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ファーストステージ<絆> 3
春爛漫。
薄く晴れ渡る青空に、春の優しい雲がかかっている。霞と呼ぶべきだろうか。
小さなログハウスを改造したオープンカフェ。武蔵野の佇まいに完全に溶け込んでいる。店内のカウンターの向こうのキッチンでは、白のワイシャツに蝶ネクタイ姿の佐倉亮一郎がコーヒーカップやソーサーを拭いていた。
詩音はここでは、ウエイトレスという設定になっていた。
天使の作為は、ごく自然な形のシチュエーションを、いとも簡単に作ってしまうのだ。
第二の僕(しもべ)である、タロウは、カウンターの脇にあるラタン製の大きな籠に敷かれたふかふかのクッションですやすや眠ったままだった。
「・・・さてと、詩音様、もうじきあの人物がお見えになります。ミカ様からのご指示によりますと、あの日当たりの良いオープンテラスでハーブティーをご所望されるようです。後のことは、タロウが仕組んでくれるということなのですが・・・」
亮一郎が見るまでもなく、タロウはびくともしなかった。彼を介してどう展開していくのかは、詩音にもさっぱりわからなかった。
「・・・お義母さんは、あのご老人をお父さんと呼んでいらしたわ。とすれば駿のお祖父さまということになるわね」
何やら、事情があるらしいことは安易に察しがつく。
武蔵野公園で、何も描かれていないキャンバスを見つめていた白髪の老人。
駿から、かつてこんな話を聞いたことがあった。
詩音が新作絵本のコンセプトで悩んでいたころ、参考になるならと、駿が渡してくれた一冊の画集。
「・・・おじいちゃんが昔描いたそうだよ。市居の名もない画家で、親父たちも相当苦労したって話だけどね。そういや、僕が幼稚園のころ、おじいちゃん相当ぼけちゃってたなあ。毎日公園でぼんやりしてたって、母さんが言ってたから・・・」
駿が手渡してくれた一冊の画集は、「武蔵野の春」と題した表紙に、南城美智雄という名があったのを覚えている。
蕾の季節。咲き始める桜に、散り初めの桜。写実的ではあるが、春の無常を静かに語りかけてくれるような、なんとも切ない奥行きが感じられた画風だったのを覚えていた。
画集の裏表紙には、手書きで詩が添えられていた。
誰の手によるものなのかは、駿に訊いてもわからなかったのだが、なんとなく覚えている。
詩音は、その詩の一節を呟いた。
『・・気まぐれな風が 散らす花びら・・ふわりふわりと風に乗り 空へ舞い上がる
たをやかに咲く花も 蕾のままの花も・・散ってゆく運命(さだめ)に気がつけど・・』
詩音がそこまで呟くと、その後を亮一郎が続けた。
『・・時の流れに抗(あがら)うことなく・・この瞬間を鮮やかに息づく・・嗚呼、風花よ 気高く咲けよ・・ココロの岸辺に・・』
「なんとなく覚えているの。桜は見事に咲くんだけれど、人の世の無常は、いろんな咲かせ方をさせる・・・そんな感じかしら」
まだ誰も客がいない店内から、表の桜並木がしっかりと見えた。
三分咲きといった頃か。
まだまだ薄ら寒いと感じるため、暖かいコーヒーが欲しくなった。
亮一郎がそれを察したかのように、詩音をカウンター席に誘い、沸かしたてのカフェオレを淹れてくれた。
「ありがとう・・」詩音はゆっくりとカフェオレを飲み始めた。
いつの間にかタロウが擦り寄ってきた。
鼻をくんくん鳴らして、詩音の足元でちょこんとお座りをして、上目で詩音を見つめる。
詩音が気づくと、相好を崩したかのように舌を出し、手を出した詩音に飛びついた。
「おはよう。おねぼうさん。さあて、私はこれから何をすればいいの?」
抱き上げたタロウを、カウンターの上に座らせ、詩音は頬杖をついた。
その時、タロウがカウンターから急に飛び降りて、店の表のオープンテラスのほうに走っていった。
いつの間にか、あの老人がオープンテラスの陽のあたる、テーブル席に腰を下ろしていた。
タロウは老人に駆け寄って、さっき詩音に見せたようにちょこんとお座りをして、老人を見つめた。
「・・・おまえは、どこから来たんだい?おお、よしよし。お腹が空いているのかな?・・何か頼んでやろうな・・」
老人は、目を細めてタロウの頭を撫で、おもむろに店内を振り向いた。
「・・さて、詩音様。これから始まりますよ・・」
キッチンの亮一郎は、詩音に暖かいお絞りとお冷を載せた銀のトレイを渡した。
詩音は意を決して老人に近づいていった。
