人工光合成

人工光合成の完成・発達によって人類は動物がもつ「生きる=他の生命の殺し」という宿命から自己解放できる。

書評

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  ブログを歩いていて出会ったこの本の書評欄で、この本を以下の8項目を主なものとしてまとめておられました。

  前の4項に関してはとても大切で見逃せないと思い一言述べさせていただきます。

  榊原さん、あなたの本は手にしていません。間違っていたら御反論下さい。

1. 事実婚・週末婚などの新しい結婚のかたちを許容するべき
 それで本人同士が納得するのでしたら、良いのでしょう。単身赴任の方は事実上一時的に「週末婚」を余儀なくされていて、かなり昔からあるので、この場合は一生続く週末婚なのでしょう。それだって2人が満足しているものを強制力はないのですが、私は同じ人類として絶対に勧めません。この人、大切なことが分かっていないのではないかと心配になります。人間は毎日一緒に生活しないとわかりません。週1回の「部分夫婦」はさびしいですよ。「全面夫婦」のすばらしさを教えてあげるべきでしょう。はっきり言えることはこんな「部分夫婦」が増えると人類は総体としてやせおとろえていくでしょう。すべての喜び・悲しみ・幸福・不幸・艱難辛苦・達成感を共有しない夫婦なんてそれこそ「単なる生む機械」になってしまいますよ。

2.海外からベビーシッターを呼んでくる
 大反対です。幼児の大切な時期に人間のもっとも大切な言語習得期に言語が全く通じない人と生活させるとはとんでもないことです。すばらしい本を読んであげる。間違いをしたら人間として説得して教えてあげることが必要なのに、叩く、つねる、蹴るしかできないしつけでは幼児はゆがんでしまいます。本当に恐ろしいことです。

3.機会の平等があるなら格差はあっていい
 人間は同じ親から生まれた子供でも能力に違いがあります。これは努力ではどうしても埋められないところです。運動能力ではタイガーウッズを見れば分かるように、練習と努力の量の差以上の問題をふくんでいます。音楽的才能も努力では埋められないものがあることはモーツアルトが証明しています。絵画ではピカソが証明しています。機会だけ均等であれば格差があっていいという言葉を述べる人は、能力なく生まれた人は死ぬまで社会の最下層で我慢しろと言う人なのです。生まれもった才能をそのまま一生持って行くしかないのに、その不平等の結果も甘受しろとはあまりにも非人間的ではないでしょうか。
 そのうえ巨額の金を得た人がその金をうまく使えているでしょうか? 
 ボクシングでマイク・タイソンが巨額の金を稼いでも借金地獄にあえぐのはただただ浪費をしてしまうからです。巨額の金を稼いでも何の役にも立たないことに使うことが多いのです。マイケル・ジャクソンは巨額の金(数十億か数百億)をばら撒いて私設遊園地を作って、自分の児童愛を満足させるための少年狩りの餌に使いましたね。

4.創造力を伸ばしたいなら暗記をさせよ
 これも恐ろしい暴論です。暗記力を必要なこともあります。しかし何を覚えるかが大切です。平安時代のポルの小説「源氏物語」を暗記して、生きる勇気がわきますか。
 ちなみに、アインシュタインが「π(パイ)を何桁まで暗記していますか」と記者団に質問されたとき、「全く覚えていません。百科事典を見れば書いてある事をなぜ覚えなければならないのですか」と逆に質問したそうです。
 暗記力と想像力は全く別のことなのです。

5.企業は株主の顔色ばかり見ず、長期的視点に立って「品性」を持て
 正論ですね。

6.いつも白黒をつけ、情に訴えるテレビは質が低下している
 正論ですね。 

7.医療と教育で地方にハブを作れ
 ハブの意味がわかりませんので論評を控えます。どなたかハブを意味を教えてください。

8. 地方活性化の核となるのは農林水産業
 これも全体を読まないと分かりません。

 榊原英資さん、「円」の扱いは分かるかも知れませんが、人間は全くわかっていません。これでは日本の「円」も悲しいですね。
 知識人として最低の常識を働かせてください。わかりもしないのに分かった顔をして、得意の分野の威力で押し通そうとすることはお止め下さい。

