人工光合成

人工光合成の完成・発達によって人類は動物がもつ「生きる=他の生命の殺し」という宿命から自己解放できる。

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『国家の品格」

  「国家の品格」を読んで私は近来稀に見る驚きを味わった。日本の知識人はこんなひ弱な論理にころっとだまされるのか、あきれかえった。

  イギリスの産業革命に頭に来て源氏物語を初めとする平安朝文学を対置する。論理として数学・物理を初めとする自然科学および社会科学にどうしても欠かせないものに対して、「もののあわれ」を対置する。

  著者の経歴は数学者の筈。

  数学者のでたらめ性に驚く。だが待てよこれはどこかにあった論理だぞ。

  そうだいわゆる鶴亀算だ。

  『鶴と亀の足の数を合計することなんか絶対にない』

  算数的お遊びをどこにでも通用させているのだこの人は。

  筆者の論理の支離滅裂、結論の出し方のでたらめに接して、頭のいい人の中にもひどい人がいることが分かった。

  「国家の品格」で高く評価されている「武士道」を読んで、これまた驚いた。

  新渡戸稲造氏という人は、全く自説を持たない他人のさまざまな説を説明しているものにすぎないことが分かった。

 あまりのひどさにあきれてこの人の本職は何だったかと思い、彼の「農業本論」を古本屋で取り寄せたが、難解で挫折。ところが「武士道」のほぼ20年後の彼の評論(「修養」タチバナ教養文庫)を読んで驚きあきれた。

  多読の害として、(1)目を悪くした。(2)乱読したので頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになった。(3)種種の説のを見たので、自分の定説がなくなった。 (「修養」268ページ)

  ちなみに 更に、「修養」を読み進めると、396、,397ページに武士道の自殺を「死は軽い」「生は重い」として完全否定している。

  これで行くと新渡戸氏自身は晩年「武士道」を乱読の結果頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになり自分の定説を持たなくなった人が書いたものということになる。

  そんな情けない「武士道」を日本人の最大の美点であるかのように称えている。そして武士道の美点として「惻隠の情」を上げる。

  「惻隠の情」とは「弱いもの、苦しんでいるものを思いやる気持ち」のはず。

   日本は果たして国際的に「惻隠の情」をいつ発揮したのか?

   秀吉は国内を平定すると先の見込みも無くすぐ「朝鮮征伐」を命じて韓国の人の「鼻」「耳」を集めた。外国の軍隊にやってこられて鼻無しの人、耳無しの人が多数歩いているさまを想像したとき私は絶句した。
   
   徳川政権を打倒すると西郷隆盛はすぐに「征韓論」を持ち出した。入れられぬとすねて故郷に帰って反乱軍の大将。中国や朝鮮がアヘン戦争のような無法をやるイギリスを初めとする西欧列強に苦しんでいるときに日本人は隣人の中国・韓国の人々に「惻隠の情」を発揮したことがありますか?

    歴史的検証抜きの愚劣な本ですよ。皆さん。

  「国家の品格」で高く評価されている「武士道」を読んで、新渡戸稲造氏という人は、全く自説を持たない他人のさまざまな説を説明しているものにすぎないことが分かった。

  あまりのひどさにあきれてこの人の本職は何だったかと思い、彼の「農業本論」を古本屋で取り寄せたが、難解で挫折。ところが「武士道」のほぼ20年後の彼の評論(「修養」タチバナ教養文庫)を読んで驚きあきれた。

  多読の害として、(1)目を悪くした。(2)乱読したので頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになった。(3)種々の説を見たので、自分の定説がなくなった。 (「修養」268ページ)

