日曜日・・・祖父のお墓参りに行ってきました、ちょっと話たい事がありましてね・・
その帰り、僕の幼少時代過ごした「みどり市笠懸(かさかけ)町」に寄り道・・
どうも合併後の名前に違和感が、僕が過ごしたのは「新田郡笠懸村」だったから
さて、この町のJRの駅は「笠懸駅」ではなく「岩宿駅」といいます。この「岩宿遺跡」が由来なんですね〜
この岩宿遺跡は日本の人類史を調べる上で大森貝塚とならんで重要な遺跡となっています。
この遺跡が発見されるまで日本の人類の歴史は縄文時代から・・とされていたからなんです。
群馬県は浅間、榛名、赤城と火山に囲まれていて、大昔、それぞれの火山が噴火して
その灰が多くの地層を造ったのですね、その「ミルフィーユ」見たいな断層を数えて行くと
その地層はいつの物か解る・・と言う訳です。
その「関東ローム層」と呼ばれる3万年前の地層から石器が出てきた・・
という事で約1万6千年前の縄文時代より昔の人類がここで暮らしていた事が
証明された、と言う訳です。
この中に入るとその地層が分かるようになっています。
『相沢 忠洋』と言う人・・
この遺跡を発見した人です。
昭和元年、東京羽田に生まれましたが、両親が離婚、10才の時に群馬にやってきましたが
間も無く奉公にだされ孤独な少年時代を送ります。
戦争では海軍に入り、終戦後は桐生に復員します。
彼は幼い頃からの考古学に対する思いが断ち切れなかったそうで、
納豆の行商をしながら赤城山麓で石器の採集を始めます。
その時、ここで石器の様な物を発見し、鑑定してもらう為に東京に行き、
そこで生涯の師となる明治大学大学院生、「芹沢長介」に出会うのです。
その後相沢氏は芹沢氏から考古学上のアドバイスを受ける為に東京までの
120キロを自転車で往復したそうです。
相沢さん・・・辛くても物凄く楽しかったと思う・・・
でも彼は学歴の無いただの「マニア」・・・
芹沢氏はこの凄い発見に気が付き早速、教授に連絡し本格的な発掘調査を依頼します。
しかし、この発見に相沢はただの斡旋者としてのみの扱いで、この発見の功績は
この調査の主導的立場であった「杉原教授」の物と発表されるのです。
当時の郷土史の世界は地元の富裕層や知識層で構成されており、
学歴も財産も無い相沢氏の功績を妬み、排除する向きもあったと言われて居ます。
でも彼はそんな事にもめげず、地道に調査を続け発見を続けます。そうしているうちに
彼に対する批判も薄れて行き
遂に昭和36年、群馬県から表彰、昭和42年には考古学者としての功績を認められ
「吉川英冶賞」を受賞するのです。
分かろうとしてくれない人に分かってもらうって、物凄く時間がかかるからね・・
それに対抗する力は「本人の情熱」がどれくらいあるかだ・・・
そのあと遺跡のそばの山に登った・・・
ここから西を見るとかつて僕の過ごした街が見渡せる・・・
ここから見えるのはどの辺りまでだろう・・
相沢さん、どうして今日、僕はあなたに出会ったのでしょうか?