『国家の品格」

  「国家の品格」を読んで私は近来稀に見る驚きを味わった。日本の知識人はこんなひ弱な論理にころっとだまされるのか、あきれかえった。

  イギリスの産業革命に頭に来て源氏物語を初めとする平安朝文学を対置する。論理として数学・物理を初めとする自然科学および社会科学にどうしても欠かせないものに対して、「もののあわれ」を対置する。

  著者の経歴は数学者の筈。

  数学者のでたらめ性に驚く。だが待てよこれはどこかにあった論理だぞ。

  そうだいわゆる鶴亀算だ。

  『鶴と亀の足の数を合計することなんか絶対にない』

  算数的お遊びをどこにでも通用させているのだこの人は。

  筆者の論理の支離滅裂、結論の出し方のでたらめに接して、頭のいい人の中にもひどい人がいることが分かった。

  「国家の品格」で高く評価されている「武士道」を読んで、これまた驚いた。

  新渡戸稲造氏という人は、全く自説を持たない他人のさまざまな説を説明しているものにすぎないことが分かった。

 あまりのひどさにあきれてこの人の本職は何だったかと思い、彼の「農業本論」を古本屋で取り寄せたが、難解で挫折。ところが「武士道」のほぼ20年後の彼の評論(「修養」タチバナ教養文庫)を読んで驚きあきれた。

  多読の害として、(1)目を悪くした。(2)乱読したので頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになった。(3)種種の説のを見たので、自分の定説がなくなった。 (「修養」268ページ)

  ちなみに 更に、「修養」を読み進めると、396、,397ページに武士道の自殺を「死は軽い」「生は重い」として完全否定している。

  これで行くと新渡戸氏自身は晩年「武士道」を乱読の結果頭脳が粗雑に流れて、緻密を欠くようになり自分の定説を持たなくなった人が書いたものということになる。

  そんな情けない「武士道」を日本人の最大の美点であるかのように称えている。そして武士道の美点として「惻隠の情」を上げる。

  「惻隠の情」とは「弱いもの、苦しんでいるものを思いやる気持ち」のはず。

   日本は果たして国際的に「惻隠の情」をいつ発揮したのか?

   秀吉は国内を平定すると先の見込みも無くすぐ「朝鮮征伐」を命じて韓国の人の「鼻」「耳」を集めた。外国の軍隊にやってこられて鼻無しの人、耳無しの人が多数歩いているさまを想像したとき私は絶句した。
   
   徳川政権を打倒すると西郷隆盛はすぐに「征韓論」を持ち出した。入れられぬとすねて故郷に帰って反乱軍の大将。中国や朝鮮がアヘン戦争のような無法をやるイギリスを初めとする西欧列強に苦しんでいるときに日本人は隣人の中国・韓国の人々に「惻隠の情」を発揮したことがありますか?

    歴史的検証抜きの愚劣な本ですよ。皆さん。

我輩は猫である

  「我輩は猫である」を読むと考え込む。
  
  どうしてこのくしゃみ先生は金田家の奥さんの鼻ばっかりあげつらうのだろう。

  明治時代の知識人とはかくも庶民に横柄なものなのかと思う。
 
  人が持って生まれた特性のうち自分の努力でどうにもならないことに何度も何度も言及することが鼻につきだす。
 
  漱石の美的感覚・不美人ナ人への思いやりのなさに腹が立ち出す。
 
  実業家への不当なまでの八つ当たりについに本を投げ出す。
  
  くしゃみ先生ばかりでなく漱石とってもとっても小さい人間に思えていやな本だ。
  
   この本のどこが名作なのかとんとわからぬ。
 
   「我輩は猫である」を何度手にしたことがあるだろうか。


   毎回毎回我慢して読もうとしても最後まで行かず仕舞い。

   「坊ちゃん」「心」「門」「三四郎」と漱石の主な著作は読んだが途中に投げ出すことはなかった

 

