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韓国では儒教の教えがベースになっているので、
親孝行するのが当たり前、自分よりも目上の人に礼儀を尽くすのが当たり前という、
国全体がそんな雰囲気を持っています....
そのために、はっきりと態度や口で表現するのがあたりまえなのですが
私には日本はどうも、その「表現」の部分があいまい、はっきりしない、弱い、
というように感じられます......^^;
私個人が、そのように感じて育ってきただけなのか??
とにかく、自分は、親子関係において、そういうわざとらいい?^^;
はっきりした態度や表現に対して好感を持つようです...
なので、韓国の国民性や韓国人の生活生き方、そんなものが自分には
とても合っている、楽だ、などと感じているんです.....
大体統一協会に惹かれたのも、その積極的なお世辞や、電話、贈り物といった
小さな親切に情が惹かれたからでした.....
逆に言えば、家族との関係が希薄でした......
家族に愛がないわけでは全然ありませんでしたが、なんというか........
物足りないものを感じていましたよね.....−_−
そんなときに自分に親切にしてくれる相手が、ありがたくうれしかった.....
そうして人って結局、情を受けたら、「恩返ししたい」という気持ちにならざるを
得ないようですよね......−_−
それで、「知識」よりも、自分に対して働きかけてくれたその「情」に
ほだされてしまって、「正常な判断」はどこかに飛んでしまった......
親子でも、学校の友達でも、深く付き合ったりする情関係を練習しなかったわけです.....
学校では、勉強だけしてきたし......
人間関係は、礼儀を持って当たり障りなく生きてきただけだったし......
もっと、自分の気持ちを表現したり、人間関係で悩んでみたり、
もしかして学校って、勉強よりも実はそういう人間修行的な部分が、もっと大事だったのかなって
今頃思うんですよね.......
今、娘達の学校を見ると......
韓国の勉強に対する意気込みはすごいものがありますよ、それはそれとして、
田舎で片親家庭だとか、祖父母家庭、共働き家庭が多く
申し訳ないけど、その子供達と付き合っていく中で、人数も少なく6年間も同じだったりする
その同じメンバーと付き合いながら、中身の濃い友達関係を経験できる
娘達は、私の通過した学校時代とは、まるっきり似ても似つかないわけです......
それで、逆に感謝なんだと自分は思えます......
自分が幼かった時経験できなかったことを、友達にもまれるということ、しかも
問題の多い?と思われる子供達と接しながら人生勉強ができること。
勉強って、学校に行かなくてもできるわけでして。それなら学校の意味は?
人間として成長する場所だと思うわけですよね.....
私の小学校時代は、みなまじめな友達で、問題の多い子もいなくて、平和に授業を受けて
楽しく遊んで.....とても恵まれていたものだから、人生って、こんなふうに
順風満帆で行くのだと思ってしまったようです......
そうやって恵まれた分、大人になってから統一協会で高いお金を払って苦労するという
人生が待ち受けていようとは、誰も想像しなかったと思います.......自分さえも。
ふと時々、同級生はどんな風に今生きているんだろう?という思いが何度となく
頭をかすめます.....^^;
今では私も図太くなったので、人間なんでもあり!生きていればよい !と心からそう
思っていますし、統一協会にいたこともやめたことも隠すこと何一つありませんが、
言いたいことは、
人間は、情的な関係を求めるんだなということ。
対人関係において、特に大切な人には積極的に表現することが必要だと
思いました....家族にはかえって安心してしまって、表現がおろそかになっていないか
気をつけたいということ。黙っているのは一緒に住んでいても、関係がないのと
同じことなんだなと思います.....
私が韓国に来て、学ぶことがたくさんありました.....
