
    ⇒より恒常的で明確な構造物をともなった二重方形区画構造へと変化(459)

・「城」とは
 …本拠となる広がりのなかにある、中心部の軍勢性を帯びた生活空間(459)



5.「要害」

・「城」と「要害」の概念の本質的な差異
 …本拠としての居住性を必須とするか、軍事性が優先されるかという点(461)
  →戦国時代の経過とともに一体化



おわりに

・「城」とは
 …地域支配を行う本拠の中核部で、居住性をそなえたやや広がりをもった空間(463)

・「城郭」とは
 …「城」と「郭」の複合した語彙。「城」と「郭」の二重構造




【感想】
まさに自分がやろうとしている研究。「城とは何か」を明らかにできていない点は大賛成。とにかく、城の研究は、概念定義の意識がなさすぎ。
「江戸時代の軍学で用いられた……」なんて説明じゃダメなんですよ。

内容については、んー、という感じ。二重構造、というのに固執しなくてもいいのではないだろうか。
また、本論では、「外城」を城の一部分と認識しているが、研究用語でいう支城の意味もあったことは、福島氏が指摘している通り。その場合、二重構造では説明できないと思う。


まだまだ検討途中なのだが、もっと「身分」「階層性」という点に重点を置いて検討したほうがいいのでは、と思っている。
簡単に言うと、「城」は、身分の高い人が構えた場所、「城郭」は身分の低い人が構えた場所、という感じ。
少なくとも、「館」と「屋敷」は、明確な区別がされている。「御屋形様」「御館様」というように、大名クラスの人の居住地は「館」「屋形」、それ以外は「屋敷」である。

近世でいえば、「城」と「陣屋」が明確に区別されている。大名の格式により分けられている。
戦国期でいえば、「城」と「小屋」は違う。
城の規模とか、防御力の高低とかは、二の次なのではないだろうか?

もう1回言いますけど、まだまだ検討中です。












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研究史整理メモ その3

面倒なので、読んだ論文のまとめを、メモ代わりにここに書きます。
3回目。2回目のところに「陣」についての見解を書いてしまいました^^;「感情的」になってしまいましたね(笑)


中井均「中世城館跡の考古学的研究」(『織豊城郭』14,2014)

1.城館跡の発掘調査

 略。城の発掘調査の歴史。


2.発掘調査で得られた新見地

・発掘調査が城館研究にもたらした成果
 …城館の存在した実年代が明らかになったことや、城の変遷、つまり改修などの時期や回数が明らかになった点(3)
  →発掘調査によって具体的な中世の城館のあり方が明らかとなった意義は大きい(4)


3.城館研究としての考古学

・『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』の事例
 …出土遺物の状況分析
  →遺構と遺物の定量計算という考古学の手法によって、城館での居住を明らかに(5)


4.織豊系城郭研究の成果

・石垣・礎石建物についての研究史

・考古学的研究と縄張り研究
 …千田嘉博氏の虎口編年
  →地表面に残された虎口であり、その実年代も文献による
   ⇒発掘調査によって検出された虎口との間には齟齬(7)

・田辺城の事例
 …枡形虎口が検出され、15世紀後半、もしくは16世紀初頭の枡形虎口として評価
  →縄張り研究者から、「その年代に枡形虎口はありえない」
   ⇒門の存在、とりわけ構造においては、城郭の縄張りではなく、パーツとして捉えられるものであり、遺物の年代と一致することは矛盾しないと考えている(7)

◎膨大な発掘調査の成果を集成すれば、地表面という2次的資料ではなく、遺物から年代の決定できる1次資料が増加することは間違いない(7)


おわりに

・考古学的資料から城館跡の研究が確実に深化したことは明らか(8)




【感想】
発掘調査で出土した遺物の年代をもとに遺構の年代を決定できる、という考えがはっきりと伝わってくる論文。木島氏や中西氏の見解に対し、正面から受けて立っているのが中井氏、という図式ができあがっているのかな、と思う。
であるからこそ、なんで杉山城の遺構を天正18年としたんかな、と思う。
竹井氏の言を借りれば、「遺物編年を正しいとしながらも、それを棚上げにして立論している」というところか。


中西氏は新府城や津久井城を事例に、中井氏は田辺城や山田城を事例にして自説を補強している。注目すべきは、両者が別々の城を事例にあげていることである。これでは議論が堂々巡りになってしまう。中井氏には是非、新府城や津久井城の発掘調査を事例に立論していただきたい。
「弱点となりそうな事例は目をつぶって、優位になりそうな事例のみをあげている」
と言われないように……。