  ここに表されている新渡戸稲造氏の見解はかなり正直に心情を吐露したものとして私は高く評価したい。


  ちなみに 更に、「修養」を読み進めると、396、,397ページに武士道の自殺を「死は軽い」「生は重い」として完全否定している。

  つらいのは前の多読の三つの害説をどう読んだらいいかである。

  この多読の三つの害説がまだ生きているならば、この『修養」も「粗雑で緻密性を欠いた頭が書いた定説なき男の世迷い事」となり。

  多読の害を克服した人としてみるならば、これはまさに正論で、「武士道」を世迷い事としてすてて、多読を止めて熟読・遅毒に勤めるべきである。

  もちろん私は後者が大賛成である。

我輩は猫である

  「我輩は猫である」を読むと考え込む。
  
  どうしてこのくしゃみ先生は金田家の奥さんの鼻ばっかりあげつらうのだろう。

  明治時代の知識人とはかくも庶民に横柄なものなのかと思う。
 
  人が持って生まれた特性のうち自分の努力でどうにもならないことに何度も何度も言及することが鼻につきだす。
 
  漱石の美的感覚・不美人ナ人への思いやりのなさに腹が立ち出す。
 
  実業家への不当なまでの八つ当たりについに本を投げ出す。
  
  くしゃみ先生ばかりでなく漱石とってもとっても小さい人間に思えていやな本だ。
  
   この本のどこが名作なのかとんとわからぬ。
 
   「我輩は猫である」を何度手にしたことがあるだろうか。


   毎回毎回我慢して読もうとしても最後まで行かず仕舞い。

   「坊ちゃん」「心」「門」「三四郎」と漱石の主な著作は読んだが途中に投げ出すことはなかった

多読=速読の害

  

  私はどうしても速読ができない。

 読めない言葉が出てくると落ち着かなくてどうしても辞書を引くことが多くなる。

 大山と出てきたら「おおやま」か「だいせん」か「だいさん」なのか分からないと落ちつかない。

 ルビーと出てきたら「赤い色か」「青い色か」「白い色か」確かめないと座りごこちが悪い。

 「我輩は猫である」を読むと考え込む。どうしてこのくしゃみ先生は金田家の奥さんの鼻ばっかりあげつらうのだろう。明治時代の知識人とはかくも庶民に横柄なものなのかと思う。
 人が持って生まれた特性のうち自分の努力でどうにもならないことに何度も何度も言及することが鼻につきだす。
 漱石の美的感覚・不美人ナ人への思いやりのなさに腹が立ち出す。
 実業家への不当なまでの八つ当たりについに本を投げ出す。
 「我輩は猫である」を何度手にしたことがあるだろうか。毎回毎回我慢して読もうとしても最後まで行かず仕舞い。「坊ちゃん」「心」「門」「三四郎」と漱石の主な著作は読んだが途中に投げ出すことはなかった。

 気に入ったところを何度も何度も声に出して読んでみたい。

 読書は遅々として進まない。

 私の考えと違うところが出てくると、著者との対決が始まる。考えることを行間に書いていく。

 これをやらないと読んだ事が自分の身につかないようである。

 1960年代にアメリカのケネディ大統領が速読術で大量の書物を読んで情報を処理していることが華々しく報道され、速読術が世界中を席巻した。

 いろいろ速読術をやってみた。目を左から右に走らすだけで顔を動かすな。声をだすな。時計で測って速く読め。どれも定着しない。

 結局自分の速度でゆっくりしか読めない自分にもどっていた。

 高校時代読んだ「罪と罰」によって課せられた人類の課題「人はなぜ社会の悪人でも殺してはいけないのか」に自分なりの結論を出すのに3年以上かかった。金沢から東京まで持ち越した宿題だった。

  「人は誰でも過ちを犯すものである。犯した過ちが過ちとして自覚できてその過ちを克服できるには人によってかかる時間は違う。しかしいずれにしても、生きつづけることによってのみ過ちからの自己解放は達成される」

 「しかし、光市の母子殺人事件の犯人のように殺される側に全くの落ち度がないのに殺しを実行する残忍な殺人者には死刑を私は容認せざるを得ない。」「いたいけない子供を折檻死させてしまう母親、父親が数年の懲役で許されるのにはどうしても納得できない」

