静岡県のお城 〜ブログ編〜

2/11に開設したHP「静岡県のお城」(http://shizuokacastle.web.fc2.com)公式ブログ!

城の情報

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


本日、国の史跡に指定されている島田市の諏訪原城跡で発掘調査の現地説明会が行われました(`・ω・´)

今年は行ってきましたよ!!情報くれた後輩O、ありがとう!!

今回の発掘調査区域は、以下の通りです。

イメージ 1

赤丸で囲った部分、「二の曲輪東馬出」になります〜。

今回の調査のポイントは、

1.「二の曲輪東馬出」の生活面の地層は、一層か二層か。
2.堀の形状はどうなっているか。

のようでした。1点目は、昨年度調査した「二の曲輪東内馬出」が二層だったことが影響しています。武田氏の後に徳川氏が改修したのか、その痕跡があれば地層が二層になり、なければ一層になる、ということです。 
2点目は、「二の曲輪東内馬出」が薬研堀から箱堀に形状が変わっていることが影響しています。改修の跡があるかどうかがポイントのようです。

発掘調査の全景は、下の写真を参考にしてください(入りきりませんでした……T_T)

イメージ 2


今回の発掘調査成果は、以下の3点になります。図に示すとこんな感じ。
相変わらず拙い図ですが、分かればよし(´・ω・`)

イメージ 3


1.礎石の検出

礎石とは、建造物の土台となって、柱などを支える石のことです(Wikipediaより)。今回の発掘調査で、2点の礎石が検出されました。

イメージ 4

 赤丸で囲った石が礎石になります。
 中心から測ると、石と石の間は1m60cmとのこと。本来、礎石は4つで1セットなのですが、残り2つは植林の際失われた可能性が高いとのことです。残念(´・ω・`)
 なお、この礎石、諏訪原城で検出された礎石の中で、最も大きいとのこと。「この場所が重視された証拠では」との説明がありました。


2.2層の検出

 今回の発掘調査区域のセクションを観察したところ、2層の生活面が検出されたとのこと。

イメージ 5

検出された礎石の側に設けられたサブトレンチのセクション(土層断面)です。ちょっと分かりにくいですが(写真の技術が下手なのです><)、黒い土の層⇒茶色の土の層⇒白い土の層の順で堆積していることが分かるでしょうか?
黒い土の層が1層、白い土の層が2層です。茶色の土の層は、いわゆる整地層ですかね。

なお、検出された礎石は、白い土の層にあたります。また、黒い土の層から鉄砲玉が複数出土しました。「黒い土の層が武田、白い土の層が徳川の可能性がある」とのことでした。

ちなみに、一番下の石がゴロゴロしている層は、牧之原礫層(れきそう)といい、遺跡が作られた時点の地表面です。俗にいう「地山(じやま)」ですね。

3.薬研堀の検出

 「二の曲輪東馬出」の堀にトレンチを入れ、堀の形状を調査したところ、薬研堀であることが判明しました。
薬研堀とは、断面がV字になる形状の堀を言います。

イメージ 6

 天気が良すぎてうまく撮れませんでした( p_q)。いい写真がありません……。
 堀の深さは、5m50cm(城外側)〜7m50cm(城内側)、堀底の幅1mで、角度が50度〜55度の急斜面となっています。斜面の角度が45度を超えると登るのが困難と言われます。かなり急傾斜ですね^^

 地層から判断する限り、薬研堀から箱堀に改修した形跡はないとのことです。「徳川時代のものではないか」とのことでした。




今回の調査によって、「二の曲輪東馬出」「南馬出」「南内馬出」が、諏訪原城にとって非常に重要な曲輪であることが分かってきました。それは、他の場所に比べ、鉄砲玉が多く検出されていることからもうかがえます。諏訪原城の激戦地であったと言えるでしょう。
当時の諏訪原城がどのような防衛線を敷いていたか、解明に期待ですね!!