『中世城郭研究』14のシンポジウム概要で、柴田龍司氏が述べている点が興味深い。


 昨日の個別報告の話で触れましたが、そこで感じたのは、国指定ということもありまして、当然、整備委員会を作らなければならないんですけれども、そういうところに集まって頂いた先生がたの色々な分野からの意見。それか、周囲の同じ考古学の関係者の意見、いろんな意見があるかと思うのですが、そういった人達の意見を常に取り入れて、担当者自身が咀嚼して、自分なりの意見を作っているという姿勢が非常に感じられました。
 ところがそういう面で、縄張研究はどうなのかというと、唯我独尊とは言いませんけれど、かなり個々の意見を固守する、それが縄張研究の特色の一つではあるのですけれど、同じく城郭考古学、縄張研究それぞれが一国一城の主なんですけれど、ずいぶん主のあり方が違うんだなというのは非常に感じました(261)


非常に大人な発言ですけど、言っていることは強烈。






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研究史整理メモ その2

面倒なので、読んだ論文のまとめを、メモ代わりにここに書きます。

福島克彦「文献史料と城館研究」(『中世城郭研究』28,2014)

1.問題の所在

・「杉山城問題」が提起すること
 …縄張り研究が、他分野に対し、研究史の潮流やその遺構年代決定作業を発信、提示する視点や姿勢の欠落(237)

・縄張り図は史料か、論文か
 …縄張り図を史料(資料)と認識するか、あるいは論文と認識するかによって大きな相違(239)
  →縄張り研究の強みは、城館遺跡が普遍的に残存している中世遺跡である点(240)
   →遺構的類似性の抽出と分布論を組み立てることによって、文献や考古資料による歴史像と相対化することが可能
    ⇒縄張り図は「論文」ではなく、「史料」として扱うべき(240)

・縄張り図を書いてきた側から、文献史料を読み直す必要性
 …その1つとして、城そのものおよび防禦施設に関する城郭用語を集積する作業が不可欠(240〜241)


2.城郭関係用語の検討

・櫓・天主
 …14世紀は可動式の簡易な施設であったが、16世紀には固定的な施設へと変化(242)
  →戦国期以降、櫓の差別化
   →差別化の動向が進展し、織豊権力が「天主」という独自の表現を設け、他の櫓とは別個なものとして位置づけ(241)


・外城、外構、惣構
 ①15世紀中葉より畿内近国で「外城」の用語が出現
  →研究用語でいう「支城」に相当(243)

 ②16世紀中葉より、「本城」と「外城」が並立して使用される事例が出現
  →「本城」と隣接する外縁部の意味を持つように(243)

 ③「本城」の外縁表現の変化
  →「外構」、「惣構」用語の出現。豊臣期における「惣構」事例の増加
   →「外城」「外構」から「惣構」への変遷理由は不明だが、「惣構」を使用することで内外の区別意識を緩和し、一体感を出す狙いがあったものと思われる(243)


・曲輪と丸
 …同時代史料としては、東日本=「曲輪」、西日本=「丸」の分布。徳川期に融合


・城主
 …神仏関係史料に表記されている場合が多い
  →寺社に対する寄進や信仰心の表明の際、自らのステイタスを示す意味合いで「城主」を使用したものと考えられる(244)
   →かつて反体制的、あるいは非日常的な意味合いの強かった「城」は、「城主」表現の定着で地域に根ざす存在に変わっていたものと思われる(244〜245)



3.城域の範囲

・木津の事例
 …文献上の「城」は、時代によって、その区域が変化される可能性(245)



おわりに

今まで、大名権力論のように政治史とリンクして、城の構造の変化が進められてきたが、今後は、こうした用語の地域性も遺構の分布や特徴を見る重要な論点になると思われる。




【感想】
城関係用語の検討は重要だと思うし、自分もやっているが、縄張り研究の問題点から、なんで城郭用語を集積する作業が不可欠、という流れになったのか……いきなり急展開だな、という感じでした。研究史でとりあげるには、ちょっと厳しい。

「縄張り研究の強みは、城館遺跡が普遍的に残存している中世遺跡である点である。これを認識すれば、遺構的類似性の抽出と分布論を組み立てることによって、文献や考古資料による歴史像と相対化することが可能である」というのはいいなぁ〜。

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