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1976年4月6日、ひといちばい大きな産声をあげてひとつの生命が誕生した。しかし重度の障害を負って。手足の部分がジャガイモぐらい。医師の診断は先天性四肢切断。手も足もないコケシ人間の誕生。五体とは頭と胴体を一体に見て、両手、両足を四体と見る。するとこの赤ちゃんは頭と胴体だけの「一体人間」。親は子供の誕生の無事を祈って「五体満足であってほしい」とひたすら願うのに。
両親はさぞ、こんな子を生んでしまった自分たちの不幸をなげき、この子の行く末を案じて悩み苦しんだだろう。その嘆きの深さ、苦しみの深さはどんなものだろう。そこからどうやって抜け出し、こんな明るい青年が成長する環境を用意できたのか、その秘密が知りたい。またこの子自身の苦難の道をのぞいてみたい。そういう思いに駆られて読み進んだ。私のもくろみは見事に砕かれた。不幸・悩み・苦しみ・嘆き・苦難・苦闘などという言葉とは全く無縁の地平でこの親子は明るく状況を乗り越えてきた。この本は現代の奇跡とも言える親子のすがすがしい歩みを、本人の口から明るく語ったものである。こんなにひどい「障害」を負った人がかくも明るく堂々と生きていける力はなにか?ここでは2点に絞って考えてみたい。
まずお母さんは「かわいい」と新な生命の誕生を迎えた。母親のこの態度こそこの本の全体を流れる明るい色調である。重度の障害を負ったわが子を見て、絶望に陥いることなく、「かわいい」と迎えてこの子の未来を大きく切り開いた。「かわいい」という言葉の中には「慈み育てたい」という人間としての愛情があふれている。「かわいい」と思うがゆえに人間らしく生きてほしいと願う。人間としての知性・感情を持ってほしいと思う。友達と話し、笑い、怒り、喧嘩し、仲直りしながら生きていってほしいと期待する。だからふつうの子供と同じようにたくましく生きていく方法を身に付けていく。ほっぺたと短かい腕の間に鉛筆を挟んで、まわりと遜色のない字を書く。皿の縁からスプーンやフォークを差し込み、てこの原理のようにして、ものを食べる。ハサミの一方を口でくわえ、もう一方を手で押えながら、顔を動かして紙を切る。ふだんはL字形になっている体のまま短い足を交互に動かし、自分で歩く。短い手で椅子を押さえて椅子によじ登る。バットを脇の下に挟み、体を回転させてボールを打って野球をやる。ジャングルジムを鉄棒の代わりに使い、脇の下に棒を挟み込んでグッと力を入れて跳び上がりぶら下がる。左肩と首で傘を挟み込こみ、柄の部分を足で押さえて、右手で車椅子を運転して雨の日も独りで通学する。
もし「かわいそう」ととらえたらどうだろう?「かわいそう」も人間としての愛情にあふれていることは間違いない。だが「かわいそう」という言葉には、保護してあげなくてはならない、かばってあげなければならない、という感情がつきまとい、障害者の自立という気持ちを殺いでしまう危険性があるのではないだろうか?「かわいそう」という立場でまわりが接したらなんでも人並みにできる人間に成長できただろうか?
被害者自身が強い人間になるという気持ちに水をかけることになるのではないだろうか。常に人から保護してもらわなければならない立場に置かされては、人間としての尊厳と明るさが失われるのではないだろうか。障害者であっても人に迷惑をかけることなく生きられる社会が優しい社会、成熟した社会とは言えるのではないだろうか。拍手喝采かっさい!!
もう1つ目を見張らせるのは、両親は「一体」しかない重度の障害をカタワや異常とはとらえず「身体的特徴」・「個性」ととらえた点である。足が速い、歌がうまい、身のこなしがいい、かしこいことを人に隠し立てしないように、両手両足がないことも「特徴・個性」と思えば人に隠し立てする必要がない。むしろそれを話題にして初対面の人と親しくなり友達の輪を広げていく。これこそ素晴らしい発想の転換である。
そもそも人間は比較することが大好きな動物である。善と悪、プラスとマイナス、長と短、美と醜、大と小、黒と白など比較する言葉は尽きない。あるものの標準を設定してその両極端を考える。そしてその一方を正しいもの、あるいは喜ばしいもの、推奨すべきものととらえ、他方を正しくないもの、否定すべきもの、克服すべきものととらえる。正しくないものははなはだしくなると、排撃され、忌み嫌らわれ、その存在すら隠して社会から抹殺される。誰がいつ始めたか分からない基準、あるいは誰がいつ始めたか分かっているがそれがそもそも正しいのかどうか、確かめようとしないで守っている基準に、わたしたちは安易に依存しすぎてきたのではないのだろうか。いわゆる世間の通説が本当に正しいのかどうかをもう一度考えさせることを私たちに問いかける本ではないだろうか。
「五体満足」は儒教の「身体髪膚(はっぴ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」(われわれのからだ、髪ひと筋、皮膚一片にいたるまで、父母からいただいたものであるから、大切にして、少しも傷きずつけないようにすることが、親孝行の第一歩である)に始まっているようである。中国の最初の歴史書「史記」を表わした司馬遷が武帝によって宮刑(男子の陰茎を切り取る刑)に処せられて、「親からもらった体を損なって、先祖に申し訳ない、このまま生き延ること忍びがたい」と思い、自殺を真剣に考えたのもこの儒教の教えによるという。日本には「五体満足」でないものを「片端者」と忌み嫌らってきた伝統がある。源氏物語に「いみじきかたわのあれば、人にも見せで、尼になして」(ひどい体からだの障害があるので、人に見せないで、尼さんにした)という表現がある。身体障害者を社会から隠くす存在にしてきたのである。儒教思想から出発しているこの「カタワ者排撃思想」こそ私たちの考え方、生き方から捨て去らなければならない、と改めて決意させてくれる本ほんである。
手足のないことから発生する不便を克服すべき課題とすえた。。創意と工夫であらゆるハンディーを1つ1つ克服していく。創意と工夫さえすれば人間なんでもできる、と勇気を沸かさせてくれる本でもある。
宮城まり子さんが主催する「ねむの木き学園」の子供たちの芸術活動、大江光さんの生み出す素晴らしい音楽などさまざまな障害者の活動から、これまでも人間の素晴らしさを学んだ。いままたここに「五体不満足」な乙武洋匡さんから多くの学ぶものを得た。ぜひみなさんも一読して考えてもらいたい。人間の素晴らしさをつかみ取ってほしい。既成の考えの枠を破ぶって素晴らしい未来を作り出す大きなヒントがこの本から手に入れることができるでしょう。
「今持っている考えを疑がってみよう。その考えの延長に本当に人類の幸せせが待ち構えているのかどうか、考えてみよう。そして考えを大胆に転換してみよう。そこに人類の素晴らしい未来が切り開かれる可能性があるのではないだろうか」
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あゆ「こんにちは。検索できました。2人でブログを書いています。良かったら遊びにいらしてみてください」
かい「障害あれど、楽しく生きて行きたいものです^^」
2008/2/24(日) 午後 4:58 [ npo*ba*ai ]