人工光合成

人工光合成の完成・発達によって人類は動物がもつ「生きる=他の生命の殺し」という宿命から自己解放できる。

お釈迦さまとの対話

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福岡事件に思う

  

  お釈迦様、

  福岡でまた嫌な事件が起きました。

  福岡の中学2年生2人が校長室であばれ、窓を割り、校舎から小便。校長と教頭は管理責任を感じ心労のために2月から病気休暇をとっている。

  またもや荒れる学校の出現です。

  悲しい社会です。

  さびしい社会です。

  みなさんまじめに考えないといけない社会です。

  大切なことはこの子らが何のために生きているのか、生きるとはどういうことか、真剣に生きることがなぜ大切なのかが全く分かっていないと言うことです。

  そして分かっていないがゆえにそれを教えて欲しくてもがいているのではないでしょうか。

  「先生、何で生きなくちゃならないんだよ。なぜしちめんどうくさい勉強なんかしなくちゃいけないんだよ。教えてくれよ」と彼らの行動を翻訳してみたらどうでしょうか。

  そうしたら分かような気がしてきます。

  この校長先生も分かっていないのではないか。

  分かっているつもりでいたが、いざやってみたら説明して納得させることができない自分にぜつぼうされているのではないでしょうか。

  生徒に説明する前に自分がわかっていないといけないことがたくさんあります。

  命の問題他いちばんむずかしい。

  子供たちばかりでなく、大人たちがまず自分自身に生きる意味を常に語りかけなければならないときだと思っています。

  そんなつもりで「葉っぱ宣言」を校門の前で毎朝、小・中・高校の前でまいています。

  通る大人の人にまいています。

  私自身毎日毎日読んでいます。

  そして「心の石鹸」で毎日毎日心の洗濯をしています。

  そうしないと私自身が汚れ・腐っていく危険を感じるこの世の中です。こわいですね。

  お釈迦様、

  お釈迦様はご自分の言葉で語られた。

  だが、お釈迦様亡き後の惨状は目に余ります。

  みなさん、どなたもお釈迦様がああ言った、こう言ったばっかり言っている。

  自分の頭が無いのです。そして二言目には「それほどお釈迦様は偉大なのです」と1から10までお釈迦様にすがっています。

  本当に困ったものです。

  日本の知識人にこのタイプが結構いるんですよ。

  典型としてすぐ思い出すのは新渡戸稲造氏の「武士道」です。

  鈴木大拙氏の「禅とは何か」です。

  その最大の特徴はA氏がこう言った、B氏がこう言った、ばかりです。

  だから君はどう思うのかね、となると何もないのです。

  3年かけて「武士道」に書かれている事を跡付けて分かったことは、新渡戸さんは持論のない日本の知識人の最悪の1人です。

  「国家の品格」の作者も同然です。

  読んだ本を考えて自分でまとめてその人の名をかぶせずに語るべきだと思います。

  2+2はいつの人が語っても4なのですから、それが真理だと思ったら自分の言葉で自信を持って語るべきです。

  その中身が正しいかどうかが問題なのです。

私の青春

  お釈迦様、

  お釈迦様との対話も私の憂さの捨て場書になってしまったようでごめんなさい。

  青春とは貧しくて、知識も、知恵も、力もない、無い無い尽くしのどこまでいっても暗い1ページです。

  ただただ夢だけは大きすぎて届きようも無く遠くにあった日々」です。

  いくつの年になっても青春の日は胸が痛むただただ悲しい日です。

  だからこそこの残された日々に思い出に浸ることなく一瞬一瞬を未来を開くために生きようと思って「葉っぱ宣言」を学校の前に立って「読んで頂戴」と叫んでいます。

肉体労働と精神労働

  お釈迦様

  「肉体労働と精神労働」

  兄はこの言葉が好きでした。

  いろいろ考え出します。遊び。お金儲け。親をだまして映画を見に行く方法。

  年齢で2年8ヶ月、学年にして3年の違い、もって生まれた頭脳の明晰度の圧倒的違い、運動能力、芸術的感性、すべての点で圧倒的格差の中で遊びをやっても何をやっても対等に立ち会えるあいてではありませんでした。

  自分が得意な遊びで、輪の中に誘い勝利者として勝ち誇った顔をします。

村の盆踊りの最後を締めくくる仮装行列は村の最高の催し物の1つ。兄は鞍馬天狗の虚無僧姿を思い立つ。私に和服を着せ籠をかぶらせ、父の愛用の尺八を手にもたせて、踊りは人のを見て適当にやれ、と指示を出す。私は指示通り最初から最後まで賞金欲しさに踊りぬく。籠をかぶっているから正体は分からないが、恥ずかしい上につかれる。小学生ながら見事3位入賞。賞金は山分け。

  この役割分担を兄は「精神労働は俺、肉体労働はお前」と表現した。
  頭がいい俺がいろいろ考える。考えが足りないお前は肉体労働を担え。
  この明晰な分析に反駁する余地がなく、黙って従うしかない。
  私は「肉体労働」と「精神労働」の分裂の歴史的事実をもっとも原始的な形で再生産していただけなのかもしれません。

姉と兄は小学校高学年でそろばんを始めると、小学校代表で県の大会に参加する。2人とも習い出して1,2年で1,2級まで駆け上がる。
私も4年生からそろばんをやった。どうしても上達しない。まじめにやった。でも中学2年で5級がやっと。

