静岡県のお城 〜ブログ編〜

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ひどい記事

ちょっと無視できない記事があったので、叩いておこう。



【静岡・古城をゆく】直虎動乱の渦 桶狭間の戦い 「東海制圧」へ出陣か

桶狭間の戦い(永禄3年=1560)は、小勢であった織田信長の見事な奇襲で大軍の今川義元を破ったことが通説になっている。それは明治35(1902)年に帝国陸軍参謀本部がまとめた『日本戦史・桶狭間の役』によるもので、この頃は中国やロシアと対峙(たいじ)しており、日本を信長に見立てて、「少数でも大国に勝てる」指針としたとみられる。

 桶狭間古戦場公園は愛知県豊明市(伝承地)と名古屋市緑区有松町の2カ所あるが、近年の広大な開発で地形的判断は難しい。緑区の公園近くには義元の首を検証した長福寺、井伊直盛が布陣した巻山、瀬名氏俊が布陣した「セナ藪」の背後に義元本陣跡があるが、日本戦国史を代表する合戦場の面影は浮かんでこない。

 約20年前に震撼(しんかん)の新説が出て話題となった。信長側近の一人、太田牛一が記した『信長(しんちょう)公記』から先学は「乾坤一擲(けんこんいってき)の一か八かの大勝負にでた正面攻撃」と指摘している。

 細かい戦いは次回で紹介するが、それよりも意外に分かっていないのが義元の尾張侵攻で、従来は「衰退した足利将軍にとって代わろうとする上洛」説であったが、これは早くから否定されていた。

 諸説として、今川領となった「三河国の安定支配」説と、信長をたたき那古野(名古屋城)まで奪い取る「尾張国奪取」説がある。

 ところが近年“目から鱗(うろこ)”の文書史料が見つかった。桶狭間の戦い2カ月前に、今川氏重臣・関口氏純が伊勢神宮に宛てた手紙で、「伊勢下宮の変遷費用は制圧した三河国から工面するが、これから尾張国へ出馬し、さらに『国々』(伊勢・志摩)を制圧し調達する」という内容だ。

 まさに東海の国々を手中にする「東海地方制圧」説で、「東海王国の樹立」を目指しての出陣は“最強”今川軍の余裕さえもうかがえる。(静岡古城研究会会長 水野茂)




産経新聞の記事である。記事を書いたのは、我らが静岡古城研の会長水野茂様である。
今川義元の尾張侵攻の目的については諸説あるので省略する。問題は、「関口氏純が伊勢神宮に宛てた手紙」の解釈である。
この「手紙」とは、永禄3年と推測される3月20日付関口氏純書状(『愛知県史』資料編11-5号、または『戦国遺文』今川氏編1504号)と考えられる。
以下に本文を掲載する。

珍札披見本望候、仍去年者太神宮御萱米料之儀被仰越候間、雖斟酌申候、春木方達而被申候故、及披露返事之旨申入候、遠州之義者、去年被申分候条、不及是非候、参州之事者領掌候、但三州手始令落之候、相残候国々之儀、同前ニ可被仰越候、将亦近日義元向尾州境目進発候、芳時分可被聞召合事専要候、就中私江御祓并砂糖二桶送給候、目出存候、随而菱食令進入候、寔御音信迄候、猶重可申述候、恐々謹言、


難しいのだが、簡単に訳すと、
「伊勢神宮の御萱米料を出せとおっしゃった。遠江国は弁解して出さなかったが、三河国は承知した。まず三河国に出させることになったから、残った国々も、三河国と同様に出すようおっしゃってよい」
みたいな感じになる……と思う。
この場合、「相残候国々」とは、まだ御萱米料を出させていない「国々」、つまり今川支配下の遠江・駿河両国ということになる。

さて、記事に戻ろう。水野氏は何と言っているか。「これから尾張国へ出馬し、さらに『国々』(伊勢・志摩)を制圧し調達する」と言っている。全く解釈が違うのである。確かに関口氏純は、「今川義元が近日尾張国境に進発するよ」と述べているが、そのあと「国々」を制圧するとは述べていない。

これはひどい誤訳である。というより妄想だ。ましてこのひどい誤訳が産経新聞という全国紙に載ったのだから最悪だ。一般の購読者が誤解する可能性がある。

ひどい記事を今日目にしたため、あえて掲載いたしました。

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2015年もあとわずか

2015年もあとわずかになりましたね。

おかげさまで忙しい日々をおくっております。そのため、あまり城と関わることができない状態が続いています。
まあ、色々とあったので、これからは焦ることなく、在野でのんびりやっていくつもりです。


