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お釈迦様
親鸞様から学びました。
いや正しくは唯円様から学んだのかもしれません。
いやもっと正しくは歎異抄を「私訳」された五木寛之様から学んだと言うのが真実かもしれません。
五木寛之氏の「私訳歎異抄」の44ページに「そもそも論争をすれば、どうしても怒りや憎しみが生じるものである。知恵ある者はそのようなことには近づくべきではない、と法然上人もおっしゃった」
私はこれまで論争がすべてを解決するものと信じてきた。
自分の信念と行動の正しさを堅めその歴史的・論理的正当性の構築に務めようとした。
そして相手の歴史的・論理的弱さを追求し、弱さの暴露で論争の勝利を宣言して悦にいっていた。相手が同調しないのを相手の未熟と片付けてきた。
戦後新左翼の革マルと中核のすざまじい党派闘争こそこの事実を鮮明に解き明かしてくれている。
革マルが理論を磨き相手をあしざまにののしればののしるほど相手は硬直し敵対の態度を固めていった。
そしてことある毎に使う武器がどんどん高度化し、闘争形態は残忍になっていった。
最初は細いひ弱な木の角材から、堅い鉄のバールを打ち下ろされ死者を作り出した。
常に自己を正当化し相手のののしって。
赤軍派にいたってはもっともっとひどく、残忍ですさまじい、自己党内の粛清から武器を鉄砲から機関銃、爆弾にまで広げ、一般人の殺戮まで正当化し出した。
そうなのです。あらゆる戦いはこの時点から反省しなおさなければならないのです。
闘争形態として武装を完全否定し、論争そのものの終焉を宣告しなければならないのです。
その武装闘争の放棄と論争の終焉を前提とした「葉っぱ宣言」による人の幸せを作る労働が始められなければならない。
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