|
平成元年に家を建てたました。
夫婦とも45歳。終の棲家となることは確実。2人が人生をまっとうできる家でなければならない。30年後の75歳から90歳まで生きても快適な家とはどんなものだろう、と考えました。
私たち夫婦には子供がいません。
二人が老いて体の自由を失ってもお互いに人間の尊厳を失わずに生きるとはどういうことだろうかと考えました。
五体が満足に越したことはないが人間いつ事故に遭うか分かりません。いつ難病に襲われるか分かりません。
自分が交通事故に遭うか、難病に遭って車椅子生活を余儀なくされたとき、まずバリアフリーの家のことを考える財政的・精神的余裕が生まれるだろうかと思ったとき恐ろしくなりました。万が一そんな不幸に出会ったときにはきっと気の小さい私は、自分の前途を嘆き、生きるそのことに苦労するに決まっている。とてもバリアフリーの家に立て替えたりする余裕があることなんか考えられませんでした。
当時はニューヨークに年1回行って英語文化の吸収と語学力の研鑚を行っていました。ニューヨーク、東京、金沢どこを歩いても見本とする建築物はありませんでした。
特に専門家と思われる病院・診療所に注目を払いました。でもマイナスの教訓しかありませんでした。
すべては老後の生活、不幸に出会ったときの生活を想定した生活者の視点を第1に考えることにしました。
完全バリアフリーの家を建築屋さんにお願いすることに夫婦の考えは完全に一致しました。
そのとき新しい夢が生まれました。
どんな障害者の人とお友達になっても我が家へご招待できる家を建てたいと強く思うようになりました。
母(当時75歳)との同居が始まりました。
まだまだ足腰も頭もしっかりしていました。
新聞のチラシ広告で新築の家と比較するのが楽しみになりました。
事あるごとに言っていました。
「どこの家と比べてもこの家が最高だね」
10年後腰が弱り市立病院に入院となりました。母の希望を入れて特別室を頼みました。室内にバス・トイレつき。ところが15センチの段差があり、歩行器を押してしか自力で歩けなくなっていた母には遠い廊下の向こうにあるトイレまで行かなければならなくなりました。
金沢市立病院は私の家と同じ年に建設されました。私の教室の窓から見える巨大な建築物に圧倒されながら毎日眺めていました。私の家の惨めなほどの小ささに気が滅入ることが何度もありました。
我が家の2階にバス・トイレのユニットを取り付けることになりました。ところが建築屋さんはどうしても段差ができると言うのです。新築の家でありえないことです。それなら1階の天井と2階の床の間隔を広げればいいだけ。譲りませんでした。貧しい我が家にできたことが巨額の私たちの血税を使ってできた特別病室にできていないことに絶望と深い憤りを抑えることができませんでした。
専門家が信用できないことを平然と専門家ずらをしてやってしまうのだということがしっかり分かりました。
|