帰りに島田市博物館に寄って、企画展をみてきました。
誤読がありましたよ……(´・ω・`)
「糺明」「関所」「番中」ではないでしょうか??
読み下しがない古文書がいくつかありました。確かに文章が長いので、全部読み下すのは難しいと思います。しかし、ポイントとなるべき文言を拡大して、横に読みを乗せるとよかったのかなぁ、と思いました。

イメージ 7
こんな感じで……。

この記事に

開く コメント(2)

本日、二俣城の発掘調査現地説明会に行ってきました。

昨年9月に行って、今回が2回目の参加になります。
前回のブログはこちら。


前回、「なんて丁寧な説明会なんだ!」とべた褒めしましたが、今回も丁寧で分かりやすかったですよ^^それに加え、二俣城への熱い想いも感じました!


さて、今回の発掘調査区域はこちら。

イメージ 1

すばらしく適当な図(笑)
発掘調査地のだいたいの場所が分かればいいんで、こんなもんでいいでしょう。
今年度は、西曲輪の西側と、蔵屋敷の西側を調査したとのこと。


1.西曲輪西側の調査

 昨年度は、西曲輪の南側で、高さ5.5mの織豊期の石垣が検出され話題になりました。
 今年度は、西側の石垣の有無を調査したとのこと。その結果……

イメージ 2

 一部分ではありますが、石垣が検出されました!!上の写真のように、石垣の3段目から4段目までが検出されています。
 これによって、西曲輪の南側も石垣があったことが明らかになりました。

「二俣川(現在は住宅地)と天竜川の合流地点にあたる西曲輪に石垣を設けている。綺麗に見せている。他の誰かに綺麗に見せたいというアピールの意味があったのでは」と担当者の方。


イメージ 3

石垣検出部の真上にあたる部分では、石垣の裏込めが検出されていました。



2.蔵屋敷の調査

続いて蔵屋敷の調査。
蔵屋敷西側では、斜面調査と曲輪端部のトレンチ調査を実施して、石垣の有無を調査したとのこと。
また、そのそばにある土塁にもトレンチを入れ、二俣城当時のものか調査したとのことです。

まず、石垣の有無についてですが……、

イメージ 4

このような感じで石が検出されていました。
ただ、西曲輪に比べて石垣の並びが悪く、蔵屋敷にも石垣があると見ていいかどうか、今後の調査の課題としたい、とのことです。
また、トレンチでは裏込め石が検出されていました。

こちらも二俣川から見える位置にあるので、もし織豊期の石垣であるとすれば、西曲輪の石垣と同じ意味合いを持っていたのではないか、とのことです。

イメージ 5


土塁については、土を盛っている様子がセクションから見ることができました(上の写真の茶色の層だと思う…)。
ただ、版築はされておらず、強度は弱い。説明会の資料では、「人為的な盛土は確認されず、過去の造成の際に掘り残された部分の可能性もあるます」と記されていました。





という感じでした!
織豊系城郭としての二俣城の姿が明らかになっている、と言えるのではないでしょうか^^
今後の調査に期待ですね(`・ω・´)



























この記事に

開く コメント(0)

こんばんは^^
 
朝晩涼しくなってきましたが、まだ昼間は暑いですね><
 
 
さて、本日、二俣城の発掘調査現地説明会に行ってきました。
 
すでに報道されているように、今回の発掘調査で、大規模な石垣が発見されております。
 
http://www.at-s.com/news/detail/1174124365.html
「二俣城跡西側にも石垣 川に面し大規模 浜松・天竜区」(静岡新聞)
 
 
今回の現地説明会は、この発掘調査成果と、文禄・慶長期(1590〜1600年あたり)における二俣城の機能についての説明がありました。
 
 
 
いや、あの、こんな丁寧な説明会は初めてでした!入念なミーティング、事故防止のための調査員の配置、初心者の人にもわかりやすい丁寧な説明、完璧だったと思います。しっかりと事前準備をしたんだな、というのがすごく分かりました。本当にありがとうございます!
僕の仕事にも役立てたいです。
 