 速読術をマスターしたといって高らかに宣伝する人に私は常に劣等感を持ってきた。自分の頭の悪さに引け目を感じてきた。

 「国家の品格」を読んで私は速読=多読の効用に疑いを持つようになった。筆者の論理の支離滅裂、結論の出し方のでたらめに接して、頭のいい人の中にもひどい人がいることが分かった。

 「国家の品格」で高く評価されている「武士道」を読んで、新渡戸稲造氏という人は、全く自説を持たない他人のさまざまな説を説明しているものにすぎないことが分かった。

 あまりのひどさにあきれてこの人の本職は何だったかと思い、彼の「農業本論」を古本屋で取り寄せたが、難解で挫折。ところが「武士道」のほぼ20年後の彼の評論(「修養」タチバナ教養文庫)を読んで驚きあきれた。

  多読の害として、(1)目を悪くした。(2)乱読したので頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになった。(3)種種の説のを見たので、自分の定説がなくなった。 (「修養」268ページ)

  ここに表されている新渡戸稲造氏の見解はかなり正直に心情を吐露したものとして私は高く評価したい。


  ちなみに 更に、「修養」を読み進めると、396、,397ページに武士道の自殺を「死は軽い」「生は重い」として完全否定している。

  つらいのは前の多読の三つの害説をどう読んだらいいかである。

  この多読の三つの害説がまだ生きているならば、この『修養」も「粗雑で緻密性を欠いた頭が書いた定説なき男の世迷い事」となり。

  多読の害を克服した人としてみるならば、これはまさに正論で、「武士道」を世迷い事としてすてて、多読を止めて熟読・遅毒に勤めるべきである。

  もちろん私は後者が大賛成である。

 <未来の社会の人々がもつ倫理と道徳>

未来社会を展望するときマルクス主義はその未来社会で通用させなければならない倫理・道徳を語っていません。革命後のプロレタリア独裁の過渡期における倫理・道徳観が考慮されていません。マルクス・エンゲルスが語らず、その後のレーニン・トロツキーも考えなかったようです。
プロレタリアが権力を独裁的に取ると突然全人民に公明正大・平等に統治を行う完全無欠の善人がどこからともなく現れて統治し始めると思ったようです。楽観視しています。

「プロレタリアートという、清潔で勤勉で規律ある集団が過渡的に独裁権力をを握るという理論自体が、現実離れの神話である」(猪木正道「世界の名著プルードン、バクーニン、クロポトキン」p.9中央公論社) 

プルードン、バクーニン、クロポトキンの無政府主義者も、ブルジョア権力さえ倒せば、自由を与えられた人民が自由な社会を自然に作ると思っていたようです。どうも無政府主義者には、倫理とか道徳という言葉も規制と考えて自由を阻害するものに見えるようです。

官僚主義は資本主義社会も「共産主義社会」も同様にむしばみ社会を壊し人間を無能力者に変えます。
資本主義社会の方が官僚主義の弊害が少なくなる可能性があります。自由主義の下に官僚の支配の範囲を変える事が少少簡単にできます。特にアメリカでは大統領が変わるとほぼ官僚のトップが完全な入れ替わるため弊害が少なくなる可能性があります。
ところが「共産主義社会」の1党独裁は官僚主義を固定化してどうにも身動きができない社会になる危険性がより高い。

ソ連、および東欧諸国の「共産圏」の崩壊はこの官僚主義のもたらしたものといっていいのではないでしょうか。

資本主義社会も「共産主義社会」もむしばむ官僚主義とはそもそもどのようなものなのでしょうか。

官僚主義とは社会が複雑化し多様化すると労働の分業が細分化されるようになることのよって必然的の発生する病弊といえます。

分業が細分化されると一人一人の働き手の守備範囲は間口は狭くなり奥行きが広いものになる。ところが生きた人間の要求は総合的の場合が多い。

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