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父は昭和61年に亡くなりました。77歳でした。
前年の春、庭掃除をしていて、こけて頭にこぶを作りました。こぶのあとに小さな青あざができていつまでも治らないので、近くの皮膚科に行きました。このお医者さん、神戸で病院を経営している私のいとこと親友だったこともあり、丁寧に見てくださいました。組織を医科大の皮膚科に送って下さいました。悪性腫瘍のおそれありとのことで、すぐ入院を勧められました。私は神戸のいとこにすぐ電話して詳しく聞いてもらいました。その結果「黒肉腫」と言う悪性の奇病だと言うことでした。すぐ、入院手続きをして手術の手筈を取りました。
私は医科大の皮膚科の教授と執刀される助教授の先生に直接お会いして万全の対策をしていただくようお願いしました。
直接お会いして、納得したのは金沢大学から離れたが、皮膚科としては日本の最先端を行っていると自負していらっしゃることでした。執刀される先生は、日本に4,5例の執刀例しかないので、あまり日本の文献はたよりにならないから、アメリカの大学の資料を取り寄せてそれを研究しつつやることにしていると言ってくださいました。どちらにしてもこの病気は長くて1年持たないと宣告されました。
家族会議を開いて検討しました。
決めたことは、3点。
「あと一年と宣告されていることを父と母両方に隠すこと」
「奇跡を信じてあらゆる方法を試してみること。医学は進歩したと言っても、現実には医者の判断を越えてがんが治った事例がある以上、そのあらゆる方法を試すこと。丸山ワクチン。富山の奇跡の水。温熱療法。...。」
「たとえ一年であろうとも、一日でも多く家に帰って普通の生活をするように努めること。抗がん剤も本人の食欲を減退させ、意識を低下させるものを避けてもらい、入院中も散歩し、読書し、思索できること、そして自宅へ帰っての平常生活を一日でも多くすること。生きる最後の最後まで、人間的であってほしい、ということ。人間的尊厳をもった死を迎えよう、とまとめました。」
この会議で兄と対立したことが一点ありました。
「手術前に教授と担当医の方に挨拶に行って手術を頼む家族の願いを聞いてもらう」と私は提案しました。
兄は「それは先生に失礼だから、手術後退院時にすべき」と言いました。
私は現実に起こっている医療過誤の大半は担当医の手術前の心構えの喪失だと思っています。二日酔いであったり寝不足であったりさまざまの要因で医師だって人間だから、満足ではない状態で、人の生死にかかわる大切な手術に臨むことがある。そんなとき悪いことが重なると患者の生死にかかわる重大事が起こる場合がある。
医療過誤は発生してから後、どれだけ騒いでも遅い、命は絶対に取り返しのつかないものだから。
その対処として我々患者としては、医師の自覚を高めるために、前もって挨拶しておくべきである、と私は思います。
私は、兄の反対を押し切って習熟直前に教授、担当医、看護師長にあいさつに回りました。
命にかかわる手術は、たとえ盲腸の手術でも、医師側の最高責任者と担当医、患者側のもっとも理性と見識をもって対処できる責任者が手術の前に合って手術の心の準備をすべきだと思います。
医療過誤裁判で何億取ろうとも命は帰らないのです。医療過誤を絶対に起こさない方向で最大限努力することが大切だと思います。
母の85歳の腰の手術をする際には手術直前に担当医の先生によろしくお願いしますと、あいさつに伺いました。私の前立腺の手術のときは、直前に妻に担当医の先生に挨拶に行ってもらいました。
私は糖尿病宣告されて以来、月一回の通院に妻に一緒に来てもらいます。医師の短い診察時間で言われることを全面的に受け止めるためには、私の判断だけでは私自身が不安だからです。そのおかげで妻はしっかり食餌療法を受け持ってくれて良好な患者というおほめをいただきました。
妻の検診にも全部付き合って、私も一緒に先生の話を聞きます。
命にかかわることはあとの祭りは、許されないのではないでしょうか。