辛口ですけどね^^




「杉山城問題」以来、城研究は各分野それぞれの研究方法の見直しと再構築に走っています。
2015年もその傾向が顕著でした。もう何年たつのでしょう?城の愛好家が多すぎて、城の研究者が少なすぎる。この傾向は来年も続くことでしょう。



2015年、『城館と中世史料』という本が刊行され、城研究における文献史学の現在の研究レベルが示されました。
おそらくみなさん思っていると思います。ああ、まだこのレベルなのかと。

そう、文献史学の城研究は、1984年の井原今朝男氏の指摘以来、あまり進展していません。今回の本でも、城に関連する用語に地域性があることが分かったくらいかな。
まだまだ基礎作業が必要です。もっと史料を読みこむ。政治史において二次史料として扱われる軍記物も、言語学から見れば一次史料足り得る。広い範囲から用語を集積し検討することを願っています。

個人的には、戦国前期にこだわる前に、まず戦国期の「城」とは何か、概念提示してもらいたいものですね。




それでは、よいお年を。




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本日、「第23回ふじのくに山城セミナー」に参加しました。
ラインナップはこちら。


11:00〜12:15  記念講演「諏訪原城跡−発掘調査の成果と史跡整備事業の現状」 萩原佳保里氏(島田市教育委員会)
13:10〜14:10  研究発表「武田勝頼の掛川城攻めについて」  水野 茂氏
14:20〜15:20    同   「甲州征伐をめぐる駿河諸城の考察」 川村晃弘氏
15:30〜16:30    同   「河津城と城ヶ平(佐ヶ野城)について」 望月保宏氏


午後のメンバーを見てピンとくる方、いらっしゃるかもしれません。静岡古城研究会の面々です。
といっても、僕が聞きたかったのは、萩原氏の記念講演だけでしたので、講演終了次第さっさと帰りました。
他の発表?レジュメ見れば聞く価値あるかないか、分かるでしょ。

しかし、古城研究会の平均年齢の高さには唖然とします。これは古城研の問題に限りませんが、城研究に関して若手研究者が育っていないのは、最大の問題でしょう。
ちなみに、受付の方の無愛想な態度も大きな問題でした。身内だけで仲良くやりたいなら、近くの公民館でやればよろしい。民間会社で1から働いたほうがいいと思うよ。


さて、荻原氏の紀念講演は、これまでの発掘調査成果と、今後の史跡整備予定について整理したものでした。
PPをしっかり作ってらっしゃって、この講演のために貴重な時間を割いたことがうかがえました。
お忙しい中、申し訳ないですね^^;


荻原氏自身、「何度もMさんに、発表して欲しいと言われてきたが、もう少し待ってほしいと言ってきた。今回、発表することとなった」とおっしゃっていた通り、発表するに時期尚早。今年度の発掘調査成果まで待ってもよかったと思います。目新しさがありませんでした。
ここに貴重な時間を割くくらいなら、報告書作成に時間を割いたほうがはるかに効率的でしょう。色々としがらみがあるのだと思います。御察し申し上げます。


駿河・遠江両国において(「静岡県」とはあえて言わない)だけでなく、全国的に見ても、諏訪原城と興国寺城の研究成果は注目度が高い。
整備も大事だが、発掘調査も大事。「データが足りない」なら、もっと掘りましょう。

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本年もよろしくお願いいたします^^
おかげさまで公私ともに忙しいです><合間を見ながら、のんびりとやっていく所存です^^

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こんばんは^^暑い日々が続いていますね><
 
さて、2014年3月に刊行された『戦国武将と城』(サンライズ出版)を、ようやく読みました。感想をここに述べちゃいます。
 
まず……
 
「なんという分厚い論集なんだ!そして、なぜB判なんだ!A判が主流の今にあえてB判とはΣ(・ω・ノ)ノ!」
 
これが最初の感想です。。。
 
 
で、これだけだとブログにならないので、論文を読んだ感想を以下に記します。全部読み切れなかったので、城郭篇のみ、かつ「読んでおいた方がいいかな」という論文だけにしました。
 