説明会は、愛好家の人じゃなくて、地域の人をメインターゲットにすべきだと僕は思っています。
「この遺跡はこんな重要なものなんだ。だから保存する必要があるんです」というのをどんどん訴えていかないといけない。遺跡保存には、地域の人々の協力が不可欠ですから。
 
 
では、今回の説明会の成果を整理したいと思います。
 
 
説明会でのキーワードは以下の3点です。
 

1.天竜川を重要視していた城

今回の説明会では、「川」がキーワードになっていました。軸がすごくはっきりしていたと思います。
 
今回なぜ、大手門の裏側にこんな立派な石垣が検出されたのか。なぜ、天守台が本丸の奥まったところに建てられたのか。
 
これらについて、天竜川の重要性をもとに説明していました。
当時、二俣城は、木材集積所としての役割があり、天竜川上流から運ばれてきた木材を集める機能があった。その役割を果たすべく、天竜川から見えやすいように、天守や石垣を構築した、とのことです。
 
防御、というよりも、政治的な意義が大きい、ということでした。
 
イメージ 2
 
今回検出された石垣です。高さ(埋没した部分を含む)5.5m、織豊期の石垣です。
 
イメージ 1
 
全体はこんな感じ。
 

2.新旧の石垣が見える城

もう1点、どちらかというとサブテーマ、という感じでしたが、安土桃山から現代までの石垣を見ることができること、これをテーマにしているように思えました。
 
実際見てみると一目瞭然。二俣城で石垣の簡単な編年ができるんじゃないかってぐらいです(笑)
 
 
上に掲載した画像が、織豊期の石垣です。
で、これが……
 
イメージ 3
 
江戸から明治。上の石垣と比べて違いが分かりますか?
 
イメージ 4
 
で、これが現代です。工事記録にしっかり残っているそうです。
蒲原城の石垣と一緒ですね^^これ、だまされちゃいけませんよ??ちなみに、蒲原城では「戦国期の石垣」として紹介しているホームページ、結構あります。違いますよ〜。
 

3.天竜川から大手門への城道

従来指摘されている、二俣城東側の城下集落からの大手城道とは別に、天竜川材木集積所から大手門に至る城道がある、そしてそれは非常に重要な城道であった、という説明がありました。
 
今回の見学路は、その城道をなぞる形で行われました。なかなかしっかりした防御意識がうかがえました。
なお、他の参加者の顔とかが写っているのと、説明会資料のアップ許可を得ていないので、画像アップはありません。ご容赦ください。
 
 
 
 
今回の成果は、織豊期の二俣城の様子を知るうえで、非常に大きな成果であったと言えます。こういうのは、発掘調査じゃないと分からない。表面観察では分からないのです。
ですが、逆に、織豊期以前の二俣城の姿が分からなくなったなぁ、と感じました。織豊期にしっかり整備されており、それ以前の面影が薄いのではないか、と思いました。
 
ただ、戦国期の二俣城は、材木の集積所、というより、天竜川という境目(大きな川は、境目の役割を果たしていた)を意識した、軍事的な意味合いも無視できないと思います。
今後の発掘調査成果に期待ですね^^
 
 

この記事に

開く コメント(2)

本日、国の史跡に指定されている島田市の諏訪原城跡で発掘調査の現地説明会が行われ、今年度、新たにみつかった堀などが公開されました。

さて、その説明会に行ってまいりました!!!


