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<未来の社会の人々がもつ倫理と道徳>
未来社会を展望するときマルクス主義はその未来社会で通用させなければならない倫理・道徳を語っていません。革命後のプロレタリア独裁の過渡期における倫理・道徳観が考慮されていません。マルクス・エンゲルスが語らず、その後のレーニン・トロツキーも考えなかったようです。
プロレタリアが権力を独裁的に取ると突然全人民に公明正大・平等に統治を行う完全無欠の善人がどこからともなく現れて統治し始めると思ったようです。楽観視しています。
「プロレタリアートという、清潔で勤勉で規律ある集団が過渡的に独裁権力をを握るという理論自体が、現実離れの神話である」(猪木正道「世界の名著プルードン、バクーニン、クロポトキン」p.9中央公論社)
プルードン、バクーニン、クロポトキンの無政府主義者も、ブルジョア権力さえ倒せば、自由を与えられた人民が自由な社会を自然に作ると思っていたようです。どうも無政府主義者には、倫理とか道徳という言葉も規制と考えて自由を阻害するものに見えるようです。
官僚主義は資本主義社会も「共産主義社会」も同様にむしばみ社会を壊し人間を無能力者に変えます。
資本主義社会の方が官僚主義の弊害が少なくなる可能性があります。自由主義の下に官僚の支配の範囲を変える事が少少簡単にできます。特にアメリカでは大統領が変わるとほぼ官僚のトップが完全な入れ替わるため弊害が少なくなる可能性があります。
ところが「共産主義社会」の1党独裁は官僚主義を固定化してどうにも身動きができない社会になる危険性がより高い。
ソ連、および東欧諸国の「共産圏」の崩壊はこの官僚主義のもたらしたものといっていいのではないでしょうか。
資本主義社会も「共産主義社会」もむしばむ官僚主義とはそもそもどのようなものなのでしょうか。
官僚主義とは社会が複雑化し多様化すると労働の分業が細分化されるようになることのよって必然的の発生する病弊といえます。
分業が細分化されると一人一人の働き手の守備範囲は間口は狭くなり奥行きが広いものになる。ところが生きた人間の要求は総合的の場合が多い。
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