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私は特にどじに見えたらしい。
父は3番目の子供である、私に英語の特訓を思いついた。
中学入学直前のある日突然父は私に言った。
新しい英語の教科書を持っておいで。
その夜から父による英語特訓が始まった。
とても訥々(とつとつ)とした、へたな発音だった。
それまで、我が家で父から学校の勉強で手ほどきを受けたものは皆無である。しかし、下手ながら私の英語力をどうにかしてあげたいという父として伝言ははっきり受け取ることができた。私は感動しつつ真面目に勉強した。
1週間の特訓は確実に私のものになった。今まで予習や宿題をやったことがない子供がレッスン3つを予習し、アルファベットを覚えて入学したのである。
小学入学時には片仮名、平かな、漢字のどれも読めない。自分の平かなの名前も書けない子で入学したのとは大違いである。小学生で勉強の素晴らしさに触れたのは3年生の九九を習ったときがはじめてだった。九九の便利さに驚嘆して、一生懸命暗唱したのを覚えている。それから少しずつ算数の成績がプラス一からプラス二に伸びるようになった。(当時の通知表はプラス二、プラス一、ゼロ、マイナス一、マイナス二の五段階評価であった。一二年生を通じて私の通知表はすべてゼロであった。母は私の通知表をもらってくるといつでもまじまじと私の顔を見て「全部ゼロって変だね。この子でもどっか特徴がありそうなのに」と私と先生の両方を責めているような言葉にいつもじっと耐えていた。「何の特徴ももたない子供を持ってしまった悲しみとそんな子でもどこか良い所を見つけてのばしてくれればいいのに」という先生への非難が入り混じっていた。一言も反論できなかった。二年間、本当に通知表渡しの日はつらかった。)
この1週間特訓は私に決定的な影響を与えた。いつでも英語はいい点数が取れるようになっていた。この1週間が私の教育の大きな原点のひとつになっていることは間違いない。
あとから、母から聞いた。「わたしは女学校で英語を三年間習ったのよ、でも苦手で身につかなかった。教えられないの。お父さんは小学校しか出ていないから、英語なんか学校で習っていないのに教えられるって変だよね」
この事実が私に大きく「教育」=「学ぶ」とは何かを根本から考える転機になった。
私は、二つの教訓をしっかり胸にしまいこんだ。
「勉強は、学校で習おうが、習うまいが必要があれば学ばなければならないもの」
「せっかく学んだものは自分の子どもに学ぶきっかけを与えられるくらい自分のものにしないと意味がない」
英語の勉強は二つの点で明らかに違っていた。英語は日本という狭い国土を離れて世界に通じるのだから、日本語と同時にとっても大切な教科である。しっかりべんきょうしようと決意した」
いつのまにか辞書を片手に発音記号をいじる子になっていた。まだテープレコーダが世に生まれていなかった時代。テレビも日本になかった時代。それでも辞書を通じて本物の英語の発音を求める子になっていた。教科書の裏の単語のヒントを一回も頼ったことがなかった。cat, cap, hat, bat, の -a-
の発音とその発音記号、cut, cup, hut, but の -u- の発音とその発音記号の違いが分かり嬉しかったことを覚えている。学校で発音記号の指導を一時間も受けずに発音記号に興味を起こしていた。
片意地に辞書を引き、発音記号で英語を覚えようとしていた。分かりもしないのにNHKの松本享氏の「英会話」を聞いていた。
二学期の終わりころ、英語のテストに一〇〇点がついてきた。
一〇〇点を取ろうとしないで取れている自分に驚いていた。夢にも考えなかった一〇〇点が取れていることに一人静かに感動していた。母とも、父とも、兄弟ともこの一〇〇点の喜びは共有していない。私だけの胸の奥に収めたこの世の一人だけの宝になっていた。
テストはやりようによっては100点とれるものであることを身をもって経験した。
私はこの1週間特訓はどんな素晴らしい講義より素晴らしい教育だったといつでも感謝している。
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