  何度も何度も読んだことがある愛読書の1つである。
  いつ読んでも、読んだあとの虚無感,無力感,寂寞感を抑えることができない。

  カンダ―タは大悪党。悪の限りを尽くして地獄に入れられる。針山地獄,血の池地獄でのた打ち回っている。その姿をお釈迦さまは極楽の蓮池から見下ろしておられる。

  ところでこの大悪党も一度だけ小動物の命を救ってやったことがあることをお釈迦さまを思い出しになられて、蜘蛛の糸を一本お垂らしになる。

  地獄から脱出するただ一つの方法と考え付いたカンダ―タは必死にしがみつき登り始める。まさに「溺れるもの藁をもつかむ」心境。途中一休みして下を振り返って見ると,有象無象の罪人たちがどんどん列をなして上ってくる。自分一人でも折れてしまいそうなか細い糸に、カンダ―タの恐怖心は募り、思わず叫ぶ。「これはわしの糸だ。おりろ!」 

  その声が響くと同時糸はプッツンとちぎれる。

  極楽の蓮の池には波も立たず、穏やかな日が時を刻んでいく。お釈迦さまは何事もなかったかのように散策をお続けになる。下の地獄ではいつものように悪人どもが苦しみもがいている。

  海のごとく広大な智慧と大慈悲をおもちのお釈迦さまが、なにゆえに我々庶民や悪党の智慧なきものに、のり越える知恵の一端をお示しにならずにこのような無残な試練にかけられるのか分かりません。

  ただ一つ思い当たるのは実を言うとお釈迦さまは世の人々が言われているほど智慧をお持ちではないのかもしれません。皆さん、だから自分の頭で地獄から脱出する方法を考えてくださいというのが芥川竜之介の本意なのではないでしょうか。

  今改めてこの文をしたためてみて思いついた結論に何か新しい発見をしたようでうれしい。

  それが2500年を経ても人間社会の宗教・哲学問題は深刻化する.が解決できないいわれなのではないでしょうか。自分たちの頭で考えていきましょう。

五体不満足

  1976年4月6日、ひといちばい大きな産声をあげてひとつの生命が誕生した。しかし重度の障害を負って。手足の部分がジャガイモぐらい。医師の診断は先天性四肢切断。手も足もないコケシ人間の誕生。五体とは頭と胴体を一体に見て、両手、両足を四体と見る。するとこの赤ちゃんは頭と胴体だけの「一体人間」。親は子供の誕生の無事を祈って「五体満足であってほしい」とひたすら願うのに。

  両親はさぞ、こんな子を生んでしまった自分たちの不幸をなげき、この子の行く末を案じて悩み苦しんだだろう。その嘆きの深さ、苦しみの深さはどんなものだろう。そこからどうやって抜け出し、こんな明るい青年が成長する環境を用意できたのか、その秘密が知りたい。またこの子自身の苦難の道をのぞいてみたい。そういう思いに駆られて読み進んだ。私のもくろみは見事に砕かれた。不幸・悩み・苦しみ・嘆き・苦難・苦闘などという言葉とは全く無縁の地平でこの親子は明るく状況を乗り越えてきた。この本は現代の奇跡とも言える親子のすがすがしい歩みを、本人の口から明るく語ったものである。こんなにひどい「障害」を負った人がかくも明るく堂々と生きていける力はなにか?ここでは2点に絞って考えてみたい。

  まずお母さんは「かわいい」と新な生命の誕生を迎えた。母親のこの態度こそこの本の全体を流れる明るい色調である。重度の障害を負ったわが子を見て、絶望に陥いることなく、「かわいい」と迎えてこの子の未来を大きく切り開いた。「かわいい」という言葉の中には「慈み育てたい」という人間としての愛情があふれている。「かわいい」と思うがゆえに人間らしく生きてほしいと願う。人間としての知性・感情を持ってほしいと思う。友達と話し、笑い、怒り、喧嘩し、仲直りしながら生きていってほしいと期待する。だからふつうの子供と同じようにたくましく生きていく方法を身に付けていく。ほっぺたと短かい腕の間に鉛筆を挟んで、まわりと遜色のない字を書く。皿の縁からスプーンやフォークを差し込み、てこの原理のようにして、ものを食べる。ハサミの一方を口でくわえ、もう一方を手で押えながら、顔を動かして紙を切る。ふだんはL字形になっている体のまま短い足を交互に動かし、自分で歩く。短い手で椅子を押さえて椅子によじ登る。バットを脇の下に挟み、体を回転させてボールを打って野球をやる。ジャングルジムを鉄棒の代わりに使い、脇の下に棒を挟み込んでグッと力を入れて跳び上がりぶら下がる。左肩と首で傘を挟み込こみ、柄の部分を足で押さえて、右手で車椅子を運転して雨の日も独りで通学する。
  