  中1の最初の数学の授業で先生が出席簿と照らしながら顔を覚えていく。私のところへくるとまじまじと顔を見ながら、「君が弟か。お兄さんは数学ができたぞ」の一言。この先生の最初の言葉が私の心の中では、「お前はどじで、だめ男だな」と翻訳されてくる。「できる言われる子」のあとを歩む「できない弟」の悲しみを家の内でも外でも味わっていました。

  でも日々の生活の中で何か変だぞと思うことがたびたび重なる。

  母がぞんざいに字を書く兄に「もっときちんとした字を書きまっし」と助言する。「ほっといてくれ。字なんか自分がわかれば良いんだ」と反発が走る。
  それ以来、誰にも言わず一人歩きながら考える。「字はなぜきれいな方が良いのか」「そもそも字とは何か」「なぜ字がきれいな人とそうでない人がいるのか」

  ずっとずっと考えているとはっと思いつく。
「自分が分かるだけでいいものであれば、字が生まれるだろうか。字は自分の思いを他人に伝えると言う必要があったから生まれたのだ。一人にしか分からないものだったら自分の思いを他人に伝えられないではないか。ということは誰にでも分かる字を書くことが字を覚える上で大切なことのひとつなんだ。生まれつき僕のように字の下手の人間がいる。下手はしょうがない。少なくとも読んでもらいたいと言う誠意が字ににじむ様に努力することではないか。それが丁寧に書くことだ。よしこれからはできるだけ丁寧に字を書く努力をしょう。」

何日かかったか。何週かかったか。何ヶ月かかたか。何年かかったか今ではわかりません。いつのまにか私の心の中に「字はなぜきれいに書いた方がいいか」と言う問題の解答ができていました。

そして、いわゆる頭の良い人に対する疑惑が心の中に広がりました。頭のいい人はいろいろ思いつくかもしれない。だが自分の頭で考えない人もいる。思いつくことと考えるは全く違う場合がある。その違う場合こそゆっくり考えないといけない。
そして頭の言い人でも考えていない人は「危険だぞ」と思うようになりました。

その後人生を渡る中で、いろいろの頭の良い人に出会いました。素晴らしい人がたくさんいます。
とってもきたない字を書く人に出会うことがたまにあります。
そういう人は自己中心主義で、相手の存在がない。相手の人に分かる字と言葉遣いをしてあげようと言う心遣いがありません。

「肉体労働」と「精神労働」の分離を語り、相手を「肉体労働」の担い手に閉じ込めると人間はどうなるのでしょうか。
 <肉体労働に閉じ込められた人>は

1日に何時間も何時間も肉体労働ばかりに固定されると、疲労こんぱいして、精神活動を行う活力と気力を奪い去られた状態を続けるようになる。あるいは疲労はしていなくても人間的努力を要する活動を行う意慾をわき起こせなくなる。そして性欲と食欲などの動物本能としての欲望ばかりの人間になってしまって、音楽、絵画、彫刻、映画などの芸術的欲求、小説、詩、短歌、俳句、川柳などの文学的欲求、知識欲などの人間特有の欲望が薄れるか開発されなくなる。
 あるいはまた、野球・サッカー・ゴルフなどの勝負の結果を重視するスポーツに精力を注ぎ、または応援活動に生き甲斐を見つけたりします。
本来人の幸福を作る行動であったものが卑しめられ社会の隅に置かれるとその職業についている事実を隠そうとする。または恥ずかしい行為と見るようになる。
そして本業に打ちこめず、本業以外が自分の生き甲斐であるかのように感じるようになる。
これは人間が作り出した大きな悲劇の1つである。シェークスピアの名作のような舞台上の悲劇ではなく、生きた人間を非人間化する悲劇である。

<自己を精神労働にのみ閉じ込める人>は

肉体労働を忌避し、卑しむ傾向が強くなる。
ひいては肉体労働を職業とする人々への差別につながりかねない思考と行動をとるようになる。

<本来の労働とは>

  労働とは自然を人間的に変える行為。自然を生きとし生けるものの幸福のために意識的に変化させる行為である。
  
  その行為が主に肉体を使うことで達成される労働を肉体労働と言い、主に知的活動を使うことで達成される労働を精神労働と言っている。

  本来は知的活動を全く伴わない肉体労働はありえないし、肉体的活動を伴わない精神労働もありえない。しかしどっちか一方に傾く場合が多い。

  人間は本来肉体の発達と精神の発達が均等に行われるのが望ましい。

  だが人類の歴史はこの分裂を固定化し

  だが事故、怪我、病気、医療過誤、いじめ、戦争、さまざまな要因で肉体の健全が損なわれ、精神の健全がむしばまれる。

未完

親鸞様の活力

  お釈迦様

  親鸞様は煩悩を消せない人でした。いや煩悩を楽しんでいた節さえあります。

  仏教徒でありながら堂々と妻帯を決行なさいました。

  これは佛教徒としては邪道でしょうが、人間としては本分をつくしきったことになります。

  妻を娶らず子を儲けないことこそ人道に反することであるはずです。

  人類の繁栄を拒絶することになりますから。

  いわゆる佛教の唱える煩悩こそ人間として当然なことではないでしょうか。

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