石川浩治氏「武田系城郭の最新研究 −丸馬出を中心に−」

【内容】
 これまでの戦国大名系城郭の議論について問題点を認識しつつ、丸馬出について検討。築造に高度な技術が必要なことから、徳川氏が武田氏の技術を、技術者を含めて受け継いでいるのではないか(229頁)、と述べ、武田氏領国の中でも諏訪原・大島・小長谷・小山の丸馬出は異質で巨大化している点について、「武田氏領内の丸馬出としても一つの特別なグループとして括ってよいのではないか」と述べて、武田氏による構築であるとし、武田氏の丸馬出については、武田系城郭として認めるべきとした。
また、興国寺城跡の発掘調査成果をもとに、「軍事的な効果よりも視覚的な効果を狙っていたのではないか。勝頼段階に丸馬出が多く使われた意味としては、丸馬出をシンボルとして使うことで弱体化しつつある武田領国の結束を図る意味もあったのではないか」(230頁)と述べた。
 
【感想】
 諏訪原城を事例にとると、諏訪原城は、天正3年7月中旬に攻撃が開始され、8月に陥落している(『今川氏真詠草』)。長篠の合戦からわずか2ヶ月後に徳川氏の攻撃を受けており、あれだけの規模の土木工事をする時間的余裕があったか疑問である。よって、「勝頼段階に丸馬出が多く使われた意味としては、丸馬出をシンボルとして使うことで弱体化しつつある武田領国の結束を図る意味もあったのではないか」という見解には首肯できない。
 また、巨大化したのは丸馬出だけではなく、土塁もである。それも含めて検討する必要があると思う。丸馬出の見解は、後で紹介する加藤氏と真っ向から対立する形となった。、今後両氏が議論を重ね、研究が発展していくことを願う。
 
 

河西克造氏「信濃高遠城の再検討 −縄張り・考古資料・文献史料による中世高遠城の復元−」

【内容】
 中世高遠城について復元を試みる。
 
【感想】
 本論文の発掘調査成果を見る限り、中世高遠城時代の遺構は、二ノ丸地点ぐらいか。『信長公記』から3ヶ所の虎口があったとの見解を提示しているが、「大手の口」と「搦手の口」の記載しかないのに、なぜ3ヶ所になるのか理解できない(251頁)。そして、法憧院曲輪が中世高遠城にあったという立証がされていないのに、あったことになっている。
 また、武田信玄が築いた拠点的城郭について、Ⅰ類とⅡ類に分けているが、これらの城の遺構がすべて武田信玄の時期のものなのか。武田勝頼以降の時期は考えられないのだろうか。それらを立証しないままに、高遠城を無理やりⅡ類に位置付け、理由もなく「主郭と外郭で構成されていた」(252頁)と突然推測し、さらに「近世高遠城の本丸に主郭、二ノ丸、三ノ丸、勘助曲輪、南曲輪に外郭であったと推定される」と理由もなく規模まで推定している。発掘調査成果もわずかで、「地表面観察で確認される高遠城は、まぎれもなく近世城郭である」(251頁)のに、なぜそこまで復元できるのか。理由が何も書いていない。書いていない以上、前提条件が推測の域を出ていない。正直私には難解な論文でした。
 
 

加藤理文氏「徳川家康五カ国領有時代の城」

【内容】
 横堀か丸馬出が存在すれば武田の城、という従来の見解に疑問を抱き、天正4年以降の徳川氏が豊臣氏に侵攻に備えて改修したものとの見解を示した。また、徳川氏によって改修された城は、本陣となった小牧山を除き、堀と土塁によって囲むことを基本として改修されていた(258頁)。
 
【感想】
 織豊系城郭研究会3部作の一つ。従来、武田系城郭の典型とされてきた、諏訪原・長篠などの諸城を徳川氏の改修によるものとし、戦国期城郭の見直しを迫った論考。後で述べる中井氏・松井氏の論文も、軸は同じである。
 武田系城郭を否定することは、これまでの中世城郭研究会の成果を否定することと同義である。よって、織豊系城郭研究会が、中世城郭研究会へ本格的な攻勢を仕掛けたといってよい。強気な姿勢の背景には、諏訪原・興国寺の発掘調査成果がある。どちらも武田・北条の城と言われてきたが、徳川の可能性が高くなってきたからだ。中世城郭研究会の反証に期待したい。
 
 