今回の発掘調査区域は、下図の通りです。

イメージ 1
(『諏訪原城跡整備基本計画』より引用・加筆)

前年度は、見事な雨のため説明会が開かれませんでした。よって、今年度は、前年度の発掘成果の紹介も行っています(ただし、資料のみ)。
今回実際に発掘現場を見たのは、上図の「平成24年度調査過所」の部分です。
今回の調査のポイントは、

1.「大手南外堀」の堀の形状はどうか、そして堀はどこまで続いているのか。
2.「大手南外堀」のそばにある三日月堀(「二の曲輪大手馬出」)との接続はどうか。そのまま続いているのか、途中で途切れて道があるのか。

の2点だと思います。

発掘調査全景は、下の写真を参考にしてください。

イメージ 2

(平成24年度発掘調査全景)


今回の発掘調査成果は、以下の3点になります。

1.「大手南外堀」の堀の形は、薬研堀であった。

イメージ 3

(検出された薬研堀)

「薬研堀」とは、V字形になっている堀のことを言います。「薬研」とは、漢方薬などをつくるとき、薬種を細粉にひくのに用いる器具のことで、その小舟部分の断面がV字形になっているのだとか(Wikipediaより)。

堀の深さは約2.6m、堀幅は約5mで、堀の角度は60度とのことでした。
諏訪原城で現在残っている堀に比べれば、規模が小さいですね^^

ただ、平成23年度に調査された「大手北外堀」の堀の形状は箱堀で、「大手南外堀」のそれとは形状が異なっています。
「堀の形状が異なる、というのは、今後検証していく必要がある」とのことでした。「大手北外堀」と「大手南外堀」は、繋がっていないんじゃないでしょうか……?(途中に土橋があるとか)

2.土塁の基底部が確認された。

イメージ 4

(検出された薬研堀と土塁基底部)

今回の調査で、堀を掘った土で構築された土塁の基底部(底面のこと)が検出されました。たぶん、上の写真の丸で囲った部分…だと思います(「白いところ」と言っていたので…。違ったらすいません)。

平成23年度の「大手北外堀」の調査でも、土塁の基底部が検出されています。
これによって、大手曲輪は、堀と土塁によって囲まれた曲輪であることが分かりました。


3.「大手南外堀」と「二の曲輪大手馬出」の接続部分に通路があった。

イメージ 5

(通路と薬研堀、三日月堀[二の曲輪大手馬出]との位置関係)

今回の調査で、薬研堀の終端が検出され、「大手南外堀」と「二の曲輪大手馬出」の間に通路があることが分かりました。
ただ、明治末期に廃寺になった寺の通り道であったことが分かっており、また、その後の茶畑造成により攪乱されているため、改変を受けている可能性があるとのことでした。実際、大手曲輪に入る門があると思って調査したものの、検出されなかった、とのことです。

よって、戦国時代もこの幅の通路であったか、というと、「?」の部分が残る、ということです。


4.今回検出された遺構の年代


さて、今回検出された遺構の年代なのですが、

「徳川氏の改修によるものと考えられる」

とのことでした。理由として、

「本曲輪では、焼土層を挟んで下に武田氏の遺構、上に徳川氏の遺構という2面の遺構が検出されたが、今回の調査区域では遺構面が1面しかないこと」

と述べていらっしゃいました。
武田氏の使用時期と徳川氏の使用時期が3年ぐらいしか差がないということで、遺構面で判断するしかない、というのが現状です。



5.まとめ

今回検出された遺構も、徳川氏の改修の可能性が高い、とのことでした。
本曲輪で検出された焼土層が、諏訪原城発掘調査における大きなポイントになっています。

静岡県において現在発掘が進められている、興国寺城とこの諏訪原城は、武田氏(興国寺城の場合は北条氏も含む)が静岡県下で活躍した段階と、徳川氏が活躍した段階とで、大きく城の造りが異なっている(具体的には、堀や土塁の大規模化)ことを私たちに示してくれるのではないか、と思っています。

今後の調査成果次第で、今まで「武田氏流」とか言われてきた城の考え方が、ガラガラっと崩れて、大きく変わっていく可能性が大きいです。今後の調査に期待しています(`・ω・´)


この記事に

開く コメント(5)