「・・あのう?」慣れないシチュエーションに戸惑い、ぎごちない挨拶になったが、老人のほうから声がでた。
「・・ここのワンちゃんかね?」
「タロウっていいます。まだおねんねで・・」
「かわいいねえ。うちにも孫がいるんだけれど、腕白で怪獣ごっこに夢中なもんでね。わしは静かなのがいいなあ・・・どれ、すまんが、この子にミルクなぞ持ってきてやってはくれんかね?」
「・・畏まりました。で、お客様のご注文は何にいたしましょうか?」詩音はウエイトレスらしく、お絞りとお冷をそっと老人の前に置き、ゆっくり尋ねた。
「いつものやつを・・・おや?ここは初めてじゃったかのう?最近どうも調子が悪くて・・・」
老人は白髪の頭を撫でながら、さびしそうに自嘲した。
「・・ええと、ラズベリーリーフとエキナセア、ローズヒップのブレンドティーでよろしかったでしょうか?」
詩音は、亮一郎から聞いていた、老人の好みのハーブのブレンドを奨めた。
「・・あ、ああ、それじゃ。やっぱり、ここはいつもわしが来る所じゃったようだ」
老人は詩音の言葉に納得し、落ち着いた表情になった。
「ありがとう。この頃特に、物忘れがひどくてなあ・・」老人は再び自嘲気味に言った。
「・・どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください。あのう、それで・・もしよろしかったら、しばらく私とお話しませんか?今日も、あの、開店休業だし、オーナーの趣味でやっているようなお店なので・・タロウもこんなに懐いちゃって・・」
詩音は、おずおずと申し出た。
老人からいろいろ訊き出し、真っ白なキャンバスの謎を解かねばならない。
「こんな年寄りの相手をしてくれるのか?すまないねえ。ありがとう。君は優しい娘さんだね。」老人はきょとんとしながらも、やさしい目をして応えた。
しばらくして、詩音が差し出したハーブのブレンドティーを、老人はゆっくりと嗜みながら、桜を眺めた。
「・・あれは、ずいぶん前のことじゃった。あれが逝ってから、わしは薄紅を使うことが出来なくなった・・」
老人は独り静かに語り始めた。
それは、ほとんど独り言だった。
しかし、詩音が読み取るには十分な話で、駿の祖父一家に起こった哀しい過去を彷彿とさせるには十分すぎるものであった。
老人は画家であった。街の有力者や金持ちに頼まれて肖像画を描いたり、雑誌や絵本の挿絵を描いて生計を立てていた。
老人の配偶者は、つまり駿の祖母にあたる人物であるのだが、相当な苦労をしていたらしい。実際の生計を維持し、駿の父と叔母にあたる子供たちを育てるには、朝早くから夜遅くまで働いていた。
この老人は、我侭で頑固者と、自分のことを言った。
いい作品を描くために、家族を犠牲にしたこと。いつかきっと大成して、妻や子供たちを楽にしてやりたいと、制作に没頭していた日々。商売気がなく、画商には良いように取引ばかりされていた。
妻を連れて、旅行に行ったこともないくせに、スケッチだの取材だのと称して、無駄な金を浪費していた。
夢ばかり大きくて、自分の世界から出ることをしなかったにもかかわらず、妻は静かに付いて来てくれた。
やがて子供たちが大きくなり、孫が出来た歳になって、やっと完成した画風が認められるようになった。
その頃に描いた『武蔵野の春』が、評判を呼んで、画集にもなったのだ。
しかし、妻の体は後戻りできない状態になっていた。
末期のがん宣告を受け、妻はあっけなく、そして静かに旅立った。
やがて、自分も老いを感じ始め、みずみずしい記憶さえも、途切れがちになっていく。
一生を振り向いた時、何故こんなにも儚いものかと、追憶ばかりの日々。
それでも、衰えた感覚を引き摺るように、気がつけばまたここにいる。
咲き始めた桜を見るたびに、妻への詫びる気持ちと、自分だけが残っってしまった切なさとを、途切れがちの記憶の中でなんとか繋いでおこうとしている虚しさに浸り込んでいる。
もう絵筆も捨てた。しかし、本当に描きたかった妻との思い出の風景を、気がつけば真っ白なキャンバスに投影しようと、もがいているのだ。
老人は、ハーブティーを飲みながら、淡々と語った。
「・・・会いに行けまっせえ!」その時、あの訊きなじみの関西弁が後ろから聞こえた。
「・・・ええ方法がおます!」ひいやんは、したり顔で詩音に微笑んだ。
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