  もし「かわいそう」ととらえたらどうだろう?「かわいそう」も人間としての愛情にあふれていることは間違いない。だが「かわいそう」という言葉には、保護してあげなくてはならない、かばってあげなければならない、という感情がつきまとい、障害者の自立という気持ちを殺いでしまう危険性があるのではないだろうか?「かわいそう」という立場でまわりが接したらなんでも人並みにできる人間に成長できただろうか?
  被害者自身が強い人間になるという気持ちに水をかけることになるのではないだろうか。常に人から保護してもらわなければならない立場に置かされては、人間としての尊厳と明るさが失われるのではないだろうか。障害者であっても人に迷惑をかけることなく生きられる社会が優しい社会、成熟した社会とは言えるのではないだろうか。拍手喝采かっさい!!

  もう1つ目を見張らせるのは、両親は「一体」しかない重度の障害をカタワや異常とはとらえず「身体的特徴」・「個性」ととらえた点である。足が速い、歌がうまい、身のこなしがいい、かしこいことを人に隠し立てしないように、両手両足がないことも「特徴・個性」と思えば人に隠し立てする必要がない。むしろそれを話題にして初対面の人と親しくなり友達の輪を広げていく。これこそ素晴らしい発想の転換である。

  そもそも人間は比較することが大好きな動物である。善と悪、プラスとマイナス、長と短、美と醜、大と小、黒と白など比較する言葉は尽きない。あるものの標準を設定してその両極端を考える。そしてその一方を正しいもの、あるいは喜ばしいもの、推奨すべきものととらえ、他方を正しくないもの、否定すべきもの、克服すべきものととらえる。正しくないものははなはだしくなると、排撃され、忌み嫌らわれ、その存在すら隠して社会から抹殺される。誰がいつ始めたか分からない基準、あるいは誰がいつ始めたか分かっているがそれがそもそも正しいのかどうか、確かめようとしないで守っている基準に、わたしたちは安易に依存しすぎてきたのではないのだろうか。いわゆる世間の通説が本当に正しいのかどうかをもう一度考えさせることを私たちに問いかける本ではないだろうか。

  「五体満足」は儒教の「身体髪膚(はっぴ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」(われわれのからだ、髪ひと筋、皮膚一片にいたるまで、父母からいただいたものであるから、大切にして、少しも傷きずつけないようにすることが、親孝行の第一歩である)に始まっているようである。中国の最初の歴史書「史記」を表わした司馬遷が武帝によって宮刑(男子の陰茎を切り取る刑)に処せられて、「親からもらった体を損なって、先祖に申し訳ない、このまま生き延ること忍びがたい」と思い、自殺を真剣に考えたのもこの儒教の教えによるという。日本には「五体満足」でないものを「片端者」と忌み嫌らってきた伝統がある。源氏物語に「いみじきかたわのあれば、人にも見せで、尼になして」(ひどい体からだの障害があるので、人に見せないで、尼さんにした)という表現がある。身体障害者を社会から隠くす存在にしてきたのである。儒教思想から出発しているこの「カタワ者排撃思想」こそ私たちの考え方、生き方から捨て去らなければならない、と改めて決意させてくれる本ほんである。

  手足のないことから発生する不便を克服すべき課題とすえた。。創意と工夫であらゆるハンディーを1つ1つ克服していく。創意と工夫さえすれば人間なんでもできる、と勇気を沸かさせてくれる本でもある。

  宮城まり子さんが主催する「ねむの木き学園」の子供たちの芸術活動、大江光さんの生み出す素晴らしい音楽などさまざまな障害者の活動から、これまでも人間の素晴らしさを学んだ。いままたここに「五体不満足」な乙武洋匡さんから多くの学ぶものを得た。ぜひみなさんも一読して考えてもらいたい。人間の素晴らしさをつかみ取ってほしい。既成の考えの枠を破ぶって素晴らしい未来を作り出す大きなヒントがこの本から手に入れることができるでしょう。

  「今持っている考えを疑がってみよう。その考えの延長に本当に人類の幸せせが待ち構えているのかどうか、考えてみよう。そして考えを大胆に転換してみよう。そこに人類の素晴らしい未来が切り開かれる可能性があるのではないだろうか」 

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