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雑記帳

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李白の詩

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  古典逍遥 = 漂白の詩人 李白       21-1−21                    

  文芸の祖は、否、文化のはじめは古典にあり、そして日本の古典は中国の古典を学び吸収した日本の先人たちによって、固有の文化を築いてくれたのであった。

 漢文に文盲だから古典などは思いも及ばぬが、翻訳された漢詩を見る時はいつも感動する。
 漢詩で有名な詩人は杜甫をはじめ大勢いるが中でも超俗的で奔放で、自ら酒仙と称した李白の詩が最も好きだ。
 芭蕉の『奥の細道』の冒頭の「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」の有名な言葉も、李白の文を下敷きにしたものであった。

    「春夜宴桃李園序」   李白
 
 それ天地は万物のげき旅にして、光陰は百代の過客なり。しかして浮生は夢の如し。歓をなすこといくばくぞ。古人、燭をとって夜遊びしは、まことに故あるなり。いわんや陽春我を招くに遠景をもってし、大塊我にかすに文章を以ってするをや。桃李の芳園に会し、天倫の楽事を序す。
 云々

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  古典逍遥 = 「万葉集」の旅の歌・別れの歌       21-1−9                    

  ☆ 防人に行くはたが背と問う人を 見るが羨しさ(ともしさ)もの思いもせず

 万葉集には防人の和歌が100首近くある。
 防人(さきもり)とは朝鮮や中国との国際緊張に備えて、東国から西国に派遣された兵士であった。
 関東から遥かな任地の九州までの道は防人にかぎらず、当時の旅行は現代のようなロマンチックなさすらいの思いなどあらばこそ、旅に出るのは決死の覚悟であり、家族との別れであった。
 行く者、見送る者。任地にいる夫を恋う妻と、故郷に残した家族を思う夫らの憶いは、かくして「万葉集」の和歌に遺ったのであった。
 

 ☆ 日の曇る碓氷の坂を越えしだに妹(いも)が恋しく忘らえぬかも

 ☆ わが妻はいたく恋いらし飲む水に 影さえ見えてよに忘られず

 ☆ 葦垣のくまどに立ちて我妹子が 袖もしほほに泣きしそ思うほゆ

 ☆ 草枕旅行く背なが丸寝るせば 家なる我は紐解かず寝む
 
 ☆ 難波潟漕ぎ出る舟のはろはろに 別れ来ぬれど忘れかねつも

 ☆ 息の緒に我が思う君は鳥が啼く あづまの坂を今日か越ゆらん

 ☆ 家にあらば妹が手まかむ草枕 旅にこやせる旅人あわれ

 ☆ 君が行く海辺の宿に霧立たば 吾が立ち歎く息と知りませ

 ☆ 世の中は数なきものか春花の 散りのまがひに死ぬべき思えば

 などなど・・・


 

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  古典逍遥 「万葉集」の恋歌       21-1−4                    

  ☆ あかねさす紫野ゆき標野(しめの)ゆき   野守りは見ずや君が袖振る

 額田王(ぬかたのきみ)が詠んだこの歌は、万葉集の中の恋歌を代表するものではなかろうか。
 今より1380年前の130年間、万葉時代と呼ばれていた奈良の都は、飛鳥(あすか)、難波、大津、藤原京、平城京へとかわり、皇位が継承されてゆく中で、中央集権が確立されていった。
 当時の住いは竪穴住居から、掘っ建て柱の家屋に進化していたが、都を一歩外へ出た田舎や東日本はまだ竪穴小屋であった。
 これらの最低の悲惨な大多数の貧民の労働によって、栄華と優雅を誇る都は支えられていた。
 権力と莫大な年収を保障されていた貴族たちは、蹴鞠や宴(うたげ)や詩歌に興じていたが、このうちの和歌は延々と現代へ受け継がれて日本文芸の核となってきたのである。

 万葉集4500首の中でもひときわ印象深いのは、男女の愛憎の歌ではなかろうか。
 特に、官能的な夜のエロスのよろこびを赤裸々に詠いあげた相聞歌に驚く。
 以下にそのうちの数首を書きとめておきたい。