佐々木健策氏「城下町小田原の都市研究と今」

【内容】
 森2009・佐々木2005より、小田原城の総構(大構)で囲郭されたのは、天正15年3月の「相府大普請」などによるもの、同年6月の朝倉右京進の屋敷範囲を示す記述から、この時には小田原城および城下を囲郭するほどの総構は成立していないとのこと。その背景は豊臣秀吉との軍事的緊張関係が高まったことにより整えられた性格が強いと推測される(284頁)。16世紀の小田原は、「花の御所体制」と表現される建物群を中心として整然と調えられた城下町であったという(285頁)。また、小田原城の中心について、八幡山古郭とされてきたが、御用米曲輪の発掘調査により、近世以降に本丸・二の丸となる小田原城の中心域で検出され、ここが小田原城の中心部の一つであることは間違いない(288頁)
 
【感想】
 小田原城に関する研究を見てなかったので、従来の小田原像と違った成果が出てきていることに驚いた。「史跡小田原城跡八幡山古郭・総構保存管理計画」(2010)では、「城の中核は、近世においても本丸とされ、天守が築かれた城址公園一帯にあたるが、さらにその尾根続き八幡山上に山城型の拠点が構築されており、二極構造が小田原城の特性の一つとなっていた。」(14頁)とのことだが、どうなのだろう。「居館と詰城」みたいな感じかな、と安易に考えてしまったが……
 
 

戸塚和美氏「掛川城攻めにおける徳川家康の陣城跡」

【内容】
 杉谷城の分析と文献から、家康による掛川城包囲における陣城とは、兵力の駐屯と休憩場所の確保こそが第一義的な機能であったとし、永禄後半期の徳川方の陣城の様相を明らかにしたことは、徳川氏の築城術の研究に一石を投じたと言える、という加藤理文氏の研究を踏襲。
 
【感想】
 まず、史料の使い方。一次史料と二次史料を分けることなく使用しているのはどうかと思う。「武徳編年集成」や「家忠日記増補追加」は近世の作であって、内容をそのまま鵜呑みにすることはできない。参考資料としてとどめておくべきであり、事実確認として使用すべきではない。
 その点から本論を見ると、史料検討をしないまま二次史料を使用している点が多く、非常に弱い論拠をもとに構成している論文であるといえる。
 また、「陣城」という用語で統一して使用している点も気になる。当時の一次史料の用語を使うべきだ。「陣城」とは何か、という定義づけもないまま論を進めているので、なぜ「陣城」としたのかが分からない。文献史料では「取出」と記されているのに、それを「陣城」と言い換えている理由は何か?同じだとしたらなぜ同じだと考えたのか?
 文献屋の私は、こういう定義づけのないままに用語を使われるのがすごく嫌です。
 
 

中井均氏「残存遺構から見た丸子城の築城主体」

【内容】
 丸子城について検討し、築城主体者を、駿府城を居城とした徳川家康の領国内における出城であると指摘。
 
【感想】
 織豊系城郭研究会3部作の一つ。加藤氏と同様、中世城郭研究会のこれまでの活動に疑問符を投げかけた論文である。
 だが、「丸子城の歴史」の記述が非常にまずい。永禄11年に山県昌景を入れたとか、天正10年に諸賀兵部らを入れたとか、駿河国に入国した家康は、丸子城に松平清善を入れたとか、これらの記述は『日本城郭体系』9の記述をそのまま引用したにすぎず(118頁。もしかしたらWikipediaか)、史料的根拠が何も書かれていない。史料の出典を註で明示しないのは、初歩的なミスであり、論文として非常に問題である。「丸子城でも諏訪原城でも武田氏以降に徳川氏の家臣が入れ置かれた史料が残されている」(363頁)と述べているが、是非出典を明示して御教示いただきたい。これで徳川氏が利用したと言われても、文献史学の研究者は誰も納得しない。
 
 

松井一明氏「関東領国時代の徳川の城 −天正18年後の小田原城と箕輪城を中心として−」

【内容】
 「関東の戦国時代末期の拠点城郭の構造は、おおむね後北条氏支配下の城郭として捉えられることが多く、天正18年、関東に入国した家康とその家臣の城の改修について論究されることはほとんどなかった」(411頁)と問題提起。
 箕輪城について、従来北条氏段階の城とされていたが、発掘調査差から井伊氏の改修があったことが明らかになったとし、箕輪城などの諸城について検討している。その結果、徳川氏段階での改修が多くの城で認められること、しかし、瓦・石垣・礎石建物がそろう織豊系城郭ではなく、領国化した場所にあった城の使えるパーツを改良して、土の城として大規模化を図ったといえること、すべて平山城で、韮山城のように防御に優れている山城部分を使わないのは、地域の政庁としての役割を担った結果であると考えらえること、「城自体は織豊系城郭として完成したものではなかったが、軍事的には街道の押さえ以上に、領国経営のための政庁的役割を担い、経済的に城下町形成を志向していた点は織豊系城郭の特質と合致したものと評価しておきたい」とし、これらの城が織豊系城郭化するのは、関ケ原合戦勝利後とした。(420頁)
 