私は金沢へ帰って英語教室を開いたばかりで、一番忙しい時でした。しかし、2度とないこの父の人生を一日でも伸ばすこと、およびその伸ばした一日が、人間として有意義になるようにしてあげなければ、そもそも英語教室を開いて世のため人のためになると言うことも嘘になると思いました。
自分の対処、創意、工夫、努力のかけ方によっては、よくなるかも知れない身内の不幸を「忙しさ」にかまけて放棄してはいけない。
父の介護の結果英語の勉強が停滞し教材がたとえ遅れても、それはこの問題を人間的に克服できれば、次の段階でのりこえられるはずだ。人類の進歩と同じで、そのつど生まれる困難を真剣にとらえないで進むと大波乱になってしまうのではないだろうか。人間とは所詮螺旋的にしか進歩できない。
病気になる前、私は、忙しさにかまけて父と同居はしていても朝食しかともにしていませんでした。塾と言う仕事の関係上夜は家に帰れません。その分昼をともにすることは、やろうと思えばできるのですが、忙しさのあまりやっていませんでした。ある日、父が私の仕事場に顔をのぞかせて「頼むから昼も一緒に食事をしておくれ」と言われました。このときはじめて、今この人にとって生きがいは私との時間を少しでも多くもって対話することなのだ、と理解しました。その後ずっと朝昼食事をともにして、楽しい会話を作るように努力しました。
入院した後毎週日曜にお弁当を家で作って病室を訪れ父・母・私たち夫婦のピクニックを病室で行いました。本当に父はうれしそうでした。何よりも人との交わりを大切にする父にとってこれほどうれしいことはないようでした。
手術後、通院治療に切り替えてもらって、早めに家に帰りました。頭の皮を全部剥がれて白い包帯が痛ましいものでした。側頭部から始まった黒い腫瘍はどんどん日ごとに下へ降りてきました。お岩さんのような黒い大斑点が顔を攻めてくる恐ろしい病気でした。顔からのどや首にまで斑点は侵略していました。それでも治ることを信じていた父は一日に何キロも散歩して体力回復に努めていました。治ったら四国のお遍路さんに行くんだ、と口にしつつ。
「醜い」顔のまま、金沢のおいしいところはどこへも行きました。飲んで、食べて、話して、呵々大笑するのが生きがいの父から楽しい会食の機会を奪うことはできませんでした。ドンドン、ドンドン機会を増やしました。そのたびごとに私が英語教室をやっていることを自慢げに話すのを喜んでいました。温泉にも連れて行きました。すべて平常心で当然治るんだから、何をしてもいいのだと思ってくれること念じていました。その気力で「奇跡」を信じ、丸山ワクチン、富山の奇跡の水、温熱療法、すべてをやってもらいました。
丸山ワクチンをめぐる医師との交渉、抗がん剤投与、温熱療法、すべて大切な時は一緒に病院まで足を運びました。担当の先生が渋りがちなのをやっていただきました。奇跡なんか起こりっこない、と分かっていても、奇跡が起こるとしたらそれを信じた人だけでしょうから、とおもいつつあきらめきれませんでした。富山の水くみも行きました。
包帯巻きや注射、ベッドからの立ち上がり、これらすべてにおいての私の妻の介護を、病院の看護師さんよりうまいと言って喜んでくれました。一年半、苦痛であったはずの病院と在宅の介護で笑顔、笑い声が絶えませんでした。本当に人間らしい最後を過ごしてもらいました。
しかし、1年半後、父は最期の入院後1週間で去りました。
死後二人だけになった父の顔を生まれて初めて私は、手で触りました。まだ温かみのある顔をなでながら2度と口を開かなくなった現実を受けいれることを拒絶していました。どんなにやりつくしても死はつらいものです。「生きている時にできることのすべてをやったと」という気持ちがあってもやっぱり死はつらいのです。絶対に取り戻せないものを失うのですから。
教授、担当医の方々には本当にお世話になりました。こちらの「わがまま」を全部聞いていただいて民間療法、抗がん剤投与の打ち合わせ、温熱療法の金沢大学医学部への依頼。
先生方への感謝の念は父の病気の進化とともに増しました。死後二十数年、年賀に託して父を大切にしていただいたお礼を今でも欠かさないようにしています。
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