 ☆ 秋萩の咲きたる野辺はさ牡鹿ぞ 露をわけつつ妻どいしける

 ☆ わが背子を今か今かと待ちおるに夜の更けぬれば嘆きつるかも

 ☆ あしびきの山をこだかみ夕月を いつかと君を待つが苦しさ

 ☆ 二人して結びし紐を一人して 我は解くまじ君に逢うまでは
 
 ☆ 夕さらば君に逢はむと思えこそ 日の暮るらくも嬉しかりけれ

 ☆ 秋の夜を長しと言えど積もりにし 恋を尽くせば短かかりけり

 ☆ 明けぬべく千鳥しば鳴く白たえの 君が手枕いまだ飽かなくに

 ☆ 明日よりは恋いつつ旅ぞこの夜は 早く宵より紐とけ我妹(わぎも)

 ☆ ぬばたまの我が黒髪を敷きぬらし 乱れてなおも恋いわたるかも


 

エッセー「源氏物語」

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  古典逍遥 「源氏物語」       20-11−19                    

 平安京時代、1006年の頃であった。
 紫式部は仕えていた一条天皇の皇后から、女官らの読み物を書くようにとの仰せを受けた。
 それで、石山寺に籠って良い物語が出来ますように観音様に祈願して、湖水に映る満月を見ているうちに「物語」の筋が浮かんだので、お経の紙を拝借して書き始めたらしい。
 54帖ものこの大作は当初から宮廷でのベストセラーとなり、当時の貴重な紙も貴族らの後援で供給されたようである。

 与謝野晶子や谷崎潤一郎や、その他大家と呼ばれる幾人もの文学者が「源氏物語」の訳に取り組んでいることから見ても、歴史的に世界的に不滅の一級の文学であることがわかる。

 「物語」は和歌や琵琶などにも優れて高い教養のあるイケメンの、当代きってのプレイボーイの貴公子の光源氏の、ラブハンターぶりを書きながら、相手のさまざまな女性を活写した日本初の長編恋愛小説であった。
 第一部の桐壺の巻から末摘花の巻の6巻までを、頭注、傍注に頼りながら漸くひもといた。

 桐壺、帚木、空蝉、夕顔、若紫、末摘花…など女性の名を冠した各巻は、光源氏と関係する女性の恋の愛憎が、それぞれ生き生きと描かれている。
 見事な和歌も随所に挿入されていて、作者紫式部もひとかどの歌人だったようだ。
 静かな秋の夜に読むに「源氏物語」はよく似合う。
 難解だが毎秋少しずつひもといて、各巻の読後感を書いていったら楽しいだろうと思う。


 

エッセー「土佐日記」

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  古典逍遥 「土佐日記」       20-11−12                    

 。「男もすなる日記というものを、女もしてみんとて、すなり」
で始まる紀貫之の「土佐日記」は「伊勢物語」に続く年代の創作であることが、「日記」の中で在原業平(ありはらのなりひら)を批評していることからも知れる。
 当時、男性は文章も詩歌も漢字で書き、女性は和歌(やまとうた)だけをひらがなで書いていた。
 紀貫之は女性にも読ませたくてか、自身を隠し、仮の女性になってこの「土佐日記」を書いたのであった。

 土佐の守の彼は地方高官の交代で京都へ帰る時、船の中の出来事などを書き綴りつつ、身がわりに仕立てた架空の女に和歌を詠ませ、歌論を言わせ、社会を時評し、人間を風刺してゆく船旅日記である。

 居城を出て土佐の大津から小港に寄り継ぎ、泊まり継ぎ、淡路島をかすめて大阪に至り、淀川を京へ上った。
 乗り合い船は少し波高ければ欠航し、雨が降っても休み、海賊船を警戒したりして、12月21日から2月16日まで57日を要したのであった。
 どこへ行くにも飛行機などで忽ち目的地に到着する現代人には想像も出来ぬたいそうな旅であった。(その代わり風雅な旅情もあったろう)

 勅撰古今集の撰者の中心的な役割を果たしたと言われている貫之は、平安時代を代表する歌人であるが、「土佐日記」の随所に挿入された和歌は「紀貫之全歌集」一千余首の中の佳吟には、とても及ばないのではないか。
 それは、架空の女が書いたように見せかけようとして、歌も文章も創作とはいえ作り事が過剰なため、迫力に欠けるのではなかろうかと思う。一千年前から残る有名な作品だけど、あまり感動できなかった。


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