【感想】
 織豊系城郭研究会3部作の一つ。加藤氏と同様、中世城郭研究会のこれまでの活動に疑問符を投げかけた論文である。「瓦・石垣・礎石建物がそろう織豊系城郭ではなく、領国化した場所にあった城の使えるパーツを改良して、土の城として大規模化を図った」という見解は注目できる。研究史上外せない論文になるかも…??中世城郭研究会がどんな反論をしてくるか、期待。
 
 

三島正之氏「武田氏の山城をめぐって」

【内容】
 放射状竪堀について、武田氏のオリジナルの築城技術であるとする。「同時代証拠という直接証拠がない以上、放射状竪堀を具備する山城を武田氏系城郭に結び付けるためには、状況証拠の積み重ねにより、演繹的に論証を行う以外に方法は存在しないように思われる。その状況証拠とは、武田氏構築と推測される山城に存在する特徴的な遺構である」(423頁)とし、同時代史料から確実に武田氏系城郭と認定できる城郭の遺構と共通する遺構がある城跡を武田氏系城郭と推定し、さらにその推定される城の遺構と共通する遺構がある城跡を武田氏系城郭と類推する、という方法論を提示した。
 
 その上で、同時代史料から確実に武田氏系城郭と認定できる城郭を要害城とし、「要害城と放射状竪堀のある山城の虎口遺構を比較検討することで、両者の構築主体がほぼ同
一であること、つまり武田氏が放射状竪堀を築いたことが見えてきたと思う」(431頁)とし、放射状竪堀を武田氏系山城の最終段階の防御遺構とした(432頁)。
 
【感想】
 要害城が確実な武田氏系城郭である、というのが三島氏の論拠。だが石垣の存在が論拠を弱くしている。「多くの山城の石垣を見たが、要害城の石垣はそれらの山城の石垣の延長線上にあるように思われてならない」「付帯する虎口遺構も、武田氏が侵攻した地域の山城に類似する虎口が存在しており、それらとの関連性の方が、織豊系のものよりも強いと思わざるをえない」(430頁)では、非常に主観的だし、結局「それらの山城」の遺構との共通点から導きだして類推しているにすぎない。まずは要害城が武田氏系城郭の指標となりうるかどうかに紙数を費やすべきであった。石垣は実測して他の諸城の石垣と比較するなど、石垣や虎口が織豊系城郭のそれとは異なる点をしっかり明示しない限り、納得できない。 
 
 

溝口彰啓氏「静岡県下の戦国期城郭における曲輪内建物について

【内容】
 静岡県下における城郭建物について、遺構からみえる傾向をさぐり、拠点的城郭と軍事的城郭では建物のありかたに、恒常性と臨時性に起因する差異が認められることが確認され、城郭内建物について、戦国末期に画期が存在するとした。
 
【感想】
 近年話題となっている、城の年代と出土遺物の「ズレ」についてはどうなのか。そこをクリアして初めてできる議論なのかな、と思う。
 
 

八巻孝夫氏「石神井城の縄張の再検討」

【内容】
 文明9年に落城し、それ以後使用されていないのがほぼ確実な城である石神井城を検討し、石神井城は文明頃の城の指標となるのではと指摘した
 
【感想】
 「豊島氏と石神井城の歴史」の論述部分が非常にアバウト。記述の根拠となる史料出典もない。峰岸純夫他編『豊島氏とその時代』(新人物往来社、1998)とか、そのあたりちゃんとチェックしてるのかな、という感じ。
 申し訳ないけど、この記述で「文明9年に落城し、それ以後使用されていないのがほぼ確実な城」とは言えない。
 
 
 
以上ですm(__)m
読んでみて思ったのは、「中世城郭研究会と織豊系城郭研究会が真っ向から対立しているな」と。元々対立している感じはプンプンしていましたが、近年の発掘調査成果を得て、織豊系城郭研究会が勢いづいている感じがします。
ただ、双方とも、歴史の記述をしたいのなら、先行研究をしっかり読んで、史料の出典を明記してもらいたいです。文献屋として悲しいです。ぜひ改善をお願いします。
 

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