人生無駄なことは何一つないんだなと、思います........^^
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こんにちは、
本当に儒教の教えがベースになっているでしょうか?道徳、倫理は儒教よりも聖書にはっきり示されています。お読みになればお分かるようになると存じます。宜しくお願い致します。
2011/5/23(月) 午前 10:54 [ nobu ]
内緒様ありがとうございます。^^メッセージ送りますね。^^
2011/5/26(木) 午前 8:30
>人間は、情的な関係を求めるんだなということ。
>対人関係において、特に大切な人には積極的に表現することが必要だと
私もそう思いました。
人格と人格との触れ合いが人間関係ですからね。
2011/5/26(木) 午前 11:02 [ - ]
中川さんありがとうございます。^^
母親なので、子どもとのコミュニケーションには特に
気を遣っています...^^;
自分が親との十分な会話を楽しんで来れなかったので
特にそう思うのかもしれません....
自分探しの道は、結局カルトに所属するという遠回りをして
親に散々心配かけましたが、そうでもしなかったら、親は
私が問題の何もないいい子としてしか考えず、
表面的には何事もなく過ごしていたかもしれませんよね。
カルトを通過しなかったら私はたまった不満が吐き出せず、腐っていたかもしれません...
なので、私が統一協会を通過しなければ神にたどり着かなかった
とも言えるんですよね....
みな、自分の傷を抱えながら生きているではないですか。
その傷を癒すのがたとえ間違った薬であっても、死んでしまうよりはましです、人は生きていかなければならないでしょう
でも、本当に神を求めるなら、カルトにいようがどこにいようが
結局は、探し当てるんだと思うんです...
だからといって、悪がはびこるのをよしとは思いませんが、
人が本当の神を知りたいという心が弱いことが、
悲しい
2011/5/27(金) 午前 8:49
現実ですよね(つづきでした^^;
2011/5/27(金) 午前 8:51
内緒様。^^わかりました。いそがしくないときでいいんですよ。
2011/5/27(金) 午前 8:53
福音の響きさん。
片道一時間の教会で半日過ごしたので。
スズランさんに、カール・ラーナーの「無名のキリスト者」を伝えてあげてください。
あれ?言う場所が違う?(笑)。
スズランさん、今日も忙しい日でした
2011/5/27(金) 午後 9:55 [ - ]
「無名のキリスト者」ですか・・・神に心を寄せ、キリストに憧れて、人は教会へ導かれて洗礼を受けます。では洗礼を受ける前はそのような者はキリスト者ではないかといえば、確かにすでに心を寄せており洗礼は受けずとも信じているのであれば、キリスト者でしょう。では、そのようになるものであっても、まだ教会を知らず、キリストを知らないならばどうか?というところまでラーナーは考えたのでしょう。人の目に分からずとも、神の目に彼らは「無名のキリスト者」でしょう。神に心を寄せ、キリストに憧れ、「聖書を学びませんか?」といわれて、からめとられた人々が「無名のキリスト者」ならば、彼らは神にとって一匹の羊です。
2011/5/29(日) 午前 0:28 [ - ]
「無名のキリスト者」で、スズランさんに伝えたかったのは、ご両親もまた「無名のキリスト者」だということです。
スズランさんが統一協会に入信して以降、心底心配し、祈る思いで奔走されたでしょう。
心底家族に心配された人は立ち上がれるんです。
「情の関係」がいかに大切かがよく分かります。
この、心から相手の幸せを願い合う関係の中に神様は臨在したもうのだと確信しています。
“互いに愛し合う”これは福音の中の大切な掟でしょう?
神様の温かい眼差しが、思い合う家族の上に豊かに降り注がれているのを感じています。
とても、福音的な関係ですから。
2011/5/31(火) 午後 5:39 [ - ]
カルトも悪いですけど、世も間違ってますもんね。っていうか、世もカルトですもんね。結局クリスチャン家庭に生まれない限り、私たちは皆、生まれてすぐにカルトの文化を学ばされていますから、また、私たちの親もカルトしか知らずに生きてきて、おかしくなってますから。誰かが正しい教えに結びついて、その人を通して神の力が回りに影響を与えていくしかないですからね。
2011/6/21(火) 午後 4:36