お久しぶりでございますm(_ _)m
 
今年もあとわずかとなりました^^
今年は波乱の1年でした。日本もそうですし、僕自身も・・・・・><
 
来年は、いい1年であって欲しいものです。
 
 
さて、気になる記事がありましたので、アップします^^
 
 

信長居館に巨大庭園 岐阜市第4次発掘、通路や建物跡発見

2011年12月21日10:49
 
岐阜市が2007(平成19)年度から金華山麓の岐阜公園で進める織田信長居館跡の第4次発掘調査で、市教育委員会は20日、当時の庭だったとみられる金華山ロープウェー乗り場東側の発掘現場から池の遺構の輪郭や庭の観賞用の建物とみられる痕跡が見つかった、と発表した。池の南側には谷川に沿って川原の石を敷き詰めた傾斜のある約20メートルの通路が見つかり、専門家は「全体の配置を考えると、人工の谷川を中心に、居館自体が巨大な庭園の役割を果たしていたのではないか」と話している。
 
第4次調査は5年目で、今年6月から同乗り場東側のA地区と呼ばれる約750平方メートルで発掘調査を実施。面積約120平方メートルの池の遺構や幅約30センチの池の排水路跡が確認された。また池の南側から建物の礎石とみられる石材1基や焼けた壁土が見つかり、庭を観賞するための建物が存在したことをうかがわせる。
 
 一方、谷川と通路の間には、2カ所で巨石の石組みを確認。09年度の調査で、谷川の上流から石組みの列があることを確認しており、合わせると100メートル以上の巨大な石組みの列が存在していた可能性もあるという。
 
 同調査専門委員会委員で奈良大学文学部文化財学科の坂井秀弥教授は「ここまでの規模の石組みは庭園で類を見ない。公的な迎賓館は当時の大名にとって欠かせないものだが、居館跡はほかと比べて規模が大きく、信長の迎賓館の位置付けが分かるのではないか」と話している。
 
(引用元:http://www.gifu-np.co.jp/news/kennai/20111221/201112211049_15770.shtml
 
 
 
ということで、織田信長居館跡の第4次発掘調査で、大規模な庭園の遺構が検出されたそうです。
「織田信長居館跡」と銘打っていることもあり、どうしても織田信長に結び付けたいところです。
 
しかし、毎日新聞の同内容の記事に、
 
今回は金華山ロープウェー乗り場の東地点約300平方メートルを対象に、過去に掘っていない箇所を縦横一定の枠を決めた「筋掘り」の手法で発掘範囲を拡大して調査。その結果、池泉遺構の面積がほぼ確定されたほか、池の周辺に置かれた景石(庭石)の抜き取り跡を5カ所確認した。谷川沿いでは幅1・8メートル、長さ20メートル以上の通路を初めて確認したという。通路西側の護岸は石垣ではなく、庭石のようなもので石組みされていた可能性が高い。建築年代は依然不明。
 
 第4次発掘調査では、09年度に山裾の谷沿いから足利将軍家の庭の系譜につながる庭園遺構が確認され、1569(永禄12)年に岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの書簡に残る「庭、池、茶室」の記述とも一致した。市教委社会教育課の内堀信雄管理監は「フロイスの記録に『5〜6の庭があった』とあり、今回で池泉遺構の範囲と周辺の建物が確認できた」と説明している。今後は信長時代との関連性を裏付けるのが課題という。調査は来年2月上旬まで継続する。
 
 
(引用元:http://mainichi.jp/enta/art/news/20111221mog00m040032000c.html
 
 
 
とあり、まだ織田信長時代のものとは、断定できないようです。
これからの発掘調査に期待ですね^^
 
ちなみに、毎日新聞の記事の中にある、「足利将軍家の庭の系譜につながる庭園遺構」というのも、庭園所有者と室町幕府との関係を知る上で、さりげなくポイントになるのかな、と。。。
 
 
 
 
 

この記事に

開く コメント(0)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]


.


みんなの更新記事